第10話 カゲ
裏高尾の頂を踏んでから、一ヶ月が過ぎた。
十一月だった高尾の山麓は十二月を迎え、みさか屋の軒先では、朝方に張った薄氷が昼近くになっても解けずに残るようになっていた。
俺の丈の記録は、何も変わっていない。二四〇〇のままで止まり、今日も背負子に括る荷の重さを手のひらで量っている。
変わったものなら、確かにあった。
大天狗が落としていった風切羽が一枚消え失せ、代わりに白い狼が一頭、俺の日常に居座るようになった。
みさか屋の戸口で初めて影へ潜ってから、人通りの多い場所でも、俺が道を空けるより先に姿を収めるようになった。開けた場所へ出れば、また右脇へ戻ってくる。
影へ収まる性質から、いつの間にかカゲと呼ぶようになっていた。呼べば片耳をこちらへ向けるし、「待て」と言えば足を止め、「来い」と言えばついてくる。その程度の簡単な指示なら通じた。
向こうから人語を発したことは一度もない。
肩が戻ってから、一度だけ、通常の荷運びの仕事で裏高尾へ入った。カゲは関の門柱の手前で自然と影へ沈み、門をくぐり抜けた先で何食わぬ顔で這い出してきた。手形の数も、納める供物の米の量も、一人前以上の請求をされることはなかった。
自分の《不動》を確かめたのは、その荷運びの帰りだった。
肩はもう、左右とも背負い紐の重みを受けられるまで戻っていた。納品を終え、関へ下りる途中の荷扱い用の平場へ寄った。須貝に、初めてなら平らで広い場所でやれと釘を刺されたことは覚えていた。
人がいないのを確かめ、カゲを入口の脇に待たせた。平場の端の太い枝へ縄を掛け、空の背負子を、靴一つぶん地面から浮く高さに吊った。倒れても、下は平らな土だ。木枠を押して小さく揺らし、縄の届く範囲から身を引いた。
止めたいのは、あの木枠だけだ。
【立つべき所に、立て】
【石は流れず、根は退かず】
【われは、動かぬものなり――】
『不動』
木枠が、垂直に戻る手前でぴたりと止まった。吊り縄は斜めのまま張り、もう軋みもしない。札の封を切ったときと同じ固定が、今度は自分の声から出ていた。
だが、木枠の下で風に転がっていた枯れ葉まで、まとめて動きを失っていた。狙いよりも遥かに広い。胸の奥から何かが抜け、ひと息吐いただけでは戻らない重さが残る。
やがて枯れ葉が転がり始め、木枠も元の振り子に戻った。俺は横木を掴んで揺れを収めた。
減ったことは分かる。だが、あと何度使えるのかは分からない。下りの荷は空でも、道の途中で何があるかまでは数えられなかった。もう一度唱えかけて、やめた。
縄を解き、土の上へ下ろした背負子に巻いてから、担ぎ直した。止めることはできる。だが、利かせる場所を選ぶ加減も、余計に使った声の勘定も、まだ掴めない。
カゲを待たせていた道の口へ戻ると、木立の隙間から風が吹き込んできた。開けていた作業着の前が胸へ押しつけられ、自然と顎が下がる。足元では、さっき止まっていた枯れ葉が、乾いた音を立てながら靴の脇を抜けていった。
「帰るぞ」
入口には木の根が張り出し、俺とカゲが並んで抜けるには狭かった。右手を白い背へ添えて影に収まるのを待つ。毛並みの輪郭が足元へ沈んでいくところまでは、戸口や人混みで何度も見たのと同じだった。
だが、背中の黒い筋だけが地面で止まらなかった。靴の縁を回り、脛から腿へと一本の線が這い上がってくる。作業着の裾の下へ潜り込むと、右肩の後ろへ何かが沿う感触があった。俺は思わず手を離し、肩越しに目をやりかけた。
そのとき、胸を押していた風が抜けた。
