第74話 還った高さ
三日目の朝、コッヘルの湯が沸くまでの間に、俺は文庫本を二頁だけ読み進めた。
昨夜は眠くて同じ行へ戻ってばかりいたが、今朝は別の理由で前を開いた。椅子を引く音だと書かれた箇所を探し、その前後の台詞を追う。最初にそう言ったのは、誰だっただろう。
親指で頁を押さえ、もう一度確かめたところで、湯の煮立つ音がした。
「何か、分かりましたか」
バーナーの火を止め、宮坂さんが湯を注ぎながら尋ねてきた。
「分かったというか……気になるところが、かえって増えました」
「それは、楽しみが増えましたね」
「聞く方は、気楽でいいですね」
「そうでもないですよ。うっかり口を滑らせないようにしていますから」
彼女は俺の食事の袋へも湯を注ぎ、蒸らすように口を折り畳んだ。俺は文庫本に紙の栞を挟む。位置は、昨夜より少し先へ進んでいた。
朝食を済ませ、夜露で湿った幕を畳んだ。荷を背負う前に右膝を伸ばしてみると、昨日ほどの強張りはなかったものの、深く曲げれば奥がまだ鈍く痛んだ。宮坂さんも右肩に布を挟み直し、肩紐の当たりを調整している。二人とも、急ぎ足で下りられるようになったわけではなかった。
それでも、泊まり場の岩陰を出て森の道へ戻ると、昨日とは違う調子で歩けた。
大きな段差では足場を選んで時間を使い、平らな道では少し長く進む。小枝がザックの横を擦り、靴底についた土が石の上へ落ちた。時折振り返っても、木立に遮られて頂は見えなかったが、今日は、そのたびに枝の切れ間を探そうとはしなかった。
目の前に伸びているのは、帰るための道だった。
昼になる少し前、梢の向こうから人の声が聞こえてきた。
前を歩いていた宮坂さんが、歩く速さを緩める。
俺も顔を上げた。
二日前の朝に通った関が、木々の切れ間の先に見えていた。
*
防水袋を開けて手形を取り出すと、紙の折り目が指に馴染んだ。
受け取った時には、もっと平らで、角の揃った紙だったはずだ。濡れてはいなかったが、荷を背負い、しゃがみ、岩へ身体を寄せる間に、折り目が深くなり、端には細かな皺が増えていた。
関を越え、帰還の受付へ進んだ。宮坂さんが手形を差し出し、俺もその隣へ自分の分を置く。
「二名、帰還ですね」
「はい」
係の人が台帳と手形を見比べ、名前を確かめていく。俺たちは足元へザックを下ろし、聞かれたことに順に答えた。
「到達したのは、どちらまでですか」
「最高所まで。昨日、二人で登頂しました」
野帳を取り出し、頂で記録した頁を窓口へ向けた。高さと時刻。そのすぐ下には、昨夜描いた二枚の防壁の絵がある。
「主との交戦はありましたか」
「あります。倒してから、その先へ上がりました」
宮坂さんも隣で頷いた。俺は続けた。
「それと、主から《隔て》を継ぎました。二人ともです。前に防壁を立てる験です」
係の人は手を止めて継いだ験の欄へ書き足し、二人の登破記録へ目を戻した。どんな岩へ足を置き、巨腕の間をどう抜けたのか、そこまで一つずつ話すわけではなかった。俺たちが二人で立っている窓口の向こうで、山の中で過ごした時間が、幾つかの欄へ収まっていく。
帰還の確認を終えると、丈を確かめる手続きへ移った。手形に染み上がった線を、丈改めの係が読み取った。
「沢渡さんは、二七〇二。更新ですね」
告げられた声に、俺は顔を上げた。
係の人が示した記録の枠に、新しい数字が入っていた。
二七〇二。
聞き慣れない響きだった。
二四〇〇と答える時には、考える必要がなかった。歩荷の仕事で聞かれても、入山の手続きをする時でも、その数字が先に口をついた。
これからは、違う。
「こちらで確認してください」
差し出された認定の記録へ目を落とした。
名前は、沢渡迅。その横の数字も、ほかの誰かのものではなかった。
「……はい」
隣に立っていた宮坂さんが、柔らかく目を細めた。
「おめでとうございます、沢渡さん」
