第78話 次の一冊
本を返した直後に、俺はもう一度手を伸ばした。
「すみません。もう一回、見せてください」
宮坂さんが受け取った文庫本を鞄へしまいかけたところで、その手が止まった。俺の手と、持っている本を見比べる。
「……読み終わったんですよね」
「はい。昨日の夜に、最後まで。ただ、確認したいところがあって」
「では、ここへ置いておきましょう」
茶色い紙カバーの掛かった文庫本が、みさか屋の座卓へ戻された。借りた時より、背のあたりが少し柔らかくなっている。列車でも、白山の泊まり場でも頁をめくった本だった。
遼が二枚の地図を持ってきた日の夜、家へ帰ってから最後まで読んだ。
読み終えればすっきりして、すぐ返せると思っていた。
実際には、逆だった。
結末まで行ったあと、最初へ戻った。
終盤の説明を読み、最初に気になった部屋の場面を読み、また終盤へ戻る。それを何度か繰り返していた。
「椅子の音、本当に椅子でしたね」
まずそれを言うと、宮坂さんが声を立てて笑った。
「ええ。椅子でしたね」
「別のものが床を擦った音じゃないかって、かなり疑ってました」
「覚えています」
「宮坂さんの顔を見ても分からなくて、よかったです。ここまで考えて外したのに、途中で答えまで分かってたら、もっと悔しかったので」
俺は本を引き寄せ、覚えている頁を開いた。
鍵の掛かった部屋の前で、誰かが中へ呼びかける。
返事はない。
けれど、部屋の中から椅子を引く音だけがする。
町の書店で宮坂さんが本を買っている間、最初に立ち読みしたのもこの辺りだった。
「俺、最初は誰もいないと思ってて、そのあとは、返事がないのは返事ができないからだと思ってたんです」
「中ですでに何か起きていた、と」
「はい。でも、返事をしなかった方に理由があったんですね」
宮坂さんが少し身を寄せ、開いている頁を覗き込んだ。
「声を聞かれたくなかった」
「そこです。音を聞いた人の話ばかり疑って、中にいた人の方は、もう動けない人みたいに考えてました」
結末を知ってから読むと、同じ文章なのに、最初とは違って見えた。書かれていないことを、自分で随分足していたらしい。宮坂さんの指が、少し先の頁へ動いた。
「私は、こちらで一度、考えを変えました」
「窓のところですか」
「ええ。最初は、鍵の掛かった部屋からどうやって外へ出たのかばかり考えていたので」
「そこから、当たったんですか」
「いいえ」
宮坂さんが少し笑った。
「出入りした人を間違えました」
「宮坂さんも?」
「ええ。この人だと思って、しばらく疑っていました。読み返すと、その時点でもう違うと分かることが書いてあるんですけれど」
「前へ戻りました?」
「何度も。そんなこと書いてあったかしら、と思って」
彼女の指が行の端で止まった。俺も昨夜、同じようなことをしていた。
「白山で話した時、宮坂さんが誰を疑ってたのかも聞けばよかったです」
「それを言ったら、その人ではないと分かってしまいますよ」
「ああ。そうか」
「今日は、もう言えます」
宮坂さんが笑った。
どの場面でその人を疑ったのか。
何を見て考えを変えたのか。
聞いてみたいことが、まだあった。宮坂さんが前の頁を開き、俺は自分の方へ引き寄せず、そのまま隣から同じところを読んだ。それから、終わりの場面も開いた。
「俺、最後のところ、好きでした」
「また、扉の向こうへ呼びかけるところですか」
「はい。今度は中に誰がいるかも分かってるのに、すぐ返事を書かないでしょう」
「ええ」
「俺、まだ何かあるのかと思いました」
「私は、もう早く返事をしてあげて、と思いましたけれど」
宮坂さんが口元を緩めた。
「仕掛けは終わったのだから、そこくらいは」
「俺は、最後にもう一つあるんじゃないかと」
「最後まで疑っていたんですね」
「途中で外した分、今度こそと思ったんです」
二人で笑い、もう一度その数行を読んだ。返すために持ってきた本なのに、なかなか閉じられなかった。
続きを知りたいわけではない。
もう知っている。
今は、同じところを読んだ相手が、そこで何を考えたのかを聞く方が面白かった。
*
本を宮坂さんの鞄へ戻し、俺たちは町の書店へ向かった。
みさか屋を出る時、カゲへ声を掛けた。白い耳が動いたが、俺たちが身軽な格好なのを見ると、また前脚へ顎を戻した。
