第88話 一つの向き
正面の大きな影が、軋むような音を立てて低く沈んだ。俺は山刀を構えたまま、その動きを見ていた。突進の前にも見せた姿勢だ。だが、向いている先が違っていた。俺ではない。少し離れた地面に横たわる、倒れたもう一つの身体。
初戦なら、大きい方が動いた瞬間に左右どちらかへ逃げる足場を探していた。逃げた先へ、側面側が飛び込んでくることまで考えなければならなかったからだ。
今は違う。
倒れた方は動かない。散ってもいない。そのすぐそばへ、大きい方がゆっくり距離を詰めていく。
「……何をする気だ」
低く呟き、自分の耳へ返す。カゲは俺の近くにいる。俺は半歩だけ右へ動き、大きい方の真正面から身体を外した。それでも、向こうはこちらを追わなかった。二つの身体の距離が縮まる。
そこで、倒れていた方がわずかに動いた。俺は反射で山刀を上げた。立ち上がったわけではない。こちらへ飛びかかってきたわけでもない。地面に伏したまま、その向きがほんの少し変わった。同時に。大きい方も、同じ方向へ向きを変えた。
「……同じだ」
片方が片方を見る。合図する。それを受けて、もう片方が動く。そんな順番が見えない。二つが、別々に判断してから合わせているようには見えなかった。一つの動きの、離れた二か所みたいだった。みさか屋の卓で、宮坂さんと描いた二つの丸を思い出す。一。二。倒す順番を決めるためにつけた数字。
あれは、山の側から見れば最初から少し違っていたのかもしれない。
二つじゃなく――
そこまで考えた時、大きい方がこちらを向いた。そして、来た。
*
喉のひりつきは残っている。長引けば、帰りに使う声まで削る。速さそのものは、初戦と変わっていなかった。違うのは、俺の側だった。横からの飛び込みに、視線を割かずに済む。倒れた方へ目をやれば、まだ立ち上がる様子はない。だから今は、正面から来る大きな影を追える。それだけで、驚くほど時間が増えた。俺は半歩、右へずれる。
相手が追う。大きな身体が、こちらへ向きを変える。その瞬間に見えた。重さが移る。どれだけ大きくても、地面に立って動く以上、全部の重さをどこかで受けなければならない。歩荷の荷も同じだ。背負子の上が右へ振れれば、身体の左側で受ける。上が後ろへ垂れれば、身体は前へ入る。荷の位置が変われば、支える位置も変わる。
目の前のこいつも同じだった。身体の形は違う。大きさも違う。それでも、重さを地面へ預けている。
「右へ来る」
自分へ言う。相手が進む。俺はさらに半歩外へずれる。影が追う。その分だけ、支え方が変わる。
まだ攻撃しない。
見る。一度通り過ぎる。向こうが戻る。またこちらへ向く。今度は反対側へ誘う。追ってくる。やっぱり同じだった。まったく同じ場所へ重さが乗るわけじゃない。同じ歩幅でもない。でも、大きな身体が急に向きを変える時、一瞬だけ支えが狭くなる。初戦では、そんなものを見る余裕がなかった。正面を見ながら、横を見ていた。
横を見れば正面が来た。
今は違う。
ここで使っている考え方は、俺一人で作ったものじゃない。横から崩す。場所を決め打ちしない。合わなければ捨てる。みさか屋の卓の上で、二人で作った順番を、今は俺が山の中で使っている。それでいい。大きい方が、また来た。俺は声を張った。
「――隔て!」
俺へ向かう線を塞ぐように、白い防壁を斜めに置く。相手を押し返すためじゃない。このまま俺へ真っ直ぐ来る道を、一度切るためだ。大きな影が防壁へぶつかる。そのまま俺へは来られない。身体の向きを変えようとする。
そこで、重さが寄った。
「――不動!」
声が通る。大きな身体の動きが止まった。一瞬でいい。俺はカゲをまとい、第四へ換えた。初戦で使い方を間違えた性質。時間をかけて力を蓄え、次の一回へ放つ。倒れた側面側も視野の端に残っている。今は、正面側へ意識を寄せる時間がある。
だから、左拳で支持を崩す一回へ力を寄せる。止まった相手を見ながら、一呼吸。身体の奥に張りが生まれる。何へ使うかも決めている。身体そのものを壊すためじゃない。立っている支えを崩す。《不動》が切れる。大きい方が動き出した。俺へ向き直る。まだ。一歩。俺が左へずれる。相手が追う。支えが移る。
今。
「――鎖!」
斜め後ろに見える岩の張り出しへ《鎖》の鉤を掛け、俺との距離を縮める。俺の身体がさらに横へ抜ける。大きい方は、俺を追ってもう一度向きを変えた。重さが流れる。支え直しが一瞬遅れる。そこへ。第四に蓄えた力を、左拳の一回へ放った。
「――っ!」