「ありがとうございます」
返事をしてから、俺はもう一度、二七〇二を見た。
昨日、風の中で高度計を覗き込んだ時とは違う手応えがあった。あの時には、まだ痛む脚で下りきらなければならない道が残っていた。今は宮坂さんも隣にいて、二人分の手形が受付の向こうへ戻っている。
認定の記録を窓口へ返した。
宮坂さんの丈に変更はなかった。三二〇〇の確認を終えると、彼女は荷の脇へ退き、俺が野帳をしまうのを待った。
俺は開いたままの頁へ目を落とした。
頂で書いた記録の下に、白い板と、昨日下りた段が描いてある。
「あの、もう一つ、伝えておきたいことがあります」
係の人が顔を上げた。
「帰り道で、落石がありました」
俺は野帳を閉じずに、受付へ戻った。
*
広げてもらった地図の上では、昨日の細い道は一本の線だった。
張り出した岩も、宮坂さんが足を下ろした段も、この縮尺では見えない。俺は尾根の曲がり方と、岩場から森へ入るまでの道を思い出しながら、場所を絞っていった。
「この辺りです。道が岩の腹を巻いて、石屑の溜まった浅い溝を横切ります。そのすぐ先で、一段低くなっていました」
野帳の絵を地図の横へ置くと、係の人は二つを見比べ、道の上へ小さな印をつけた。
「石は、上から落ちてきたんですね」
「はい。途中の岩角で跳ねて、道の方へ飛んできました。大きいのは、人の頭くらいです」
「一つだけでしたか」
宮坂さんが、俺の横から答えた。
「大きいものを見たのは一つです。そのあとも小さな石と砂が続きました。私たちはそこを抜けたので、いつ止まったかまでは分かりません」
係の人が頷き、書き添えた。
「お二人には、当たりませんでしたか」
「そこでは、当たっていません。《隔て》で避けられました」
俺が答えると、係の人は野帳へ目をやった。
「この二つですね」
「はい。俺が先に、こちらへ。もう一つは、俺が下りる間に、宮坂さんが頭の上へ出してくれました」
昨夜は、互いの板がどこにあったのかを確かめるために描いた。今日はその絵を隣へ置くことで、地図だけでは見えない段の位置まで伝えられた。
係の人が、石の跳ねたところから道へ指を動かした。
「この頁、写しを取ってもいいですか」
「お願いします」
野帳を預けると、係の人は奥へ持っていった。戻ってきた時には、地図と絵を並べた紙が一枚増えていた。
「昨日の落石として、注意を出します。場所の確認も回しておきます」
「落ちたのは、昨日の午後です。泊まり場より上なので、今朝はそこを通っていません」
「分かりました。今日の状況は未確認ですね」
紙に書き足す手を見てから、俺は返された野帳を受け取った。
今あそこを通れるかどうかは、俺たちには分からない。けれど、昨日そこで何が起きたかは、もう二人だけの記憶ではなくなった。
受付を離れると、宮坂さんがザックへ腕を通していた。
「描いておいて、よかったですね」
「宮坂さんに直してもらって、助かりました。俺のところからだと、板の上まで見えていなかったので」
彼女は肩紐の位置を整え、地図の広がった窓口へ目を向けた。
「次に入る人にも、場所が分かるといいですね」
「そうですね」
俺も荷を背負い直した。
背中へ重さが戻り、右脚へ体重を移すと、膝の奥が鈍く痛んだ。新しい数字を見たあとでも、最初の一歩は小さく踏み出すしかなかった。
宮坂さんが隣へ並んだ。
今度は二人で、山から離れる方へ歩いた。
*
道の脇で携帯を開くと、遼とのやり取りが、出発前のところで止まっていた。
俺は短く文字を打った。
『二人で還った。主を倒して、頂まで行けた』
送ってから、もう一行付け足す。
『頂のところも撮った。映像を持って帰る』
歩き出す前に、返信が来た。
『お帰りなさい!』
『頂のところも撮れたんですね』
俺は宮坂さんへ画面を傾けた。
「まず、そこでした」
「遼くん、出発する前から楽しみにしていましたものね」
