第89話 次、右
主素材を荷の空きへ収めたあとも、俺はすぐには踵を返さなかった。背負子を岩に預けたまま、荒れた平場をゆっくりと見渡す。大きい方が倒れていた場所。側面側を先に崩した場所。二つの身体はもうない。山刀で刻んだ傷は、二つの身体とともに消えた。残っているのは、抉れた土と傷ついた岩、それから俺自身の足跡だけだった。
「……よし」
声に出す。
返事はない。
少し離れたところで、カゲがこちらを見ている。それでいい。戦いは終わった。
あとは帰る。
背負子を担ぎ直し、上蓋を手のひらで押さえた。主素材が一つ入った分だけ、朝とは荷の中身が違う。それでも、まだ少し空きは残っていた。予定外を入れるために残した場所を、最後まで全部使い切らずに済んだ。それを確かめて、俺は下山路へ向き直った。二度目の下山は、初戦とはまるで違った。
右腕の傷は塞がったまま。肩に打撃の重さは残るが、動く。背負子も壊れていない。予定していた道を外れる必要もない。カゲの第五性質を使わずに歩ける。《甦り》のために声を使うほどの傷もない。だからといって、歩幅を広げる理由もない。目的を果たしたあとの下りほど、山では気が緩む。
荷を届けた瞬間に仕事が終わったような顔をして、帰りの何でもない足場で転ぶ人間を、俺は何度も見てきた。山頂に立っても。荷を届けても。主を倒しても。
帰るまでは終わらない。
「……関まで」
声に出す。歩く。主を倒したことを持ち帰る。一つだけ残った主素材を持ち帰る。それから、胸の奥に入ってきた、まだ何なのか分からない験も。全部持って戻って、今日が終わる。
*
帰着の期限より前に関へ戻った。手形を返して帰着を届け、境を出る。道を下って朝に分かれた線が見えてくると、その向こうで待っていた宮坂さんがこちらに気づいた。まず俺の歩き方を見る。次に腕。肩。背負子。前回とほとんど同じ順番だった。違うのは、今日は包帯も、傾いた荷もないことだ。俺が線を越えると、宮坂さんがこちらへ歩いてきた。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
答えると、視線が背負子の上部へ移った。
「入ってます?」
「一つだけ」
「一つ?」
宮坂さんが足を止める。
「二つとも散りました」
「同時に?」
「ほとんど同時です。先に崩した方だけでは散らなかった。大きい方を倒したあと、両方が一緒に消えました」
「それで、残った素材が」
「一つです」
宮坂さんはしばらく黙った。みさか屋の卓に描いた、二つの丸を頭の中でもう一度見ているような顔だった。
「……山としては、一つの主だったと考えるのが自然そうですね」
「俺もそう思います」
「二つの身体で」
「一つの意思」
そこまで言ってから、俺は少し考えた。
「少なくとも、そう見えました」
宮坂さんも頷く。
「そこは記録と一緒に整理しましょう」
「はい」
勝ったからといって、見たもの全部にその場で名前をつける必要はない。
「怪我は?」
「新しい傷はありません。肩に衝撃は残ってますが、動けます」
「装備は?」
「問題なしです」
「声は?」
「《手力》のあとから、少し喉が渇いてます。帰りは験を使わずに済みました」
「喋れることは確認できました」
「それだけじゃ足りませんね」
「ええ。験の声は、休んでから確かめましょう」
少しだけ、宮坂さんの口元が緩んだ。そこで思い出した。
「あと」
「はい?」
「験を継ぎました」
表情が戻る。
「どんな?」
「《結び》、という名前だけは。何をするものかは、分かりません」
「……分からない?」
「はい」
俺は胸元へ手を置いた。
「たぶん、一人では確かめにくいです」
「一人では?」
「誰かが隣にいる時に使うもの……のような気がします」
