第5話 頂の主
胃液を吐き戻したあとの遼は、こちらの想像よりも遥かにしっかりとした足取りで歩いた。
最初の十五分間こそ足をもつれさせかけていたが、その峠を越えてからは、俺がわざわざ歩幅を狭めて待つ必要すらなくなった。
若い肉体の回復力というのは大したものだ。二十三の俺が年寄りめいたことを言う筋合いでもないが、現場の事実としてそう思う。
「浅井さん、水筒の湯を」
「大丈夫です、歩けます」
「大丈夫かどうかを決めるのは俺の仕事です。一口飲んでください」
湯筒を差し出すと、遼は素直に受け取り、冷え切った喉へ湯を一口流し込んだ。吐く前までは強がりだけで「大丈夫です」を押し通そうとしていた男だ。他人の指示に素直に従えるようになっただけでも、大きな進歩だった。
道は相変わらず、容赦のない登り勾配を突きつけていた。
右手は真っ逆さまに切れ落ちた崩れ斜面、左手には見上げるような巨岩の壁が立ちはだかっている。その隙間を縫うように刻まれた一本の踏み跡が、一定の角度を保ったまま天空へと吸い込まれていた。
山が道を組み替えるどころか、この岩場に入り込んでからは分岐の筋すらひとつも現れない。
迷いようがないという意味では、本来ならありがたい一本道のはずだった。だが素直に喜べないのは、今夜ここまで、この裏高尾という山がこちらに対して一度たりとも親切をしてくれなかったからだ。
下山へ向かう逃げ道をすべて消し去り、天へと登る道だけを唯一の選択肢として残している。
「あの」
「何ですか」
「頂を回るって……どういうことなんですか」
「この道が下り勾配に転じるのは、頂の反対側に回ったあとになる、ということです」
俺は傾斜の角度と歩数から、頭の中の地図の等高線を照合した。
「裏高尾の頂は標高五九九メートルです。いまは八合目を越えたあたりですが、この先も足元を見て進みます」
「まだ、上がるんですね」
「はい。俺の後ろを離れないでください」
遼は押し黙った。
表の高尾山の道なら、この男もよく知っているはずだ。綺麗に舗装された遊歩道があり、名物の団子屋があり、天狗焼きを売る売店が並んでいる。
だが、いま俺たちが踏みしめているのは、表の観光地とは似ても似つかない、固定灯を維持できない高所の夜道だ。その頂に君臨する主がどこに潜んでいるかも分からない。
そこまでの現実を、いま口に出して聞かせる必要はなかった。
◆
九合目の手前に差し掛かった瞬間、吹き抜けていた風が不意に消え去った。
さっきまで岩壁の隙間を猛烈な勢いで吹き下ろしていた夜の冷気が、たった一歩足を進めた境界線で、ぷつりと途切れたのだ。
梢を揺らす葉ずれの音がしない。立ち込めていた杉のヤニの匂いすら、急激に薄れていく。
俺は即座に足を止め、背後の遼の肩を掴んで岩壁の窪みへ引き戻した。
「――待ってください」
胸元の油紙を開いた。手持ちの札は、二千の紙が一枚、千の紙が二枚、裾の紙が三枚。
つい先刻、遼を白い影から引き剥がすために三十万円の札の封を切ったばかりだ。手元に残された戦力は、これだけだった。
いや、頭の中で何度数え直したところで、紙の枚数が増えるわけではない。
問題は残りの数字ではなく、この先で何が起き、何を支払うことになるかだった。
俺は千の紙を一枚だけ引き抜き、指の間に挟み込んだ。最後の一枚になった二千の紙には手を伸ばさなかった。
惜しんだのだ。
その貧乏性な自分に対して舌打ちしたくなったが、舌打ちの摩擦音すら夜気に響く恐れがあったので喉の奥で押し潰した。
視線を上げ、道の先を凝視した。
九合目の岩門の狭間、その中央に、それは立っていた。
◆
背丈は、人間の倍近くあった。
その輪郭の歪さからして、到底人間と呼べるものではなかった。
肩の付け根の位置が異常に高い。そこから左右へ伸びているものは、腕にしては長すぎ、鳥の翼にしては骨格の関節の並びがまるで違っていた。
頭部には、山伏の頭巾を思わせる黒い膨らみが盛り上がっている。
顔もあった。
目があるべき位置に二つの鋭い光が灯り、鼻の位置からは、前方を威嚇するように異様な長さの黒い塊が突き出している。
それが、細い山道の中央を完全に塞ぐように仁王立ちしていた。