平たい石へカメラを置き、足元を確かめながら戻った時のことを思い出した。宮坂さんが少し横へ詰めて、俺が座ると、カゲが靴の間へ鼻先を入れてきた。
『二人で並んで座ってるところも撮った。カゲはカメラを見なかったけど』
今度は少し間があった。
『帰ったら、そこから見たいです』
宮坂さんが画面を覗き込み、頷いた。
「私も、そこからがいいです」
「主戦より先にですか」
「ええ。着いたところを、まず三人で」
俺は『分かった。そうしよう』と返した。
撮れたものを確かめるのは、帰ってからだ。それでも、画面に並んだ短いやり取りを見ていると、遼が待っているところへ、先に少し戻れた気がした。
携帯をしまうと、宮坂さんがこちらを見た。
「それでは、手当ても済ませましょう」
「はい」
宿へ戻る前に、俺たちは傷を診てもらった。
頬のガーゼを外してもらうと、浅い傷は塞がっていた。右膝と前腕、宮坂さんの右肩も確かめてもらう。山にいた時には、次の段へどう動くかを先に考えていたが、診察室の椅子へ座り、どこで痛むのかを聞かれて答えるうちに、ようやく、しばらく荷を担がずに休む予定を考えられた。
外へ出ると、昼の光が道を照らしていた。
宮坂さんが、右肩へそっと手を添えた。
「今日はもう、高いところのものは取りません」
「俺も、深くしゃがまずに済むことだけにします」
「何をするんですか」
「まず、飯を食べます」
「それなら、早く取り掛かりましょう」
俺は笑って頷き、宿へ向かった。
*
宿の入口には、入山の朝と同じところに泥を落とすブラシが置かれていた。
靴底を見せるように足を上げると、溝の奥へ小石が挟まっていた。取り除き、土を払う。山の中では湿ってついていたものが、乾いた塊になって転がり落ちた。
戸を開けると、帳場から声がした。
「お帰りなさい」
「戻りました」
挨拶を返して荷を下ろすと、宮坂さんも隣へザックを置いた。
ここまで来た。
俺が長く息を吐くのを見て、彼女の口元が動いた。何を言いそうになったかは分かったが、今度は俺の方が先に笑った。
「言ってもいいですよ」
「何をですか」
「着きました、って」
「今日はまだ、言っていませんでしたね」
帳場から顔を出した女将さんが、不思議そうに俺たちを見た。
「上まで行けたの?」
「はい。二人で」
返事をすると、向こうも笑った。
「それなら、よかった。杖を折られた人たちね、新しい杖を探しに、昨日の朝に町へ下りていったよ。また上へ行くつもりみたい」
「……そうですか」
もう、あの主はいません。そう言いかけて、やめた。山がいつまた編み直すのか、俺たちには分からない。
「伝言があれば、預かるけど」
「いえ。上で何があったかは、窓口に話してあります」
「そう。じゃあ、まず荷を置いておいで」
部屋へ荷を運び、山で着ていたものを替えた。主素材の記録袋は、ほかのものと分けて収め直す。資源庁へ渡す時に出せるよう、野帳の記録も取り出しやすいところへ置いた。
カゲは荷の横へ伏せていた。
俺が立ち上がると白い耳が動いたが、外へ飯を食べに行くと声を掛けると、また前脚へ顎を乗せた。
廊下で宮坂さんと合流した。彼女も大きなザックや錫杖を持っていない。肩紐のない姿を見るだけで、自分の背中まで軽く感じた。
帳場で、近くに食事のできるところがないか聞いた。
「うどんなら、そこの角を曲がった店が、まだやっていると思うよ」
宮坂さんと顔を見合わせた。
聞き返す必要はなかった。
「ありがとうございます。行ってきます」
荷を避けて身体を横にしなくても、戸口を通れた。
外へ出ると、宮坂さんがすぐ隣へ並んだ。
*
店へ入った瞬間、出汁の匂いがした。
昼の客が少し引いたところらしく、窓際の卓が空いていた。向かい合わせに座り、背もたれへ身体を預ける。肩紐を外すつもりで胸元へ動かしかけた手を、そのまま卓へ置いた。
