第79話 二枚の控え
みさか屋の座卓に、茶色い紙カバーの掛かった文庫本が二冊並んでいた。
俺の本には、書店のレシートが挟んである。昨夜、第三章の足跡が出てくる頁を探して挟んだものだ。向かいに座った宮坂さんは、自分の本から紙の栞を抜いた。
「裏口の雪に足跡を残した人は、勝手口から戻ったんじゃないですか」
俺が頁を指すと、宮坂さんは少し手前を開いた。
「その前に、裏口の閂が外されています。嵐の前には、下男が掛けたと書いてありました」
「足跡の主が外したんでしょうか」
「そうとも書いていないんです」
俺は自分の本を繰り戻した。宿の主人を疑っていたせいで、下男が閂を掛けた時刻を読み飛ばしていたらしい。
「でも、閂を外した人が先に中へ入ったなら、足跡は帰りに付いたことになりますよね」
「そこも、まだ決められません。雪が降り出した時刻が、はっきり書かれていないので」
宮坂さんの指が、頁の上を少し戻る。俺はレシートを抜き、彼女が示した一行を自分の本で探した。読んだはずの文だった。誰かを疑いながら読むと、目の前にある時刻まで都合よく繋げてしまう。
「また最初からですか」
「三章までなら、戻れますよ」
宮坂さんが口元を緩めた。
昨夜、別々の場所で同じ三章まで読み、携帯で続きを話す約束をした。一人なら、もう第四章に入っていたと思う。けれど、ここで読み違えたところを見つけるのも面白かった。
卓の上で、俺の携帯が震えた。
山域資源庁からの通知だった。預けていた出羽三山と白山の主素材について、検査と照合が終わり、立ち会いのもとで返還するという。二つの受領番号が並んでいる。
ようやく二つが同じ日に戻ってくる。
「返ってくるんですね」
宮坂さんが本を閉じた。
「はい。二つとも。説明も一緒に聞きましょう」
「ええ。結果を聞くときは一緒に、って約束しましたから」
白山の素材を預けた日のことだ。俺が頷くと、宮坂さんも画面の受領番号を確かめた。
「本は、ここまでにしましょうか」
「足跡の主がまだ分かっていませんよ」
「帰ってきたら、閂のところから読み直しましょう」
俺はレシートを挟み直した。何か分かったつもりで先へ進むより、その方がよさそうだった。
*
資源庁の窓口へ、二枚の控えを出した。
財布に長く入れていた出羽三山の控えは、角が丸まっている。白山の控えには、まだ折り目がはっきり残っていた。
職員が番号を照合し、奥から二つの封緘袋を運んできた。ラベルに書かれた山域と番号を、俺と宮坂さんも控えと見比べる。
出羽の控えを渡したときは、白山へ行く日すら決まっていなかった。今は白山の控えも隣にある。採った場所も預けた時期も違うのに、紙の上では同じような番号で並んでいた。
「採取記録との照合と、保管中の検査を終えました」
職員は書面を俺たちの前へ置いた。
「保管中に異常は確認されていません。ただ、カゲに与えた後の変化まで、この結果から判断することはできません。新たな作用があれば、これまでの条件に従って報告してください」
「分かりました」
書面は、確認できたことと、これから報告が必要なことを分けていた。返還されたからといって、試さずに安全だと決めていいわけではない。
「試す場所は、もう決めていますか」
「裏山の、道から外れない平場を考えています。最初は動きを小さくして、記録を残します」
「分かりました。立ち会いの日程を調整します」
職員はその場で使い方を指示しなかった。カゲが俺の判断でしか働かないことと、その判断を記録すること。庁と交わした条件は、そこにある。
「受取人は、どちらも沢渡さんですね」
宮坂さんが受領欄を見た。
「はい。登録上の保管者は沢渡迅さんです」
職員からペンを受け取る前に、俺は隣を見た。
出羽でも白山でも、主と向き合ったのは二人だった。けれど、素材をカゲへ渡せば、新しい性質をまとうのは俺になる。
「宮坂さん。白山の素材は、装備に使う道もあります」
宮坂さんの目が、俺の腰へ向いた。今日は山刀を帯びていないが、言いたいことは伝わったと思う。
白山の主には、錫杖が傷の縁を割り、俺の短い山刀が外皮を少し起こした。そこへ拳を通せたのは、二人で間合いを詰めたからだ。短い刃で届く場所には限りがある。そのために危険なほど近づいたことも、忘れていない。