本当に威嚇として塞いでいるのかどうかは判じかねた。ただ、岩壁に挟まれた道幅は三メートルにも満たない。あの巨躯で中央に立たれてしまえば、向こうに動く気がなかろうと、人間がすり抜けて通る隙間などどこにも残されていなかった。
大天狗。
裏高尾の頂を統べる、この峰の主だ。
話に聞いたことしかなかった。
俺は三年前のあの山行以来、二千を越える峰へ足を踏み入れていない。そして登っていた頃でさえ、主が待ち受ける頂の高さまで荷を担ぎ上げた経験は一度もなかった。
荷運びを専門とする歩荷が、主と顔を合わせる機会など本来は存在しないのだ。万が一にも山中で主と遭遇した荷持ちは、大抵の場合、背中の荷を投げ捨てて一目散に逃げ出している。
「浅井さん。静かに、ゆっくり下がってください」
遼は返事もせず、足元を固まらせていた。恐怖のあまり、筋肉が硬直して動けないのだ。
俺は自分の両膝が震えていないか、意識を集中して確かめた。
震えていなかった。
自分自身のその反応に、胸のどこかで奇妙な驚きを感じていた。
大天狗が、わずかに動いた。
そう認識できたのは、眼窩の奥で光っていた二つの光点が、すっとこちらを捉えて揺れたからだ。
動いたのは、それだけだった。
その巨躯は、岩盤の上に根を張ったように微動だにしなかった。
烏天狗なら、こちらが身じろぎした瞬間に空から襲いかかってくる。あの白い影なら、物言わぬまま隣へすり寄り、こちらが自分の足で歩き出すのを待つ。
だが、大天狗はそのどちらもしなかった。
俺たちが道を登ってきたことは完全に見えているはずなのに、一歩として間合いを詰めてこない。
襲いかかるでもなく。
誘い込むでもなく。
ただ、道の中央に立ち塞がっている。
俺は八年間の山歩きの中で、これほど静まり返った山のものを見たことがなかった。
◆
「浅井さん。左の岩陰に入ってください」
低く囁くと、遼の体がようやく金縛りから解けたように動いた。
左手の岩壁が深く窪んだ隙間へ、滑り込むように二歩で身を隠す。
俺は油紙から最後の一枚となっていた二千の紙を引き抜き、岩陰に縮こまる遼の手のひらへ押し込んだ。
「え……」
「持っていてください」
「いや、待ってください……これ、さっき使った三十万の札と同じですよね……!?」
「同じものです。封の切り方はさっき見ましたね。親指で封の端を切るだけです」
「待ってくださいよ! 俺、こんな高い札を預かっても……!」
「使わないで済むのが一番です」
俺は遼の震える人差し指を、札の封の端へ直接あてがった。
「これを使うのは、俺がここからいなくなったときだけです」
遼の顔色が、一瞬で真っ青に変わった。
何を告げられたのか、その意味を完全に理解した顔だった。
「それ……俺を置いて、一人で死ぬ気配を出してるってことですか……!?」
「保険ですよ」
「同じことでしょう!」
同じことだった。だから、俺は否定しなかった。
「俺も行きます」
「行けません」
「どうしてですか! 二人でかかったほうが、少しは手が――」
「二人いたら、俺があなたを守るために視線を割かなければならなくなる」
遼が言葉を詰まらせた。
「あなたを見張りながら、あれと戦うことはできません」
俺は遼が潜んでいる岩の窪みを指差した。
「あなたがそこにいて、絶対に動かないと分かっていれば、俺は前だけにすべての神経を集中できる。それが、いま一番助かるんです」
嘘ではなかった。
だが、真実のすべてでもなかった。
三メートルに満たないこの狭隘な岩場で人間が二人並べば、どちらか一方は必ず崖側の危険な立ち位置に追いやられる。その状況で崖側に立った生身の人間が生きて帰れる確率を、俺は過去の遭難データから正確な数字として知っていた。
その残酷な確率を、いまこの青年に見せる必要はどこにもない。
「……俺のせいですよね」
遼が、膝の上に視線を落として小さく呟いた。
「俺が、あんな化け物を連れてここまで登ってきたから……」
「浅井さん」
「沢渡さんが助けに来てくれなかったら、俺はいまごろ――」
「浅井さん。反省会はあとにしてください」
自分で思ったよりも、硬く冷たい声が出た。
遼は息を呑み、口を閉ざした。
いま他人の後悔に耳を傾けてしまえば、こちらの手元と判断が鈍る。全員を無事に下山させてからなら、夜通しだって愚痴を聞いてやれる。
