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第4話 連れ

 八合目の尾根を乗り越えたところで、前方に二つの人影を捉えた。三十メートルほど先の吹きさらしの稜線を、月明かりを浴びながら肩を並べて歩いている。


 片方は背の高い若い男だった。着ている上着の色も、背格好も、昼間に追い越した兄のほうと合っている。


 あの兄だ。


 もう片方の影は、男より頭ひとつ低かった。夜目には白っぽい服を着ているように見えたが、青白い月光の下ではどんな色も白く抜けて見える。


 二人の歩調は自然に揃っており、遠目から眺める限りは、どこにでもいる夜間登山の二人連れにしか見えなかった。


 見つけた、と足を踏み出しかけた瞬間、靴底が地面を掴む前に全身の筋肉が勝手に強張って止まった。


 思考が警鐘を鳴らすより先に、長年山を踏んできた肉体が現場の異変を拾い上げていた。俺はその場に低くしゃがみ込み、目を細めて二つの影を観察した。何を見落としているのか、どこが狂っているのかを探る。


 まず、音がしなかった。


 霜の降りた固い黒土は、靴底で踏み抜けば必ずパキパキと小さな砕氷音を立てる。二人が並んで歩いているはずなのに、風に乗って耳へ届く足音は、男のスニーカーが刻む規則正しい一組分しかなかった。


 次に、腕の動きだった。


 人間が斜面を歩くとき、無意識にバランスを取るために両腕は前後に振れる。男の腕は小さく揺れていたが、隣の白い影は両腕を真下にだらりと垂らし、一度として前後に振られることがなかった。


 だが、それだけで人間ではないと断定することはできない。


 裏山の中では、遭難者がまだ生きているのか、それとも息絶えているのかを外見だけで見分ける確実な術がない。


 確かなのは、山には人の形をして人の隣を歩くものがいるということと、人と山のものの境目には何の合図も鐘の音も鳴らないということだけだ。


 あの白い影も、もとは生身の人間だったのか、最初から人の形を借りた山のものなのか、外見だけでは分からない。


 いまこの瞬間も、重度の低体温症で腕も振れずに彷徨っているだけの遭難者である可能性を、この距離からは完全に排除しきれなかった。


 そして何より、男自身がまだ正気を保って生きているかも、声をかけて確かめてみるまでは分からない。


「――浅井(あさい)さん」


 喉の奥から絞り出した呼び声は、夜の風に削られて思ったほど遠くへは届かなかった。


 だが、男は歩きながら、ゆっくりと振り返った。


 月明かりの下で目が合い、その顔に表情が戻る。それから、心底ほっとしたように目元を緩めて笑った。


 少なくとも、こちらの呼びかけに正常に応答できるだけの意識は残っている。


「よかった……人だ。浅井(あさい)遼(りょう)です。あの、弟が下のほうで動けなくなっていて……この人とずっと歩いてるのに、小屋に着かなくて。もう何時間歩いたのか、分からないんです」


 助かった、と胸の奥で息を吐きかけた。


 その瞬間、遼(りょう)のすぐ隣にいた白い影も、ゆっくりとこちらを向いた。


 顔があった。


 切れ長の目も、鼻も、かすかに開いた唇もあり、輪郭の造作だけを見るなら若い女の顔立ちに見えた。


 だが、その胴体は前方を向いたまま微動だにしていなかった。足元も、肩も、胸の向きも上へ続く山道に向けられたまま、首の関節だけが乾いた音もなく真後ろへ百八十度近くねじり切られ、異様な角度で俺を凝視していた。


 俺が背後から声をかけたせいで起きた動きだった。


 遼(りょう)が隣に並んで歩いていた何時間もの間、あの白い影はずっと前を向いて歩いていたはずだ。人間が暗い夜道を肩を並べて歩くとき、隣にいる相手の顔を正面から覗き込むような真似はまずしない。視線は自然と足元か、前方の闇へと向けられる。


