第77話 遼の行き先
遼が持ってきた二枚の地図は、片方だけ折り目が柔らかくなっていた。
白山の動画を公開してから、数日が経っていた。みさか屋の茶の間には、今日はパソコンもカードリーダーも置かれていない。俺が座卓の端へ湯呑みを寄せると、遼は待っていたように透明な袋を開け、折り畳んだ地形図と、幾枚もの紙を取り出した。
「二つまで絞ってきました」
「そのわりに、随分と紙が多いな」
「地図は二枚です。あとは、それぞれの登山口への行き方と、帰りの接続と……」
「二つずつ調べたのか」
「はい」
向かいに座っていた宮坂さんが、卓の空いているところへ手を伸ばした。
「重ねなくても、こちらまで使えますよ」
遼は礼を言って、紙を並べ直した。乗り物の時刻と運賃を書き写したもの、歩く順に場所と所要時間の目安を並べたもの。それぞれに、確認しておきたいことを記した小さな紙が添えてある。ただ地図を持ってきて、あとは俺たちに聞けばいいと思っていたわけではなかった。
俺は右脚を少し横へ伸ばし、一枚目を手元へ引き寄せた。
遼の認定丈は九〇〇だ。そこへ一〇〇〇を足した入山上限と、二つの山の最高所の数字を見比べる。高さの条件だけなら、どちらも範囲には入っていた。ただ、どちらの行程も最高所までは登らない。紙に「頂」とあるのは手前の展望地で、そこから回る線も含めて九〇〇を越えないから、丈は動かない。道の状態や異形の記録については、確認したい項目として別の紙に残してある。
「こっちは、頂からもう一つ向こうまで歩けるみたいです。尾根が続いていて」
「帰りは、同じ道か」
「今のところは。反対側へ下りる道も地図にはあるんですけど、今も使えるか分からなかったので」
遼の指が、自分で引いた線を辿った。帰りの便を書いた紙も、その脇へ置く。
宮坂さんがもう一枚を開いた。
「こちらは、森の中を歩くところが長そうですね」
「はい。上の方で、谷の向こうが開けるそうです」
折り目の柔らかい方だった。
遼はそれぞれの地図に挟んであった写真の写しも、一枚ずつ、その脇へ並べた。
一枚目の山は、遮るもののない空と、遠くの峰が広く写っている。二枚目は手前の枝が端に残り、谷を挟んで、青黒い尾根が幾重にも重なっていた。広さだけなら、最初の写真の方が分かりやすい。二枚目は、どの尾根がどこへつながるのか、少し目を留めて追いたくなる眺めだった。
遼は俺たちが見比べるのを待ってから、尋ねた。
「どちらが、いいと思いますか」
俺は一枚目へ指を置いた。
「この尾根の曲がり方は、気になるな。歩いていくと、途中から見える方が変わりそうだ」
「ですよね」
遼が背を起こした。
「こっちの方が、長く歩けますし。では、先にこちらを――」
二枚目へ伸ばしかけた手が止まった。写真をしまうのかと思ったが、端を押さえたまま、もう一度見ている。
「お前は、どっちへ行きたいんだ」
聞くと、遼は顔を上げた。
「……気になってるのは、こっちです」
指は、折り目の柔らかい地図に残っていた。
「じゃあ、そっちの話も聞かせてくれ」
「でも、沢渡さんは」
「俺が気になったところを言っただけだ。お前がここを選んだ理由は、まだ聞いてない」
宮坂さんが二枚目の写真を、卓の真ん中へ寄せた。
「両方見せてもらう約束でしたからね」
遼は少し笑い、畳みかけた地図をもう一度、平らに広げ直した。
*
「ここで、しばらく座っていたいんです」
遼が指したのは、頂の近くの、谷へ向いたところだった。
「この写真、何本も尾根が見えるでしょう。近い方は木まで分かるのに、奥へ行くと、色が違うだけになっていて」
「ああ」
「同じところから見ていたら、どこまで区別できるのかなと思って。最初は全部、重なってる山にしか見えなかったんですけど」
彼は別の紙を引き寄せた。
同じ場所について書かれた登山記録の控えだった。どこで道が開けるのか、写真が撮られたのはいつか。写真一枚では分からないことを、自分なりに調べていたらしい。
「今も同じように見えるかは、問い合わせたいです。この写真、少し前のものなので」
「木が伸びてるかもしれないな」
「はい。そこも、まだ」
確認する項目へ、鉛筆で丸をつけた。
