第84話 横から来る
山側の岩に身体を寄せたまま、曲がり角の先へ左肩を出し、顔をわずかに覗かせた。背負子の外枠を岩肌へ擦りつけないぎりぎりの間合いを保ち、右足を後ろに残して半身になる。何かが起きても、前へ倒れ込まずにそのまま一歩で引き戻せる姿勢だ。
岩壁の回り込みを抜けた先に、少しばかり広がった空間があった。平場と呼べるほど平坦ではない。山側から落ちた土砂と小石が溜まり、道幅が一時的に膨らんでいるだけの場所だ。その先では再び道が細くなり、岩の間へ吸い込まれている。
その吹き溜まりの中央に、何かがいた。俺は足を止めた。正面。こちらへ向いたまま、動かない。
全身の細かな形まで見極められる距離ではないが、道中で見かけた小型の異形とは明らかに違っていた。低く構えた輪郭は横に広く、向こう側の道を大きく塞いでいる。
でかい、というのが最初の実感だった。
大きく平たいもの。窓口で聞いた記録の一行目が、頭をよぎった。なら、もう一行の方も近くにいるかもしれない。左右の木立と岩の上へ目を走らせたが、動くものは見えなかった。
続いて、相手の足元から手前へ続く地面を見る。先ほど登りの途中で見つけたものと同じような、鋭い削れ跡が点々と刻まれている。岩の剥離、抉られた土、裂けた木の表面。
俺は山刀の柄に指を添えたまま、時計へ視線を落とした。
往路の上限まで、まだ時間は残っている。身体の節々に痛みはない。荷のバランスも崩れていない。背後の退路は、今歩いてきた道がそのまま開いている。喉も潰れておらず、息も上がっていない。
撤退条件には、何一つ抵触していなかった。
だが、だからといって自分から間合いを詰める理由もない。
「……確認だけだ」
息を殺して呟くと、足元にいたカゲが一歩前へ出ようとした。
「待て」
低く制すと、白い狼は止まった。俺より前へは出さない。あいつに何かを見に行かせるわけにはいかない。俺の目で見る。
正面の大きな影をもう一度見据えた。細部はまだ判然としない。それでも、確実にこちらへ正面を向けている。
普通なら、ここで少し立ち位置を変える。正面だけを見続けても奥行きは分からない。左右へ二、三歩ずれれば、側面が見えるかもしれない。
そう判断し、俺は右足へ静かに体重を預けた。
その瞬間、正面の塊が動いた。
最初から速かった。地面を蹴ったというより、重量そのものが前へ押し出されてくる。大きな影が、一息で視界を埋めた。
考えるより先に、身体が左へ跳んでいた。正面で受け止めれば危ない。右は岩壁が近い。木立は気にしていたが、退避できる空間は左側しかなかった。
――そこへ、横から何かが突っ込んできた。
視界の端。逃げ込んだ先の木立の間から、別の影が猛烈な勢いで間合いを詰めてくる。
「っ!」
身体を立て直す猶予はなかった。反射的に左腕を跳ね上げる。前腕当てに鈍い打撃が叩き込まれた。横からねじ込まれた衝撃で左肩が内側へ巻き込まれ、背中の荷が遅れて振られる。踏ん張ろうとした左足が滑った。
俺は倒れきる前に腰を落とし、息を吐く。
「――隔て!」
叫びと同時に、左斜め前の空間へ白い防壁を展開する。
二度目の追撃が、展開したばかりの壁に激突した。衝撃が空気を震わせたが、俺の身体までは届かない。その隙に右足を引きつけ、身体の重心を登ってきた道側へ戻した。
防壁の向こうへ目をやる。正面から来た大きい方は、少し先でこちらへ向き直っていた。勢いのまま通り過ぎてはいない。幅広い背は平たく、両端が角ばって下へ落ちている。そして、左から来たもう一つ。そいつは正面側より輪郭が細く、背が弓なりに盛り上がっていた。明らかに動きが速い。
「……記録の、二つか」
声に出したが、当然、誰も返事はしてくれない。その呟きが終わる前に、正面の大きい方が再び前へ出た。そこでようやく、敵の動きが少し見えた。こいつは、正面からぶつかって仕留めるだけじゃない。
正面から強く迫り、俺の逃げる方向を限定している。真正面で受ければ危ない。だから避ける。だが、右が岩壁で狭ければ、逃げられる側は限られる。そこへ、もう一つが入る。
俺は背負子の揺れを抑えながら、背後へ二歩下がった。正面側から距離を取りつつ、もう一つを視界から切らない位置を探す。
