↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
73/87

第73話 帰り道の白

 頂は、下り始めるとすぐに見えなくなった。


 振り返っても、さっきまで二人で腰を下ろしていた場所は、手前の岩棚に隠れている。あれほど遠くまで見渡せた景色が、一段下りるごとに切り取られ、いま視界にあるのは宮坂(みやさか)さんの背中と、その先へ続く荒れた段差だけだった。


 登る時に手を掛けた岩の角へ、今度は靴を下ろす。右膝を深く曲げて体重を預けると、奥に鈍い疼きが走った。俺は大きな段差をそのまま下りず、横の低い足場へ回り込んだ。


 宮坂(みやさか)さんは少し開けたところで待っていた。錫杖(しゃくじょう)を左手へ持ち替え、俺が下りるための場所を空けている。


「上から見ると、思ったより高いですね」


「登る時は、手を掛けて越えてしまいましたからね」


 彼女も振り返り、いま下りてきた岩を見上げた。

 俺たちはその脇の低いところへ足を向けた。


 主(ぬし)が散った岩場には、砕けた石が残っていた。白い防壁に何度も進路を塞がれた場所を、今は二人で横切っていく。巨腕の落ちた跡を避けて岩陰へ入ると、置いていった二つのザックが並んでいた。


 頂で録画を止めたカメラを胸から外し、荷へ収めた。前日の甲二枚とドローンのケースは、そのまま中にある。主(ぬし)素材は記録袋ごとそれらと分け、小さな荷へ移していた水や行動食も戻していった。


 全部を担ぐ前に、俺たちは平らな岩へ腰を下ろした。


「《甦り(よみがえり)》を、もう一度使っておきます」


「私も。泊まり場までは、まだありますから」


 主(ぬし)戦の前に使った験(げん)の感触へ意識を寄せ、短く声を出した。


 背中から腰にかけて貼りついていた重さが、少しずつほどけていく。座ったまま動きたくなくなるようなだるさが薄らぎ、俺は膝に置いていた手を離した。

 頬のガーゼの下で続いていたひりつきも消えた。山を下りるまでは、汚さないようそのままにしておく。


 隣でも宮坂(みやさか)さんが声を出し、自分へ験(げん)を使っていた。


「……少し、楽になりました」


 声にはまだ少しざらつきが残っていたが、頂の上よりは通っていた。彼女は息をついてから、右肩へそっと手を添える。


「でも、こちらはまだ痛みますね」


「俺の膝もです」


 立ち上がってみると、身体は動かしやすくなっていた。頬の浅い傷とは違い、右脚へ重みを移せば、膝の奥はまだ疼く。右の前腕を曲げた時の張りも残っていた。


 宮坂(みやさか)さんが肩紐へ腕を通しかけ、途中で動きを止めた。俺は彼女のザックの底を岩へ預け、倒れないよう左手で支えた。


「この高さで大丈夫ですか」


「もう少しだけ上へ。……はい、そこでお願いします」


 荷の重さを岩に残したまま、彼女が畳んだ布を右肩と紐の間へ挟む。肩紐を緩め直し、腰のベルトを締めてから背を起こすと、さっきより自然な姿勢で立てた。


「ありがとうございます。次、そちらを」


 今度は俺が岩へ背を寄せ、肩紐へ腕を通した。宮坂(みやさか)さんが左手で荷の横を押さえてくれる。膝へ一度に重みを落とさないよう立ち上がり、両足へ体重を移してから、彼女に手を離してもらった。


 数歩、歩いてみる。膝が崩れることはなかった。


 食べた分だけ中身は減っているはずなのに、背中の荷は今朝よりずっと重く感じた。


「帰りの荷って、こんなでしたっけ」


「今日は、上で随分働きましたから」


 宮坂(みやさか)さんは肩紐の位置を直し、俺を見た。


「泊まり場まで、ゆっくり戻りましょう」


「はい」


 岩陰から出ると、足元で休んでいたカゲが顔を上げた。俺たちが道へ向くのを確かめてから、白い身体がついてきた。


*


 道は、岩壁の腹を細く巻いていた。


 山側には割れ目の入った岩が幾重にも重なり、谷側には低い木々が枝を張っている。二人で並べる幅はない。宮坂(みやさか)さんが先に進み、俺は彼女が一段下りてから同じ場所へ足を運んだ。


