第83話 境の先
山上ヶ岳の麓に着いたのは、入山候補日の前日だった。宮坂さんと最後の確認を済ませ、一晩休んだ。
朝、背負子を持ち上げる前に上蓋を開け、右手を差し入れた。指先から手のひら、手首まで、何にも触れずにするりと入る。みさか屋で残した空きが、そのまま残っていた。
「大丈夫ですか?」
後ろから宮坂さんの声がした。
「はい。空いてます」
「何が?」
「荷です」
振り返ると、宮坂さんも出かける支度を済ませていた。今日は俺と一緒に山へ入るわけではない。それでも、手には地図と、昨日までにまとめた紙がある。
「昨日と同じ荷ですね」
「はい。配置も変えてません」
上蓋の内側には、自分で書いた撤退条件の紙がある。救急、雨具、水、灯りの位置を指で確かめて閉じた。山刀を腰に帯び、前腕当てを締め、靴紐を引く。
最後に自分の身体を確かめる。右肩、左肩、腰、膝、足首、喉。仕事の疲れも残っていない。宮坂さんが俺を見ていた。
「今日、やめる理由はあります?」
「今のところ、一つもないです」
「私から見ても、問題なさそうです」
「じゃあ」
「行きましょう」
普通の言い方だった。そのくらいでいい。
*
山上ヶ岳へ向かう途中、宮坂さんが昨日までにまとめた紙を開いた。前日の確認から、道について新しい知らせはない。帰着の予定も変えず、その時刻を二人で確かめる。
「関でも、変わっていないか見てきます」
「ええ。ここまで来たからと、入るのを急がないでください」
「はい」
紙を畳み、錫杖を持ち直したあとも、しばらく並んで歩いた。いつもなら、そのまま同じ道を上がっていく。今日も宮坂さんの歩く速さは変わらず、足元の石を避ける時だけ少し間が開いた。
「帰ったら、この先の話を聞かせてください」
彼女が言った。
「道のことですか」
「それも。地図で一緒に見ているだけでは、分からないので」
「覚えて帰ります」
何が見つかるかは分からない。主へ会えるとも、人が通ってきた跡を見分けられるとも言えなかった。それでも、歩いたところの話ならできる。俺は背中の荷を揺らさないように、彼女の隣へ戻った。
道の先が変わってきた。関へ向かう手前。宮坂さんが先へ進めるのは、そこまでだった。山上ヶ岳の女人結界。地図でも確認し、準備中に二人で何度も話した。現地へ来て急に分かったことではない。
それでも、実際に立ってみると少し違う。俺の前には土も木もある道が続き、その先へ普通に歩いていける。けれど、宮坂さんは来ない。来られない。
「ここですね」
宮坂さんが言った。
「はい」
宮坂さんの声に棘はなかった。この決まりを好きだという意味ではない。ただ、今日はここで分かれる。その事実を扱っているだけだ。
握り直した錫杖の輪が、一度だけ鳴った。宮坂さんは空いた手でそれを押さえ、音を止めた。俺は背負子の肩紐を一度引いた。
「じゃあ、行ってきます」
口にしてから、少し笑った。
「みさか屋を出る時と同じですね」
「他に何か言います?」
「いえ。これでいいです」
「では」
宮坂さんも少し笑う。
「沢渡さん」
「はい」
「いってらっしゃい」
裏大山へ出た朝と同じ声だった。だから俺も同じように返した。
「行ってきます」
カゲが俺の脇を抜ける。白い尾が一度揺れた。俺も前へ進んだ。
*
一人で関へ入る。台帳に単独の届けを書き、折り返しの上限と帰着期限を確かめた。供物を納めて手形を受け取り、紙の感触を指先で確かめてからしまう。
それから山へ踏み込んだ。十歩ほど進んで振り返ると、宮坂さんの姿はもう見えなかった。当然だ。
前を向き、時計と荷と足場を確かめながら進む。水を飲むのも、裏大山での低所試行と変わらない。カゲは少し前を歩き、俺が止まれば止まり、歩けば進んだ。
違うのは山だった。裏大山での試行より足元に変化が多い。岩や根、斜めになった土、踏み跡、締まった土に浮いた石。一つずつ見て進む。まだ入ったばかりで、急ぐ必要はない。それなのに、岩を跨ぐところで口を開きかけた。
