第86話 順番を変える
山上ヶ岳の麓で手当てを受け、列車を乗り継いでみさか屋の奥へ戻る頃には、表の通りはすっかり暗くなっていた。右前腕には、塞がった傷を保護する包帯が巻かれている。肩を回すと、奥に鈍い痛みが残った。さっきよりは動かしやすいが、だからといって普段通りではない。
土間の上がり框の隅には、背負子を立てかけてある。右肩側の留めが切れ、山中で結び直した泥だらけの細引きが、そのまま枠と荷をつないでいた。宮坂さんが湯を沸かしている間、俺は座って壊れた荷を見ていた。
切れた留め。岩へ当たった枠。斜面を下った時についた泥。自分があそこで何をして、どこで追い込まれたのかが、そのまま残っている。
「……今日は、泥を落とさなくていいんですか」
立ち上がりかけると、湯を持ってきた宮坂さんが首を横に振った。
「洗う前に見ておきたいです。沢渡さんも」
「俺も?」
「ええ。今きれいにして、結び目まで解いたら、どこへどう力が掛かったのか分かりにくくなるでしょう」
宮坂さんは卓へ湯を置き、白い紙を一枚広げた。
「最初から、一手ずつお願いします」
「長くなりますよ」
「そのために、覚えて帰ってきたんでしょう」
責める調子でも、慰める声でもなかった。山で起きたことを、起きた順番に戻していく声だった。俺は湯を一口飲む。
「分かりました。曲がり角を越えるところからです」
*
宮坂さんの鉛筆が、紙の上へ道を引いた。曲がり角。その先の少し広い場所。左右の斜面と岩。俺が覚えている範囲で幅を直してもらい、宮坂さんが正面の大きい方を道の上の丸に、もう一つを道の外の丸にした。
最初の突進で左へ逃げ、そこへ横から当たられたこと。二度目は右へ逃げるように見せて待ち、第二で受け流して山刀を一回入れたこと。下がろうとしたら、速い方が先に下山側へ回り、正面側は高い方に残ったこと。三度目は俺から左へ寄って横を誘い、第一で向きを変えて、さっきより深く刃を入れたこと。その分だけ正面を見るのが遅れ、《隔て》で防いで距離を取ったこと。順に話すたびに、宮坂さんの鉛筆が線を足していった。
「同じ形が、何回ありました?」
宮坂さんが鉛筆を止めて聞いた。
紙を見る。正面から来る線。俺が逃げる線。その先へ入ってくる線。
「……最初から、ずっとです。俺が動いた先へ、もう一つが入ってくる」
宮坂さんが、二つの丸を鉛筆の先で順に指した。
「窓口の記録の二行、両方ともこれだったんですね」
「別の日に、別の人が、片方ずつ見ていたんだと思います」
宮坂さんは頷き、紙へ目を戻した。
「一回だけなら、偶然かどうか分かりません。でも、三回なら」
「話が別ですね」
宮坂さんの鉛筆が、左へ寄る俺、そこへ入る横の影、続いて迫る正面側を順に紙へ置いた。
「横へ意識を向けると正面が来る」
「そうです」
「逆に、正面へ意識を向けると?」
「横が見えなくなりました。第四へ換えた時は、完全に」
《隔て》で受けて距離を取ったあと、俺は考えた。正面を一度崩せば、退路ができる。だから第四へ換えた。
「正面の大きい方を倒そうとしたんですか?」
「仕留めるつもりじゃありませんでした。一回、体勢を崩せればいいと思ってました」
「そのために第四」
「はい」
「どれくらい蓄えるつもりでした?」
「大きくは要らないと思ってました。次の一回で、あいつの支持を崩せるだけあればいい」
白山で左拳へ使った時と同じように、一つの動作へ回すつもりだった。
「その間に、もう一つが消えた」
「はい」
宮坂さんの鉛筆が止まる。
「見失った時点で、なぜ第四を解かなかったんですか」
答えは分かっている。俺は湯呑みを置いた。
「……惜しかったからです」
「蓄えた分が?」
「はい。別の性質へ換えれば消える。正面を一回崩せれば帰れると思ってたから、もう少しだけ保持したかった」
その一瞬だった。右後ろ。見えないところから来た。第二へ換えるのが遅れた。右腕。肩。背負子。全部、そこでやられた。宮坂さんは紙の余白に書く。――横を見失う。――第四保持。その間に一本線。
「ここは、次は?」
「迷いません」
即答した。
