第82話 空きを残す
資源庁の窓口で受け取った資料は、思っていたより薄かった。
「……これだけですか」
「現時点でお渡しできる情報は、以上です」
担当者がカウンターの上で紙を揃える。入山についての注意事項。山上ヶ岳方面から帰還した者の記録から、現在の計画に関係する部分だけを抜き出したもの。
予定している側から入ることについて、今のところ道そのものを使えないという報告はない。ただ、それは安全だという意味ではない。裏山の記録は、誰かがそこを通り、帰ってきた時点のものだ。
次に俺が通る時まで、同じ状態で待っているとは限らない。
「主については?」
俺が聞いた。担当者は資料へ目を落とした。
「確定情報として渡せるものはありません」
「見たという記録は?」
「断片的なものはいくつかあります。大きく平たいものを見たという記録と、細く速いものに横から当たられたという記録です。ただ、別の日の、別の人の記録で、同じものを見たのかどうかまで確認できていません」
「分かりました」
それ以上は聞かなかった。分からないものを、無理に分かったことへ変えても仕方がない。一昨日、俺たちが第五と第六について書いた記録と同じだ。確認できたところまで。その先は空欄。隣にいた宮坂さんが、手元の紙を見ながら聞いた。
「沢渡さんが一人で入ることについて、今の時点で別に確認しておくことはありますか」
担当者から返ってきた内容も、特別なものではなかった。関で入山の予定と帰着期限を届ける。状況が変わったなら、山へ入る前に変更する。山の中へ入ってしまえば、外といつでも相談できるわけではない。
結局、そこから先で判断するのは俺だ。資料を受け取る。
「ありがとうございます」
庁舎を出た。外の空気へ出ると、宮坂さんが紙の入った封筒を見た。
「思っていたより、ありませんでしたね」
「ですね」
「不安ですか?」
「むしろ、普通だと思います」
「普通?」
「山の中のことが全部紙に書いてあったら、そっちの方が気持ち悪いですよ」
宮坂さんが少し笑った。
「それもそうですね」
俺は封筒を鞄へ入れる。
「分かってることだけで組みましょう」
「ええ」
「分からないところは、分からないままで」
「その分だけ、余裕を作る」
「はい」
昨日、尾根の途中で五分を残した感覚が、今度は荷の方へつながり始めていた。
*
みさか屋へ戻ると、俺たちは道具を全部広げた。昨日の試行で背負ったものと、大きくは変わらない。違うのは、並べる意味だった。昨日は、一人で持って歩けるかを見る荷だった。今日は、山上ヶ岳へ実際に持っていく荷の候補だ。
昨日の荷に、細引きを二束と、あれば便利だと思っている小物をいくつか足した。
宮坂さんが装備の紙を広げる間に、俺は一度、全部を詰めてみた。重いものは身体側。濡らしたくないものはまとめる。すぐに出したいものは上と外。最後まで入るが、上を閉じると隙間がほとんどなくなった。
「このままでは、帰りに詰め直しづらいですね」
雨具を抜き出して広げ、雨の中で手早くしまうつもりで、端を揃えず丸め直す。それを戻すと、さっきは収まっていた小物が口のところへ押し出された。手で押さえれば閉じられる。山の中で、その手間を増やしたくはなかった。
「濡れたものも、途中で外したものも、そのまま入る分を空けます。壊れた道具を持ち帰ることもあるので」
「直す方の沢渡さんは、今と同じように動けますか」
宮坂さんが聞いた。俺は押さえていた手を離す。丸めた雨具が少し浮いた。
「……両手で押し込むつもりでした」
「一人ですからね。荷を押さえている間に、誰かが紐を締めてはくれません」
「昨日、救急の位置を変えたばかりなのに」
荷が壊れることは数えていた。その荷を直す俺も、いつものように動けるとは限らない。雨具を取り出し、背負子の横へ置いた。
「道具の分だけじゃ足りませんね。片手でまとめ直せるところまで、空けておきます」
もう一度、荷を広げた。雨具、防寒、救急、灯りと予備、水、食料。最低限、戻るために必要なものは残す。俺は二束ある細引きを手元へ寄せ、片方をほどいて枠へ回した。途中で固定をやり直す分は、この一本で足りる。
「二本目は置いていきます」
一本を巻き直して荷へ収め、予備の方は持っていかない道具の脇へよけた。便利だからと足した小物も選び直す。使わなければ戻れないものか、手数が少し減るだけのものか。後者を一つ、もう一つと外すたびに、床の上に小さな山ができていった。
大した重さではない。一つ一つは軽い。それでも、選び直して詰めると、上の方へ手が入るだけの空間が残った。外側の締めにも余裕がある。俺は片手で雨具を戻し、上蓋を閉じた。今度は押し込まずに済む。
「空いてると、忘れ物したみたいな感じがするんですよね」
言うと、宮坂さんが装備一覧と、床へよけた小物を見比べた。