自分でも曖昧だった。山の中で験が入ってきた時、何かを止めたいとは思わなかった。何かを壊したいとも。ただ。誰かが隣にいたら。その人が次にどう動くのか。そこへ自分が何を返すのか。そんな感覚だけが喉元に残った。宮坂さんはそれ以上その場では聞かなかった。
「報告の前に、何か食べましょう。麓の店に、温かいものを頼んであります」
「頼んであるんですか」
「予定の帰着時刻から逆算しました。冷めていたら、沢渡さんが遅かったということです」
店の奥の席で、湯気の立つ椀が二つ待っていた。根菜と鶏の入った汁に、握り飯が二つずつ。背負子を下ろして椅子へ腰を落とした途端、膝が勝手に笑った。山の中では一度も出なかった震えだった。
椀を両手で持つと、熱が指から腕へ上がってくる。一口すすって、ようやく肩から力が抜けた。
「冷めてませんね」
「ええ。間に合いました」
宮坂さんがそう言って、俺の顔を見た。何を見られたのか分からないまま、俺も笑っていた。
握り飯を二つとも食べ終えてから、俺たちは店を出た。
「では、戦いの経過を報告しましょう」
「はい」
*
宮坂さんとともに、新しく継いだ験と主戦の経過を資源庁へ報告した。二つの身体が同時に散り、主素材が一つだけ残ったことも報告する。主素材は、カゲへ与える前の登録と確認のため、資源庁へ一時的に預けた。どんな性質の素材なのか。これまでと違う点があるのか。そこは返ってきてから考えればいい。俺のものではなくなったわけじゃない。
今すぐカゲへ与える必要もない。今回、丈を確認しても数字は変わらなかった。二七〇二のまま。山上ヶ岳は、白山で認定された高さより低い。だから当然だった。
それでも、物足りないとは思わなかった。初回は傷を負って逃げた。二度目は戻った。一人で山へ入った。でも、一人で作ったやり方ではなかった。それで主を倒し、帰ってきた。今回持ち帰ったものは、丈の数字とは別のところにある。
*
新しい験を確かめたのは、身体の疲れが抜けてからだった。無理をしなくていい低い裏山。入山の届けと供物を済ませてから、二人で入った。俺と宮坂さん。カゲ。最初から異形と戦うつもりはない。二人で歩く。声を掛ける。少し身体を動かす。
それで何か分かれば十分だった。俺は新しく継いだ験を確かめるつもりで、喉元に残る感覚へ意識を向けた。継いだ時に覚えた言葉を、声に通す。
【連なる息、交わる意志】
【歩みを結び、ひとつの道へ――】
『結び』
「で、私は何をすればいいんです?」
宮坂さんが聞いた。
「それが分からないんですよ」
「沢渡さんが持って帰ってきた験ですよね」
「持って帰るところまではできました」
「中身の分からない荷ですね」
「歩荷に例えます?」
「沢渡さん向けに」
少し笑った。
「山上ヶ岳では、何を感じたんです?」
「誰かが隣にいたら、って」
「誰か?」
「はい」
「私とは限らない?」
「そこはまだ何も分からないです」
「そういう意味でしたか」
「他に何があるんです?」
「別に」
宮坂さんは何でもない顔で前を向いた。俺は少しだけ引っかかったが、話を戻す。
「誰かが次に動こうとする時、その前に……何かが近くなる感じがしたんです」
「動きが見える?」
「違います」
即答した。
「未来が見えるわけじゃない。声が聞こえるわけでもないです」
「考えていることが分かる?」
「それも違うと思います」
少なくとも、頭の中に言葉や感情が入ってくるようなものではなかった。もっと曖昧だ。向き。タイミング。その手前。まだ言葉になっていないところ。
「まず歩きましょうか」
宮坂さんが言った。
「そうしましょう」
二人で歩いた。俺が少し前。宮坂さんが右後ろ。普段と大きく変わらない位置だ。
「右を回ります」
「はい」