 つまり遼(りょう)は、この首のねじれを見ていない。


 その間ずっと、決定的な破綻だけを視界の端から除外したまま、ここまで登り続けてきたのだ。


 俺は胸元の油紙から、札を一枚手探りで引き抜いた。


 手持ちの裾の紙(すそのかみ)や千の紙(せんのかみ)でも、標高の数字だけを見れば、ここは頂が五九九メートルの裏高尾(うらたかお)の八合目なのだから十分に届く。だがいま必要なのは、紙が届く高さの余裕ではない。


 あれと遼(りょう)の間に無理やり割って入り、力ずくで引き剥がすまでの間、こちらの足元を決して揺るがせない絶対的な固定力だった。


 それだけの声が込められた札は、手持ちの中では二枚の二千の紙(にせんのかみ)だけだった。


 細長い紙の端を指先に挟み込み、親指を封に当てた。まだ封は切らない。


「浅井(あさい)さん。慌てなくていい。そのまま、ゆっくり俺の足元へ向かって歩いてきてください」


「あ、はい……あの、この人も一緒に連れていっていいですか」


「浅井(あさい)さん」


「この人も遭難してるんです。道に迷ってたのを俺が見つけました。ずっと一人で歩いてて、すごく冷え切ってて……だから、置いていけなくて」


「浅井(あさい)さん。落ち着いて、俺の言うことを聞いてください」


 穏やかな口調を崩さないまま、爪先を滑らせて三十メートルの距離を詰めていく。急激に間合いを詰めてはならない。こちらの敵意を察知された瞬間、あれがどんな行動に出るか読めないからだ。


「それは、人間じゃありません」


 遼(りょう)の顔から、安堵の表情がすっと抜け落ちた。


 次に入り込んできたのは、理不尽な侮辱を受けたことに対する純粋な怒りだった。


「何言ってるんですか! ちゃんと喋りますよ! 名前だって、名前は……」


 そこで遼(りょう)の舌が止まった。


 名前を聞いていないのだ。


 何時間もすぐ隣で体温を分け合うように歩いていながら、互いの名乗りすら交わしていなかった。


「聞いてない……でも、女の人です! ずっと震えてて、寒いって……!」


「浅井(あさい)さん。その人の足元を見てください」


 遼(りょう)は頑なに視線を落とさなかった。


 足元を見ることを本能的に避けるだけの違和感には、とっくの昔に気づいていたのだ。気づいたうえで、それを視界に収めて真実を確定させることを拒絶し、隣を歩き続けてきた。


 白い影が、すっと遼(りょう)の側へ半歩すり寄った。


 だらりと垂れ下がっていた青白い腕が、遼(りょう)の肘の内側へかすかに触れる。指先で掴みかかったわけでも、力任せに引き寄せたわけでもない。ただ触れただけだ。それなのに、遼(りょう)の体は磁石に引かれるように、白い影の側へぐらりと傾いだ。