「宮坂さん、ここ――」
声になる前に止めた。相手はいない。一度目は自分でも少し笑ったが、二度目は笑わなかった。三度目には、最初から口へ出さなかった。
歩けないわけでも、判断ができないわけでもない。足場を見て進むことなら、仕事で何度もやってきた。右が悪ければ左を見る。荷が枝へ当たりそうなら身体の角度を変え、丸い岩では重心を下げる。そこは一人でも変わらない。
違うのは、決めたあとの音だった。
「右から行きます」
と言っても、「はい」が返ってこない。
「あそこで一回止まります」
と言っても、足並みを合わせる音がない。判断が間違っているわけじゃない。正しいとも言われないし、疑われもしない。俺の中だけで決まり、そのまま終わる。その感じに慣れるまで、思っていたより歩数が要った。
傾斜が少し緩んだところで止まり、水を飲んで時計を見る。予定の範囲内で、呼吸も問題ない。
「よし」
声に出した。カゲが耳だけ動かす。
「お前に言ったんじゃない」
また耳が動いた。
「……独り言くらい言わせろ」
もちろん返事はない。でも、声に出した方がいいと思った。験のためだけじゃない。自分が何を決めたのかを、自分の耳へ返すためだ。
「次の休憩まで、このまま」
口にして歩く。少し先で、また声を出した。
「足場、右」
右へ寄り、背中の揺れを確かめた。
「荷、問題なし」
誰も返事をしないが、頭の中だけで考えるより整理しやすかった。
道の途中に細い流れがあった。深くはない。水を取るためではなく、渡る場所を見るために止まる。石が並び、中央には近道になるが丸い石が一つある。右側は少し遠回りでも、足を置きやすそうだった。
「右」
自分へ言い、一歩、二歩と渡る。カゲは少し離れたところを軽く越えた。
「そっちは参考にならないんだよ」
白い狼がこちらを見る。
「足が四本あるだろ」
返事はない。俺は少し笑った。
そのあと、小さな異形を一度見た。道の外から姿を出し、こちらを見て止まる。俺も足を止め、山刀へ手を置いた。距離はある。刃は抜かない。向こうもすぐには来ず、道はそいつの正面を通らなくても進める。しばらく互いに動かなかった。
やがて異形の方が藪の向こうへ消えた。俺は手を離す。
「行くぞ」
カゲと進む。戦わなくて済むなら、それでいい。一人で歩く日に、必要のないものまで背負う理由はない。
昼を過ぎた頃、長めに休んだ。荷を下ろして肩を回し、膝と足首も確かめる。左右とも問題ない。食べて水を飲み、時計と地図を見る。声も短く出してみた。掠れておらず、息も続く。
上蓋を開けると、四つ折りの紙が見えた。取り出して広げる。
――時間。
――身体。
――装備。
――退路。
――声。
――判断。
その下。
――《甦り》や第五が効いても、前進を続ける理由にしない。
――主を見つけても、条件は変えない。
――「勝てそう」は、撤退をやめる理由にしない。
まだ主らしいものすら見ていない。それでも、最初から最後まで読んだ。
「まだ早いか」
口へ出た。でも、読むために入れたのだ。追い詰められてから初めて読むより、たぶんその方がいい。紙を戻し、その下の空きへ手を入れてみる。まだ空いている。濡れたものも、壊れたものも、拾ったものもないから当然だ。このまま何も入らずに帰れるなら、それが一番いい。
上蓋を閉じて荷を背負った。午後へ入ると、道の表情が少し変わる。岩が増え、左右から張り出しているところもある。大きく崩れてはいない。通れる場所を選び、足元へ一つずつ靴を置いていく。
岩の段を一つ越えたところで、古い鉄の輪が打ち込まれているのを見つけた。指が二本入るほどの輪で、赤く錆びている。そこから先へ鎖が続いていたのかもしれないが、今は輪だけが残り、根元に錆の粉が落ちていた。