俺の小さな鞄には、財布と携帯だけが入っている。
平らな道を歩いている分には、右膝を気にする時間も前より減っていた。それでも店先の段を下りる時には、一度足元を見る。宮坂さんも荷を左手に提げ、急がず隣を歩いていた。
「今日は、どんな本を探すんですか」
「気になっているものはいくつかあります。でも、先に沢渡さんにも棚を見てもらおうと思って」
「俺、知ってる作者のところへしか行かないかもしれませんよ」
「その隣も見てみてください」
簡単そうに言われた。店へ入ると、文庫の棚はやはり長かった。
入口には地図や山の写真集があり、その奥に料理や園芸の本、さらに文庫の棚が続いている。この前、映画の前に寄った時と同じ店だった。
あの日は宮坂さんのあとを追って奥へ入った。今日は、文庫の棚が見えると、自分からそちらへ足が向いた。まず、さっき返した本を探した。
同じ題名を見つけて一冊抜き出す。茶色い紙カバーがないだけで、少し別の本に見えた。
「宮坂さんのも、この表紙だったんですか」
「ええ。そういえば、外したところはお見せしていませんでしたね」
「ずっと、茶色い本として覚えてました」
宮坂さんが笑った。
棚へ戻す前に、もう一度表紙を見る。雨の流れる窓と、誰も座っていない椅子だった。
その隣に、同じ作者の別の本があった。
抜き出すと、宮坂さんが首を傾ける。
「それは、私もまだ読んでいません」
裏へ返しかけて、手を止めた。宮坂さんがすぐ気づいた。
「そこまで気にしなくても大丈夫ですよ」
「どこまでなら見ていいのか、まだ分からなくて」
「気になったら、声に出す前に自分だけで読んでみてください。私も、あらすじを全く見ずに買うわけではありませんから」
俺は一人で数行だけ読んだ。橋の向こうにある屋敷へ、人が集まる話らしい。そこまでで止め、最初の頁も少し開く。
隣では、宮坂さんも別の本を持っていた。数頁読み、表紙へ戻り、棚の位置を見て、そのまま手に残している。
「それが候補ですか」
「その一つです。あとは、こちらも」
宮坂さんが別の段へ手を伸ばしかけた時、その近くに表紙を正面へ向けた本が見えた。古い旅館の玄関に、鞄が一つ置いてある。題名は、『まだ来ない客』。
「それ、見てもいいですか」
「どうぞ。私も題名が気になっていました」
受け取り、冒頭を読んだ。山あいの宿に、まだ来ていない客の荷物だけが先に届いている。
誰が運んできたのか。
宿の主人が玄関へ戻っていく。
もう少し先へ進んだところで、宮坂さんが尋ねた。
「どうですか」
「鞄を持ってきた人、どこへ行ったんでしょう」
「もう、そこまで進んだんですか」
「あ。まだでしたか」
本を閉じようとすると、宮坂さんが手を添えた。
「私も、そこまで読んでみてもいいですか」
「はい」
渡すと、宮坂さんは最初から読み始めた。
待っている間、俺はさっきの屋敷の本へ戻る。
こちらも気になる。
それでも、途中で宮坂さんの持っている本へ目が向いた。
主人が玄関へ戻ったあと、どうなったのか。
そこを読まずに渡したことが、今になって気になった。
宮坂さんが顔を上げた。
「沢渡さん。こちらにしませんか」
「俺も、そう言おうと思ってました」
彼女はまだ、本を閉じていなかった。
「ここで止めるのが、少し難しいですね」
「続きが気になります?」
「はい」
「戻ったあと、何があったんですか」
「そこは、買ってから読みましょう」
今度は、答えを知っている人の顔ではなかった。言ってしまいたいのを、自分のためにも我慢している顔だった。
*
棚に出ていた『まだ来ない客』は、一冊だけだった。
宮坂さんが奥を確かめ、俺も下の段を見る。
同じ作者の別の本はあるが、同じ題名は見当たらない。
「もう一冊あるか、聞いてきます」
「お願いします。なければ、取り寄せてもらいましょう」
別の本を選び直す話にはならなかった。俺は一冊を預かり、店の人へ同じものがもう一冊あるか尋ねた。
「あります。出してきますね」
しばらくして、同じ表紙が二冊並んだ。宮坂さんが片方を自分の前へ寄せる。
「こちらは私の分で、別にお願いします」
「俺も、こっちを」