「浅井(あさい)さん!」


「……だって!」


 遼(りょう)の声が、急激に幼く、泣き出しそうな響きを帯びた。


「だって……ここで置いていったら、この人死んじゃうじゃないですか!」


 その切迫した叫びを聞いた瞬間、頭の中で張り巡らせていた冷徹な損得勘定が、一拍だけぴたりと止まった。


 目の前で弱り果てている人間がいて、見捨てて立ち去れば命を落とすと本気で信じ込んでいる。だからこそ、自分の命を削ってでも手を引いて歩く。


 人間としては、その判断のほうが圧倒的に正しく、真っ当だった。


 だが救助の現場においては、その真っ当な人間性こそが、二人目の遭難者を確実に生み出す罠になる。


 滑落した仲間を助け起こそうと斜面を不用意に下りて共倒れになり、動けなくなった連れに付き添ってビバークを選び、朝までに二人揃って凍死する。


 還丈院(かんじょういん)の遭難統計の台帳には、そうした善意による死の記録が数え切れないほど並んでいた。俺は救助の講習で、その記録を嫌というほど読まされている。


「死にません」


 だから俺は、遼(りょう)が必死に縋りついている最後の倫理を、容赦なく断ち切った。


「人じゃないからです」


 言い放った自分の声は、夜の風よりも低く冷たかった。


 だがその冷徹な響きに打たれ、遼(りょう)の視線が初めて白い影から外れ、俺の目へと向けられた。


「あなたが助けようとしているのは、山のものです」


 俺は歩みを止めず、着実に間合いを削っていく。


「人の形をしていても、人ではありません。八年前から、山にはそういうものがいる。俺にも、あなたにも、あれを生身の人間にすることはできない」


「そんな……そんなはずない……!」


「弟さんは、六合目の岩陰にいました。ひどく冷えていましたが、まだ生きて自分の名前を言えました」


 遼(りょう)の瞳が激しく揺らいだ。


「いま、須貝(すがい)という先達(せんだつ)が背負って関(せき)へ下りています。あなたが弟の首へかけてやった、あの札入れを胸元に残したままで」


 遼(りょう)の荒い呼吸が、喉の奥で詰まった。


「……湊(みなと)」


「札の封は切られていませんでした。兄ちゃんのものだからって、あいつは最後まで使わずに握りしめていた」


 白い影が、再び動いた。


 今度は腕ではなかった。ねじり切られた首の角度のまま、その青白い顔を遼(りょう)の耳元へすっと寄せ、唇を細かく動かした。


 完全に間合いを詰め切った俺の耳にすら、何の言葉も聞き取れない。それでも、遼(りょう)は耳元の唇の動きに反応した。


 遼(りょう)の膝から、すっと力が抜けた。上体が白い影へと崩れ落ちかける。


 上着の襟首まで、あと一歩。


 俺は指先に挟んでいた二千の紙(にせんのかみ)の封を、親指で弾くように引き裂いた。


 破裂音は響かない。だが封が切られた瞬間、足の裏(うら)に重い手応えが生まれ、俺の両足の靴底と岩盤の間に、見えない楔が何十本も打ち込まれたように大地が噛み合った。


『不動(ふどう)』


 俺自身の験(げん)ではない。


 二千の山肌で採れた貴重な紙に、見知らぬ達者が己の声を削って写し取った、一回限りの奇跡だった。


 この一瞬で三十万円。歩荷(ぼっか)として汗を流す四日分の日当が、煙のように消え去った。


 構わない。


 岩盤へ完全に固定された両足を頑丈な軸にし、右腕を前方へ思い切り突き出して、遼(りょう)の上着の襟首を鷲掴みにした。


 そのまま、全身の体重を後方へ叩きつけるようにして引き戻した。


 白い影は、追いすがるように手を伸ばしてはこなかった。


 引き離されるその刹那、ねじれた首の角度のまま、その切れ長の目が静かに俺の顔を捉えた。


 その瞳の奥には、獲物を奪われた怒りも、怪異としての底知れぬ敵意も存在しなかった。


 ただ、山の中に独り取り残された人間が浮かべるような、あまりにも寂しげな、置いていかれた顔だった。


「――走れますか!」


 掠れた声で怒鳴りつけた。


 襟首を掴まれた遼(りょう)は返事もせず、俺の手首を力任せに引き剥がそうと暴れた。外れないと悟ると、今度は俺の前腕へ爪を立てて掴みかかってくる。十九歳の男が必死に振り絞る生身の握力だ。分厚い作業着越しに痛みが走る。


「離せよ!」


「浅井(あさい)さん!」


「離せって言ってんだろ! あの人は、まだあそこに――」


 そこで、遼(りょう)の叫び声が喉の奥で引き裂かれた。


 後ろを振り返り、白い影を見つめ、俺を見上げ、そしてもう一度、白い影の姿を凝視した。


 胴体は前を向いたまま、首だけが真後ろへねじれている。生きた人間には、絶対に不可能な角度で関節が止まっている。


 ここへ来てようやく、遼(りょう)は自分がずっと見ないように蓋をしてきた現実を、自分の両目で見つめることを己に許したのだ。


 俺の腕を締め上げていた遼(りょう)の指先から、急速に力が抜けていった。


「……あ」


 足裏を縫い止めていた力が、ようやく緩んだ。崩れ落ちかけた膝を襟首ごと強引に引き上げ、二歩、三歩と後ろへ下がる。三歩目で遼(りょう)の足に自力で踏ん張る力が戻り、自分の足で前を向いて走り始めた。