俺は写真を手元へ寄せた。谷の片側だけに光が当たり、その向こうにある尾根の一本は、ほとんど影になっている。白山では、上へ出て初めて、それまで隠れていた斜面を見た。遼が指しているのは別の山だったが、手前の形だけでは奥が分からないところは似ていた。
「長く見てれば、陽の当たり方も変わるだろうな」
「そうなんです」
遼の返事が早くなった。
「雲が来たら、暗いところが動くかもしれないですし。写真では見えなかった線が、急に出てくるかもしれない」
「晴れて、ずっと同じだったら?」
「それは、それで見てます」
少しも困ったようではなかった。
宮坂さんが、歩く順番を書いた紙へ目を落とした。
「そのための時間は、どのくらい取ってありますか」
「頂では、二十分です」
俺もそちらを見た。
歩く途中の休みとは別に、頂で止まる時間が書かれている。その先には、もう一つ見晴らしのありそうな場所へ回る線が続き、帰り道の途中にも、小さな印があった。
「飯も、ここか」
「はい。食べながら見ればいいかと」
「食って、写真を撮って、座って見る。全部で二十分?」
「……そう言われると、ちょっと忙しいですね」
遼は自分の書いた数字を見た。休みを削って先を急ごうとしていたわけではない。ただ、一番楽しみにしているところだけが、次へ移るための短い区切りになっていた。
「こちらも、寄りたいんですか」
宮坂さんが帰りに回る方を指した。
「できれば。違う向きが見られるみたいなので」
「私は、この間の森も気になります。谷に沿って戻れる道なら、行きとは違って見えそうですね」
「じゃあ、そこを通る方で」
遼が鉛筆を持ち直した。
「待て。また増えるぞ」
「あ」
宮坂さんが笑った。
「すみません。私まで行きたいところを足しました」
「いえ、いいんです。せっかくなら、いろいろ見られた方が」
そう言いながらも、遼は二十分と書いたところへ目を戻していた。
俺は別の下り方についての紙を少し離した。なくすためではなく、いま見ている地図が隠れないようにするためだった。
「こっちを回らないで、来た道へ戻るとどうなる」
「時間は、取れます。頂で、もっと長く」
「お前が見たいところには、いられるな」
「でも、見られる場所は減りますよね」
遼が顔を上げた。
二枚の地図よりも、俺たちの反応を気にしているようだった。
「せっかく一日空けてもらって、ずっと同じところに座ってるだけだったら、どうかなと思って」
俺は写真から手を離した。
「一緒に行くつもりで、考えてくれてたのか」
「はい。あの、行けたらですけど」
遼が鉛筆を置いた。
「まだ、お願いしてませんでしたね」
「してないな。いきなり二つの山の説明からだった」
「そこからでした」
宮坂さんの肩が小さく揺れた。
「ずいぶん用意してきてくれましたからね」
遼も笑ったが、すぐには続きを言わなかった。卓の上の線を見直し、写真を自分の方へ少し引いた。
遠くで、昼を知らせる音がした。
壁の時計を見る。来た時にはまだ早いと思っていたが、二枚の地図を並べているうちに、随分と時間が経っていたらしい。
「先に、飯にするか」
遼も時計へ目をやった。
「はい。……その店、俺が選んでもいいですか」
「いいぞ」
「この近くに、前から入ってみたかったところがあるんです」
今度は、どこがいいと思うかではなく、自分から言った。
*
遼が選んだのは、大通りから一本入ったところにある、小さな喫茶店だった。
みさか屋を出る前に、カゲへ声を掛けた。白い耳がこちらへ向き、俺が荷を背負わないのを見ると、また前脚へ顎を戻した。
今日は誰も重いものを持っていない。遼の鞄には、地図が一枚だけ入っていた。残りを卓へ置いていこうとして、折り目の柔らかい方だけを取り直したのだ。
店先の看板には、品書きと料理の写真が並んでいた。
軽く焼いたパンに、厚い卵を挟んだサンドイッチだった。黄色いところがパンの端からはみ出し、皿の脇にサラダの小鉢がついている。
「ここ、通るたびに見てたんです」
「入ったことはないのか」
「まだ。いつも通る時は、昼を食べたあとだったので」
宮坂さんも写真を覗いた。
「おいしそうですね」