 前に、石屑の溜まった浅い溝があった。その向こうで道が一段下がり、大きく張り出した岩を回り込んでいる。


 宮坂(みやさか)さんが溝へ入った時、上で硬いものが打ち合う音がした。


 小石がいくつか、彼女の前へ落ちた。

 顔を上げた先で、岩の縁から黒い塊が抜ける。


「上、落石!」


 宮坂(みやさか)さんはもう身を低くしていた。左手を山側の岩へつき、下の段へ足を伸ばす。


 落ちてきた石は、途中の岩角に当たって跳ねた。人の頭ほどもある塊が向きを変え、斜め下から宮坂(みやさか)さんの背へ迫った。


 下りかけた身体より、ザックの上がまだ高い。


 腕を伸ばしても届かなかった。


 俺は新しく継いだ験(げん)へ意識を寄せ、石と荷の間を見た。

 声を出す。


 宮坂(みやさか)さんの背の上へ、斜めの白い面が立った。


 ガン、と硬い音が響いた。


 石が面を叩き、谷側へ跳ねる。黒い塊は枝を折りながら木々の間へ落ちていった。続けて降った細かな石が白い縁を打ったが、板はそこに残っている。


 代わりに、その下にいた宮坂(みやさか)さんが見えなくなった。


「下の岩陰へ!」


「抜けます!」


 錫杖(しゃくじょう)の輪が鳴り、白い端から彼女の荷が現れた。身を低くしたまま最後の段を下り、張り出した岩の向こうへ進んでいく。


「カゲ、先に!」


 白い背が俺の脇を抜けた。


 俺も続こうとして、下り口へ足を寄せた。飛べば届く。だが、この荷を背負ったまま右脚へ着地するわけにはいかなかった。


 手を残して下りる場所を探したところで、上からまた砂が降ってきた。


 宮坂(みやさか)さんが岩の脇からこちらを見た。


「沢渡(さわたり)さん、そこで待って!」


 続いて、彼女が験(げん)を使う声がした。


 俺と山側の岩の間に、新しい白い面が立つ。斜めに張り出したその面を、小石が続けざまに叩いた。今度は、俺の出した板ではなかった。


「左、低い段があります。そこへ足を!」


 目を落とすと、岩の根元に靴を置ける窪みがあった。

 上の段からでは縁に隠れていたが、身体を少し左へ寄せると、下りる先まで見えた。


「俺の方の板、解きます!」


 宮坂(みやさか)さんが抜けたあとに残っていた、俺の白い面を消した。

 道が開く。


 頭の上では、彼女の板が落石の来る方を覆っていた。向こうの岩は見えない。石がまだ動いているのかどうかも、ここからは分からなかった。


「その段で大丈夫です!」


 声は聞こえた。


 俺は左足を低い窪みへ下ろし、岩へ手を残したまま右足を引きつけた。背中の荷が遅れて動く。その重さが収まるのを待てた分、膝へ衝撃を落とさずに済んだ。


 頭の上で、もう一度、板が鳴った。


 背を丸めて最後の一段を下り、張り出した岩を回り込む。宮坂(みやさか)さんの横へ出ると、彼女は俺の後ろを確かめてから板を解いた。


 石が通った溝から離れ、二人でもう少し道を下った。


 岩陰へ入っても、すぐには息が整わなかった。谷の下で枝が揺れ、遅れて石の転がる音がする。俺は岩についていた手を離し、強張っていた指を一度開いた。


「肩には、当たりませんでしたか」


「はい。荷にも」


 宮坂(みやさか)さんは肩越しにザックを見てから、こちらを向いた。


「沢渡(さわたり)さんは」


「俺も、大丈夫です」


 返事を聞くと、彼女が長く息を吐いた。


「最初の石、荷を持っていかれると思いました」


「俺には、背中へ来るように見えました」


「どちらでも、当たらなくてよかったです」


 俺は頷いた。

 山頂へ向かう前に試した時には、手で押し、柄で軽く叩いただけだった。いま石を受けた音は、あの時よりずっと大きかった。


 それでも、石は宮坂(みやさか)さんのところまで来なかった。


「低い段を教えてもらえて、助かりました」


「下からだと、見えたんです。沢渡(さわたり)さんが足を下ろす間、上を塞げればと思って」


 宮坂(みやさか)さんは、今下りてきた道へ目を向けた。


 俺からは、彼女の顔も落ちてくる石も隠れていた。けれど、足を置く場所は残っていた。上を気にして動きを止めなくて済むように、あそこへ出してくれたのだ。


「ありがとうございます」


「こちらこそ」


 そのあと、二人とも少し黙った。


 宮坂(みやさか)さんが錫杖(しゃくじょう)を持ち直した時、俺はようやく、自分の肩が上がったままだったことに気づいた。


*


 朝、二四〇〇を越えた岩の肩へ戻る頃には、斜面に落ちる影が長くなっていた。


 ここで待ってもらい、上へ行くと自分から言った。行きには何度も足元を見た平らなところも、帰りには道の途中にある休み場所の一つだった。


 俺たちは水を飲み、上着を直した。

 振り返っても、頂はもう見えなかった。代わりに、これから戻る森が近くなっていた。


 木々の間へ入ると、頭の横を吹いていた風が枝の上へ遠ざかった。土を踏む感触が靴底へ戻り、荷に擦れる葉の音がする。岩場では離れていた二人の間も、道が緩くなるにつれて少しずつ詰まった。


