第87話 逃げる場所
「逃げる場所を、最初から決め打ちしないでください」
二度目の山上ヶ岳へ向かう前、みさか屋の卓の上で地図と紙を片付ける時、宮坂さんが最後に念を押したのはそれだった。正面から大きい方が来る。俺が逃げる。その着地点へ、側面側が飛び込んでくる。それなら、こちらがあらかじめ逃げ込む場所を決めておき、そこへ相手を誘えばいい。最初はそう考えた。
だが、紙の上で何度か動きをなぞるうちに、宮坂さんが首を横に振った。
「あらかじめ『ここへ逃げる』と決めすぎると危ないです。相手が初戦とまったく同じ動きをするとは限りませんし、山の足場だって同じとは限りません」
踏み跡が増えたり、枝が落ちたりするだけでも、足を置ける位置は変わる。紙の上で決めた場所へ、山の中でも同じように足を置ける保証はない。
だから、決めるのは場所ではなく条件にした。俺が確実に踏めること。荷を背負ったまま、無理なく重心を切り返せること。正面側との間へ、一度、《隔て》を置けること。そして、側面側が入ってきた時、その進路をある程度絞れること。
「その条件が揃った場所を、山の中で沢渡さんが選んでください」
宮坂さんの言葉に、俺は頷いた。
「それなら、俺の仕事です」
「はい」
それで、紙の上での準備は終わった。
*
《甦り》で塞いだ右腕の傷をかばわずに済み、肩に荷を掛けても痛みに動きを奪われなくなるまで待った。背負子も直した。切れたところだけを必要以上に頑丈にするような直し方はせず、必要な修理をして、背負った時の荷の位置と重心が以前と同じところへ来ることを何度も確かめた。余計な予備も増やしていない。
カゲの第五も第六も、使えるものとして作戦には入れなかった。身体と背負子の両方を確かめて、二度目の朝を迎えた。宮坂さんが進めるところまで向かう道中、交わした言葉は初回より少なかった。時間。身体。装備。退路。声。どれかが崩れれば戻る。それに加えて、今回の大きな方針が一つ。側面側を先に崩す。
だが、それも撤退条件とは違う。
「前回より、条件が一つ増えましたね」
俺が言うと、宮坂さんは首を傾げた。
「増えました?」
「横を先に、って」
「あれは勝つための仮説です。撤退条件じゃありません」
「ああ」
「噛み合わないと思ったら、捨ててください」
宮坂さんは少し間を置いた。
「第四性質を惜しんだ時みたいに、今度は作戦そのものを惜しまないでくださいね」
手厳しい。でも、その通りだった。仮説に固執して死んだら、何のために一度逃げ帰ったのか分からない。
「分かりました」
山上ヶ岳の関へ向かう道の途中、前回と同じ線の手前で、宮坂さんは止まった。
「では」
「はい」
「いってらっしゃい」
「行ってきます」
それだけ言い交わして、俺は一人で関へ入った。入山届には単独の行動予定と帰着の期限を記し、供物と手形を確認してもらってから、境を越えた。
*
一度目より、山は短く感じた。距離が縮んだわけではない。前回歩いた区間を知っているからだ。最初に休んだところ。細い流れ。小さな異形をやり過ごした辺り。錆びた鉄の輪と、崩れかけた石積み。今日も手は掛けずに、横を抜けた。最初の破壊痕。どこを通る時にも、前回の自分の声が残っているような気がした。――右。――荷、問題なし。――次までこのまま。そして後半は、――帰る。そればかりだった。
今日は違う。
「まだ決めない」
声に出した。足場。身体。時間。荷。全部問題ない。だから進む。やがて、あの曲がり角の手前へ来た。初回のように、そのまま身体を滑り込ませない。角の手前で止まり、右を見る。左。上。足元。カゲは俺のそばにいる。俺自身の目で確認してから、山刀の柄へ手を添え、慎重に角を回った。
――いた。
少し広がった場所の奥。道を塞ぐように、あの大きい方が構えている。両端の角ばった平たい背が、低い位置にある。もう一つは見えない。初回なら、この時点で大きい方へ視線を持っていかれていた。
今日は違う。
正面を視野へ残したまま、左右を見る。左。右。上。
「……もう一つが見えない」
言った瞬間、正面側が動いた。初回と同じように、真正面から来る。俺は左へ避けようとして――寸前で足を止めた。少し奥。岩と木の間が狭くなっているところがある。俺なら抜けられる。荷も通る。側面側が大きく回り込もうとすれば、入ってくる方向を限らせられそうだった。
使える。
俺は左斜め後ろへ身体を移した。正面側が来る。横からの攻撃を待つ。
来ない。
代わりに、上で枝の動く音がした。前回とは違う。位置が違う。俺は狙っていた狭い場所を見た。ここへ入れば、むしろ上から来る方へ自分から身体を差し出すことになる。
「……捨てる」
声に出した。その場所は使わない。枝の揺れた上側と自分の間へ《隔て》を置いた。直後、速い影が白い壁へぶつかった。正面側も向きを変えている。俺は後ろへ下がった。最初の誘い込みは失敗。
それでいい。
場所を一つ捨てただけだ。条件は変わらない。
*
二つは、初回とまったく同じには動かなかった。それでも、同じところはあった。正面側が俺を動かす。その間に、見えない方が位置を変える。右へ避ければ右へ。下がれば下側へ。俺が正面側へ意識を寄せれば、もう一つが視界の外へ消える。俺は無理に攻撃しなかった。《隔て》を短く使う。下がる。見る。また位置を変える。
何度か繰り返すうちに、戦っている場所そのものが少しずつ移っていった。最初の場所から、曲がり角の側へ。さらに少し。最初に狙っていた場所ではない。でも、条件の合うところがあった。