木立はまだ同じ音で揺れている。前から転がってきた枯れ葉が、俺の手前で左右へ散り、両脇を抜けて後ろへ走った。風が止んだのではない。俺の身体へ当たるはずの風だけが、胸の手前で二つに分かれていた。
上着の前がふわりと緩んだ。顎を下げていた姿勢を戻し、平らな土へ一歩置く。押し返すものが来ない。もう一歩踏み出すと、空の木枠が背中でいつもの調子に揺れた。踏ん張っていた力を抜いたぶんだけ、足が軽かった。
「……お前、それができるのか」
右脇には、白い姿がなかった。胸元の札には手を触れていないし、《不動》の詠唱もしていない。木枠を止めたときのように、胸の奥から声が抜ける感触もなかった。
一吹きが木立の向こうへ過ぎると、肩の後ろの感触が薄れた。靴の周りで影が膨らみ、カゲが元の白い姿へ戻ってくる。背に残る黒い筋は、羽を喰った朝と同じ一本だった。
俺はカゲの背と、自分の両肩を順に見た。
「荷があるときにも、それを頼めたらな」
カゲは何も答えず、鼻先を下山道へ向けた。俺は少し笑って、空の背負子の紐を引き直した。肩に荷を載せていても使えるのか。自分の意志で、もう一度あの風を分けられるのか。帰り道で考えることが、残り時間と明日の荷の重さだけではなくなっていた。
祠の裏で拾った黒い石は、まだ拳の半分ほどの石塊のまま背負子の底に眠っていた。
今朝も、紙袋に包んだ黒い石を背負子へ放り込み、みさか屋の土間で団子を一皿つまんだ。最後の一つを竹串から指で外し、軒下の平皿へことりと置く。
「カゲ」
白い耳が跳ね上がった。俺が手を引っ込めるより早く、皿の上から団子が消え去っていた。
カゲは前脚の上へ顎を乗せ、何事もなかったかのように静かに目を閉じた。婆さんもいまや追い払おうともせず、急須を持って出てくるときに、その太い尾を草履で踏みつけないよう器用に避けて通るようになっていた。
この一ヶ月間、俺は誰もいない山道で何度かカゲに問いかけてみた。
「お前は、兄貴なのか」
カゲはその瞳でじっと俺を見つめ返したまま、微動だにしなかった。
「兄貴と、何か繋がりがあるのか」
問いかけると、右の耳だけをぴくりとこちらへ傾けた。別の日には、同じ質問の途中で大きな欠伸を噛み殺された。
「三年前から、ずっと俺の影の中にいたのか」
白い鼻先を地面の影へ落とし、何事かを嗅ぐような仕草をした。また別の日には、こちらを見向きもせずに太い尾を一度だけ振った。
どれひとつとして、明確な返事と断定できる反応ではなかった。
三年前、俺は兄貴の判断で先に下りることになり、二人の体を繋いでいた一本のザイルを解いた。俺は関へ戻り、兄貴は還らなかった。
兄貴なのか、兄貴の何かなのか、それとも兄貴とは全く別のものなのか。
だが、それをこの獣に問い詰めて確かめる術はどこにもなかった。
曖昧な反応をいくら見つめても、実際に起きたこと以上の答えは出なかった。頂で験を継ぎ、主の風切羽が俺の影へ触れた。それまでは、白い狼の姿などどこにもなかった。
羽を丸ごと喰らって背に黒い筋を残したのは、山を下りて登録を済ませたあとだ。狼になったことと、羽を喰ったことは、同じ出来事ではない。あの順序のどこかに理由があるはずだった。
店の奥から運ばれてきた番茶をすすると、強烈な渋みが舌の奥へ張り付いた。
濃い。
いつも孫娘が淹れてくれる湯加減の整った茶とはまるで違っていた。
◆
三日後、裏大山にいた六人は、全員生きていた。
先達の女と五人の男たちは、降りしきる雨に登山道を洗い流され、沢沿いの切り立った岩棚で救助を待っていた。
十二月、表の大山は中腹から山頂までがすっぽりと雪に覆われ、周囲に連なる丹沢の峰々も一様に白い肌を晒している。