「昨日は、この辺りで上を見てましたね」


「ええ。枝の隙間から、少しでも見えないかと思って」


 宮坂(みやさか)さんが顔を上げた。

 俺も同じところを見たが、葉の重なりの向こうには、明るい空があるだけだった。


「やっぱり、見えませんね」


「昨日も、見えませんでしたから」


 真面目な顔で返されて、俺は少し笑った。

 彼女も口元を緩め、また前を向いた。


 やがて、木々の間に泊まり場の大岩が見えてきた。


 まだ岩の上には日が当たっていた。道を外れ、今朝、幕を畳んだ場所へ入る。ザックを下ろすと、背中から重さがなくなった身体が前へ行きそうになった。


 宮坂(みやさか)さんも荷を置き、岩へ腰を下ろした。

 俺たちはしばらく、靴を投げ出すようにして座っていた。


「……着きました」


「今日は、その言葉をよく言いますね」


「ここは、まだ一回目です」


 彼女は声を出して笑った。その声を聞くと、もう一度言ってもいい気がしたが、やめておいた。


「明日は、宿で言いましょう」


「荷を下ろしてからですね」


「ええ。そのあと、もう背負わなくていいところで」


 麓の宿の入口が浮かんだ。靴の泥を落とすブラシと、帳場の向こうから聞こえた声。折れた杖を持って座っていた男の姿も思い出す。


 あそこを出た時には、これから登る山のことばかり考えていた。

 今は、腰を下ろして温かい飯を食べるところまで浮かんだ。


 少し休んでから、それぞれの幕を張った。昨夜と同じ場所なので、地面の窪みも、張り綱を留める石も覚えている。今度は二人の幕の間に腰を下ろせる場所を作り、湯を沸かす道具を出した。


 主(ぬし)素材の入った荷を自分の幕へ収めて外へ戻ると、宮坂(みやさか)さんが食事の袋を二つ並べていた。


「こちらと、こちら。どちらにしますか」


「宮坂(みやさか)さんは?」


「私は、こっちを食べたいです」


「じゃあ、俺はもう一つの方で」


「選んでもらったことになるんでしょうか」


「なってます。俺も、それを食べたいので」


 彼女は少し笑い、片方の袋を差し出した。受け取った袋はまだ薄く、これだけでは腹が足りない気がした。湯を注ぎ、膨らんでいくのを、いつもより真剣に待った。


*


 食べ物の匂いが立つと、急に腹が減った。


 頂でも口に入れたはずなのに、あれは随分前のことに思えた。袋の底から混ぜ返すと、湯気が顔へ上がってくる。宮坂(みやさか)さんも自分の分を覗き込み、まだ少し早いですね、と言いながら、すぐには口を折り閉じなかった。


「下りたら、何か食べたいものありますか」


 俺が聞くと、彼女は匙を持ったまま考え込んだ。


「温かくて、器に入っていて、食べ終わったら洗ってもらえるものがいいです」


「今のでも、温かくはなりますよ」


「なので、あと二つです」


 俺は手元の袋を見て、笑った。


「うどんなんか、どうですか」


「いいですね。卵も入れたいです」


「俺は、ご飯も欲しいな」


「別に付けてもらえばいいじゃないですか」


「それもそうですね」


 話していると、湯気を立てる白い丼と、その脇の茶碗まで浮かんできた。窓のある店で、背もたれのついた椅子へ座る。荷の置き場所を気にせず、両手を卓へ出せるだけでも、今は随分楽そうだった。


