第81話 まだ行ける
土間の上がり框で、背負子を一度下ろした。
「何か忘れました?」
宮坂さんが顔を向ける。
「いえ」
俺は背負子の枠をつかみ、荷を少し持ち上げた。腕に重さを掛けてから、静かに床へ戻す。
「もう一回、重さを覚えておこうと思って」
「背負えば分かるのでは?」
「背負うと、腰と肩へうまく逃がせるんですよ。持ち上げた時の方が、荷そのものの重さは分かりやすい」
「なるほど」
宮坂さんは背負子の横へしゃがんだ。
みさか屋の朝。
数日前、アパートを引き払って、みさか屋の離れへ寝起きを移した。起きてすぐ荷を広げられるのは、そのおかげだった。
昨夜、試す場所は裏大山の低い道に決めた。年中雨の峰だ。山上ヶ岳の条件を代わりに知ることはできないが、濡れた荷を一人で扱う練習にはなる。
卓の上には、昨夜二人で確認した装備の一覧が広げてある。二人なら分けて持つものも、今日は全部、自分の背中に載る。
普段の歩荷仕事で担ぐ荷より重いわけではない。むしろ、もっと重いものを運ぶことは珍しくない。けれど今日の中身は、客から預かった荷ではない。自分が無事に戻るためのものが全部入っている。
俺は予備の灯りを上へ入れ、本体とは別になっていることを見せた。救急用具は背中側、雨具は外側。水は左右と中へ分けてある。腰の山刀へ手を置くと、宮坂さんが頷いた。
「カゲは、そのままですか」
土間の端で伏せていた白い狼が頭を上げた。俺も見る。
「はい。今日は、まとわずに歩いてきます」
第五と第六を計算に入れないのは、昨夜決めた通りだ。他の性質も、最初から使うつもりはない。無事に帰るために必要になれば使うが、今日確かめたいのは、自分だけで時間を見て向きを変えられるかだった。
宮坂さんは立ち上がった。今日は同行しない。入れない山ではない。丈の問題でもない。一人でやるために、一人で行く。
「折り返しは?」
「十二時半を上限にします」
「場所に関係なく?」
「はい」
「十二時二十九分に、その先がすごく歩きやすそうでも?」
「戻ります」
「いい景色がありそうでも?」
「戻ります」
「主らしい気配がしても?」
「今日は探しません」
宮坂さんが少し笑った。
「帰着は?」
「決めた時刻までに関へ戻ります。遅れそうになる理由が出たら、その時点で帰ることだけに切り替えます」
「分かりました」
少し間があった。
「沢渡さん」
「はい」
「いってらっしゃい」
妙に普通だった。その普通さが、かえってありがたかった。
「行ってきます」
背負子へ腕を通す。腰を締め、肩を合わせる。膝を使って立つと、重みが背中へ収まった。持てる。当たり前だ。今日確かめたいのは、そこではなかった。
*
関で単独の届けを出し、帰着期限を確かめた。境を越えると、裏大山にはいつもの細い雨が降っていた。雨具を羽織り、背負子に覆いを掛ける。
最初の坂を登り切る頃には、荷の具合はほとんど分かった。重すぎない。腰も痛くない。左右の偏りもない。少し歩いてから、肩紐だけを調整した。左の外側から、小さな音がする。歩くたびに、硬いもの同士が触れる音。大したものではない。
けれど今日は止まった。背負子を安定した場所へ預ける。中を少し動かし、手袋を挟む。もう一度背負う。歩く。音は消えた。
荷についてやることは、いつもの仕事と変わらない。紐が緩んでいないか。荷が外へ逃げていないか。濡らしたくないものが守られているか。必要なものを必要な順番で出せるか。
違うのは、それを誰にも言わないことだった。一回止まります、と言う相手がいない。ここを右から行きませんか、と聞く相手もいない。
水を飲みませんか、と向こうから声が飛んでくることもない。カゲは少し先を歩いている。時々、俺を見る。それだけだ。俺が止まれば止まる。歩けば歩く。右へ行けば右へついてくる。左なら左だ。何かを決めるのは、全部俺だった。
今日は危険の少ない低い場所を選んでいる。主を探す日でもない。難しい岩場を抜ける日でもない。余計な問題を減らした状態で、自分がどう動くのかを見る。