「無事に終わったら、いくらでも話を聞きますよ」
わずかに声音を緩めて言った。
「下りの道中は長いですからね」
返事の代わりに、遼の強張った手を上から一度だけ強く叩いた。
それから、岩陰を離れて道の中央へと踏み出した。
三十万円。歩荷の仕事四日分。
懐に用意していた二枚の二千の紙は、今夜の山行で二枚とも俺の手元から完全に離れた。
金の話を頭の中で転がせているうちは、まだ心に余裕がある証拠だ。
◆
道の中央へ戻り、俺は大天狗の巨躯と真正面から対峙した。間合いは、七歩。
本来、こういう局面で、山稼ぎは自らの名を名乗る。関の窓口で名乗るのは己の丈だが、頂で主と対峙した者が名乗るのは、これまで登破してきた峰々の名だ。首から提げた数珠の珠が増えるたびに、その名乗りもひとつずつ長くなる。
相手の化け物に聞かせるためではない。己自身の魂に聞かせるためなのだと、駆け出しの頃にベテランの先達から教えられた。
俺は、乾いた唇を開いた。
「――沢渡、迅」
そこで声が途切れた。
あとに続く言葉が、何ひとつとして存在しなかった。
俺の丈は二四〇〇ある。
十五歳で山へ足を踏み入れ、荷を担ぐことで飯を食うようになって五年が経つ。これまで百を超える登山隊の荷を背負い、夜の裏高尾をたった一人で八合目まで駆け上がってきた。
それでも、俺の口から名乗れる峰の名は、この世にひとつも存在しなかった。
験を継いだ経験がないから、首から提げるべき数珠も持っていない。
大天狗が動いた。
その高い肩から伸びていた黒い塊が、軋むような重苦しい気配を伴って持ち上がる。
腕にしては長すぎ、翼にしては異様な骨格を持つそれが、三メートルに満たない山道の全幅を埋め尽くすように左右へ大きく展開した。
風が生まれた。
向こうから吹いてきたのではない。
目の前にあった大気の塊そのものが、瞬時にして目に見えない巨大な鉄の壁へと凝固したのだ。
両足を踏ん張ったが、衝撃を受け止めきれなかった。
登山靴の靴底が地面の土を無残に掻きむしり、俺の体は二歩後方へ滑り飛ばされた。
そのまま、バランスを崩して右手の切れ落ちた崖へ引きずり落とされかける。
指先に挟んでいた千の紙が、突風に煽られて手元からすっぽ抜けた。
白い札は夜の風に乗り、真っ暗な崖下の闇へと一瞬で吸い込まれて消えた。
三万円。
一度も封を切ることすら叶わずに。
風が止んだ。
俺は山道の右端で、片膝をついて倒れ込んでいた。
左手は辛うじて道端の岩の突起を掴んでいたが、右手には何の武器も残されていなかった。
大天狗は、最初に立っていた位置から一歩として動いていなかった。
追撃をかけてくる気配はない。山道を塞いだまま、光る両目でじっとこちらを見下ろしている。
もし俺を殺すつもりがあるなら、いまこの瞬間に二度目の風を叩きつければ事足りるはずだ。
こちらは崖際で片膝をつき、手元から札を失い、体勢を崩している。同じ威力の風をもう一度正面から当ててやれば、生身の人間など簡単に崖下へ転落して息絶える。
だが、大天狗は微動だにしなかった。
単に侵入者を追い払いたいだけなら、俺が足を取られて滑落しかけた時点で目的は果たせているはずだ。
それでも道から退かず、冷徹な光を放つ目でこちらを凝視し続けている。
あれにとっては、目の前の人間を打ち倒すこと以上に、この九合目の境界を何人たりとも通さずに塞ぎ続けることのほうが、遥かに重大な役目であるかのようだった。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
両膝が細かく震えている。
恐怖で笑っているなら、勝手に笑わせておけばいい。
懐の札入れを開いた。残っているのは、千の紙が一枚と、裾の紙が三枚。
頼みの二千の紙は、背後の岩陰に潜む遼の手の中にある。
もはや、紙切れの力だけでどうにかできる相手ではない。
五年間にわたって荷を担ぎ続けてきた、この生身の肉体。
不安定な斜面で倒れない重心の置き方を覚えるために費やした、二年の歳月。
そして、この崩れかけた岩場の地形そのもの。
いま手元に残されているすべての材料を使い切って、七歩先を突破する。
「浅井さん」
背後の岩陰へ向けて、低く言い放った。
「そこから絶対に顔を出さないでください。何が聞こえても」




