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第85話 帰る方へ

 大きな影が一歩近づき、もう一つが下山側へ滑った。俺は山刀(やまがたな)を握り直し、二つへ顔を向けたまま後ろへ一歩下がる。背中は下山側だ。二つを倒す必要はない。背後の道へ身体を運ぶ。


 痛むのは裂けた右腕の表面より、さっきの衝撃が抜けた肩の奥だった。それに加えて背中の具合が悪い。右肩側の留めが切れたせいで、背負子(しょいこ)の上部が身体から離れ、歩くたびに荷が後ろへ引く。下りでは厄介だ。


 それでも、右手は握れる。脚も動く。喉も潰れていない。退路も、まだ完全には消えていない。正面の大きな影が動いた。俺は山刀(やまがたな)を構えたまま、打ち返す代わりに声を出した。


「――隔て(へだて)!」


 白い防壁を、真正面ではなく少しずらして展開する。大きな影が壁へ激突した。衝撃が空気と足元を揺らす。俺自身は壁の真正面から外れ、直撃を受けない位置へ身体を滑らせながら、右後ろへ下がった。同時に視線を下山側へ走らせる。案の定、もう一つが動いている。俺の着地点を先に取るつもりだ。


「前。下」


 状況を口へ出し、自分の耳へ返す。正面と下側。俺だけが一歩ずつ下へ行けばいい。大きい方がまた間合いを詰める。その隙に、下側へ回った影もこちらへ入ってきた。俺は山刀(やまがたな)を振らず、三句を一息に詰めて吐き、声を張った。


「――不動(ふどう)!」


 下側へ回った影の動きが止まる。どれだけ保つかは考えない。今はその間に下がるだけだ。俺は背を向けずに三歩、さらに二歩下がった。上から大きい方が来る。《隔て(へだて)》を置き直し、衝突を一度切る。さらに下がる。一つを止め、一つとの間に壁を入れる。勝つには足りないが、帰るためならまだ使える。


 《不動(ふどう)》の拘束を抜けた方が再び動き始めた時には、さっきよりわずかに距離が開いていた。


「よし……」


 右腕は動く。荷は悪い。足はまだ使える。下る。さっき通ってきた曲がり角が見えた。あそこを抜ければ、破壊痕を見つけながら登ってきた道へ戻る。そう思ったところで、速い方が俺より先に動いた。真っ直ぐ追うのではなく、斜面を横切って曲がり角の先へ回ろうとする。


 俺がそこへ入る時、身体の横を晒す位置を取る。上からは大きい方も下りてくる。道そのものは塞がれていないが、そのまま曲がれば二つの間へ出る。


「……徹底してるな」


 息を吐き、足元と両脇を見た。道をそのまま下れば、先回りした方の間合いへ入る。右は岩に寄りすぎて逃げ場がない。残るのは左の斜面だった。


 だが、落ちたら終わりという崖ではない。木の根がある。途中に身体を止められそうな場所も見える。荷を背負ったまま好き好んで入る場所ではない。でも、道の上で二つに挟まれるよりは、自分で足を置く場所を選べる。


「左へ下りる」


 声に出した。上から大きい方が来る。俺は《隔て(へだて)》を背後へ置き、その間に斜面へ身体を向けた。山刀(やまがたな)を鞘へ戻す。両手が要る。右腕は痛いが使える。左足を土へ置くと、少し沈んで止まった。右足を根の横へ移し、後ろへ引く荷に合わせて腰を落とす。急げば、そのまま持っていかれる。頭上で大きな衝撃音がした。


 《隔て(へだて)》へ何かが当たった。振り返らない。足を見る。二歩。三歩。右手で根を掴む。肩の奥が痛む。


「っ……」


 指を離さない。もう一段。上から別の気配が回り込んでくる。どちらか確かめる余裕はない。


「――手力(たぢから)」


 声を通す。掴んだ根を引き、脚で身体を押し、背中の荷ごと次の安定した場所へ移す。その一続きの動作だけを強くした。身体を斜め下へ運び、足が締まった土を捉えたところで動作を終える。上を見る。二つの影は、まだ道側にいる。俺は通ってきた道から外れた。


「……やったな」


 自分で選んだ。だが、選ばされた。今いる場所がどこまで続くかは分からない。みさか屋で書いた撤退条件の一つ、退路が頭へ浮かぶ。元の道をそのまま使えなくなった。これでもう、上へ戻る理由は一つもない。大きい方は斜面の上で動きを止めたが、もう一つはこちらへ下りてくる。


「追ってくるか」


 俺はカゲをまとい、第一へ換える。身体の近くへ風をまとわせる。飛ぶためではない。崩れた荷の重心を抱えたまま、足を置き直す動きを助けるためだ。相手が下りてくる。俺も斜面を横へ進んだ。下山方向へ一直線ではないが、高度は上げない。