 宮坂(みやさか)さんが手元を見下ろした。


「食べる前に、こういう話はしない方がよかったかもしれません」


「今のが、寂しくなりますか」


「いえ。足りなくなりそうです」


 待つ時間が終わり、二人で袋の口を開いた。


 ひと口目は熱かった。

 急いで飲み込めずにいる間、宮坂(みやさか)さんも黙っていた。少しずつ息を吹きかけて食べ、それでも時々、口元を袋から離している。


 しばらくは、食べる方が忙しかった。


 腹へ温かいものが入るにつれ、風に当たっていた顔まで緩んでくる。昼間、岩陰で飲んだ水もありがたかったが、今はもう一口分をすくえることが嬉しかった。


「明日、下りたら、どこかで食べてから帰りませんか」


 俺が言うと、宮坂(みやさか)さんが顔を上げた。俺はそのまま続けた。


「関(せき)での用事を済ませて、宿に荷を置いて。それから、店を探して」


「行きましょう」


 返事が早かった。


「どこも開いてなかったら、困りますね」


「その時は、宿で聞きましょう。食べられるところ」


「そこは、諦めないんですね」


「もう、卵の入ったうどんを考えてしまったので」


 俺も同じだった。

 ただ、頭に浮かんだ卓の向こうには、いつの間にか宮坂(みやさか)さんが座っていた。


 袋の底を匙で集め、残っていたものを口へ運ぶ。食べる前には頼りなく見えた一食が、なくなる時には惜しかった。宮坂(みやさか)さんも最後まで食べ、空の袋を小さく畳んでいた。


 片づけてから、俺は野帳を開いた。


 頂で書いた高さと時刻の下へ、落石のあった道を描く。カメラはしまっていたから、映像はない。石が最初に外れたところと、跳ねた岩角、それから自分が出した板の位置を、覚えている順に置いていった。


 宮坂(みやさか)さんが横から覗き込んだ。


「私の板は、もう少し上です」


「この辺りですか」


「はい。沢渡(さわたり)さんの頭より上へ出しました。下まで塞いだら、足場が見えなくなると思って」


 俺は線を引き直した。

 さっきは白い面の下しか見ていなかった。彼女がどこを塞がないようにしたのかまでは、考える余裕がなかった。


「これで、下りられたんですね」


「ええ。次に足を置くところは、残したかったので」


 紙の上では、二枚の板が別々の場所に立った。形だけ見れば、主(ぬし)が俺たちの間に置いたものと変わらない。その脇へ二人の位置と進んだ方を書き足すと、片方が抜ける間を、もう片方が守っていたことが分かった。


 俺は野帳を宮坂(みやさか)さんへ向けた。


「戦う時も、こういう出し方をしたいです」


 彼女が、自分の直した線へ指を置く。


「守ろうとして、踏み込む先まで塞いでしまわないように」


「宮坂(みやさか)さんが前へ出るところを、ですね」


「はい。隠れているだけでは、もったいないですから」


 そう言った時には、もう口元が少し上がっていた。


 俺も、次に彼女が錫杖(しゃくじょう)を構えるところを考えた。白い面の後ろへ隠れてもらうだけではない。彼女が前へ踏み込む間、横から来る一撃を俺が遮れたら、攻めを続けられるかもしれない。


 どこへ置けば動きやすいかは、帰ってから二人で試したかった。

 俺は今日見たところまでを記して、野帳を閉じた。


*


 荷から文庫本を出すと、包んでいた袋の外側に細かな砂がついていた。


 払ってから口を開け、紙の栞を探す。列車で挟んだところに、そのまま残っていた。俺たちが頂へ行って下りてくる間も、物語の方は、そこで続きを待っていたらしい。


「今日は、読めそうですか」


 宮坂(みやさか)さんが聞いた。


「少しなら。列車では、この辺りでした」


「ええ」


 彼女は頁を覗き込まずに頷いた。


「どこか、分かります?」


「たぶん」


「じゃあ、今の俺が考えそうなことも」


「それは、聞かないと分かりません」


 俺は本へ目を戻した。


 数行だけ前へ戻ると、誰が何を言っていたのかを思い出せた。返事のない部屋と、中から聞こえた椅子を引く音。そのことが気になって読み始めたのに、今は外にいた人間の話も引っかかっている。


