第80話 一人分の荷
関を出たあと、宮坂さんは寄るところがあると言い、駅で別れた。本の続きは、また二人で頁を開くまで取っておいた。
翌日の夕方、俺はみさか屋の奥で資源庁へ出す報告書を開いていた。卓上には宮坂さんが昨日付けた野帳と、茶色い紙カバーをかけた文庫本。
『まだ来ない客』。
資源庁へ出す記録を片付けたら続きを読むつもりで持ってきたのだが、三十分ほど前から同じ行に鉛筆の先を置いたまま止まっていた。
「そこ、まだ止まってます?」
向かいから、宮坂さんが湯呑みを置いて身を乗り出す。
「ここです」
俺は鉛筆の尻で報告書の一行を指した。
――第五性質。荷を背負った短距離歩行後、自覚疲労の軽減を感じた。
その先が書けない。
「『疲労が回復した』では駄目ですか」
「駄目ですね」
「ですよね」
宮坂さんはあっさり引いた。
「回復って書くと、昨日確認した以上のことまで分かったように読めます」
「ええ。外から見て分かったのも、二往復目で沢渡さんの歩き方が大きく崩れなかったことくらいです」
俺は鉛筆を動かした。
――ただし、平場での休息、および二往復目による身体の順応との明確な区別はできない。
紙を少し離して見る。
「こんなところですか」
「いいと思います。あと、怪我に対しては試していないことも」
「そうですね」
もう一行足した。第六の欄は、さらに短い。
――身体のすぐ近くに不可視の面を一つ置いた。指先と紙片が触れた。別の位置に面を置くと、前の面は消えた。
それだけだ。
「強度、空欄でいいですよね」
「叩いてもいませんし、重いものも載せていませんから」
「盾にできるとも書けない」
「試してません」
「踏めるとも」
「それも試してません」
「ですよね」
宮坂さんが小さく笑い、自分の湯呑みを両手で包んだ。俺も苦笑する。昨日は指先が何もないところで止まっただけであれほど驚いたのに、嘘の混じらない記録へ落とすと、驚くほど短い。新しい性質が二つ増えた。
けれど今、誰に対しても確かだと言えることは、紙の半分にもならない。俺は末尾に日付を書き、報告書を閉じた。
「これで出せます」
「お疲れさまでした」
「宮坂さんも、付き合ってもらってすみません」
「私は横で時間を見ていただけです」
「見ててくれる人がいなかったら、たぶん『なんとなく楽になった』で終わってましたよ」
宮坂さんは少し考えてから、
「では、記録の半分は私の手柄ですね」
と言った。
「あとの半分は、俺が書いた分で」
「そうです」
脇へ寄せていた『まだ来ない客』を引き寄せる。宮坂さんも、同じ茶色い紙カバーの本を鞄から出した。
「どこまで読みました?」
「まだ三章の終わりです」
「俺もです」
「裏口の閂、どう思います?」
「まだ怪しいと思ってます」
「沢渡さん、前の本でも椅子の音を最後まで怪しんでましたよね」
「今回は前と違います」
「どう違うんですか」
「まだ説明できません」
「それは便利ですね」
笑われた。俺は本を開きかけて、指を止めた。
この前、宮坂さんから、次に二人で登る山は自分から誘いたいと言われた。先に彼女の地図を聞く約束をしたのに、今日は俺が別の地図を持ってきている。
鞄の底に、今朝から入れてあるものがある。折り畳んだ一枚の地図。取り出して卓上へ置くと、乾いた紙の音がした。宮坂さんの視線が、本から地図へ移る。
「山ですか」
「はい」
俺は『まだ来ない客』を伏せた。書店でもらったレシートを、頁の間へ挟み直す。
「本を読む前に、先にこっちを見てもらえますか」
「宮坂さんの地図を先に見る約束でした。順番を変えて、すみません」
「私の地図はまだ選んでいるところです。沢渡さんの方は?」
「二人で登る山の話では、ないんです」
「では、聞きます。私が誘う山の話も、あとで聞いてくださいね」
「もちろんです」
地図を卓の中央へ広げた。宮坂さんは湯呑みを端へ寄せる。折り目を伸ばし、山名と道を追う。やがて、一つの峰の名で視線が止まった。一度、俺を見る。また地図へ戻る。
「……山上ヶ岳」
「はい」