 水が流れそうな窪み、土の溜まり方、根の出方を見る。登りで渡った細い流れはもっと下にある。そこへ出られれば、元の道へ戻れる可能性があった。


「下。少し右」


 自分へ言い、枝を避けた。背負子(しょいこ)が引っかかりそうになって身体を捻ると、右肩に痛みが走る。背後で土が崩れた。振り返る。近い。第一を解いて第二へ換える。相手が入ってきた。俺は腕で真正面から受け止めず、前腕当てへ衝撃が触れたところで、身体の向きと足の接触を使って力を別方向へ逃がす。左足が土へ沈んだ。


 身体が一段下がる。その分、相手との位置もずれた。


「――鎖(くさり)!」


 声とともに鎖を出す。鉤を下側の太い木へ掛け、俺と木の距離を縮める。引かれることを見越して膝を曲げ、荷をできるだけ身体へ寄せた。数歩分の距離が一気に縮まり、木のそばへ出る。すぐに解いたが、遅れて右肩へ荷の重さが掛かった。


「ぐ……」


 痛い。それでも、下りた。上を見る。追ってきた影は、さっきより上にいる。大きい方はもう見えない。追ってこないのか。別のところから来るのか。分からない。だから、安心はしない。さらに下へ進んだ。


*


 元の道へ戻れたのは、しばらくしてからだった。最初に聞こえたのは、水の音だった。一瞬、足が止まりそうになる。見覚えがある。登りで渡った、あの細い流れだ。


「……戻った」


 声に出した。けれど、まだ帰ってはいない。流れを辿ると、朝、俺が自分へ「右」と言って渡った場所に出た。反対側に通ってきた道がある。周囲を確かめる。二つの影は今は見えないが、そこで消えたと決める理由もない。背負子(しょいこ)を一度下ろした。この重心のまま下り続ける方が危ない。切れた留めと、後ろへ垂れた上部を確かめる。中身そのものに大きな損傷はなさそうだった。


 上蓋を開ける。空けておいた場所は、まだある。そこから細引きを出した。みさか屋で二本目を荷から外した時、一本で足りると判断した。その一本を今使う。切れた部分と背負子(しょいこ)の枠をつなぐ。正規の留め方ではない。一度、荷を起こす。違う。右へ寄る。ほどく。もう一度。今度は高すぎる。またやり直す。


 焦らない。ここは、俺の仕事だ。


 壊れた荷を、今あるものだけで、背負って下りられる形へ戻す。三度目。細引きを斜めへ回す。枠へ通す。締める。余りをもう一度留める。背負う。立つ。元通りではない。でも、後ろへ引かれる量はかなり減った。


「……これで帰る」


 それ以上、完璧に直そうとはしなかった。ここは修理場じゃない。上蓋の内側に、撤退条件の紙が見えた。取り出す。時計はまだ帰着期限の前だが、予定より遅れている。身体は負傷、装備は応急修理。退路はいったん失って、今は戻った。声はまだ出る。最後の三行は、もう読むまでもなかった。


 紙を戻し、救急用具を取り出して右腕を簡単に処置した。片腕でも取り出せるよう位置を変え、みさか屋で確かめておいた通りだった。水を飲んで息を整える。関(せき)まではまだある。二つが追ってくる可能性も消えていない。


 俺はカゲを見る。白い狼がそこにいる。


「第五を使うぞ」


 返事はない。カゲをまとい、出羽の主(ぬし)素材から得た第五性質へ換えた。何かが劇的に変わったわけではない。右腕の傷は閉じず、肩の痛みも残る。切れた背負子(しょいこ)は、もちろん直らない。ただ、歩くうちに疲れが抜けるのが少しだけ早いような気がした。脚の重さも、休んだ時より戻りやすい。まだ、その程度だ。


「これで余裕ができたとは、数えない」


 自分へ言う。第五をまとっている間は、他の性質を同時に使えない。何かが出れば、切り替える必要がある。少し先で周囲を確認し、第五を解いた。傷も肩の痛みも残っている。治っていないものを、治ったことにはしない。


*


 そこからの下りは、登りよりずっと長く感じた。朝には何でもなかった段差で何度も足を止め、荷と肩、足元と背後を確かめる。小さな異形をやり過ごした場所も通ったが、今は何も見えない。見覚えのある岩や根、曲がりが、一つずつ朝の記憶とつながっていく。


 途中で一度、《甦り(よみがえり)》を使った。


 声を通す。験(げん)が身体へ返り、疲れが少し引いた。右腕の熱も遠のき、浅い傷が塞がっていく。布には血が残るが、新しく滲みはしない。肩を動かすと奥はまだ痛い。応急修理した背負子(しょいこ)も、そのままだ。