新しい靴と前腕当てに助けられた場面もあった。道具を替えれば戦い方は変わる。だからこそ、主素材を武器へ回せるのかという可能性を、見なかったことにはしたくなかった。
「次は、もっと間合いのある武器が要ります。これを材料にできるか、調べてもらうこともできます。でも、そうしたらカゲには渡せません」
「どちらを選んでも、先に確かめることがありますね」
宮坂さんは袋を見て、それから俺を見た。
「私が先に、渡していいと言うのは簡単です」
彼女は受領欄を指した。
「でも、使うと決めてカゲに働かせるのは沢渡さんです。私の返事だけで、決めたことにしないでください」
「装備は見直しましょう。私の錫杖も、今後ずっと同じ間合いで戦うためのものではありません。でも、その話と、この二つをどうするかは、分けて決めたいです」
石鎚のあとに錫杖はきちんと直した。それでも白山では、前へ出なければ届かなかった。
「沢渡さんは、どうしたいですか」
返事をする前に、白山の主が寄せてきた板を思い出した。カゲの第二性質で押す力を足場へ流しても、それだけでは逃げ道にならなかった。宮坂さんが先に板の角を砕き、俺がその隙間を抜けた。二人で持ち帰ったものを、俺だけの判断で使う。その重さは消せない。
「カゲへ渡したいです。新しい性質を確かめたい。俺が選んで、その結果も宮坂さんと見ます」
宮坂さんは頷いた。
「はい。一緒に確かめましょう」
俺は二枚の受領書に署名した。職員が封緘袋を渡し、俺たちはその場で番号をもう一度照合した。
小さな袋は軽い。だが、山から下ろしたときには、二人ともそれを何度も確かめた。上着の内側へ収める前に、俺は袋の封を見た。
*
カゲの性質は、関の外では働かない。
返還から二日後、俺たちは資源庁の記録員に立ち会ってもらい、裏山の低い場所へ入った。通行の邪魔にならない平場を選び、斜面の上と下に人がいないことを確かめる。宮坂さんは退く道を見て、背負子を端へ下ろした。
カゲは俺の登山靴のそばで待っていた。
「出羽の分から渡します」
俺が袋の番号を読み上げると、記録員が控えに印を付けた。封を開け、主素材を掌へ出す。カゲが鼻先を寄せた。
宮坂さんは、俺とカゲの間から一歩退いた。記録員も筆を止める。素材を渡すのは、いつも俺だ。立ち会う人が増えても、その順番は変わらない。
「いいか」
カゲが触れる。掌から素材の重みが消え、白い毛並みに見慣れない印が一つ増えた。俺の意志で渡したことも、カゲが取り込んだことも分かる。だが、姿だけでは性質までは分からない。
数歩歩かせた。カゲは普段どおり俺の足元へ戻ってくる。
鼻先を上げ、宮坂さんの手元を見た。彼女が近づいても逃げず、けれど勝手に次の袋へ向かうこともなかった。俺が呼ぶと、すぐ横へ来る。
「様子は変わりませんね」
「はい。次を渡す前に、少し待ちます」
宮坂さんと記録員が頷く。俺たちはカゲの動きと呼吸を見て、異常がないことを確かめた。
次に白山の袋を開けた。
白山では、この素材を持って下りられるかどうかを、先に考えた。今は封を切るだけでいい。それでも指が一度止まる。宮坂さんは急かさず、袋を持つ俺の手を見ていた。
「白山の分です」
カゲが触れると、こちらも掌から消えた。さっきとは別の印が毛並みに加わる。カゲは俺を見上げ、呼びかけを待つように座った。
記録員が取り込みの順番を書き留めた。
「まず、白山の方を試します。俺はここから動きません」
宮坂さんが正面を空け、錫杖を持って脇へ立つ。
俺がカゲをまとい、新しい性質へ意識を向ける。白山の主が広げた壁を思い浮かべ、腕を伸ばした。
何も起きない。
主の壁をそのまま作ろうとしたのが違うのかもしれない。俺は腕を引き、自分のすぐそばへ意識を寄せた。
伸ばした指が、空中で止まった。
「そこですか」
宮坂さんがこちらを見る。
「はい。小さい面があります。見えませんけど、触れます」
反対の手で端を探る。広げた掌より少し大きいくらいで、そこから先には指が抜けた。
宮坂さんが野帳から細い紙片を一枚切り、そっと差し出す。紙の先が途中で折れ曲がった。
「《隔て》は唱えていませんよね」
「はい。カゲの方です」