 俺たちは霜の降りた尾根を無我夢中で駆け抜けた。


 三十メートル、五十メートル。


 杉の木立の中へ飛び込んでから、肩越しに一度だけ振り返った。


 白い影は、最初に立っていた尾根の吹きさらしに、そのままの姿勢で佇んでいた。


 追いかけてくる気配はない。ただ、ねじれた首のまま、木立の奥へ逃げていく俺たちの姿をじっと見送っていた。


「……どうして」


 走りながら、遼(りょう)が乱れた息の下から絞り出すように呟いた。


「どうして追ってこないんですか……! 人じゃないなら、化け物なら……俺を食い殺そうとか、そういうのじゃないんですか……!」


「獲物を食い殺すつもりなら、何時間も肩を並べて歩いている間にとうに終わっています」


 突き放すような言い方になったと思ったが、遼(りょう)は怒る余裕すらなかった。荒い息を吐きながら、すがるようにこちらの言葉を待っている。


「さっき後ろから見ていました。あれは、あなたの体を掴んではいなかった」


 俺は張り出した杉の根を飛び越えた。


「触れていただけです。肘の内側に触れ、あとはあなたが自分の足で歩いていた」


「もし力任せに人間を連れ去る力があるなら、俺が襟首を引いて引き剥がした瞬間に奪い返しに来ているはずです。それをしてこないということは、腕力で連れていくこと自体ができないんですよ」


「できない……?」


「たぶん、連れていくのではなく、ついてこさせるものなんです」


 振り返り、背後の暗がりを確認する。白い影は完全に木々の闇に呑まれ、もはや輪郭すら見えなくなっていた。


「だから、あなたが自分の意志で足を止め、その手を離した時点で、あれの力は届かなくなった」


 なぜあのような怪異が山に現れるのか、その根底にある理屈は俺にも分からない。分からないものを分かったような顔で辻褄合わせをして納得するのが、山においては一番危険な思い上がりだ。


 だが、怪異のやり口だけは経験から読めた。


 隣に寄り添い、優しく歩調を合わせ、夜が明けるまで休まず足を動かさせ続ければいい。十一月の厳しい夜山で、体温を奪われながら朝まで歩かされ続けた素人が、その果てにどうなるかなど火を見るより明らかだ。


 爪も牙も必要ない。山そのものが、勝手に遭難者の命を奪ってくれる。


 遼(りょう)は口を固く結んだまま、しばらく俺の背中を追って走った。


 木立が深くなり、傾斜がきつくなったところで、先に足を緩めて歩きへ落としたのは遼(りょう)だった。胸が激しく波打ち、呼吸が限界に達している。俺も無理に引っ張らず、歩調を合わせた。


 心臓が早鐘を打っているうちのほうが、人間は余計な防衛本能を外して本音を零すものだ。


「浅井(あさい)さん。あれとは、どこで合流したんですか」


「……道が、完全に消えたあとです。上に灯りが見えて、火袋(ひぶくろ)を目指して登っていたら、茂みの横からすっと出てきて……」


「向こうから話しかけられたんですか」


「いえ……俺から声をかけました」


 遼(りょう)は一度、唇を強く噛み締めた。


「こんな時間に人がいると思って、驚いて……『大丈夫ですか』って聞いたんです。そしたら、女の人が、ただ『寒い』って」


「それだけですか」


「……ずっと、それだけでした」


 何時間も。


 何時間もの間、暗い夜道を肩を並べて歩き続け、返ってきた言葉はその一言だけだったのだ。


「歩いている途中で、おかしいと思いませんでしたか」


 遼(りょう)はすぐには答えなかった。


 急かすつもりはなかったので、俺はただ前を向いて歩き続けた。夜の山では、相手の言葉を待つ沈黙もまた、必要な行程の一部だった。


「足音が……」


 やがて、絞り出すような声が背後から届いた。


「たぶん、一時間くらい前に気づいてました。歩いてるのに、俺の足音しか聞こえてないって」


 遼(りょう)は俯かず、虚ろな目で前方の闇を見つめながら言葉を継いだ。


「横顔は、ちゃんと見てるんです。月明かりで見えてました。ちゃんと、普通の生きてる人でした」


 並んで歩いていれば、視界に入るのは横顔だけだ。正面から覗き込みでもしない限り、破綻には気づかない。


「でも、足音がおかしいって気づいたときには、もう一時間も一緒に歩いてたんですよ」


 声の速度が、わずかに熱を帯びて速くなる。


「一時間も隣で歩いてきた人に向かって、いまさら『あんた、人間じゃないのか』なんて聞けますか……? 俺には聞けなかった。それに、もし聞いて……そうだ、人間じゃないって言われたら」