「横を見失った時点で第四は捨てます。そこまで溜めた分が全部なくなっても」
「正面を崩せそうでも?」
「食らうよりましです」
宮坂さんが頷いた。
「そこは決まりですね」
俺は背負子へ目をやる。切れた留めが、あの一瞬をそのまま残している。
「でも」
口にして、もう一度紙を見る。
「最後は、大きい方を先に崩すことへ意識が寄りすぎましたね」
宮坂さんも紙を見る。
「横へ二度、刃を入れています」
「でも、それで崩しきれなかった。退路へ出るには、正面をどうにかしなきゃと思ったんです」
「そのために第四へ換えて、横を見る時間が減った」
俺は頷く。大きい方は危険だった。そこは間違いない。真正面から食らえばまずい。無視していい相手ではない。でも。
「向こうも、それを使ってるのかもしれない」
俺が言うと、宮坂さんが顔を上げた。
「何を?」
「俺が正面を見るってことです」
紙を指す。
「大きい方が来れば、俺は避ける。避ける方向が決まる。正面を止めようとすれば、身体も視線もそっちへ向く」
「その時に、もう一つが動く」
「はい」
宮坂さんも紙へ目を戻した。しばらく何も言わない。二人で最初から線を追う。
「少なくとも」
宮坂さんが言った。
「正面側へ沢渡さんの意識を固定させること自体が、向こうの連携に都合がいいのは確かそうですね」
「ですよね」
「ただ、正面側が最初から囮だけだった、とまでは言えません」
「はい。普通に危ないです」
「あれ自体が沢渡さんを倒しに来ている可能性もある」
「あります」
「二つがそれぞれ攻撃しながら、互いの動きを補っているだけかもしれない」
「それでも」
俺は小さい丸を見る。
「こっちが残ってる限り、正面に何かしようとするたびに後ろを気にしないといけない」
宮坂さんはまだ答えない。俺も続ける。
「大きい方は、少なくとも今まで見た範囲では、来るところを目で追えました」
「はい」
「こっちは視界から消えて、斜面を回る。逃げた先を取る」
右肩が少し疼いた。
「次は、刃を当てるだけで終わらせず、こっちを先に崩す方を考えませんか」
宮坂さんが紙の小さい丸を見る。
「側面側を先に?」
「はい」
「それがいなくなれば、正面だけ見ればいい?」
「……そこまでは言えないですね」
すぐに訂正した。
「正面側に、まだ見てない動きがあるかもしれない」
「そうですね」
「片方を崩したら、もう片方の動きが変わるかもしれない」
「それもあります」
俺は鉛筆を持つ。小さい丸の横へ印を置く。
「でも、最初に崩す候補はこっちです」
宮坂さんも頷いた。
「今ある情報だけなら、私もその順番が一番試す価値があると思います」
*
次に見たのは、敵ではなく背負子だった。
「これ、切れた時のままですね」
宮坂さんが上部の損傷へ指を掛ける。
「洗う前に見たいって言ったの、宮坂さんですよ」
「残して正解でした」
岩へ当たった跡。切れた留め。山の中で俺が作った細引きの応急処置。宮坂さんは一つずつ見ていく。
「荷が壊れる前にも、いったん引こうとはしていたんですよね」
「はい。でも、そこで第四を惜しんだ。傷を負って荷も壊れたから、山行を切り上げると決めました」
「でも、これで下りの動きはかなり制限された」
「はい」
「道を外れたあとは?」
「もっとです」
背負子の上部が身体から離れると、下りでは荷が後ろへ俺を引く。足場の悪い下りでは、荷に振られないよう腰を落とし直してから次の足を置かなければならなかった。斜面では、その一拍も惜しかった。俺は枠を触る。
「ここは直します」
「当然です」
「でも、もっと丈夫にすれば勝てるって話じゃない」
「ええ」
「次は、そもそも同じ受け方をしない」
宮坂さんが少し笑った。
「そちらを先に考えたい、と」
「はい」
前腕当ても同じだった。役には立った。あれが無ければ、もっとひどかったかもしれない。だから残す。でも、あるからまた受けていいわけじゃない。装備は変える。戦い方も変える。片方だけでは足りない。宮坂さんが別の紙を出した。
「道を外れたところも見ましょう」
「あそこは二度とやりたくないですね」
「でも下りた」
「他よりましだったからです」