返事が来る。山上ヶ岳へ一人で入った時には無かった音だった。あの時は、自分の判断を自分の耳へ返すために声を出した。今日は、言えば返ってくる。それだけでも歩き方は違う。
けれど、新しい験らしいものは何も起きなかった。前後を入れ替える。少し歩幅を変える。止まる。また歩く。何もない。
「普通に歩いてるだけじゃ駄目ですかね」
「主の時は戦闘中でしたからね」
宮坂さんが言った。
「少しだけ動きを速くしてみます?」
「転ばない範囲で」
「もちろんです」
足場のいい場所を選ぶ。宮坂さんが錫杖を構えた。俺は山刀を抜かない。最初は単純な動きだけだった。宮坂さんが一歩出る。俺が避ける。俺が横へ回る。宮坂さんが向きを変える。何もない。
少し速くする。まだ何もない。宮坂さんが一度、錫杖を俺の肩の外へ伸ばした。俺は引く。次。低いところへ来る。避ける。三度目。宮坂さんの身体が、ほんの少し沈んだ。その瞬間。喉の手前に、何かが引っかかった。
右。
文字が見えたわけじゃない。声が聞こえたわけでもない。ただ。
右。
「次、右」
俺はその感触を追って、声にした。宮坂さんの目が一瞬だけ動いた。その直後、右へ踏み込む。俺はほとんど同時に反対へ抜けた。錫杖が俺のいた空間を通る。二人とも止まった。
「……今」
俺が言う。
「はい」
宮坂さんも構えを解かずにこちらを見る。
「右へ来ると思いました」
「私、言ってません」
「ですよね」
「視線で合図もしてないです」
宮坂さんは自分の足元を見る。
「でも、右へ行くこと自体は、その時にはもう決めてました」
「決めてた?」
「はい。踏み込む直前には」
俺は喉へ手を当てた。
「そこかもしれない」
もう一度やる。今度は何も来ない。宮坂さんが前へ入ろうとする。左。そう思った気がした。
「左」
声に出す。けれど宮坂さんは正面へ出た。俺たちの動きが噛み合わず、二人とも途中で止まる。
「違いましたね」
「違いました」
「今、私は最後まで正面と左で迷ってました」
「……なるほど」
さらに何度か試す。宮坂さんが迷っている時は、何も分からない。分かった気になって俺が声を出すと、普通に外れる。声を出せば当たるわけじゃない。俺が当てようとすれば、ただの予想になる。
「これ、今のまま戦いで使ったら危ないですね」
俺が言うと、宮坂さんも頷いた。
「はい。沢渡さんの声だからと信じて動いたら、普通に外れる時がある」
「やめましょうか」
「もう少しだけ。さっきと同じ感覚が一度出たら、そこで終わりにしましょう」
再開する。俺が前へ出る。宮坂さんが一歩引く。俺が止まる。次。宮坂さんの足が動こうとした。その瞬間、また来た。今度は方向よりも、先に動くタイミングが近い。俺自身も、左へ入りたいと思った。宮坂さんも次を決めかけている。その向きが、俺の左とぶつからない気がした。どちらへ出るかまでは見えない。たぶん。いや。
考え込む前に、俺は声を出した。
「左、入ります」
宮坂さんが右へ動く。俺が左へ入る。錫杖が俺の外側を通る。一つの動きみたいに、自然につながった。二人で止まる。
「今の」
宮坂さんが先に言った。
「俺も感じました」
「沢渡さん、私が右を空けるって分かってたんです?」
「そこまでは分かってないです」
「でも左へ入った」
「入れると思った」
うまく言えない。
「宮坂さんが何をするかじゃなくて……もう動こうとしている、その向きとタイミングだけが、少し近くなる感じです」
「少し近くなる」
「変な言い方ですけど」
「いえ。私の側も、少し似ています」
「何がです?」
宮坂さんが少し考えた。
「『左、入ります』って聞いたから、私が右を空けたわけじゃありません」
「はい」
「私は先に右へ動こうとしていました」
「はい」