だが、関の門の内側に広がる裏大山――標高一二五二メートルの異界だけは、雪ではなく執拗な雨が降り注ぎ、下山道と増水した沢との境界を完全に呑み込んでいた。
沢へ足を取られて転落したのは、講の棟梁だった。腰まで泥水に浸かり、全身を濡らしていたが、指先にはまだ力があり、女が結び直してくれたザイルを自らの腹の前で強く押さえ込んでいる。
新入りの男は、この講で初めて大山へ入った若い職人だった。低い山へ入った経験はあるはずだが、こちらの呼びかけに対する返答が遅れがちで、低体温症の初期に入りかけており、女の隣で肩を抱えられるようにして支えられていた。
残る三人の男たちは、岩に回したザイルの末端を握り締める役と、吹きつける風雨を背中で受けて新入りを風下へかばう役に分かれていた。
女は五人の顔色を見回し、唇の紫色の濃淡を順に数え上げた。
誰ひとりとして欠けてはいない。だが、揃って自力で歩き出せる状態でもなかった。
手を伸ばせばすぐに届く岩壁に、女の錫杖が立てかけてある。冷たい突風が吹き抜けるたび、濡れた真鍮の輪が触れ合ってジャラリと細い音を立てた。
女は濡れそぼった行衣の右袖を鋭く振って水を切った。左手は、新入りの肩を抱き締めたまま決して離さない。
「先生、俺ならまだ歩けるぞ」
棟梁が言った。毎年のようにこの山へ入っているベテランだけあって、呼吸を整えるのは早い。だが、早く息を吹き返したからといって、真っ先に歩かせていい理由にはならない。
「一人なら歩けます。五人揃っては歩けません」
「新入りの両脇を、俺たち二人が肩を入れて挟めばどうだ」
棟梁たちは町内の十二人で金を積み立て、毎年都合のついた者たちで山へ登る。今年は五人編成で、新入りを除く四人は毎年のように裏大山を経験していた。
女は岩棚の外側、白く煙る雨のカーテンへ視線を投げた。さっきまで辛うじて視認できていた下りの曲がり角は、増水した茶色い水流の向こうへと完全に掻き消えている。
「足取りの覚束ない新入りと、それに付き添う二人の計三人。道筋の消えた沢へ踏み出させれば、一歩目で流されます」
新入りがおずおずと湯筒へ手を伸ばした。悴んだ左手の指先が蓋の縁を滑らせて落としかけたので、女は何も言わずに手を添え、湯筒と蓋を男の右手側へそっと置き直した。
「よく見てるな」
棟梁が額に張り付いた濡れ髪を払った。
「見ていなければ、五人の命は預かれません」
最初の渡渉点では、沢の水は増していても、いつもの飛び石がまだ水面に頭を出していた。
女は五人を高い岸へ待たせ、自分だけで対岸へ渡った。巨岩へザイルを回して確保支点を作り、流木が途切れる間を待ってから、一人ずつ渡るよう手信号を送った。
四人目の棟梁が足を乗せたとき、飛び石が半歩ぶん下流へずれた。棟梁は膝まで水へ落ちたが、張られたザイルを掴み、自力で対岸へ這い上がった。
全員が渡り終えて百歩も進まないうちに、上流から岩を割るような音が響いた。
雨水の灰色だった沢が、土を混ぜた茶色へ変わる。折れた枝と細い流木が、さっき渡った場所を一息で埋めた。
「戻ります。岩棚まで」
女は即座に隊列を反転させた。谷底から離れ、いま通り過ぎた高い岩棚へ六人を寄せる。足を痛めた棟梁を二人で支え、新入りを列の内側へ入れた。
最後の曲がり角へ差しかかったとき、増水の波が道の縁まで駆け上がった。踏ん張りの利かなくなっていた棟梁が足元をすくわれ、腹へ回したザイルごと濁流へ引かれた。
女は左手一本でザイルのテンションを維持したまま、右手だけで胸元の札入れを開いた。