「卵とじうどん、ありますね」
宮坂さんが、壁の品書きを見上げた。
「昨日から決まってました?」
「卵を入れるところまでは。どう入れてもらうかは、いま決まりました」
俺はその隣を見た。
きつねうどん。その下に、ご飯もある。
注文を取りに来た人へ伝えると、ご飯は大盛りにもできると言われた。
「じゃあ、大盛りでお願いします」
宮坂さんも自分の注文を済ませ、運ばれてきたお茶の湯呑みを手に取った。俺の方を見る目元に、笑みが残っていた。
「そちらも、決まりましたね」
「昨日から、ご飯を付けるところまでは」
「量は、いまですね」
「はい」
品書きから目を離すと、窓の向こうに買い物袋を持った人が見えた。道の端で立ち止まり、連れと何かを話している。その間を、自転車を押した人が通っていった。
山の中で想像していた食堂には、そこまで細かなものはなかった。俺たちが食べる間にも、窓の外では別の人の昼が続いていた。
宮坂さんが湯呑みを置いた。
「窓口で、何度も数字を見ていましたね」
「はい」
俺は湯呑みの縁へ指を添えた。
「帰ってきたら更新されるって、分かってはいたんですけど。実際に書かれると、やっぱり違いました」
「二四〇〇と答えていたところを、変えないといけませんね」
「しばらく、間違えそうです」
「その時は、隣にいたら言います」
俺は笑った。
宮坂さんも笑ってから、少しだけ窓の方を見た。
「私は、丈は変わりませんでしたけど」
「はい」
「頂へ出る時、並んで行こうと言ってくれたでしょう」
俺は頷いた。
「先にどうぞと言ってから、私も早く向こうを見たいと思ってしまったんです」
「俺も、先に上がって待つより、一緒に見たかったので」
彼女がこちらへ顔を戻した。
「ええ。そうしてよかったです」
最後の岩の段へ並んだ時のことが浮かんだ。俺は自分の足元ばかり気にしていたつもりだったが、宮坂さんが右へ出て、同じ岩へ靴を置いたところは、よく覚えていた。
「次は、私から言いますね」
「何をですか」
「一緒に行きましょうって」
返事をしようとしたところへ、店の人が盆を運んできた。
宮坂さんが手元を空け、俺も湯呑みを端へ寄せる。二つの丼と、山盛りの茶碗が卓へ置かれた。
きつねうどんの揚げは、思っていたより大きかった。汁をたっぷり吸って膨らみ、その下から白い麺が覗いている。向かいの丼には、柔らかな卵の黄色と葱の緑が広がっていた。
「……これでした」
宮坂さんが、立ち上る湯気を見たまま言った。
昨日、山の上で何を思い浮かべていたのか。
俺にも、ようやく分かった気がした。
箸を取った。
麺を持ち上げると、揚げの下から湯気がほどけた。ひと口分をすすり、汁を飲む。甘く煮含められた揚げを噛むと、染み込んでいた汁がもう一度、口へ広がった。
すぐ、ご飯へ箸を伸ばした。
宮坂さんは柔らかな卵を麺へ絡めようとして、少しだけ箸を止めていた。うまく掬えたらしく、息を吹きかけて口へ運ぶ。ひと口目を飲み込んでから丼を見る顔は、さっきまで品書きを眺めていた時とは違っていた。
「どうですか」
「昨日の私に、教えてあげたいです」
「これが待ってるって?」
「はい。でも、余計にお腹が空きそうですね」
「俺は、このご飯を見せたいです」
茶碗を少し持ち上げると、宮坂さんが笑った。
「それは、先に食べてください。まだ温かいうちに」
言われるまでもなく、箸は戻っていた。
*
腹が落ち着いてきた頃、宮坂さんがこちらを見た。
「それで、今朝の二頁は?」
俺は箸を置き、お茶を一口飲んだ。
「椅子の音だって言った人、最初は一人だけでした」
「ええ」
「ほかの人は、その人がそう言ってから、椅子の話をしてるんです。だから、音がしたのは本当でも、何の音だったかは、まだ分からないんじゃないかと」
話し終えてから、思っていたほど長い説明にならなかったことに気づいた。朝、頁を行ったり来たりしていた時には、もっと大きなことを見つけた気がしていた。