それぞれ、自分の分を買った。紙カバーを掛けてもらうと、二冊とも、また題名の見えない茶色い本になった。借りていた本と違い、今度は俺の一冊だった。
けれど、同じものをもう一冊、宮坂さんも持っている。
店の人から紙の栞を一枚ずつ受け取った。宮坂さんは本を鞄へ入れかけ、俺がまだ持っているのに気づいた。
「帰ってから、読みますか」
「……少し、読んでいきませんか」
「今から?」
俺は店の外を見た。
まだ夕方には早い。
駅前の広場には、座れるところがあったはずだ。
「最初の章くらいなら。さっきの続きが気になって」
「私もです」
宮坂さんは鞄へ入れかけた本を、手元へ戻した。
*
広場の端のベンチには、片側だけ日が当たっていた。俺たちは日陰へ座り、買ったばかりの本を開いた。
右膝を楽なところへ置いても、隣の邪魔にはならないだけの広さがある。宮坂さんは鞄を横へ置き、紙カバーの折り返しを一度撫でてから読み始めた。
さっき止めた玄関の場面へ、すぐに戻った。主人が外へ出ても、鞄を運んできた人はもういない。
客が着いたらどうするかを、宿の者たちが話している。
その間も、鞄は玄関へ置かれたままだ。
俺は少し前へ戻り、誰が最初に鞄へ触ったのかを確かめた。横で頁のめくられる音がする。今は、宮坂さんがどこまで進んだかより、自分の読んでいるところが気になった。
自転車のベルが、広場の向こうで鳴った。
子どもを呼ぶ声がして、返事が返る。
読み始める前には一つずつ聞こえていた音が、いつの間にか遠くなっていた。第一章を読み終えて顔を上げる。宮坂さんは本を閉じ、膝の上で押さえていた。指には、抜いた栞を持っている。
「お待たせしました」
「いいえ。どうでした?」
俺は彼女の顔を見た。さっきまで話していた本なら、そう聞かれた時、宮坂さんは答えを知っていた。今は違う。彼女も、俺と同じところまでしか知らない。
「宿の主人、気になりませんか」
「私も、少し」
「鞄を持ってきた人を探す前に、鞄を奥へ動かそうとするでしょう」
「私は、客の名前をすぐ言ったところが気になりました。本人はまだ来ていないのに」
俺は本を開き直した。
「鞄についてた札を見たんじゃないですか」
「それ、書いてありました?」
「……どうだったかな」
二人とも、同じ辺りへ戻った。俺が探している間に、宮坂さんが先に指を止める。
「札が下がっているとは書いてあります」
「ほら」
「でも、主人がそこを読んだとは書いていません」
「あ」
俺も同じ行を見つけた。確かに、札があることと、そこで名前を読んだことは別だった。
「最初から、泊まる人の名前を知ってたんじゃないですか」
「宿泊客なら、それ自体はおかしくないですね」
「そうですよね」
宮坂さんは少し考えてから笑った。
「早速、決められなくなりました」
「俺は、やっぱり鞄を持ってきた人の方が気になります。宿の人たち、客が来るのを待つ話ばかりで、外へ探しに行かないので」
「今なら、まだ近くにいるかもしれませんね」
「そうなんです」
言いながら、指が次の頁へ動きかける。宮坂さんも、その先を見ていた。俺は一度、本を閉じた。
「このままだと、次も読みますね」
「そうですね」
「帰れなくなりませんか」
「いつかは、帰れます」
真面目な顔で言ったあと、宮坂さんが笑った。
俺も笑った。
白山の泊まり場で、宮坂さんは、区切りのいいところまで読むと言っていた。その区切りは、来ないこともあるとも。今日は少し分かった。
章が終わったところはある。
けれど、そこで気になることまで終わるわけではないらしい。
俺たちは栞を挟み、本を閉じたまま、しばらく並んで座っていた。
「ここから先は、自分の速さで読んでいいんですよね」
「もちろんです」
「じゃあ、読む速さを合わせるのは、なしで」
「助かります。今日は、このあと少し時間がありますので」
「俺もです」
宮坂さんが本へ目を落とす。
「次に話す時は、どこまで読んだかを最初に聞きましょう」
「はい。その先の顔は見ないようにします」
「私の顔からは分からなかった、と先ほど言っていませんでしたか」
「次は宮坂さんが、俺の顔を見るかもしれないので」
宮坂さんが声を立てて笑った。
「それは、少し楽しみです」
本が鞄へ入った。
*
広場を出る頃には、店先へ落ちる影が来た時より長くなっていた。俺も本を鞄へ入れる。