しばらくして時計を見る。予定より少し早い。水を飲んだ。歩き出す。
普段なら、前か後ろに宮坂さんの足音がある。錫杖が地面へ触れる音が混じることもある。今日は、自分の靴と背負子の軋みだけだ。カゲはほとんど音を立てない。
道が少し狭くなる。斜面から落ちた土。谷側へ出た木の根。一歩置く。沈まない。次。その次。荷を担いでいる時は、自分の足より先に背中の重さを見る。身体が通れる隙間でも、荷は通らないことがある。
頭だけ向ければ済む動きでも、背中まで振れば重心がずれる。どちらへ荷が落ちたがっているか。どこで止めるか。そういうことなら慣れている。問題なく抜けた。道が広がる。時計を見る。予定より少し早い。
「……早いな」
口へ出してから、誰に言ったのか分からなくなる。カゲが振り返った。
「呼んでない」
耳が一度動く。そのまままた前へ向いた。俺も歩き出した。
昼前、一度荷を下ろした。水の溜まった土は避ける。安定した場所に背負子を置く。肩から重さが消える。腕を回す。右も左も問題ない。膝を曲げても痛みはない。靴の紐は緩んでおらず、底も減っていない。喉の調子も確かめた。
普通に声を出す。掠れはない。息も荒れていない。少し食べ、水を飲む。カゲは少し離れたところへ伏せていた。
「お前は楽そうだな」
尻尾が少し動いた。
「俺も別にきつくないけど」
本当にきつくなかった。かなり歩ける。今日の道なら、まだ先へ行ける。地図で現在地を確かめる。この先もしばらく大きな問題はない。折り返しの上限まで、まだ時間がある。俺は荷を背負い直した。
そこから先は、むしろ気持ちよく歩けた。木立が少し薄くなり、谷を挟んだ向こうに尾根が重なって見える。遼が選んだ山のことを思い出した。あいつが言っていた。谷を挟んで、何本も尾根が重なって見えるところで長く座りたい。
同じように見えても、たぶんあいつが見ているものは俺とは違う。今度、その話も聞いてみればいい。俺は歩き続けた。異形の気配はない。雨脚も変わらない。足元も、今は安定している。歩けば、その分だけ進める日だった。
十二時二十分。時計を見る。あと十分。前を見る。道は続いている。少し先で木立が薄くなっていた。あそこまで行けば、向こう側がもう少し見えるかもしれない。十分あれば届く。届いてから戻ればいい。そう思った。足を出す。十歩。
二十歩。また時計を見る。十二時二十三分。あと七分。身体は軽い。荷も安定している。水もある。喉も問題ない。雨脚はまだ弱い。足場もいい。
「……まだ行ける」
口から出た。カゲが止まった。振り返る。俺も止まる。木立の切れ目はもう近い。あと少し歩けばいい。十二時半になったところで向きを変えれば、昨日決めたことには反しない。そう思った。理屈としても間違っていない。
今の俺は疲れていない。焦っていない。怖がってもいない。判断できない状態ではない。なら、「まだ行ける」という判断はたぶん正しい。そこまで考えて、足が止まった。今日は何をしに来た。行けるところまで行くためじゃない。
限界を探すためでもない。十二時半は、そこまで進み続けろという時刻ではない。越えないために置いた上限だ。時計を見る。十二時二十五分。前を見る。
まだ行ける。
あそこまで見たい。だからこそ、今でいい。
「戻るぞ」
カゲへ言った。身体の向きを変える。来た道が下へ伸びている。何も起きていない。疲れていない。壊れてもいない。失敗もしていない。それでも戻る。数歩下りたところで、背中の一部だけがまだ上へ向いているような感じがした。
あと少しだった。行けた。何も問題なかった。あそこまで見ても間に合った。全部、本当だった。
「……これか」
口へ出た。兄貴のことが一瞬浮かんだ。三年前。二四〇〇。
けれど、すぐに切った。
今日とあの日を一緒にする必要はない。今日はただ、自分で引いた線を、自分で守る練習だ。俺は下を向いて歩いた。
*