「はい。今日は、まだ昼を食べてないです」
その言い方がおかしくて、俺は笑いながら硝子戸へ手を掛けた。
窓際に四人掛けの卓が空いていた。俺が椅子へ座ると、遼は向かいへ腰を下ろした。宮坂さんは俺の隣へ入り、窓の外を一度見てから品書きを開いた。
遼は迷わず、店先で見ていたものを頼んだ。俺はチーズを載せて焼いたトースト、宮坂さんも卵のサンドイッチを選ぶ。
「サンドイッチは、お二つですね」
店の人に聞かれ、遼と宮坂さんの返事が重なった。
俺だけ違うものになった。遼がこちらの品書きを見たが、注文を変えようとはしなかった。
「そっちも、気になるか」
「気になります。でも、今日は卵です」
「そうか」
店の人が離れると、遼は窓へ顔を向けた。
向かいの店では、箱を積んだ台車が戸口につかえていた。運んでいる人が一度後ろへ引き、店の中へ声を掛ける。奥から別の人が出てきて、戸をもう少し開いた。
台車が中へ進む。今度は上に載せた箱が高すぎて、二人で顔を見合わせていた。
遼が小さく笑った。
「もう一回、戻りますね」
「上の箱を先に下ろすんじゃないか」
「どちらでしょう」
宮坂さんも窓の方を見ていた。
運んできた人が上の箱を持った。俺が少し顎を上げたところで、店の人がそれを受け取り、そのまま戸口を通ろうとして、横へ向き直った。箱の幅は、台車より広かったらしい。
「そっちもでしたね」
遼が笑った。
箱が中へ運ばれると、残りの荷を載せた台車も、ようやく戸口を抜けた。見えなくなってからも、遼はしばらく窓を見ていた。
「撮ってたら、箱が通るまで止められないですね」
「途中で止めるつもりだったのか」
「たぶん、最初は台車が入ったところで。でも、そのあと箱が引っかかったので」
宮坂さんが口元を緩めた。
「予定より、長くなりますね」
「はい。こういうの、待ってしまうんです」
遼は言ってから、鞄へ目をやった。
俺もそちらを見たが、地図を出せとは言わなかった。店の人が水の入ったコップを三つ運んできていた。
窓の向こうでは、配達を終えた人が戻ってきた。空になった台車は、今度は何にも引っかからず、軽い音を立てて道へ出た。
遼はそれを見送り、ようやく卓へ向き直った。
「二十分だと、短いですね」
店の話ではなかった。
俺は水を一口飲んで、コップを置いた。
「お前が何を待つかによるだろうな」
「はい。行ってから、あっちの雲が動くまでとか、あの尾根が明るくなるまでとか、考えそうです」
「全部、思ったように変わるかは分からんぞ」
「分かってます。でも、見ているうちに何か気になった時、すぐ次へ行くのは嫌かもしれません」
遼が、コップについた水を指で拭った。
「さっきも、箱が通ったところで終わりだと思ったのに、空の台車が戻ってくるところまで見てしまいました」
「あれは、俺も見たかったな」
「沢渡さんも?」
「荷がなくなったら、あんなに楽に通るのかと思って」
遼が笑い、宮坂さんも窓へ目を戻した。
「私は、最初から戸を大きく開けておけばよかったのに、と思っていました」
「それなら、最初の一回は引き返さずに済みましたね」
「ええ。店の人には、その方がよかったでしょうね」
遼は声を出して笑った。
同じ窓から同じものを見ていたのに、目を留めていたところは少しずつ違ったらしい。
*
運ばれてきたサンドイッチは、写真より厚く見えた。
パンの間にある卵が、持ち上げた時に少し沈む。遼は皿の上で両手を添え、どちらから食べるか見てから、端の一切れを取った。
俺のトーストは、チーズの縁に焼き色がついていた。ナイフを入れると、パンの表面が軽い音を立てる。切り口から立った湯気を見ているうちに、話すより先に口へ運んでいた。
しばらくは、三人とも食べる方が忙しかった。
遼は熱い卵に少し息を吹きかけて食べ、飲み込んでから店先の看板へ目を向けた。店の中からでは写真の裏しか見えない。それでも、何を思い出しているのかは分かった。
「どうだ」
「入ってよかったです。思ってたより、出汁がきいてます」
宮坂さんが次の一切れへ手を伸ばした。
「私も、これはまた食べたいです」
「本当ですか」
「ええ」