「これ、最初から部屋に誰もいなかった、っていうのはありですか」


「どうして、そう思うんです?」


「誰かを見たわけじゃなくて、椅子の音を聞いただけなので」


「なるほど。そこを考えていたんですね」


 宮坂(みやさか)さんは、俺ではなく本の表紙へ目を落とした。


 俺は彼女の横顔を見た。

 何も言っていないのに、何か知っている顔に見える。


「今、外れたって思いました?」


「それを答えたら、続きを読む楽しみが減りますよ」


「顔でも、分かりそうで」


「では、本を見てください」


 それは、もっともだった。


 俺は頁へ戻ったが、一行も進まないうちに、隣で小さく笑う気配がした。


「やっぱり、外れてます?」


「当たっていたら、笑わないと思いますか」


「……どっちでも駄目じゃないですか」


「そうなんです。私の顔を見ても、あまり役に立ちません」


 宮坂(みやさか)さんは自分の荷からも一冊出した。使い慣れた紙カバーが掛かっている。栞を抜く前に、もう一度こちらへ顔を向けた。


「でも、途中で考えたことは、聞きたいです」


「読み終わってからじゃなくて?」


「終わってしまうと、何を疑っていたのか、忘れることがあるので」


 俺は開いた頁を見た。

 いま疑っている相手の名前が、そこにも出ていた。最後まで読めば、この人を怪しんだことまでおかしく思えるのかもしれない。


「じゃあ、今のは覚えておいてください。誰もいない方で」


「はい」


「あとで変えるかもしれませんけど」


「その時は、新しい方も聞きます」


 そんなふうに言われると、先を読むだけでなく、途中で何を考えたかも残しておきたくなった。


 俺は少し読み進めた。気になる台詞の先を追っていたはずが、別の人物の言葉に引っかかり、また前へ戻る。何でもないと思って読み飛ばしたところに、確かめたくなるものがあった。


 隣で、宮坂(みやさか)さんが頁をめくった。


 聞けば、たぶん知っている。

 けれど、今は自分で見つけたいと思った。


 しばらく、二人とも話さなかった。

 枝が風に揺れ、遠くで鳥が鳴いた。カゲが俺の靴の脇へ伏せると、その背に触れた草がかすかに動いた。


 同じ行を三度読んだところで、俺は顔を上げた。


「……さっきから、ここを行ったり来たりしてます」


「眠くなりました?」


「少し。でも、列車のところよりは進みました」


 宮坂(みやさか)さんが、俺の指を挟んだところを見た。


「進みましたね」


「宮坂(みやさか)さんは、まだ読みますか」


「区切りのいいところまで」


「それ、すぐ来ます?」


「来ないこともあります」


 彼女は何でもないことのように言った。


 俺は栞を取り、読み終えたところへ挟んだ。列車で止まっていた続きが、今日の分だけ先へ動いた。残りはまだ厚かったが、それを返す日までの話を、今から考える必要はなかった。


「あの、明日の飯ですけど」


「はい」


「その時、本の話もしていいですか」


 宮坂(みやさか)さんは、自分の本へ指を挟んだまま俺を見た。


「もちろんです」


「読み終わってなくても」


「むしろ、その方が楽しみです。続きを言わないように気をつけます」


「お願いします。顔も」


「それは、沢渡(さわたり)さんが本を見てください」


 俺は笑った。

 頬のテープに皮膚を引かれ、少しだけ口元を戻す。


 宮坂(みやさか)さんも笑ってから、本を開き直した。


 うどんを食べるだけなら、そんなに長くはかからないはずだった。

 でも、店を出る頃には何を話しているのか、もう少し楽しみになっていた。


*


 岩の上から日が消えると、森の中は急に暗くなった。


 俺たちは本をしまい、明日の朝に使うものを取り出しやすいところへ寄せた。帰る道と出る頃合いを話してから、それぞれの幕へ向かう。


「おやすみなさい」


「おやすみなさい」


 カゲが足元へ収まるのを待ち、入口を閉じて横になった。右膝は深く曲げず、楽なところへ置いた。荷を背負っていない肩も、地面へ当たると今日使った分だけ重く感じる。寝具の上で少し身体をずらすと、ようやく落ち着く場所があった。


 布越しに、カゲの背の温かさが触れた。


 目を閉じると、石の当たった白い面が浮かんだ。向こう側は見えなかったのに、足を下ろす場所を教える声は聞こえた。岩へ手を残し、低い段へ靴を置いた感触まで戻ってくる。


 隣の幕で、紙の擦れる音がした。


 まだ、区切りは来ていないらしい。


 俺も本を出そうかと考えたが、荷へ伸ばしかけた手を戻した。さっき読んだところを眠気で忘れてしまうより、続きを楽しみにしていたかった。


 明日は、もう少し先まで読もう。

 誰もいないという予想を変えるなら、それも宮坂(みやさか)さんに言わなければならない。


 隣で、また一枚、頁がめくられた。


 どこまで読んだのかは、明日聞けばよかった。

 その時には、俺の栞も、今より少し先へ進んでいるかもしれない。


 俺は目を閉じたまま、もう一度身体の力を抜いた。

 次の頁をめくる音は、聞こえなかった。


面白かったら、ページ下の☆から評価をいただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。