「何か、忘れました?」
「いえ。忘れたんじゃなくて、置いていくんですけど」
「なら、こちらへ戻しておきますね」
彼女が小物を棚へ寄せた。歩荷の仕事なら、まだ積めるところへ次の荷を合わせる。今日は、上蓋の下に俺の手が通る。
「予定外を入れる場所ですからね、ここは」
口へ出し、空いたところへ物を足す代わりに、締めを引いた。
次は配置だった。昨日、上へ移した救急用具を、片腕でも取れるか確かめる。片腕が使えないつもりで、手を入れる。右だけ。取れる。左だけ。少し引っかかる。向きを変える。もう一度。今度は取れた。
「これなら」
「いいと思います」
荷締めも変える。昨日緩んだ場所は、最初からずれにくい留め方にしておく。一度背負う。歩く。下ろす。また開ける。床の上なら、何度でもやり直せる。山へ入ってからでは、間違い一つ直すのにも時間と体力を使う。
荷締めを終えると、俺は地図の脇にあった紙を引き寄せた。二人で撤退条件を決めた時の紙だ。
「これ、持っていきます」
「地図と一緒に?」
「別にします。すぐ読めるように」
小さな紙へ、時間、身体、装備、退路、声、判断と書き、それぞれの横へ決めた条件を短く添えた。みさか屋にいる俺と、山の中で主を見ている俺。同じことを考えるとは限らない。最後に三行足す。
――《甦り》や第五が効いても、前進を続ける理由にしない。
――主を見つけても、条件は変えない。
――「勝てそう」は、撤退をやめる理由にしない。
宮坂さんへ渡すと、彼女は一行ずつ読み、書き漏らしがないか確かめて返してくれた。
紙を四つに折った。
「どこへ入れます?」
胸元へ入れかけて、止めた。
「荷の方」
「どうして?」
「ここだと、出さない気がするので」
宮坂さんが吹き出した。
「自分のことが分かってきましたね」
「嫌な分かり方ですけど」
上蓋の内側。水や救急用具を確認する時に、目へ入るところ。そこへ入れた。
夕方が近づく頃、地図を広げた。資源庁から受け取った情報を横へ置く。分かっていること。分からないこと。俺の荷。一人で歩いた時の時間。仕事の予定。宮坂さんの予定。入山前に必要な確認。一つずつ重ねていく。急ぐ必要はない。
かといって、準備だけを延々と続ける理由もない。二人で日程を見ていく。やがて、同じところで指が止まった。
「ここなら」
俺が言う。
「私も、その朝は一緒に動けます」
「前の日にもう一度確認」
「はい」
「状況が変わってたら延期」
「はい」
「俺の身体がおかしくても延期」
「そこは絶対です」
「分かってます」
宮坂さんが日付の横へ、小さく印をつけた。そこを入山の候補日にする。入山候補日。それだけで十分だった。その日になったから必ず行くわけではない。前日までに条件が変わればやめる。当日の朝でも、違うと思えばやめる。
それでも、地図の上だけにあった山行に、初めて現実の予定ができた。
「朝は、どこまで来ます?」
俺が聞く。
「行けるところまでです」
「そこから先は」
「沢渡さん一人」
俺は頷いた。前日と当日の朝にも、帰る予定の時刻を確かめる。その先で時刻を見るのは俺になる。
「俺が戻るまでは、ずっと待ってなくていいですよ」
「ずっと座って待つつもりはありません」
「本当に?」
「本もありますし、やることもあります」
「ならいいです」
「でも」
宮坂さんが俺を見る。
「帰ると言った時刻は気にします」
「それは、まあ」
「なので守ってください」
「はい」
「私のためだけではなく」
「俺が戻るために」
「そうです」
少し笑った。
道具を片付ける。外したものを戻す。持っていくものは背負子の周りへ残す。最後に、上蓋をもう一度開いた。中へ手を入れる。空きがある。荷が暴れるほどではない。
けれど、何か一つ増えても押し込める。
濡れた雨具をきれいに畳めなくても入る。途中で順番が崩れても、なんとかなる。
「ちゃんと空いてます?」
後ろから宮坂さんが言った。
「はい。今度は、手で押さえなくても閉じられます」
「では、私の手は空きましたね」
振り返ると、彼女は道具をよけた卓へ湯呑みを二つ置くところだった。俺も上蓋を閉じ、背負子を壁際へ寄せる。何も起きなければ、空いたまま持ち帰ればいい。湯呑みを受け取り、肩を回した。
荷の内側には、自分で書いた紙がある。次に開けた時も、水や救急用具へ手を伸ばす前に目へ入る。そこへ置いたまま、今日はもう取り出さなかった。宮坂さんが店の灯りを点けると、窓の外はもう夕方の色だった。
山上ヶ岳へ向かう日が、一つ決まった。その日までにやることはまだある。
けれど、荷には空きがある。
時間にも余白を残す。あとは、その二つを自分から埋めないまま、山へ持っていく。
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