宮坂さんは、すぐには答えなかった。
「今回は、当たってるかどうかは聞きません」
「助かります」
「でも、どうしてそう思ったかは、聞いてほしいです」
「ええ。聞かせてください」
彼女は湯呑みを脇へ寄せ、少し身を乗り出した。
「その人が、わざと違うものを言ったと思うんですか」
「そこまでは、まだ。聞き間違えたのかもしれないですし」
「なるほど」
「ただ、俺も、椅子なんだって思って読んでたので」
口に出すと、その次のやり取りも気になった。俺は鞄から本を取り出し、栞の挟まったところではなく、少し前を開いた。
「ここです。次の人が、もう椅子を動かした理由を聞いてる」
「ああ、そのやり取りですね」
宮坂さんは開いた頁を覗き込んだが、その先を指したりはしなかった。俺は数行をもう一度読み、本を閉じた。
「やっぱり、最後まで読まないと分からないですね」
「はい。でも、今の話は、読み終わってからだと違うものになると思います」
彼女は本へ目を落とした。
「誰を疑ったかは覚えていても、どうしてだったか、私もあとで思い出せなくなるので」
俺は閉じた本を卓の脇へ置いた。
全部分かってからでなくても、話してよかったらしい。読み終えた時に、今の考えを覚えていたら、それも話したかった。
宮坂さんが、残っていた汁を少し飲んだ。
俺も茶碗の最後の一口を食べた。
「読み終わったら、返しに行きます」
「急がなくていいですよ」
「返すのは急いでないです。ただ、その時は最後の話もしたいので」
宮坂さんが頷いた。
「それなら、楽しみに待っています」
少し間を置いてから、彼女は卓の脇の本へ目を戻した。
「次は、私もまだ読んでいないものにしませんか」
「次に読む本ですか」
「ええ。今は私だけ先を知っていますけど、知らなければ、私も考えたことを話せますから」
俺は彼女を見た。
途中で誰を疑ったか。
何の音だと思ったか。
同じところを読んでも、二人でまったく違うことを考えるのかもしれない。
「じゃあ、今度は俺も買います。同じ本を」
「はい」
「二人とも、全然違う方へ行ったら」
「読み終わってから、両方の話をしましょう」
宮坂さんは、困ることのようには言わなかった。
俺も、今朝の自分の考えが外れていた時のことを、少し楽しみにできた。
*
会計を済ませて外へ出ると、腹の満ちた重さがあった。
背中の荷とは違う。急な岩場を登るには向かなさそうな腹具合だったが、いま歩くのは、宿へ戻る平らな道だった。
角を曲がる手前で、宮坂さんが少し歩く速さを落とした。
俺も隣へ並ぶ。
「本屋は、帰ってからですね」
「はい。今日は、もう少し座っていたいです」
「私もです」
軒先の日陰へ入ると、食事で温まった顔に風が当たった。
まだ、することは残っていた。主素材を資源庁へ渡し、映像を三人で見て、道具の泥を落とす。膝も腕も、休ませなければならない。
それとは別に、予定が一つ増えていた。
「次の本、候補はもう決めてるんですか」
「何冊か、気になるものはあります」
「何冊か」
「その中から、一緒に選びましょう」
宮坂さんが、こちらを見た。
「今度は、沢渡さんも棚を見てくださいね」
「見ます。裏のあらすじは、まだ読まない方がいいんですよね」
「その本にもよります。親切すぎる帯もありますから」
「じゃあ、その辺りは教えてください」
彼女が笑った。
宿の入口が見えてきた。
入山前にここへ来た時には、地図の上で丸をつけた頂が、次の約束だった。
今はその頂から還って、まだ読みかけの本を持っている。
俺は戸を開け、宮坂さんが入る間、手を添えていた。
部屋へ戻ったら、本の続きをもう少し読もうと思った。
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