ない。
右は岩。左は斜面と木立。道は狭い。二つを同時に真正面へ置けるだけの幅がない。
「……厄介だな」
宮坂さんがいれば、と嫌でも頭をよぎった。俺が正面を見ている間、宮坂さんが横を見る。それだけでも、今よりずっと情報が増える。
けれど、今それを考えても何も変わらない。
ここにいるのは俺一人だ。
「前。左」
自分に言い聞かせ、正面を見る。すぐに左へ目を走らせる。戻して正面。また左。視線を動かした一瞬で、左の影が木立の奥へ消えた。
「どこへ――」
言いかけた瞬間、正面が来た。俺は反射で右へ逃げようとして、踏みとどまる。さっきは左へ逃げて横から来た。なら今度も、俺の避ける方向へ合わせてくる可能性がある。
俺は右足を岩壁の根元へ置き、身体を完全には逃がさなかった。正面の軌道から外れながら、右側から来るものを待つ。大きい方の向こう、道の先で小石が一つ鳴った。木立から前を横切って、右の岩の上へ回り込んでいるはずだ。
――来た。
岩際から、速い影が入ってくる。やっぱりだ。正面側が俺の逃げる方角を決め、その先へもう一つが合わせている。偶然とは思いにくい。俺はカゲをまとい、第二へ換えた。
横から来た衝撃が右の前腕当てへ触れた瞬間、そこで受け止めきろうとせず、姿勢と接触を使って右足側へ流す。靴底が地面を噛んだ。膝が沈む。全部が消えるわけじゃない。
それでも、一撃目ほど身体は崩れなかった。
俺はその瞬間に山刀を抜いた。離れようとする影へ一度だけ振る。深く追わない。距離を作るための一撃だ。刃が弓なりの背の脇へ当たり、硬い手応えと重い震えが返ってきた。わずかに刃先が食い込み、相手が引く。
その隙に、俺は後ろへ下がった。一歩、二歩、三歩。ここで終わりでいい。今日の目的は「見るだけ」だった。主かどうかはまだ分からない。二ついる。連携する。それだけ持って帰れば十分だ。上蓋の内側へ入れた紙の文言を思い出す。
――主を見つけても、条件は変えない。
そもそも主かどうかすら分からないなら、なおさらだ。
「戻るぞ」
カゲへ低く言い、身体を下山側へ半身に開いた。
だが、その瞬間だった。
離れた方の影が、俺をそのまま追わず、斜面を横切って下側へ回り込んだ。速い。退路そのものを完全に塞ぐ位置ではない。俺が下りへ踏み出した時、横へ意識を割かせる位置へ先に入った。正面の大きい方は、追いすぎない。
少し高い場所に残り、俺が下へ動けばその背後から圧力を掛けられる距離を保っている。
「……そう来るか」
下ろうとすれば、横から来る。横を見れば、上から正面が詰める。退路は物理的には消えていない。
だが、背を向けてそのまま走れる道ではなくなった。
俺は山刀を構え直し、荒くなりかけた息を腹へ落とした。焦る必要はない。足場を見る。左は崩れやすい土。右は岩。少し下がれば、今より道幅が取れる。
俺が下がった分だけ、横の影も間合いを詰める。正面側も一歩出た。
少なくとも、二つが勝手に別々の判断で動いているようには見えない。こちらの位置へ合わせ、互いの距離を崩さず補っている。これが一つの主なのか。二つの異形が異常なほど連携しているだけなのか。まだ分からない。
正面側が、また前へ出る構えを見せた。今度は俺から動いた。真正面を避け、あえて左側へ身体を寄せる。予想通り、潜んでいた影が左から入ってきた。
――そこで切り返す。
カゲを第一へ換えた。身体の周囲に風をまとわせ、荷を背負ったまま向きを変える足運びを補う。左へ逃げると思って入ってきた影が、半歩だけ前へ出すぎた。そこへ山刀を入れる。今度はさっきより深く当たった。硬い手応え。
それでも表面がわずかに裂け、相手の姿勢が崩れる。刃は通る。まったく効かない相手ではない。影が離れた。
「よし――」
呟いた瞬間、正面側がもう来ていた。遅れた。横へ刃を入れた分だけ、正面を見るのが遅い。
「《隔て》!」
白い防壁を正面へ展開する。激突。大きな衝撃が壁へ入る。足元まで振動が来た。防壁は受けた。その一瞬で十分だった。俺は後ろへ距離を取る。声はまだ出る。喉も潰れていない。
だが、このままでは同じことを繰り返す。