 もう一度使えば、もう少し楽になるかもしれない。それでも声を残す。この先で何かが出た時、帰るための分が要る。


 登りで、自分が独り言を言い始めた場所を通った。朝は「次の休憩まで、このまま」と言った。今は違う。


「関(せき)まで、帰る」


 声に出す。歩く。


*


 山の気配が薄くなってきた頃には、脚にもはっきり疲れが溜まっていた。第五を使い、《甦り(よみがえり)》も一度使った。それでも疲れる。片側へ普段と違う荷重が掛かり、右肩を庇っている。道を外れ、戦い、止まって荷と腕を手当てした。当然だった。


 時計を見る。帰着の期限はまだ越えていないが、余裕は大きく減った。みさか屋で宮坂(みやさか)さんと荷の空きを作った時のことを思い出す。空きは、予定外を入れる場所。今日は右腕の傷、肩、壊れた留め、道を外れた時間まで入った。それでも、帰る方へ収まっている。


 やがて木々の向こうに関(せき)が見えた。朝、宮坂(みやさか)さんと別れてから、ずっと戻る先として頭に置いていた場所だ。足が止まりかける。あと少し。だからこそ急がない。歩幅を変えず、最後まで足元を見て下った。


 関(せき)へ着き、手形(てがた)を返す。そして外へ出た。数歩進んだところで立ち止まり、背後を振り返る。山は何も言わず、二つの影も見えない。


 前を向くと、道の先、朝に分かれた線の向こうに宮坂(みやさか)さんがいた。手にしていた本を閉じる。まず俺の顔を見て、右腕、細引きで留め直した背負子(しょいこ)へ視線を移した。


 宮坂(みやさか)さんの表情が変わった。それでも俺の歩き方を確かめ、俺が線を越えたところで、走らずに距離を詰めてきた。


「お帰りなさい」


 朝と同じくらい、普通の声だった。俺は一度だけ、大きく息を吐いた。


「ただいま戻りました」


「声、掠れてます」


 言われて初めて、自分の声がざらついているのに気づいた。


「怪我は?」


「右腕の傷は《甦り(よみがえり)》で塞ぎました。肩は痛みますが、歩けます」


「荷は?」


「留めが一つ切れました。細引きで応急処置しました」


「頭は?」


「大丈夫です」


「……主(ぬし)は?」


 俺は少し迷った。


「分かりません」


「分からない?」


「二ついました」


 宮坂(みやさか)さんが黙る。窓口で一緒に聞いた二行を、思い出している顔だった。


「別々のものに見えます。でも、動きが噛み合いすぎてる。正面から追い出された先へ、もう一つが入ってきました」


 そこまで言ったところで、右肩へ背負子(しょいこ)の重さが食い込んだ。顔に出たらしい。宮坂(みやさか)さんが背負子(しょいこ)へ手を伸ばす。俺は素直に身体を向けた。


「……下ろすの、手伝ってください」


「はい」


 二人で背負子(しょいこ)を下ろした。山の外の地面へ。荷が背中から離れた途端、右肩の奥が遅れて痛んだ。俺は息を吐く。宮坂(みやさか)さんが、切れた留めと細引きの応急処置を見る。それから俺の右腕を見る。


「詳しい話は、ちゃんと手当てを受けてから聞きます」


「はい」


「何が起きたか、覚えてます?」


 俺は少し考えた。正面と横からの動き。第四を捨てるのを一瞬惜しみ、右後ろから打たれたこと。道を外れた位置、流れ、荷を直した場所。順に思い出せる。


「覚えてます」


「なら、今すぐ全部話さなくても大丈夫です」


 俺は頷いた。山上ヶ岳(さんじょうがたけ)へ入って、二つに挟まれた。いったん引こうとしたが、退路へ出るための力を惜しみ、横への切り替えを遅らせた。傷を負い、荷を壊した。そこで山行を切り上げると決め、戻る途中では予定していた道も外れた。主(ぬし)が何なのかすら分からないまま戻ってきた。


 失敗だった。


 その言葉でいい。引こうとしたからといって、全部うまくできたわけじゃない。退路へ出るための判断を、一度間違えた。それでも、その失敗を「まだ勝てる」に変えることはしなかった。傷を負ったあとも、道を外れたあとも、壊れた荷を直したあとも、選び直す先を関(せき)の方へ向け続けた。俺はもう一度、山を見た。


 次に入るなら、今日と同じでは駄目だ。


 敵のことだけじゃない。俺が、どこで何を惜しんだのか。どこで視線が足りなくなったのか。何を持って帰れたのか。そこから全部、やり直す。右肩がまた痛んだ。その痛みだけは、今すぐ忘れようがなかった。


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