第73話 帰り道の白
頂は、下り始めるとすぐに見えなくなった。
振り返っても、さっきまで二人で腰を下ろしていた場所は、手前の岩棚に隠れている。あれほど遠くまで見渡せた景色が、一段下りるごとに切り取られ、いま視界にあるのは宮坂さんの背中と、その先へ続く荒れた段差だけだった。
登る時に手を掛けた岩の角へ、今度は靴を下ろす。右膝を深く曲げて体重を預けると、奥に鈍い疼きが走った。俺は大きな段差をそのまま下りず、横の低い足場へ回り込んだ。
宮坂さんは少し開けたところで待っていた。錫杖を左手へ持ち替え、俺が下りるための場所を空けている。
「上から見ると、思ったより高いですね」
「登る時は、手を掛けて越えてしまいましたからね」
彼女も振り返り、いま下りてきた岩を見上げた。
俺たちはその脇の低いところへ足を向けた。
主が散った岩場には、砕けた石が残っていた。白い防壁に何度も進路を塞がれた場所を、今は二人で横切っていく。巨腕の落ちた跡を避けて岩陰へ入ると、置いていった二つのザックが並んでいた。
頂で録画を止めたカメラを胸から外し、荷へ収めた。前日の甲二枚とドローンのケースは、そのまま中にある。主素材は記録袋ごとそれらと分け、小さな荷へ移していた水や行動食も戻していった。
全部を担ぐ前に、俺たちは平らな岩へ腰を下ろした。
「《甦り》を、もう一度使っておきます」
「私も。泊まり場までは、まだありますから」
主戦の前に使った験の感触へ意識を寄せ、短く声を出した。
背中から腰にかけて貼りついていた重さが、少しずつほどけていく。座ったまま動きたくなくなるようなだるさが薄らぎ、俺は膝に置いていた手を離した。
頬のガーゼの下で続いていたひりつきも消えた。山を下りるまでは、汚さないようそのままにしておく。
隣でも宮坂さんが声を出し、自分へ験を使っていた。
「……少し、楽になりました」
声にはまだ少しざらつきが残っていたが、頂の上よりは通っていた。彼女は息をついてから、右肩へそっと手を添える。
「でも、こちらはまだ痛みますね」
「俺の膝もです」
立ち上がってみると、身体は動かしやすくなっていた。頬の浅い傷とは違い、右脚へ重みを移せば、膝の奥はまだ疼く。右の前腕を曲げた時の張りも残っていた。
宮坂さんが肩紐へ腕を通しかけ、途中で動きを止めた。俺は彼女のザックの底を岩へ預け、倒れないよう左手で支えた。
「この高さで大丈夫ですか」
「もう少しだけ上へ。……はい、そこでお願いします」
荷の重さを岩に残したまま、彼女が畳んだ布を右肩と紐の間へ挟む。肩紐を緩め直し、腰のベルトを締めてから背を起こすと、さっきより自然な姿勢で立てた。
「ありがとうございます。次、そちらを」
今度は俺が岩へ背を寄せ、肩紐へ腕を通した。宮坂さんが左手で荷の横を押さえてくれる。膝へ一度に重みを落とさないよう立ち上がり、両足へ体重を移してから、彼女に手を離してもらった。
数歩、歩いてみる。膝が崩れることはなかった。
食べた分だけ中身は減っているはずなのに、背中の荷は今朝よりずっと重く感じた。
「帰りの荷って、こんなでしたっけ」
「今日は、上で随分働きましたから」
宮坂さんは肩紐の位置を直し、俺を見た。
「泊まり場まで、ゆっくり戻りましょう」
「はい」
岩陰から出ると、足元で休んでいたカゲが顔を上げた。俺たちが道へ向くのを確かめてから、白い身体がついてきた。
*
道は、岩壁の腹を細く巻いていた。
山側には割れ目の入った岩が幾重にも重なり、谷側には低い木々が枝を張っている。二人で並べる幅はない。宮坂さんが先に進み、俺は彼女が一段下りてから同じ場所へ足を運んだ。
前に、石屑の溜まった浅い溝があった。その向こうで道が一段下がり、大きく張り出した岩を回り込んでいる。
宮坂さんが溝へ入った時、上で硬いものが打ち合う音がした。
小石がいくつか、彼女の前へ落ちた。
顔を上げた先で、岩の縁から黒い塊が抜ける。
「上、落石!」