下り始めてしばらくして、雨脚が強まった。葉を打つ音が増えた。雨具の袖を叩く粒も太くなる。空を見る。さっきまで見えていた尾根が白く霞んだ。
「強くなったな」
足場の広いところまで進み、背負子を下ろす。雨具の襟を閉じ直し、背負子の覆いも締める。もう一度担ぐ。荷の覆いにも、雨粒が続けて当たった。土の色が濃くなる。登りでは何でもなかった根が滑る。歩幅を落とす。濡れた岩では止まる。
足を置く場所を見る。一段下りる。荷の揺れが収まってから次へ行く。急がない。ここで急いで転べば、さっき戻った意味がなくなる。雨はしばらくすると弱くなった。完全には止まらない。葉から落ちる雫の方が大きくなる。時計を見る。
折り返した時刻を思い出した。もし、十二時半まで使い切っていたら。あと五分。十分。今日なら、それでも帰れただろう。たぶん。
けれど、毎回そうとは限らない。
予定になかったことは、下りで勝手に増える。雨脚の変化。足場。止まる時間。山が余裕を残してくれるわけじゃない。こっちが残すしかない。
「……そういうことか」
カゲが俺を見る。
「何でもない」
また歩く。
さらに下ったところで、背中の右側に違和感が出た。ほんの少しだけ、荷の揺れ方が違う。止まる。背負子を下ろす。下側の締めが少し緩んでいた。切れてはいない。壊れてもいない。濡れたせいか、荷が馴染んだせいか。締め直せば済む。
一度ほどき、荷を押し込む。締める。結びを確認する。大した時間ではない。でも、予定には無かった。雨脚が強まるのもそうだ。滑る足場もそうだ。荷の締め直しもそうだ。どれも山では珍しくない。
珍しくないものが幾つか重なるだけで、紙の上の余白は減っていく。俺は結び目を二度引いた。
「よし」
背負子を担ぐ。今度は揺れない。そのまま下った。
関が見えた時、最初に確かめたのは脚ではなかった。時計だった。決めていた帰着時刻までは、まだ余裕がある。手形を返す。山を出る。舗装された地面へ足を置く。そこで初めて、肩紐を少し緩めた。
*
みさか屋へ戻ると、宮坂さんは奥で本を読んでいた。
『まだ来ない客』ではない。
別の本だ。戸を開ける音で顔を上げる。
「お帰りなさい」
「ただいまです」
「雨、強くなりました?」
「下りで少し強まりました」
「怪我は」
「ありません」
「装備は?」
「荷の締めが一回緩みました。直して終わりです」
宮坂さんは読んでいた本を閉じ、横へ置いた。
「では」
視線が背負子へ向く。
「何時に折り返しました?」
やっぱり最初はそこだった。
「十二時二十五分です」
宮坂さんが一度瞬きをする。
「上限は十二時半でしたね」
「はい」
「何かありました?」
「何もありません」
「疲れた?」
「全然、疲れてません」
「足場が悪かった?」
「問題ありませんでした」
「異形は?」
「見てません」
「では、どうして五分早く?」
俺は背負子を下ろした。濡れた雨具を脱ぐ。
「まだ行けたからです」
宮坂さんが黙った。
「十二時二十分過ぎたあたりで、この先まで行けそうだなって場所が見えたんです」
雨具を掛ける。
「身体も問題ないし、荷も問題ない。あと少し行って、十二時半で戻ればいいと思いました」
「はい」
「実際、少し進みました」
宮坂さんの目が少し細くなる。
「でも、十二時二十五分で止まりました」
「どうして?」
「今日、どこまで行けるかを試しに来たんじゃないって気づいたので」
宮坂さんは聞いている。
「まだ行ける時に、自分で戻れるかを見に来た」
しばらくして、
「そうですか」
とだけ言った。それから立ち上がる。
「荷、開けましょう」
褒めない。叱らない。それがありがたかった。床へ敷物を出し、二人で背負子の中を開けた。濡れたもの。濡れていないもの。使ったもの。使わなかったもの。残った水。残った食料。宮坂さんが一つずつ見ていく。
「雨具は?」
「着たまま動けました。荷の覆いも直せました」
「救急は」
「使ってません」
「位置は?」
「少し奥でした」
俺は実際に背負子へ手を入れてみせる。