遼は嬉しそうに皿を見た。自分で作った料理を褒められたわけではないのに、俺にも、その顔になる理由は分かった。
「山の方も、こんな感じで誘いたかったんです」
少し食べ進めてから、遼が言った。
「俺が行きたいところを、二人にも見てもらいたくて。あの写真のところで、何を見てるのか聞きたいです」
宮坂さんが顔を上げた。
「白山の映像を見た時、宮坂さんは尾根の向こうを指したでしょう。俺は、二人が座って笑ってるところばかり気になってたので」
「ええ」
「同じところにいたら、俺が気づいてないものを見てるのかなと思って」
遼は言葉を探すように、窓へ一度目をやった。
「でも、退屈だったら悪いかなと思って、ほかにも回れるところを探して。沢渡さんたちは、もっと高い山も歩いてるし」
「俺が先に帰りたくなったら、言うよ」
「はい」
「ただ、あの写真を見ただけで退屈かどうかは分からん。さっきの台車だって、俺も最後まで見たしな」
遼の肩が少し下がった。
宮坂さんがコップを持ったまま言った。
「私は、森を回る方も気になっています」
「はい」
「でも、行くたびに全部歩かなくてもいいと思っています。今回は頂で長く座るなら、そのつもりで行きたいです」
遼は頷き、しばらく考えた。今度は、宮坂さんの希望を書き足すために鉛筆を探したりはしなかった。
「それなら、俺は、最初はあの場所に長くいたいです。向こうへ回る方は、次にします」
「それで、調べてみよう」
俺が言うと、遼はもう一度頷いた。
食器の触れ合う音が、店の奥から聞こえた。向かいの店では荷下ろしが終わったのか、さっきまで開いていた戸が半分閉じられている。
遼は少し背筋を伸ばした。
「行けるように準備ができたら、二人にも来てほしいです」
最初の地図の説明より、短い言葉だった。
「俺も、行きたい」
「私もです」
宮坂さんが続けると、遼は二人を交互に見た。
「ありがとうございます」
「ただ、俺たちの身体の戻りと、互いの仕事は見させてくれ」
「はい。日にちは、相談してから」
その先の予定まで、今日の皿の間へ広げる必要はなかった。遼は残っていたサンドイッチを取り、今度はさっきより大きく口を開けた。
俺もトーストの残りを食べた。
窓の外を、買い物袋を持った二人連れが通る。一人が何かを指し、もう一人はそちらを見ずに返事をして、少し歩いてから立ち止まった。
遼も見ていたらしく、口の中のものを飲み込んでから笑った。
「あれ、見てなかったんでしょうね」
「あとから気づいた顔でしたね」
宮坂さんが答えた。
俺は二人の声を聞きながら、窓の外へ顔を向けた。何を指していたのかは、こちらからは見えなかった。
*
みさか屋へ戻ると、卓には、行きに残した紙がそのまま並んでいた。
遼は鞄から一枚を出し、折り目を撫でて広げた。今度は、折り目の柔らかい地図を真ん中へ置く。
「まず、こっちを調べます」
鉛筆で、地図の脇へ小さく一と書いた。もう一枚にも、二と入れる。最初の山を捨てるための番号ではなく、考える順番だった。
俺は隣へ座り、遼が行程の紙を直すのを見た。
帰りに回るつもりだった線を消し、元の道へ戻る矢印を入れる。別の下り道について調べたいことは、そのまま残した。今日使わないと決めたことと、知る必要がなくなったことは違う。
頂の二十分には線が引かれた。
その横に新しい数字を書こうとして、遼は手を止めた。
「帰りの便も、もう一度見ます。ここで長く止まれるように、朝から組み直したいので」
「そうだな。下りの時間を詰めずに済むように、見てくれ」
「はい」
確認したい項目の紙へ、また一行が増えた。
宮坂さんは写真の日付を確かめ、遼へ向けた。
「この場所の見通しと、今の道のことは、先に聞いておきましょう。写真を撮った時から、どこが変わっているかも」
「それと、異形の記録ですね」
「ええ」
遼は自分で書いてきた項目の順番を入れ替えた。俺たちの言ったことを全部、余白へ追加しているのではなかった。先に分からなければ、その先を決められないものを上へ持ってきている。
それを見て、俺は地図へ伸ばしかけた手を引いた。遼は気づかず、自分の鉛筆で続きを書いた。