宮坂さんはもう身を低くしていた。左手を山側の岩へつき、下の段へ足を伸ばす。
落ちてきた石は、途中の岩角に当たって跳ねた。人の頭ほどもある塊が向きを変え、斜め下から宮坂さんの背へ迫った。
下りかけた身体より、ザックの上がまだ高い。
腕を伸ばしても届かなかった。
俺は新しく継いだ験へ意識を寄せ、石と荷の間を見た。
声を出す。
宮坂さんの背の上へ、斜めの白い面が立った。
ガン、と硬い音が響いた。
石が面を叩き、谷側へ跳ねる。黒い塊は枝を折りながら木々の間へ落ちていった。続けて降った細かな石が白い縁を打ったが、板はそこに残っている。
代わりに、その下にいた宮坂さんが見えなくなった。
「下の岩陰へ!」
「抜けます!」
錫杖の輪が鳴り、白い端から彼女の荷が現れた。身を低くしたまま最後の段を下り、張り出した岩の向こうへ進んでいく。
「カゲ、先に!」
白い背が俺の脇を抜けた。
俺も続こうとして、下り口へ足を寄せた。飛べば届く。だが、この荷を背負ったまま右脚へ着地するわけにはいかなかった。
手を残して下りる場所を探したところで、上からまた砂が降ってきた。
宮坂さんが岩の脇からこちらを見た。
「沢渡さん、そこで待って!」
続いて、彼女が験を使う声がした。
俺と山側の岩の間に、新しい白い面が立つ。斜めに張り出したその面を、小石が続けざまに叩いた。今度は、俺の出した板ではなかった。
「左、低い段があります。そこへ足を!」
目を落とすと、岩の根元に靴を置ける窪みがあった。
上の段からでは縁に隠れていたが、身体を少し左へ寄せると、下りる先まで見えた。
「俺の方の板、解きます!」
宮坂さんが抜けたあとに残っていた、俺の白い面を消した。
道が開く。
頭の上では、彼女の板が落石の来る方を覆っていた。向こうの岩は見えない。石がまだ動いているのかどうかも、ここからは分からなかった。
「その段で大丈夫です!」
声は聞こえた。
俺は左足を低い窪みへ下ろし、岩へ手を残したまま右足を引きつけた。背中の荷が遅れて動く。その重さが収まるのを待てた分、膝へ衝撃を落とさずに済んだ。
頭の上で、もう一度、板が鳴った。
背を丸めて最後の一段を下り、張り出した岩を回り込む。宮坂さんの横へ出ると、彼女は俺の後ろを確かめてから板を解いた。
石が通った溝から離れ、二人でもう少し道を下った。
岩陰へ入っても、すぐには息が整わなかった。谷の下で枝が揺れ、遅れて石の転がる音がする。俺は岩についていた手を離し、強張っていた指を一度開いた。
「肩には、当たりませんでしたか」
「はい。荷にも」
宮坂さんは肩越しにザックを見てから、こちらを向いた。
「沢渡さんは」
「俺も、大丈夫です」
返事を聞くと、彼女が長く息を吐いた。
「最初の石、荷を持っていかれると思いました」
「俺には、背中へ来るように見えました」
「どちらでも、当たらなくてよかったです」
俺は頷いた。
山頂へ向かう前に試した時には、手で押し、柄で軽く叩いただけだった。いま石を受けた音は、あの時よりずっと大きかった。
それでも、石は宮坂さんのところまで来なかった。
「低い段を教えてもらえて、助かりました」
「下からだと、見えたんです。沢渡さんが足を下ろす間、上を塞げればと思って」
宮坂さんは、今下りてきた道へ目を向けた。
俺からは、彼女の顔も落ちてくる石も隠れていた。けれど、足を置く場所は残っていた。上を気にして動きを止めなくて済むように、あそこへ出してくれたのだ。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
そのあと、二人とも少し黙った。
宮坂さんが錫杖を持ち直した時、俺はようやく、自分の肩が上がったままだったことに気づいた。
*
朝、二四〇〇を越えた岩の肩へ戻る頃には、斜面に落ちる影が長くなっていた。
ここで待ってもらい、上へ行くと自分から言った。行きには何度も足元を見た平らなところも、帰りには道の途中にある休み場所の一つだった。