右に大きな岩、左に太い木。その間は狭い。見上げると、さっきの場所と違って上側から入ってくる影を目で追える。背後には、鉤を掛けられる太い幹も見えた。俺なら身体を斜めにすれば、荷を背負ったまま通れる。背後の木まで、数歩分の退路もある。正面側は幅がある。同じようには入ってこられない。
側面側が俺の逃げた先へ入るなら、進路もかなり限られる。足元を見る。右足。滑らない。左足。踏める。後ろへ一歩。切り返せる。
「……ここだ」
声に出した。正面側が動く。俺も動いた。左へ逃げる。岩と木の間へ入る。正面側がそのまま入ろうとして、動きが鈍る。その瞬間。左上から、もう一つが来た。速い。でも、今度は見えている。今の俺の位置ではない。俺が逃げ込んだ空間を目掛けて入ってくる。
「来た」
追わない。待っていた。
「――鎖!」
目で捉えた背後の木へ《鎖》の鉤を射出して掛け、自分との距離を縮める。俺の身体だけが、一気に後ろへ抜ける。側面側が、俺のいた場所へ飛び込んだ。着地点は狭い。右は岩。左は木。さっきまでより、動ける方向が少ない。
「――不動!」
狭い着地点へ入った側面側に声を叩き込む。相手の動きが止まった。近い。初回よりずっと近い。弓なりの背も、今は揺れない。その脇には、前に山刀を入れた傷も残っている。第四。一瞬だけ頭に浮かんだ。使わない。蓄える時間を作る必要はない。今、止まっている。必要なのは、時間をかけて次の一回をさらに強くすることじゃない。
今できる一回を、確実に通すことだ。
「――手力」
山刀を突き込む。踏み込み。腰。腕。その一続きの刺突だけを強くする。初回に刃を入れた傷の近くへ狙いを置く。一歩。踏む。突く。硬い。最初は、前と同じ抵抗。その先で、刃が入った。俺は動作を止めない。荷を後ろへ逃がさない。足で地面を押す。腰を前へ運ぶ。山刀を最後まで押し込む。相手の身体が大きく震えた。
《不動》が切れる。一気に動きが戻る。俺は刃を引き抜き、岩の陰へ身をずらした。直後、正面側が岩へ激しくぶつかった。振動が足元まで来る。
「まだだ」
側面側を見る。動いている。倒れてはいない。だが、初回ほど速くない。片側を庇うようにして、狭い場所から抜けようとしている。追う。そう思いかけて、止めた。追えば正面側へ背中を向ける。位置を見る。正面側。岩の向こう。側面側。目の前。俺。
「今なら、同じ側に置ける」
自分へ言う。初回とは逆だった。俺が側面側を見ている。正面側は、岩の向こうで進路を制限されている。長くはもたない。でも、今は時間がある。側面側が身を立て直そうとする。俺は山刀を構えた。次は験を使わずに行く。相手が逃げようとする。
だが、さっきの一撃のせいで動きが鈍い。俺は一度、刃を入れる。側面側が身を返す。俺は受け止めずに半歩ずれ、刃の届く位置を保った。追い込まない。相手が地面に置いた身体の位置を見る。どちらへ身体の重さを逃がしているかを確かめる。初回に俺自身がそうだった。傷んだところがあれば、無意識にそこを庇う。荷でも人でも同じだ。
支えが一つ弱れば、重さは別のところへ逃げる。側面側の身体も、傷を受けたところを避けるように重心が偏っている。その逃げる側に、岩がある。
「そっちだ」
俺は無理に押さない。相手が自分で逃げる方向へ回り、岩との間を狭める。一歩。影が岩へ寄る。俺も一歩。さらに逃げ場が減る。正面側の音が近い。回ってくる。時間がない。もう一度声を通す余地はある。喉がひりつく。それでも、まだ出る。このまま何度も重ねれば、帰りに使う声まで削る。
「――不動!」
側面側の動きが止まる。山刀を両手で持つ。初回の傷。今入れた傷。相手が庇っていたところ。そこへもう一度、刃を通す。一撃。硬い抵抗。さらに身体を運ぶ。相手を支えていた姿勢が崩れた。影が地面へ倒れる。俺はすぐに飛び退いた。正面側を見る。来る。距離を取る。山刀を構える。そこで、違和感に気づいた。
散らない。
俺はもう一度、倒れた方を見る。動かない。少なくとも、もう立ち上がってこちらへ来る様子はない。なのに。
散らない。
これまで倒してきた異形は、散った。こいつは、まだ倒し切れていないのかもしれない。それでも、目の前の身体は消えない。そこに残っている。
「……なんだ?」
その瞬間。正面側の動きが止まった。俺も止まる。大きい方が、少し離れたところでこちらへ向いている。さっきまで、何度阻まれても俺へ向かってきた。それが来ない。俺は山刀を下げない。倒れた方を見る。大きい方を見る。また倒れた方。
散らない。
「……二つ、なのか?」
口から出た。倒し切れていないのか、俺の数え方が違うのか。答えはない。大きい方がゆっくり向きを変えた。俺へではない。地面へ倒れたもう一つの方へ。初回から今まで、一度も見せなかった動きだった。そして、その大きな身体が低く沈む。突進の前にも見た姿勢。向かう先は俺ではなく、倒れた方だ。何をするつもりかは分からない。
俺は山刀を握り直した。側面側を先に崩す。そこまでは、狙った通りだった。最初の誘導は外れた。現場で場所を選び直した。それでも、ここまでは届いた。
ただ、倒れたはずの一つが散らない。その事実だけは、みさか屋で何度も歩いた紙の上にもなかった。
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