第6話 崩落
左手には見上げるような岩壁がそそり立ち、右手は底知れぬ夜の闇へと切れ落ちていた。
道幅は三メートルにも満たない。その狭隘な踏み跡のわずか七歩先に大天狗が仁王立ちし、その背後に頂へと続く登り道が隠れている。俺の後ろの岩壁の窪みには、震える遼が身を縮こまらせていた。
手元に残された札は、千の紙が一枚と、裾の紙が三枚。頼みの二千の紙は遼に預けてあり、俺自身が使える験はひとつとして存在しない。
大天狗は九合目で俺へ風を放ち、俺は岩壁を使ってそれに応じた。主との立ち合いは、頂の広場に入る前から始まっている。
だが、この狭い道で目の前の怪異を打ち倒す必要はなかった。七歩先にある関門を突破し、上へ通り抜ければそれでいい。
大天狗の異様な骨格を持つ黒い翼が、軋むような気配を伴って持ち上がった。
翼が肩の高さを越えて開ききってから、最初の風が叩きつけてくるまでに一呼吸。吹き抜ける暴風が持続するのはおよそ三呼吸で、その間は道の中央へ寄るほど風圧が跳ね上がる。
一度目の風で、その性質はすでに計測済みだった。空身の俺の体ごと二歩滑らされ、右足の踵が崖の縁から半分はみ出しかけた。
二度目の突風を、俺は道の左端で受け止めた。
左肩を硬い岩壁に押し当て、岩肌の縦の割れ目へ指先を深くねじ込む。正面から凄まじい風圧が叩きつけてきたが、壁にぶつかった大気が上方へ逃げてくれたおかげで、靴底の滑りは半歩程度で食い止められた。
壁際を這うように進めば、風そのものは凌げる。
だが、その壁際にも大天狗の壁側の太い脚が深く踏み込まれていた。あの巨躯と岩壁の隙間はわずか五十センチほどしかなく、擦り抜けて背後へ回ることは物理的に不可能だった。
風が吹き止んだ瞬間、山道の右端からパラパラと小石がこぼれ落ちた。
三つ、間を置いて、乾いた土の塊がひとつ。
昼間の明るい光の下なら見落とすはずのない亀裂だった。山道の右半分に、断崖の縁と平行して細いひび割れが走っている。大天狗が風を放つたび、そのひびの向こう側の土肌だけが、重みに耐えかねるようにわずかに沈み込んでいた。
腰の小刀を抜き、足元の土を柄の頭で叩いた。
壁際は、低く詰まった硬い音が返ってくる。道の中央を叩く。ここも土がしっかりと締まっていた。
だが、右端のひびの先を叩いた瞬間、乾いた甲高い空洞音が夜気に響いた。
表面の薄い土の下に、支えとなる地盤が存在しない。
毎晩のように大天狗が放つ暴風が崖側の土を削り取り、下から内側へ向かって空洞が深く侵食されているのだろう。道の右半分は強固な岩盤ではなく、空中にせり出した脆い土の庇に過ぎなかった。
そしてその亀裂は、大天狗が踏みしめている崖側の足の真下まで、一直線に伸びていた。
使える。
俺は首だけを後ろへ巡らせ、岩陰の遼へ声を落とした。
「浅井さん。道が崩れます」
「え……?」
「崖側の右半分が落ちます。壁沿いの左側だけは残る。もし俺が落ちたら、手の中の二千の紙の封を切って風を凌いでください。足が動くようになったら、壁沿いに上へ」
「待ってくださいよ! 落ちるって、沢渡さん――」
「落ちないようにはしますよ」
それ以上、言葉を重ねる必要はなかった。
小刀を鞘へ納め、左手を岩壁の凹凸に添えたまま、慎重に前へ踏み出した。
一歩目。
大天狗は動かない。
二歩目を踏み込んだ瞬間、黒い翼が大きく持ち上がった。俺は即座に足を止め、壁面へ全身を預けて暴風の直撃をやり過ごす。
一、二、三呼吸。
風が止んだ。次の風が練り上げられるまでの隙間に、二歩進める。
三歩目、四歩目。
間合いが詰まるにつれ、肌を圧する気配の重みが増していく。上着の裾を引かれる程度だった突風が、いまは肩と腰の骨を直接押し潰すような圧力となってのしかかってくる。
大天狗の奇怪な顔面が、腕一本伸ばせば届く距離に迫っていた。
爛々と光る二つの眼が、冷徹に俺の動きを追っている。鼻の下にある裂け目のような口元からは、息遣いひとつ漏れてこない。
その崖側の足は、狙い通り亀裂の向こう側に深く据えられていた。
俺は岩壁から左手を離した。
次の風が放たれる瞬間、自ら崖側の空洞の上へ飛び出す。