俺たちは水を飲み、上着を直した。
振り返っても、頂はもう見えなかった。代わりに、これから戻る森が近くなっていた。
木々の間へ入ると、頭の横を吹いていた風が枝の上へ遠ざかった。土を踏む感触が靴底へ戻り、荷に擦れる葉の音がする。岩場では離れていた二人の間も、道が緩くなるにつれて少しずつ詰まった。
「昨日は、この辺りで上を見てましたね」
「ええ。枝の隙間から、少しでも見えないかと思って」
宮坂さんが顔を上げた。
俺も同じところを見たが、葉の重なりの向こうには、明るい空があるだけだった。
「やっぱり、見えませんね」
「昨日も、見えませんでしたから」
真面目な顔で返されて、俺は少し笑った。
彼女も口元を緩め、また前を向いた。
やがて、木々の間に泊まり場の大岩が見えてきた。
まだ岩の上には日が当たっていた。道を外れ、今朝、幕を畳んだ場所へ入る。ザックを下ろすと、背中から重さがなくなった身体が前へ行きそうになった。
宮坂さんも荷を置き、岩へ腰を下ろした。
俺たちはしばらく、靴を投げ出すようにして座っていた。
「……着きました」
「今日は、その言葉をよく言いますね」
「ここは、まだ一回目です」
彼女は声を出して笑った。その声を聞くと、もう一度言ってもいい気がしたが、やめておいた。
「明日は、宿で言いましょう」
「荷を下ろしてからですね」
「ええ。そのあと、もう背負わなくていいところで」
麓の宿の入口が浮かんだ。靴の泥を落とすブラシと、帳場の向こうから聞こえた声。折れた杖を持って座っていた男の姿も思い出す。
あそこを出た時には、これから登る山のことばかり考えていた。
今は、腰を下ろして温かい飯を食べるところまで浮かんだ。
少し休んでから、それぞれの幕を張った。昨夜と同じ場所なので、地面の窪みも、張り綱を留める石も覚えている。今度は二人の幕の間に腰を下ろせる場所を作り、湯を沸かす道具を出した。
主素材の入った荷を自分の幕へ収めて外へ戻ると、宮坂さんが食事の袋を二つ並べていた。
「こちらと、こちら。どちらにしますか」
「宮坂さんは?」
「私は、こっちを食べたいです」
「じゃあ、俺はもう一つの方で」
「選んでもらったことになるんでしょうか」
「なってます。俺も、それを食べたいので」
彼女は少し笑い、片方の袋を差し出した。受け取った袋はまだ薄く、これだけでは腹が足りない気がした。湯を注ぎ、膨らんでいくのを、いつもより真剣に待った。
*
食べ物の匂いが立つと、急に腹が減った。
頂でも口に入れたはずなのに、あれは随分前のことに思えた。袋の底から混ぜ返すと、湯気が顔へ上がってくる。宮坂さんも自分の分を覗き込み、まだ少し早いですね、と言いながら、すぐには口を折り閉じなかった。
「下りたら、何か食べたいものありますか」
俺が聞くと、彼女は匙を持ったまま考え込んだ。
「温かくて、器に入っていて、食べ終わったら洗ってもらえるものがいいです」
「今のでも、温かくはなりますよ」
「なので、あと二つです」
俺は手元の袋を見て、笑った。
「うどんなんか、どうですか」
「いいですね。卵も入れたいです」
「俺は、ご飯も欲しいな」
「別に付けてもらえばいいじゃないですか」
「それもそうですね」
話していると、湯気を立てる白い丼と、その脇の茶碗まで浮かんできた。窓のある店で、背もたれのついた椅子へ座る。荷の置き場所を気にせず、両手を卓へ出せるだけでも、今は随分楽そうだった。
宮坂さんが手元を見下ろした。
「食べる前に、こういう話はしない方がよかったかもしれません」
「今のが、寂しくなりますか」
「いえ。足りなくなりそうです」
待つ時間が終わり、二人で袋の口を開いた。
ひと口目は熱かった。
急いで飲み込めずにいる間、宮坂さんも黙っていた。少しずつ息を吹きかけて食べ、それでも時々、口元を袋から離している。
しばらくは、食べる方が忙しかった。