「両手が使えるなら問題ないです。でも片腕をやった時、一人だと取りづらい」
「もっと上へ出しましょうか」
「そうですね」
救急用具の位置を上げる。代わりに、すぐ使わないものを下へ。緩んだ締めも見た。
「ここ?」
「はい」
宮坂さんが指で引く。
「最初から、もう一段留め方を変えた方がよさそうですね」
「俺もそう思います」
全部を出した。背負子が軽くなる。床の上には、今日一日俺が持っていたものが並んだ。残った水と食料を確かめ、使わなかった救急用具を手元へ寄せる。
「声も脚も、問題ありません。第五も第六も、験も使わずに戻りました」
俺が言うと、宮坂さんは記録用の紙へ書き留めた。
――第五・第六性質、験、使用なし。
その上に折り返しの時刻を書き、下山で雨脚が強まったことと、荷締め直し一回を足す。俺は掛けてある雨具へ目をやった。あの雨の中で速度を落とし、荷を締め直しても、帰着には間に合った。
「五分、勿体なかったですか?」
鉛筆を置いた宮坂さんが聞いた。俺は笑った。
「かなり。今でも、あの木立の先を見たかったと思ってます」
「では、それも残しておきましょう」
差し出された鉛筆を受け取り、時刻の横へ『まだ歩けた』と書いた。雨が強くなったから戻ったのではない。引き返してから雨が強くなった。その順番だけは、あとで紙を見ても間違えたくなかった。
温かいものをもらい、口にする。喉へ熱が落ちる。
「宮坂さん」
「はい」
「山上ヶ岳でも、今日みたいに戻れると思います?」
宮坂さんは湯呑みを置いた。
「分かりません」
俺も、そうだと思った。
「今日と違って、向こうには主がいるかもしれません。その時の沢渡さんがどうするかまでは、私にも」
宮坂さんは、紙に並んだ時刻へ目を戻した。
「でも、一度も自分で止まったことがないのと、一度でも『まだ行ける』ところから戻ったことがあるのは、違うと思います」
その言い方なら分かった。今日の試行は保証じゃない。これで山上ヶ岳へ行けば大丈夫になるわけでもない。ただ、一つ経験が増えた。
まだ行ける。
そう思っている時にも、自分で向きを変えることはできる。その感覚を知った。
俺は地図を引き寄せた。山上ヶ岳。宮坂さんが、その横へ今日の装備一覧を置く。
「現地の情報を確かめて、この荷を組み直します」
俺が言うと、宮坂さんは装備一覧の救急用具の欄へ、位置を変えた印をつけた。
「窓口へ行く時は、私も一緒に」
「はい。日程は、それからにしましょう」
紙の余白には、昨日書いた二行がある。
――行く。
――その前に、一人分の荷で一度歩く。
俺は二行目の横へ、小さく印をつけた。消したのではない。終わった印だ。その下へ、新しく書く。
――山上ヶ岳の現地情報を確認。
書き終え、宮坂さんへ見せる。
「次はこれで」
「はい」
宮坂さんが頷いた。
地図は畳まなかった。まだ確認することがある。けれど、今日の荷は全部下ろした。卓の端には、『まだ来ない客』が二冊置いてある。俺はそちらを見る。
「そういえば」
「はい」
「昨日の続き、読みます?」
宮坂さんが時計を見る。
「今日は歩いてきたばかりでしょう」
「読むくらいなら平気です」
「第五は本当に使ってないんですよね」
「使ってませんって」
「記録係なので」
「使ってません」
宮坂さんが笑った。
「では、一章だけ」
「また一章ですか」
「沢渡さんが先へ行きすぎるので」
「待ちますよ」
「山でもそれくらい素直に待ってください」
返す言葉がなくなった。俺は茶色い紙カバーの本を取る。四章の終わりから開く。宮坂さんも、店でもらった紙の栞を抜いた。山上ヶ岳の地図は、二冊の本の横へ広げたままにした。今日は一つ、先の景色を見るのをやめて戻ってきた。
その分だけ、次へ進むためのものを一つ持ち帰れた気がした。宮坂さんが頁をめくる。その音を聞いてから、俺も次の頁を開いた。
面白かったら、ページ下の☆から評価をいただけると励みになります。