思わず手を伸ばしかけて、止めた。いつ、誰が打ったものか分からない。この山が開く前からここにあったのか、開いたあとに誰かが打ったのか。どちらにしても、これに一人分の体重を預ける理由はない。俺は輪を避け、隣の岩の割れ目へ指を掛けた。
少し上には、平たい石を腰の高さまで積んだものがあった。崩れかけているが、誰かが一つずつ選んで重ねたのは分かる。その先の張り出した岩は、そこだけ表面が丸く擦れていた。何人もの足が、同じ場所に立った跡のように見えた。
「……人の手だな」
戸隠の旧道なら、道の向きで人の通った跡だと読めた。ここでは、まだ読めない。俺は鉄の輪と石積みの位置を野帳へ書き留めた。帰ったら、宮坂さんに見せる約束だ。
さらに進んだところで、岩の表面に傷を見つけた。最初は気にしなかった。山なら傷はいくらでもある。人も通るし、異形もいる。石も動く。けれど、少し先でもう一つ、その次にも見つかり、俺は足を止めた。
「……ん?」
道の右側の岩が、低い位置で欠けている。古い割れとは色が少し違った。その先では、左側の木の幹にも傷がある。右の岩、左の木、その間の道。何か一つがここを通ったとしても説明できるかもしれない。落石か、異形か、誰かが戦った跡か。俺にはまだ分からない。
もう少し見ると、左の木の近くにも低いところで折れた跡があった。さっきの傷とは、力の向きが同じには見えない。二歩戻り、最初の岩から木、低い枝、地面まで順に見直した。
「……一回の動きじゃないのか」
口へ出して、すぐに止めた。それも分からない。時間が違うだけかもしれないし、複数の異形がいたのかもしれない。
窓口で聞いた二行が浮かんだ。大きく平たいもの。細く速いもの。別の日の、別の人の記録だ。同じものを見たのかどうかも確かめられていない。
誰かと何かが戦った跡か、落ちてきた石が何度か跳ねたのか。結論を出す材料が足りない。なら、出さない。
ただ、道の真ん中に立ったまま考えるのはやめた。山側へ寄り、前後と左右、頭上を見る。カゲは近くで耳を立てている。それだけだ。あいつが何も教えてくれるわけではない。自分で見る。
時計を確かめると、まだ時間はある。身体にも荷にも異常はなく、今来た道は使える。声は出るし、焦ってもいない。
進める。そう判断した。
「行くぞ」
自分とカゲへ言って歩き出す。さっきまでより見るところを増やした。足元だけでなく、道の左右、頭上、後ろも見る。その分、歩みは遅くなる。それでいい。時間には余白を残してある。早く進むための余白じゃない。
宮坂さんがいれば、俺が岩を見ている間に別のところを見ただろう。俺が右を見ている時に、左へ視線をやったかもしれない。今日は、その分まで自分で見る。
少し先で道が緩く曲がっていた。曲がり角の先は岩に遮られて見えない。その手前で、また足が止まった。
右側の岩に新しい傷がある。反対側の木にも、ほとんど同じ高さに傷があった。二つの間へ入る前に止まり、右と左を見比べる。さっきまで見てきたものより、位置が揃っている。けれど、それだけだ。同時についたのか、同じものがつけたのか。それすら分からない。
俺は時計を見る。
まだ行ける。
裏大山で自分で引き返した時にも出てきた言葉だ。でも今日は、そこにもう一つある。
分からないものが、前にある。
背負子の上蓋へ手を触れた。中にはまだ空きがあり、その内側には自分で書いた紙が入っている。今は取り出さない。身体にも、時間にも、装備にも、退路にも問題はない。声も出るし、判断を急がせるものもない。
ただ、次の一歩は、さっきまでと同じ一歩ではない。
山刀の柄へ手を添えるが、抜かない。曲がり角の向こうへ目を向け、一度大きく息を吐いた。
「見るだけだ」
誰かへ聞かせるためではない。この先で何をするつもりなのか、自分の耳へ返すために言った。それから道の真ん中を避けて山側の岩へ寄り、曲がり角の先を覗けるところまで一歩だけ進んだ。
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