短い間があった。宮坂さんの指先が、地図の上をゆっくり動く。道を細かく追っているというより、まず山全体を見ている。俺も黙って待った。やがて彼女が言った。
「私、入れませんね」
「はい」
山上ヶ岳には女人結界がある。丈や先達の資格とは別の制約で、俺たちは地図を開く前から知っていた。だからこそ、この地図を持ってくるまで少し迷った。
「沢渡さん」
「はい」
「ここへ、行きたいんですか」
俺は地図を見る。
「行きたいです」
「どうしてです?」
すぐには答えなかった。聞かれるのは分かっていた。俺自身、地図を鞄へ入れてから何度も考えた。白山を下りたばかりだ。他にも山はいくらでもある。宮坂さんと二人で入れる山もある。遼が選んだ第一候補も、これから準備を詰めていく。その中で、なぜ今ここなのか。
「修験の根本道場として知られてる山だからです」
「はい」
「戸隠では、人が通ってきた旧道が裏山にも残っていました。なら、ここには何が残ってるのか、自分の足で確かめたい」
宮坂さんは続きを待った。
「それと……」
俺は地図の折り目を指で押さえた。
「山って、登れるかどうかは足だけで決まらないじゃないですか」
「ええ」
「丈もある。手形もある。天気もある。仕事もある。その山ごとの決まりもある」
紙の上には、細い道がある。現地へ行けば、その先に実際の線がある。俺には越えられて、宮坂さんには越えられない線。
「山上ヶ岳は、それがすごくはっきりしてると思ったんです」
宮坂さんは黙って聞いている。
「俺は、その山を見てみたい」
「女人結界も含めて?」
「含めてです」
答えてから、少し言葉を探した。
「いいと思ってるわけじゃないです」
宮坂さんの眉がわずかに動く。
「でも、俺が納得できないから無いことにはならない。宮坂さんが入れないっていうことも含めて、今そこにある山なんですよね」
「そうですね」
宮坂さんは湯呑みへ目を落とした。
「私も、好きではありません」
「はい」
「かなり」
「はい」
今度は少し強かった。俺は頷いた。
「でも、それと沢渡さんがそこへ行きたいことは、別です」
宮坂さんが顔を上げる。
「私が入れないから、沢渡さんも行かないでください、とは思いません」
「ありがとうございます」
「ただ、行ける計画かどうかは、まだ別ですよ」
「え」
「行きたい理由を聞いたところです」
宮坂さんは地図を少し自分の方へ引いた。
「次は、行き方です」
俺は姿勢を直した。そうなると思っていた。
「一人ですよ」
「カゲはいます」
「カゲは沢渡さんの意思で使う力です」
「はい」
「沢渡さんを止める人間ではありません」
「分かってます」
「私の代わりにもなりません」
「はい」
宮坂さんは地図の端を押さえる。声は穏やかだ。けれど山の話をしている時の目になっていた。
「まず、荷です」
「はい」
「一人で何を持つつもりですか」
俺は上着の内ポケットから四つ折りの紙を出した。昨夜、書き出しておいた。宮坂さんは受け取って、
「用意がいいですね」
と言った。
「聞かれると思ったので」
「では遠慮なく」
上から見ていく。水。食料。雨具。防寒。救急。灯りと予備。最低限の野営道具。山刀。前腕当て。普段使っている山の道具。
二人なら、一つあれば済むものを分けて持てる。一人ならそうはいかない。荷そのものは二人分より軽い。
だが、一つ失った時に埋めてくれる相手がいない。
宮坂さんの指が一行で止まった。
「ここ」
「灯りですか」
「予備は?」
「あります。本体と別です」
「ならいいです」
俺は紙の下の方を指した。
「第五は荷の計算に入れません。第六も、足場や防壁には数えない。その二つがなくても戻れる荷にします」
「《隔て》は?」
「使います。あれは白山で実際に使ってるので」
落石の前へ白い防壁を置いた。自分だけでなく、相手が次に動ける場所を残す使い方もした。全部が分かっているわけではない。
それでも、第五、第六とは違う。
「その区別はしてください」
「はい」
「『多分使える』を一つずつ足していくと、紙の上ではいくらでも強くなれますから」
「紙の上では」
「山では困ります」
「ですね」
宮坂さんは紙を戻した。
「次。連絡です」