今度は身体の反対側にも置けないか、意識を向けた。
最初の紙片がすり抜ける。宮坂さんが手を止めたとき、俺の反対の手には新しい抵抗があった。
「前の面が消えました」
「こちらへ置き直せたみたいです。同時には残りません」
俺が意識を解くと、二つ目の面も消えた。記録員が位置と順序を書き留める。
もう一度だけ、手の前へ置く。俺が掌を引いても、面は同じ場所に残った。身体を少しずらすと、さっき指が止まったところへもう一度触れられる。記録員は、俺の手が離れてもそこにあったことを書き足した。
「攻撃を止められるでしょうか」
宮坂さんは紙片を持ったまま言った。
「まだ分かりません。紙と指が触れたことしか試していませんから」
俺も頷いた。足場に使えるなら、登るときの助けになるかもしれない。だが、荷を背負って踏めるかどうかは、ここで確かめていない。次の面を作れば前の面が消えることだけは、目の前で見た。
主が広げた壁と比べれば、ずいぶん小さい。だが、岩場で手を掛ける場所が一つ増えるだけでも、届く先は変わるかもしれない。その使い道を考える前に、どんな力まで受けられるのかを知る必要があった。
「今日は乗らないでおきます」
「ええ。重さに耐えるか、低いところで別に試しましょう」
次は出羽だ。
傷への働きを見るために、わざと身体を傷つけるつもりはなかった。装着した状態で、荷を運んだときの疲れ方をまず見る。
記録員と相談して軽めの荷を背負子に結び、平場から上の折り返しまでの道を決めた。宮坂さんが登りと下りの足運びを見る。
「途中で膝に違和感が出たら、そこで止めます」
「ええ。白山のあとから調子は戻ってきていますが、比べるなら無理をしない方がいいです」
俺は登山靴の紐を結び直した。疲れを調べるために、足を傷めるような歩き方をしたら意味がない。
俺はカゲとの同調を解き、何もまとわずに一往復した。砂利を踏んで坂を登り、折り返して下りる。平場へ戻るころには呼吸が速くなっていた。
「足運びは安定しています。息が落ち着くまで待ちましょう」
宮坂さんが時計を見た。俺は背負子を下ろし、呼吸を整える。
同じ道を、今度はカゲをまとって歩く。出羽から得た新しい性質を選んだ。
いつもの性質とは、選ぶ感覚が少し違った。呼吸を確かめ、歩き始める。カゲに何かを任せているというより、荷を担いだ自分の身体をいつもより注意して見ていた。
荷の重さは変わらない。坂が緩くなるわけでもなかった。折り返しを過ぎたあたりで、脚に溜まった疲れが少し引く気がした。俺は速さを上げず、そのまま平場へ戻った。
「どうでしたか」
「息の戻りが、さっきより早い気がします」
「『気がする』、ですね」
「はい。一度ずつでは、休んだ分なのか、身体が温まったからなのかも分かりません」
記録員は時間と俺の答えを分けて書いた。宮坂さんも、歩き方に大きな乱れはなかった、とだけ伝える。
《甦り》なら、二人とも軽い傷や打撲を治したことがある。声を使って起こす験と、カゲをまとっている間のこの作用を、同じものとして扱うことはできない。新しい性質が傷や体力にどれほど働くかは、今日の短い行程では分からなかった。
俺はカゲを解いた。白い狼が足元へ戻り、いつもどおり背負子の匂いを嗅ぐ。
「次は、面の強さと、出羽の方の条件を分けて確かめたいです」
「はい。今日はこれで下りましょう」
宮坂さんが野帳を閉じた。俺も荷紐を締め直す。
新しい面は、小さい。短い山刀と錫杖の間合いも、まだ変わっていない。白山の素材をカゲに渡すと決めたからといって、次の山の支度が済んだわけではなかった。
俺たちは関へ向かって坂を下りた。少し先で宮坂さんが振り返る。
「帰ったら、本の続きも読みましょう」
「まずは、あの閂ですね」
「ええ。沢渡さんが宿の主人を疑う前に」
笑われて、俺も笑った。背負子を揺らさないよう、足元の石を選んで下りていった。
坂の途中で、まだ誰にも話していない山の名前が、ふと頭に浮かんだ。地図は、家の棚にしまったままだ。新しい面も、出羽の性質も、まだ半分も分かっていない。それでも、次に開く地図は、もう決まっている気がした。
面白かったら、ページ下の☆から評価をいただけると励みになります。