 遼(りょう)の声が、そこで初めて子供のように震えた。


「その人を置いて、俺一人で逃げるしかなくなるじゃないですか……!」


 その通りだった。


 山で生き残るための判断としては、完全に落第点だ。


 だが、その甘さを責める気には到底なれなかった。


「浅井(あさい)さん」


「……はい」


「確かめなかったこと自体は、あなたの判断として賢かったと思いますよ」


 遼(りょう)が驚いたようにこちらを見た。


「もし確かめて人ではないと分かっていたら、あなたは自分の手であれを見捨てて逃げる側になっていた。そうなっていたら、罪悪感で足が竦んで、到底ここまで歩き通すことはできなかったでしょう」


 俺は視線を前方の道筋へ戻した。


「だから、その泥をかぶる役目を代わりに俺がやったんです。それでいいんですよ」


 口にしてから、また余計な慰めを言ってしまったと内心で舌打ちした。


 遭難者を安心させすぎると、張り詰めていた精神の糸がぷつりと切れてしまうことがある。ここからまだ数時間、遼(りょう)には自分の足で夜道を歩き切ってもらわなければならない。緊張を解かせるには早すぎた。


 遼(りょう)は返事をしなかった。


 唐突に立ち止まると、道脇の巨木に手をつき、胃の中のものを激しく吐き戻した。朝からまともな固形物を口にしていなかったらしく、吐瀉物として出たのは胃液と水だけだった。


 背中をさすってやりながら、手元の機械式時計へ目を落とす。


 針は一時に近い。夜明けまで、まだ五時間以上ある。


「……すみません」


「謝らなくていいです。落ち着くまで待ちます」


「あの人……」


「はい」


「あの人、ずっと寒いって言ってたんです」


 遼(りょう)は手の甲で口元を荒々しく拭った。


「俺、上着を貸しましょうかって聞いたんです。そしたら、いらないって首を振って……」


 呼吸を整え、血走った目で俺を見据えた。


「あれは……何だったんですか」


 俺はその問いに対する答えを持ち合わせていなかった。


 代わりに、遼(りょう)の強張った肩を軽く叩いた。


「行きましょう。立てますか」


 木立の道をしばらく無言で登り続けたところで、唐突に頭上の木々が途切れた。


 俺は足を止めた。


 息を整えるためではない。


 前方に続くはずの道が、消えていたのだ。


 さっきまで辿ってきた尾根道がぷつりと途絶え、右手は底知れぬ闇へ切れ落ちた断崖、左手には垂直に近い巨岩の壁が立ちはだかっていた。


 その二つの絶壁の隙間を縫うように、人ひとり通るのがやっとの細い踏み跡だけが、急な登り勾配となって上方へ伸びている。


 額のヘッドライトを上へ向け、地形の傾斜を確かめた。


 確かめるまでもなかった。


 上りだ。


 出張所の火袋(ひぶくろ)の赤い明滅は、右手の遥か谷底に見下ろす位置にあった。


 下りへ転じる道筋は、周囲のどこを探しても存在しなかった。


「あの……」


 背後から、遼(りょう)の掠れた声が震えながら響いた。


「この道……どこへ向かえば、下りられるんですか」


「下りられません」


 俺は岩壁の隙間を縫って天へ続く一本道を見据えた。


「頂を回ります」


──────────


【この話に出てきた言葉】


・不動(ふどう)

その場から動けなくする験。

自分にも、物にも、人にも、山のものにも効く。

達者な者は、止める場所を細かく選べるという。

験なので、関の外では働かない。


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