「でも、沢渡さんの声が入った瞬間に、『ならこのまま右へ行っていい』っていう確認を、考えるより早く受け取った感じがしました」
「はい」
「それと、もう一つ。沢渡さんが声にする少し前に、左へ入りそうな向きが、私の方にも引っかかりました。まだ何も言われていないのに」
俺は黙った。
「動かされた?」
聞く。宮坂さんはすぐに首を横へ振った。
「違います。私が右へ行くのを決めています」
「ですよね」
「沢渡さんに身体を動かされた感じはありません。むしろ、いつもなら沢渡さんの位置をもう一度見てから動くところを、その確認が一つ減ったような」
「ああ」
それなら分かる。俺も同じだった。宮坂さんが右へ動くと知っていたわけではない。でも。自分が左へ入っていい、と判断するまでの一つが減った。その間に、声がある。
「次、右」
「左、入ります」
具体的な、短い声。それが入ると、二人の次の動きが少しだけ早くつながる。今分かるのは、その程度だった。
「山上ヶ岳の主とは違いますね」
俺が言う。
「違います」
宮坂さんも頷く。
「あれは二つの身体が一つの意思で動いていたように見えました」
「俺たちは別です」
「私は私で決めています」
「俺も俺です」
そこは大事だった。俺たちは別々に判断している。それでも、決めかけた次の動きが相手へ届くまでの間が少し短くなる。届くのは、宮坂さんから俺へだけではないらしい。俺の決めかけも、向こうへ同じように引っかかる。そこへ声を置くと、二人の行動がつながる。それ以上は、まだ決めない。
「今日はここまでにしましょう」
宮坂さんが錫杖を下ろした。
「もう?」
「沢渡さん、今の験がどれくらい声を使っているか分かります?」
俺は喉へ手を当てた。普通の声で答えられることと、験に使う声がどれだけ残っているかは別だ。
「分かりません」
「でしょう」
「……はい」
「分からないなら、最初の日に回数を増やす必要はないです」
俺も頷いた。分からないものを、分かったことにしない。まだ帰りのある山で、確かめすぎる理由はない。
「あと」
宮坂さんが言う。
「少なくとも、今日の確認では相手がいないと何も分かりませんでしたね」
「ですね」
「一人で使えない、とまではまだ言えませんけど」
「確かめようがないです」
「ええ」
俺は少し考えた。山上ヶ岳で、験が入ってきた時に感じたもの。誰かが隣にいる。その人が、自分で動こうとしている。その時に初めて、俺の喉に何かが触れる。
「……手のかかる験ですね」
「嫌ですか?」
「いや」
少し考えてから答えた。
「たぶん、好きです」
宮坂さんがこちらを見る。
「そうですか」
それだけだった。変に笑わない。そのくらいでいい。荷をまとめる。宮坂さんも錫杖を戻す。カゲは白い狼の姿で、少し先にいる。歩き出す前に、俺はさっきの声を思い返した。――次、右。短い言葉。それだけで、宮坂さんの動きと俺の動きの間から、一つ確認が減った。
山上ヶ岳へ一人で入った時。判断のあとに返ってくる音がないことを、何度も意識した。だから、自分で声を出した。
右。
次までこのまま。荷、問題なし。自分の判断を、自分の耳へ返した。
今日は違う。
《結び》。名と詠唱は分かっていても、どこまで届くかは分からない。誰に届くか。どれだけ声を使うのか。戦いで本当に頼れるのか。具体的な限界は、まだ分からない。
それでも。
俺が出した声は、自分の中だけでは終わらなかった。宮坂さんが、自分で決めて動く。その気配が俺へ少し触れる。俺も、自分で次を決める。そこへ、声を置く。返事を待つためじゃない。互いの次の一歩を、少しだけ早く重ねるために。俺は背負子を担いだ。前を歩き出した宮坂さんのあとへ、一歩を出した。
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