カゲが立ち上がり、卓の横を通って窓のそばへ移った。遼は少しだけ紙を持ち上げ、白い背が通り過ぎてから戻した。
「あの、カメラは持っていきたいです」
鉛筆を置いてから言った。
「持っていくなら、その分も荷に入れて考えよう」
「はい。でも、何を撮るかは、向こうを見てからにします。先に全部決めると、また回るところが増えそうなので」
遼は少し笑った。
「せっかくなら、三人で座ってるところも撮りたいです」
「お前も入るんだぞ」
「そのつもりです」
「なら、俺が置いてくる。お前は先に座っててくれ」
遼が顔を上げた。
「沢渡さんが撮るんですか」
「白山でも置いただろ」
「そうですけど。じゃあ、最初に角度だけ一緒に見ましょう」
「頼む」
宮坂さんが笑った。
「戻ってくる場所を、空けておきますね」
遼は写真を手に取り、端を少し持ち上げた。自分がそこへ座り、俺たちがどこへ入るか、もう考えているのかもしれなかった。
俺はその手元を見ていた。
白山の頂で遼に見せようと話した時には、持ち帰る映像のことを考えていた。今、卓の真ん中にあるのは遼の地図で、俺たちの座る場所までその中にあった。
「お茶も、持っていきたいです」
「温かいのをですか」
宮坂さんが聞いた。
「はい。すぐ次へ行かないなら、飲んでから、もう一杯飲めますし」
「それは、いいですね」
「俺の分も頼めるか」
「はい」
遼は持ち物を書く紙を出したが、書き始める前に俺を見た。
「でも、沢渡さんはお茶だけじゃ足りないですよね」
「飯は、自分で持っていくよ」
「よかった。三人分の昼飯までどうしようかと思ってました」
「今日も、自分の分は自分で払っただろ」
「そうでした」
宮坂さんが肩を揺らして笑った。
「食べてほしいものがあるなら、それは別に持ってきてください」
「あります」
「あるのか」
返事が早かった。
遼は鞄から、今度は小さな紙袋を出した。帰り道で寄った菓子屋のものだった。自分の分を買ったのだと思っていたが、中にはフィナンシェが三つ入っている。
「お茶と食べると、おいしいんです。山に持っていくのは、潰れないようにしないといけませんけど」
「今日は、潰れてないか」
「今日は大丈夫です」
差し出された袋の中を覗くと、手前の一つだけ角が少し欠けていた。遼はそれを自分で取った。
*
新しく湯を沸かしている間、遼は紙を揃えた。
使わなかった一枚目の地図も、元の袋へ戻した。そちらに挟んであった写真を少し見てから、二と書いたところを確かめる。
「こっちも、いつか行きたいです」
「順番が決まっただけだろ」
「はい」
遼は、一と書いた方を上へ重ねた。
来た時より紙の数は増えていたが、どれを開くかで手を迷わせることはなくなっていた。先に問い合わせることと、あとで俺たちと相談することを分け、写真は第一候補の地図へ戻した。
俺が湯呑みを置く場所を空けようとすると、遼が先に紙を寄せた。
「次は、ここを確かめてから持ってきます」
「分かった」
「返事が来たら、二人にも見てもらっていいですか」
「もちろんです」
宮坂さんが答えた。
遼は最後に、歩く順番を書いた紙だけを広げた。頂の欄には、まだ新しい時刻が入っていなかった。
鉛筆を取り、その余白へ書く。
――ここで昼飯。お茶。
その下へもう一行、何かを足した。
「何て書いたんだ」
「あとで、自分が忘れないように」
紙を少し傾けられ、俺にも読めた。
――次へ行く前に、二人に何を見ているか聞く。
俺は笑った。
「飯を見てたら、悪いな」
「それも、撮ります」
「撮らなくていいだろ」
「俺も、そういうのを持って帰りたいので」
宮坂さんが、淹れたばかりの茶を遼の前へ置いた。
彼は礼を言い、湯呑みを手に取った。すぐに口をつけず、少し冷めるのを待っている。その間も、視線は地図の方へ戻っていた。
俺は袋から焼き菓子を一つ取った。持ち上げるとバターの匂いがして、縁から細かな屑が指へついた。地図へ触れる前に、袋の上で払う。
遼はもう、鉛筆を持っていなかった。
湯呑みを両手で包んだまま、自分が一と書いた山を眺めていた。
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