宮坂さんの鞄には、俺が返した本と、今日買った本が入っている。
俺の鞄は一冊減って、一冊増えた。
数だけなら、来る前と変わらなかった。信号で足を止めた時、宮坂さんが言った。
「沢渡さん」
「はい」
「今度、二人で登る山も、私からお誘いしていいですか」
「もちろんです」
宮坂さんは信号の向こうを見たまま続けた。
「尾根を長く歩いてみたいんです。一つの頂へ出て、その先も見ながら進めるところを」
「いいですね」
「行ってみたいところが、いくつかあります。今度、地図を広げて、沢渡さんが気になるところも聞きたいです」
「見せてください。俺も、どこを歩きたいか考えます」
具体的な日を決めるのは、身体の具合や仕事を見てからになる。
道も、荷も、現地の情報も確認しなければならない。
今日はまだ、その地図すら持ってきていない。
信号が変わり、二人で歩き出した。
「次は、私が先に話してもいいですか」
「もちろんです」
「途中で沢渡さんが別の尾根を指すかもしれないので」
「最後まで聞きますよ」
「遼くんの地図でも、すぐ別のところを見つけていましたから」
「あれは、地図にあったので」
「今度の地図にも、いろいろありますよ」
俺は笑った。同じ一枚を前にした時、宮坂さんがどこを指すのか、見てみたかった。みさか屋へ折れる角へ来ると、宮坂さんが歩く速さを少し落とした。
今日は、本の話を始めてから、何度も足を止めていた。
全部話してから帰ろうとしたら、また本を開くことになりそうだった。
「本、ありがとうございました」
改めて言うと、宮坂さんが鞄へ手を添えた。
「楽しんでもらえて、よかったです」
「面白かったです。読み終わったあとに話すところまで」
「私もです」
少し間を置いて、宮坂さんが笑う。
「では、また続きを」
「はい」
彼女は寄るところがあると言って先へ歩き、俺はみさか屋へ戻った。カゲを迎えて家へ帰ったら、まず本を出そうと思った。
*
夕飯を済ませてから、青い底のコップへ水を注いだ。文庫本は、その少し向こうへ置いてある。
紙カバーの内側に、店でもらった栞が挟まっていた。
そこを開けば、広場で読み終えた第一章の続きだった。
カゲが卓の下へ入り、俺の脚のそばで丸くなる。その背へ足が当たらないよう少し引き、本を持ち上げた。
二章まで。そう思って読み始めた。気づくと、三章の最後まで来ていた。もう少し進めば、広場で二人して疑っていたことの一つくらいは分かるかもしれない。
それでも、そこで本を閉じた。
答えを見る前に、いま考えていることを話してみたかった。携帯を取る。
『三章まで読みました。宮坂さんは、どこまでですか』
送って、水を飲む。少しして、卓の上で携帯が鳴った。
『私も三章までです。宿の主人のこと、まだ疑っていますか』
俺は笑い、閉じた本へ目をやった。書店では、宮坂さんがどこまで読んだかを聞かずに先の話をしてしまった。今は、同じところまで来ていると分かっている。
それでも、何を考えたかは聞かなければ分からない。
『まだ疑っています。でも、それより、裏口の雪に残っていた足跡の方を先に話したいです』
返事はすぐに来た。
『では、次はそちらから聞かせてください。私も、あの足跡で一つ気になったところがあります』
俺はもう一度、本を開いた。
第三章の途中、足跡の話が出た頁を探す。そこへ、今日の書店のレシートを挟んだ。
『明日の夕方、みさか屋で少し話しませんか』
送ったあと、元の栞へ戻る。携帯が鳴った。
『はい。私も本を持っていきます』
俺はその返事を読んでから、まだ開いていない第四章へ目を落とした。少し迷って、本を閉じた。明日、話してから続きを読んでもいい。
青い底のコップへ手を伸ばす。
卓の下では、カゲがもう眠っていた。
今回、自分から選んだのは白山だった。山を下りた今も、次に開きたい頁や、次に広げたい地図が残っている。
出羽の主素材も、白山の主素材も、まだ庁の保管庫にある。二つが戻ってきたら、それをどう使うかも、自分で選ばなければならない。
俺は携帯を伏せ、明日のために本を卓の端へ置いた。
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