表書きの術名と、裏面に刷られた高度の数字。親指で札を送り、いまいる高さまで効果の届く《不動》の札を一枚、迷いなく抜き取る。その間も、濁流に揉まれる棟梁から視線を逸らすことはなかった。
札の封を指先で切る動作に、一切の躊躇はなかった。
押し流されていた棟梁の体が、白く泡立つ水流の中でその位置にぴたりと固定された。その間に、女はザイルのたるみを取り、残る四人に引かせる順番を大声で指示した。
固定する力が緩むのに合わせ、全員で棟梁を岩棚へ引き上げた。
棟梁の腰へ結びつけていた共同装備の防水袋は、濁流へ引かれたときに口が裂けていた。日帰りの予定でも夜へずれ込む備えとして入れていた二つの非常灯も、予備電池も残っていない。備えを怠ったのではない。備えごと、沢に持っていかれた。
六人が高い岩棚へ揃ったあとで、最初に激しい悪寒に襲われたのは新入りだった。
二枚目の札は、体温を急速に引き戻すためのものだった。
「上着の前を開けます」
女は迷わず封を切り、札を新入りの作業着の内側、胸骨の真上へ滑り込ませた。冷え切った胸から腹へ向かって強制的に温かい熱が戻り、浅く乱れていた呼吸の間隔が次第に揃っていく。
切り裂いた封の切れ端を左のポケットへ押し込み、呼吸が完全に安定するまで、女はその肩から手を離さなかった。
そうして足止めを食らっている間にも、六人が取り残された岩棚のすぐ下では、上流の崩れが吐き出した濁流が道の縁を削り続けていた。
波から逃れて曲がり角まで引き返したはずなのに、いまや足元には踏み固められた道の痕跡すら残されていない。
三枚目の札も、体を温めるためのものだった。千の紙の封を、腰まで水に浸かって冷え切った棟梁の体温を繋ぎ止めるために迷わず切った。
これで、この標高で確実に頼りにできる手持ちの札は完全に尽きた。
女は札入れの口を閉じた。残された紙の束は男たちの持参品より厚みがあったが、いまこの過酷な状況で命を繋ぐことのできる一枚は、もうどこにも入っていなかった。
左のポケットの上から三度、指先で確かめるように押さえると、切り取られた封の紙片が擦れ合って一枚ずつカサリと硬い感触を返してきた。
「……三枚使ったか」
棟梁が、その手の動きを見つめて言った。
「十二人の割り勘です」
「無事に帰ったらな」
棟梁は腹の前のザイルを強く握り直した。
「無事に還ったら、です」
「使った紙の証拠は、ちゃんと残ってるんだろうな」
「三枚とも、切り落とした封をここに残してあります。雨でどれほど濡らそうと、あなた方への請求書から消えることはありませんよ」
残りの三人の職人たちが、緊張をほぐすように先に小さく笑った。
新入りも少し遅れて、凍えた口元を微かに緩める。女は笑いが戻るまでの間を、もう一度数えた。
女は新入りへ湯筒を手渡した。冷え切った蓋に一杯だけ注ぎ分けて飲ませ、残りの湯の量を確かめてからしっかりと蓋を締める。次は棟梁、そのあとは残る三人の順に、均等に温もりを行き渡らせていく。
この場から動けない理由は、極めて単純だった。上流の崩れで形を変えた山道を、素人の客五人を引き連れて手探りで探し出すことなど不可能だからだ。
ならば、何があっても動いてはならない。
「探しに来てくれるかね」
棟梁は雨煙る虚空を見つめたまま、確認するように問いかけた。
女は五本の金剛杖を岩壁へ寝かせ、突風で足元から転がり落ちないよう、一本の細引きで手早く結束した。手形は全部で六枚ある。男たち五人の胸元と、女の行衣の内ポケットに一枚。
「来ますよ。救助が来るのを信じて待つのも、山を歩く仕事のうちです」
冷たい雨は、その確信に満ちた返事の代わりに、足元で見えない沢の濁流をさらに太らせていた。