「その判断は?」
俺は少し考えた。
「そこは、今でも間違ってなかったと思います」
宮坂さんは俺の説明をもう一度聞いてから頷いた。
「私も、聞いている範囲ではそう思います」
「珍しく肯定されましたね」
「結果と判断を分けているだけです」
「厳しいな」
「今日はそういう日です」
少し笑う。でも、その通りだった。最初に失敗したから、その後の判断まで全部失敗になるわけじゃない。無事に帰ったから、全部正解になるわけでもない。使えたものは残す。駄目だったところを変える。
*
紙が三枚になった頃、湯はすっかり冷めていた。敵と俺の動き、装備と負傷、退路、使った験とカゲの性質。どこで切り替え、どこで惜しんだかが、線と文字で残っている。宮坂さんが紙を並べた。
「第六は?」
「使ってません」
「使おうとは?」
「一瞬、考えました。でも、試したのは指と紙片だけです。あの二つの攻撃を受けられるかも、荷を背負って踏めるかも分からなかった」
「第五は下山で」
「少しだけ」
「分かったことは?」
「前と同じです。疲れが少し抜けやすい気がする。その程度」
「では、次の戦いには」
「最初から計算には入れません」
「第六も?」
「入れません」
宮坂さんが頷いた。新しいものはある。でも、まだ分かっていない。分かっていないものを、次の勝ち筋の柱にはしない。俺は紙の端へ書く。――側面側を見失ったら、第四は保持しない。その下。――正面側を先に崩すことへ固執しない。もう一行。――側面側を先に崩す。宮坂さんが最後の一行を見る。
「次の仮説ですね」
「はい」
「どうやって?」
「そこです」
俺は鉛筆を置いた。側面側は速い。死角へ回る。追いかけたら、たぶん追いつけない。追えば正面側へ背中を向けることにもなる。
「追うのは無理です」
「私もそう思います」
「じゃあ、向こうから来る時を使うしかない」
俺は紙の矢印を見る。正面側が来る。俺が避ける。避けた先へ、側面側が入る。それが何度も繰り返されている。
「向こうが、俺の逃げた先へ来るなら」
宮坂さんが顔を上げる。俺は小さい丸へ鉛筆の先を置いた。
「俺が、来てほしいところへ逃げればいい」
言ってから、自分でも少し考えた。まだ作戦と呼べるほど形になっていない。相手が毎回同じ動きをする保証もない。俺が選んだ場所へ、本当に入ってくるとも限らない。それでも。今まで、あの動きは避けるものだった。初めて、使えるかもしれない動きに見えた。
「地形が要りますね」
宮坂さんが言った。
「はい」
「沢渡さんが確実に足を置けるところ」
「荷を背負ったまま、向きを変えられるところ」
「側面側が、どこから入ってくるか見えるところ」
「それと」
俺は大きい丸を見る。
「正面側を、その間どうするか」
「そこを忘れると、今日と同じですね」
「ですね」
二人で紙を見る。
まだ勝ち方はできていない。
側面側を先に崩す。そのために、相手の動きを利用できるかもしれない。今決まったのは、そこまでだ。
「沢渡さん」
宮坂さんが静かに言った。
「もう一度、行くつもりなんですね」
止める言い方ではなかった。確認だった。俺は右肩を少し動かす。まだ痛む。
「行きます」
答えた。
「でも、すぐには行きません」
宮坂さんが少し笑った。
「それを聞こうと思ってました」
「まず身体を戻します」
「はい」
「背負子も直す」
「はい」
「それから、今日の場所をもう一回、紙の上で歩きます」
「何度でも」
俺は三枚の紙を見る。
今日は負けた。
その事実は変わらない。でも、山の中で正面を先に崩すことへ考えを寄せていた時と、今見えているものは少し違う。俺は小さい丸の横へ「1」と書いた。大きい丸の横には「2」。
順番を変える。
ただし、その数字どおりに山が動いてくれるとは思わない。次は、そうならなかった時まで含めて考える。宮坂さんが、紙の上の「1」を鉛筆の先で軽く叩いた。
「では、次はここからですね」
「はい」
俺も、その丸を見た。
次は、正面から始めない。
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