俺は地図を見る。
「山の中から外へ、ずっと連絡できるとは考えません」
外の携帯回線や衛星測位は使えない。山内で使える通信手段がある場所もあるが、それをどこでも当てにできるわけではない。
「入る前に、その時点で使える連絡手段と範囲は確認します。でも、届かない場所へ入ってからは連絡できない前提で動きます」
「私から呼べば止められる、とは考えない」
「はい」
「沢渡さんから相談できる、とも」
「思いません」
そこで宮坂さんは俺を見る。
「では、現場で誰が撤退を決めます?」
「俺です」
「そうですね」
短い答えだった。白山なら、宮坂さんが止めることもできた。俺が行けると思っても、彼女が退くと判断すれば、その判断を聞ける。逆もある。二人で線を引けた。今回は違う。
「帰着の期限は、先に決めましょう」
「はい」
「主がいるから延長、は?」
「しません」
「もう少しで届きそうだから、は?」
「それも無しです」
一拍空いた。宮坂さんが目を細める。
「今ので信用が少し減りました」
「言い直しても駄目ですか」
「検討します」
「厳しいですね」
「一人で行く人には厳しくします」
もっともだった。宮坂さんは鉛筆を手に取る。まだ何も書かない。
俺は荷の一覧の余白へ指を置いた。
「時間だけでは足りませんね。歩き方に影響する痛みが出たり、片腕が自由に使えなくなったりしたら戻る。靴や、戻るのに必要な道具を壊した時も、退路に問題が出た時も、主より戻ることを優先します」
「声も、残してください」
「はい。《甦り》も第五も、撤退しなくていい理由には使いません」
験には声を使う。声が潰れれば、使えるものも使えなくなる。《甦り》で疲労を軽くできても、その分まで前進へ使えば同じだ。
「戻るためには使います」
「もちろんです」
使えるものを使わず倒れるのは、慎重とは違う。使う。ただし、使えたから進めるとは限らない。宮坂さんの鉛筆が、紙の上で止まる。
「交戦していたら?」
すぐには答えられなかった。目の前に主がいる。攻撃が届いている。あと少しに見える。そんな時でも、自分の状態が崩れたら背を向けられるか。
「切ります」
「勝てそうでも?」
「勝てそうかどうかを、ちゃんと判断できない状態なら」
俺は言った。
「その『勝てそう』って判断自体を信用しません」
宮坂さんの鉛筆が止まった。
「それ、覚えておいてください」
「書きますか」
「書きましょう」
紙の余白に、宮坂さんが短く書いた。
――自分の判断を信用できない状態なら撤退。
俺はそれを見る。
「ちょっと怖いですね」
「何がです?」
「未来の俺に向けて書いてある感じが」
「未来の沢渡さんが素直なら大丈夫です」
「あまり信用されてない」
「撤退に関しては」
即答だった。否定できない。仕事なら、人を還すのを優先する。それ自体を変えるつもりはない。
だが、一人で登る時まで自分を最後にすれば、最後に下ろす人間がいなくなる。
宮坂さんが、地図から俺へ視線を戻した。
「もう一つ、聞いていいですか」
「はい」
「山上ヶ岳じゃなくても、一人で登ることはできますよね」
「できます」
「一人で判断する練習だけなら、他の山でもいい」
「はい」
「新しい性質の確認も、もっと低い場所でできます」
「そうですね」
「では、やっぱりここへ行く理由は、山上ヶ岳そのものなんですね」
俺は地図を見る。
「そうです」
そこは迷わなかった。第五を試すためではない。第六を強くするためでもない。一人で戦えることを証明するためでもない。一人でなければ入れないから選ぶわけでもない。先に、この山を見たいと思った。
そのあとに、一人になるという条件がついてきた。
「白山に行く時は」
俺は言った。
「自分で行きたい山を選んだつもりでした」
「ええ」
「実際、行って良かったです」
宮坂さんが笑う。
「私もです」
「宮坂さんと二人だったから、見えたものもありました」
「はい」
「だから……」
少し迷った。兄貴のことを口にする。
「昔、兄貴と登ってた時は、最後に線を引くのは兄貴だったんです」