出れば風圧をもろに受ける。その押し戻される突風の力と、着地する俺の全体重を、右端の空洞の真上へ叩き落とすのだ。土の庇が崩れ落ちれば、大天狗の崖側の足もまた支えを失って崖下へ持っていかれる。
当然、足場を崩した俺自身の体も真っ逆さまに落ちる。
だからこそ、壁から手が届くぎりぎりの場所へ着地し、左手だけは岩壁の突起を掴み直せる高さに残しておく。
酒樽を含む二十二キロの荷を担ぎ、突発的な横風を受けたときと同じ理屈だ。突風に押されてから体勢を立て直そうとしても手遅れになる。押される先へ、あらかじめ半歩ぶんの体を投げ出しておくのだ。
五歩目。
道の中央へ踏み出した。
大天狗の翼が高く跳ね上がる。
一呼吸。
俺は右足を、亀裂の外側の土へ叩きつけるように踏み出した。
風が爆ぜた。
正面から受ける突風に押されながら、右へ跳ぶ。
右足が脆い庇の上に着地し、左足が続いた。跳躍の衝撃が一点に集中した瞬間、正面から猛烈な暴風が襲い、踏ん張った両足へ全体重がかかる。
足元の土が、バキリと音を立てて軋んだ。
俺は即座に左腕を伸ばした。
指先が岩壁の割れ目へ深く食い込んだ刹那、足元の感触が完全に消え失せた。
山道の崖側の大半が、帯状になって一気に崩落した。
亀裂は大天狗の足元まで一息に走り、巨躯の崖側の足が宙を掻いて沈み込む。巨大な体が崖側へと大きく傾ぎ、広げられていた壁側の翼の先端が岩壁を激しく叩いた。
風の軌道が狂い、頭上へ逸れた。
大天狗は咄嗟に崖側の脚を引き戻そうとしたが、その下にはもはや踏みしめるべき大地が存在しなかった。片足立ちの体勢では巨翼を畳むことも叶わず、崩れ落ちる土砂の雪崩に巻き込まれるようにして、巨躯が崖下へと滑落していった。
十メートルほど下方の暗闇で、バサリと巨大な翼が斜面の木々を薙ぎ払う重い音が響いた。
俺は左手一本で、岩壁の割れ目にぶら下がっていた。
足の下には何もない。崖側の道は完全に消え去ったが、岩壁に沿って五十センチほどの細い踏み跡が辛うじて残っていた。
狙い通りだった。
だが、狙い通りに事が運んだからといって、生身の腕の筋力が都合よく耐えてくれるとは限らない。
左肩に、酒樽を片手で吊り下げたときよりも遥かに重い荷重が容赦なくのしかかってくる。右手を上へ引き上げるまでのわずか三秒の間に、岩を掴む指の関節が一本ずつ、みしみしと剥がれかけていた。
右手を伸ばし、残された道の縁へ指を滑らせる。
届かない。
ぶら下がった体を一度、前後に小さく揺すった。戻ってくる反動を利用して、もう一度腕を振る。
右の指先が濡れた土を掻きむしり、その下に埋もれていた頑丈な岩の角へ引っかかった。
両手がかかった。
あとは、荷を担ぎ上げる要領で体を押し上げるだけだった。
両肘を道の縁へ強引に乗せ、胸を引き上げる。腹が道の上へ乗れば、下半身は自然とあとから這い上がってくる。
俺は壁際に残った細い土の上へ転がり出た。
仰向けに倒れ込みそうになる体を、崖下から聞こえてきた翼の羽ばたき音で制し、片膝をついて体勢を低く保った。
大天狗は散っていない。
足場を奪って一時的に叩き落としただけに過ぎない。
「浅井さん」
岩陰から、青ざめた遼がおずおずと顔を出した。
「壁から絶対に体を離さないでください。足は一列に揃えて」
遼は崩落してぽっかりと口を開けた崖下を見下ろし、息を呑んで立ちすくみかけた。
「下を見ないで。俺の踵だけを見て足を置いてください」
俺が先に立ち、左手を壁へ添えて慎重に進んだ。遼は二歩後ろから、俺が踏み固めたのと同じ場所へ、寸分違わぬ向きでスニーカーを運んでくる。
崩れ落ちた難所は、わずか七歩の距離だった。
七歩目を踏み越え、しっかりとした岩場へ足が乗った瞬間、背後の遼の口から長く強張った息が吐き出された。
谷底の暗闇から、重苦しい風切り音が響き渡った。
振り返ると、崖下の木立を薙ぎ払いながら、黒い巨翼を広げた大天狗が再び宙へと浮かび上がりつつあった。
飛翔できる相手である以上、崖下へ落としたこと自体に決定的な意味はない。だが、立ち塞がっていた七歩の間合いを強引に稼ぎ出すことはできた。
「頂までは、あとわずかです」
俺たちは斜面を駆け上がった。