踏み込む。左拳を叩き込む。狙うのは、相手が今もっとも重さを預けている側の低いところ。白山でやった時と同じだ。硬いものそのものを壊したいんじゃない。立っているものの支持を、外す。衝撃が腕へ返った。硬い。でも、それでいい。一回。それだけを最後まで通す。大きな身体が揺れた。平たく張り出した背の片端が、ほんの少し下がる。
けれど、その少しへ自分自身の重さが追いついた。支えが外れる。身体が傾く。
「倒れろ!」
ただの声だった。験じゃない。大きな影が岩へぶつかる。それでも立て直そうとする。第四は今の一撃で使い切った。第二へ換える。倒れかけたまま、大きい方がこちらへ攻撃を振る。前腕当てを斜めに添え、腰を開いて、受けた力を後ろ足から地面へ流す。肩に重さは残るが、足は止まらない。俺は一歩抜け、攻撃の残りが脇を通り過ぎた。
空振りで戻しきれなかった勢いに、自分の重さが乗る。大きな身体がさらに回った。さっき崩した側へ、また重さが戻る。でも、もうそこで十分に支えられない。
「今だ」
山刀を握る。どこが急所かは知らない。身体の作りも分からない。だから、見るのは同じだ。どこへ力が集まっているか。どこで立ち直ろうとしているか。傾いて、刃の届く高さになったその側へ。
「――手力!」
踏み込み、足で地面を押し、腰を回して山刀を振り抜く。その一続きの斬撃だけを強くする。刃が硬い表面へ入る。抵抗。その先へ少し通る。一撃。そこで終える。深追いしない。俺は刃を抜いて離れた。詠唱のあと、喉に渇きが残った。大きい方が姿勢を戻そうとする。
だが、崩れた側がついてこない。もう一度支えようとする。沈む。大きな身体が、ゆっくり地面へ倒れた。その少し先には、先に崩したもう一つが横たわっている。二つの身体が地面に伏した。俺は距離を取ったまま、山刀を構える。
まだ散らない。
どちらも動かない。それでも、散らない。
「……まだか」
一呼吸。二呼吸。何も起きない。俺は近づかなかった。近くで枝が揺れた。三呼吸目。大きい方の輪郭が、わずかに揺れた。同時に。離れたところに倒れているもう一つも揺れた。俺は山刀を握る手へ力を込めた。二つの身体から、同時に黒いものが剥がれ始める。片方だけじゃない。両方。同じ時に。山へ還っていく。両端の角ばった背も。弓なりの細い背も。
二つの輪郭が崩れ、黒い影となって散っていく。最後まで、片方だけが残ることはなかった。俺は動かず見届けた。そして。二つの身体が完全に消えたあと。地面に残ったものは、一つだった。主素材。一つだけ。
「……一つか」
そこで、ようやく確信した。少なくとも、山はあれを二つの異形として扱っていなかった。二つの身体。一つの主。俺は山刀を下げた。その瞬間、喉の奥へ熱が落ちた。息が止まる。身体の内側へ、新しい何かが沈んでくる。験。主を倒した時の、あの感覚だった。
「……何だ、これ」
思わず胸元へ手を置いた。《結び》。唱えるべき言葉と、その名は喉に馴染んでいた。今あるどの験とも違う。自分の外側へ向かって、何かが開こうとしている。そんな感覚だった。俺は無意識に横を見た。当然、宮坂さんはいない。山へ入っているのは俺一人だ。それなのに、一瞬だけ。誰かが隣にいたなら、次の自分の動きを伝えたくなるような。妙な感覚が喉元へ上がってきた。
――次、俺が右へ出る。そんな短い言葉を口にしかけて、俺は止めた。誰に言う。何のために。分からない。相手の考えていることが読めたわけでもない。未来が見えたわけでもない。そもそも、今ここには確かめる相手すらいない。
「……持って帰るか」
それ以上試すのをやめた。届く範囲も。何が条件なのかも。声をどれだけ使うのかも。何一つ分かっていない。一人で考えて決める必要もない。
まず帰る。
宮坂さんと確かめる。俺は地面へ視線を戻した。主素材が一つ。正面から俺を動かした身体。その動いた先へ回り込んだ身体。別々に協力していたんじゃない。一つの意思が、二方向から俺を追い込んでいた。そのことを考えた時。三年前の記憶が、一瞬だけ浮かんだ。二四〇〇。兄貴が俺を下ろした場所。――お前は下りろ。
あの日、兄貴が何を見ていたのか。まだ分からない。なぜ俺を下ろしたのかも。分からない。ただ、自分の見ていた方角だけでは、分からないことがある。そのことだけは、前より身体で分かる。
俺はそこで考えるのをやめた。主素材の前へしゃがむ。持ち帰る。記録する。話す。勝ったからといって、ここで全部の答えを決める必要はない。
背負子の上蓋を開ける。手を入れる。まだ空きは残っていた。予定外を入れるために残した空間。山上ヶ岳の主が残した素材を拾い上げ、そこへ収めた。二つの身体から、一つだけ。
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