宮坂さんは何も言わずに聞いている。三年前。二四〇〇。兄貴は俺を下ろした。自分は残った。あの判断について、今も分からないことの方が多い。
「今は、宮坂さんとも登ってる」
「はい」
「二人で決められるようになった」
それは大きかった。俺一人では見落とすものを宮坂さんが見る。宮坂さんが迷うところを、俺が荷や足場を見て判断することもある。白山では、それで頂まで行った。
「でも、この山では、それができない」
俺は山上ヶ岳の名を指した。
「なら、自分でどこに線を引くのかも、やらないといけない」
宮坂さんが静かに息を吐いた。
「それが、行きたい理由の全部ですか」
「全部じゃないです」
「良かった」
「え」
「それだけだったら、私は別の山を勧めます」
「やっぱりですか」
「ええ」
宮坂さんは地図の山名を指した。
「沢渡さんは、この山を見たいんでしょう」
「はい」
「なら、それが先です」
「はい」
「一人になるのは、そのために引き受ける条件です」
その言い方が一番しっくりきた。俺は頷く。
「そうですね」
一人で登るために山を選ぶのではない。行きたい山へ行けば、一人になる。そこを取り違えない。宮坂さんは鉛筆を置いた。
「山上ヶ岳を次に置く。その方向で準備するなら、私も計画を一緒に見ます」
俺は顔を上げた。
「ただし」
来た。
「その前に、一度、本番を想定した荷で歩いてください」
「どこで?」
「低いところでいいです。主戦を目的にしない場所で」
「一人で?」
「一人で」
宮坂さんは装備の紙を指した。
「普段なら二人で分けるものも、自分で持つ。自分だけで時間を見て、自分だけで戻る判断をする」
「第五と第六は?」
「無いものとして計画してください」
「使うのも駄目ですか」
「帰るために必要なら使ってください。でも、最初から使える前提では組まない」
それなら分かる。
「終わったら、荷と時間をもう一度見直しましょう」
「二人で?」
「当然です」
即答だった。
「山の中へはついていけなくても、準備まで外されるつもりはありません」
「外すつもりもないです」
「ならいいです」
宮坂さんは地図を畳まなかった。代わりに、さっきの紙を俺の方へ戻す。空いたところへ自分で山の名を書く。
――山上ヶ岳。
その下を、鉛筆の先で軽く叩いた。
「続きは沢渡さんが」
「俺が?」
「自分で行く山でしょう」
もっともだ。俺は鉛筆を受け取った。少し考えてから書く。
――行く。
そこで止める。宮坂さんが横から覗いた。
「それだけですか」
「まだあります」
続けて書く。
――その前に、一人分の荷で一度歩く。
宮坂さんが読む。
「はい」
「これなら?」
「いいと思います」
俺は鉛筆を置いた。これで明日すぐに山へ入れるわけではない。手形もある。現地の情報も確かめる。仕事の日程もある。装備も見直す。単独試行もある。
それでも、次に何をするかは決まった。
山上ヶ岳へ向けて準備する。その前に、一人分の荷を、自分の背中で確かめる。二人で立てた条件を、一人で守れるか試す。俺は地図の横へ置いた茶色い本を見た。
「本、どうします?」
宮坂さんもそちらを見る。
「あ」
本当に忘れていたらしい。
「読む約束でしたね」
「でした」
「時間、大丈夫ですか」
時計を見る。まだ少しある。
「一章くらいなら」
「では一章」
二人で本を開いた。同じ茶色い紙カバー。俺の方には書店のレシート。宮坂さんの方には、店でもらった紙の栞。俺は三章の終わりを開き、四章へ進む。向かいからも紙をめくる音がした。数分経って、俺の方が少し先へ進んだ。
そのまま次の頁へ行きかけて止める。
「宮坂さん」
「はい」
「今、どこです?」
本を少し見せてもらう。俺より二頁前だった。
「危なかった」
「何かありました?」
「今言うと駄目なやつです」
「なら黙っていてください」
「はい」
俺は二頁戻って待つことにした。卓上には、二冊の本と山上ヶ岳の地図がある。紙の余白には、俺の字で二行。行く。その前に、一人分の荷で一度歩く。宮坂さんが頁をめくった。俺も、その次を開いた。
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