横を捌けば正面が来る。正面を防げば横が回る。一人で処理している限り、視線と身体の向きを切り替える時間を狙われ続ける。
――正面を一度崩す。
大きい方が俺を動かすから、横が合わせやすい。なら、正面の体勢を一度崩す。倒す必要はない。退路へ出る時間だけ作ればいい。
第四性質。白山で、左拳へ使って主の支持を崩した時の力。
時間をかけて力を蓄え、対応する次の一回の動作へ放つ。俺は間合いを測った。正面側は少し先。横の影は、さっきの山刀を受けてまだ位置を戻しきっていない。今なら、少しだけ時間がある。
カゲの性質を第四へ換える。次の一回。
正面の体勢を崩すための動作へ回すつもりで、力を蓄える。正面側がこちらを向く。呼吸。一つ。二つ。
その時、視界の左端から、もう一つの影が消えた。
俺は首を振る。左。いない。右。
――遅い。
背負子の右後ろで、枝の折れる音がした。反射で身体を捻る。第四を保持したまま。そこで、一瞬だけ迷った。第二へ換えれば、今蓄えている分は消える。ここで捨てたくない。正面を崩すために、せっかく溜めた。
ほんの一瞬。それで足りた。
右斜め後ろから衝撃が来た。
「ぐっ……!」
咄嗟に右腕を上げる。前腕当てで受けた。
だが、まとっているのは第四だ。
第二ではない。外力を流せない。衝撃がそのまま右肩まで抜ける。身体が左へ飛ぶ。背負子の右側が岩へ激突した。何かが弾ける音がした。足が浮き、次の瞬間には膝が地面へ着いていた。落としかけた山刀を握り直す。右腕が熱い。見る。
前腕当ては残っている。その近くで袖が裂け、血が滲んでいた。深くはない。指も動く。腕も上がる。
だが、痛い。
それ以上に、背中の感触がおかしかった。右肩側。背負子の上部を身体へ寄せていた留めの一つが切れている。荷全体が少し後ろへ垂れた。落ちるほどではない。背負える。歩ける。
だが、さっきまでと同じ重心ではない。
「……くそ」
俺は立つ。第四はまだ保持している。
けれど、今ここで正面へ一撃を入れるために抱え続ける理由はもうない。
俺は自分で第四を解いた。溜めていた分が消える。惜しんだせいで被弾した。最後まで惜しんでも、意味はない。
正面側がまた動いた。俺は拳を使わなかった。山刀も振らない。第六の面が一瞬頭をかすめたが、指と紙片しか試していない。受けられるかも分からないものに、今の身体は預けられない。
「――隔て!」
防壁を正面へ、少し角度をつけて置く。真正面から受け止めるのではなく、突っ込んでくる相手と正対しない位置を作る。衝撃。大きな影が防壁へ当たり、その進路がわずかにずれる。俺は反対へ逃げた。すぐに横を見る。いた。
もう一つは、また俺が下ろうとする側へ位置を取っている。
「……分かった」
息を吐いた。正面へ攻撃している間、横が見えない。横を見ている間、正面が来る。正面を崩すために第四へ換え、力を溜めれば、その間に横への処理が遅れる。二ついることだけが問題なんじゃない。
片方が俺の向く方向を決め、もう片方が、その向きの外から来る。俺の視線は一つしかない。身体も一つしかない。宮坂さんがいれば、と思いかけて打ち消した。いないものを数えても仕方がない。
今使えるものを順に確かめる。右腕は動き、出血は浅い。山刀は握れている。声も出る。荷は背負えるが、重心は後ろへずれた。退路はまだある。ただし、身体と装備には予定外の損傷が起きた。
もう「見るだけ」の範囲ではない。十分に見た。
左手を伸ばし、傾いた背負子の上蓋へ触れる。戦闘の最中に紙を取り出して読む余裕はない。それでも、そこに何を書いたかは分かっている。
背負子の留めが一つ切れ、右腕から血が出ている。退路はまだ使える。
――主を見つけても、条件は変えない。
こいつらが山上ヶ岳の主なのか、ただの強力な異形なのか。まだ俺には分からない。でも、どちらでも条件は変わらない。
「……帰るぞ」
声に出した。正面の大きな影が向き直る。横の影も、低く位置を変える。俺は山刀を握り直した。倒すためじゃない。塞がれかけた退路を開けるために。
ここから先、俺が目指すものは山頂でも、こいつらの正体でもない。
関まで続いている、帰り道だけだった。
面白かったら、ページ下の☆から評価をいただけると励みになります。