腹へ温かいものが入るにつれ、風に当たっていた顔まで緩んでくる。昼間、岩陰で飲んだ水もありがたかったが、今はもう一口分をすくえることが嬉しかった。
「明日、下りたら、どこかで食べてから帰りませんか」
俺が言うと、宮坂さんが顔を上げた。俺はそのまま続けた。
「関での用事を済ませて、宿に荷を置いて。それから、店を探して」
「行きましょう」
返事が早かった。
「どこも開いてなかったら、困りますね」
「その時は、宿で聞きましょう。食べられるところ」
「そこは、諦めないんですね」
「もう、卵の入ったうどんを考えてしまったので」
俺も同じだった。
ただ、頭に浮かんだ卓の向こうには、いつの間にか宮坂さんが座っていた。
袋の底を匙で集め、残っていたものを口へ運ぶ。食べる前には頼りなく見えた一食が、なくなる時には惜しかった。宮坂さんも最後まで食べ、空の袋を小さく畳んでいた。
片づけてから、俺は野帳を開いた。
頂で書いた高さと時刻の下へ、落石のあった道を描く。カメラはしまっていたから、映像はない。石が最初に外れたところと、跳ねた岩角、それから自分が出した板の位置を、覚えている順に置いていった。
宮坂さんが横から覗き込んだ。
「私の板は、もう少し上です」
「この辺りですか」
「はい。沢渡さんの頭より上へ出しました。下まで塞いだら、足場が見えなくなると思って」
俺は線を引き直した。
さっきは白い面の下しか見ていなかった。彼女がどこを塞がないようにしたのかまでは、考える余裕がなかった。
「これで、下りられたんですね」
「ええ。次に足を置くところは、残したかったので」
紙の上では、二枚の板が別々の場所に立った。形だけ見れば、主が俺たちの間に置いたものと変わらない。その脇へ二人の位置と進んだ方を書き足すと、片方が抜ける間を、もう片方が守っていたことが分かった。
俺は野帳を宮坂さんへ向けた。
「戦う時も、こういう出し方をしたいです」
彼女が、自分の直した線へ指を置く。
「守ろうとして、踏み込む先まで塞いでしまわないように」
「宮坂さんが前へ出るところを、ですね」
「はい。隠れているだけでは、もったいないですから」
そう言った時には、もう口元が少し上がっていた。
俺も、次に彼女が錫杖を構えるところを考えた。白い面の後ろへ隠れてもらうだけではない。彼女が前へ踏み込む間、横から来る一撃を俺が遮れたら、攻めを続けられるかもしれない。
どこへ置けば動きやすいかは、帰ってから二人で試したかった。
俺は今日見たところまでを記して、野帳を閉じた。
*
荷から文庫本を出すと、包んでいた袋の外側に細かな砂がついていた。
払ってから口を開け、紙の栞を探す。列車で挟んだところに、そのまま残っていた。俺たちが頂へ行って下りてくる間も、物語の方は、そこで続きを待っていたらしい。
「今日は、読めそうですか」
宮坂さんが聞いた。
「少しなら。列車では、この辺りでした」
「ええ」
彼女は頁を覗き込まずに頷いた。
「どこか、分かります?」
「たぶん」
「じゃあ、今の俺が考えそうなことも」
「それは、聞かないと分かりません」
俺は本へ目を戻した。
数行だけ前へ戻ると、誰が何を言っていたのかを思い出せた。返事のない部屋と、中から聞こえた椅子を引く音。そのことが気になって読み始めたのに、今は外にいた人間の話も引っかかっている。
「これ、最初から部屋に誰もいなかった、っていうのはありですか」
「どうして、そう思うんです?」
「誰かを見たわけじゃなくて、椅子の音を聞いただけなので」
「なるほど。そこを考えていたんですね」
宮坂さんは、俺ではなく本の表紙へ目を落とした。
俺は彼女の横顔を見た。
何も言っていないのに、何か知っている顔に見える。
「今、外れたって思いました?」
「それを答えたら、続きを読む楽しみが減りますよ」
「顔でも、分かりそうで」
「では、本を見てください」
それは、もっともだった。
俺は頁へ戻ったが、一行も進まないうちに、隣で小さく笑う気配がした。
「やっぱり、外れてます?」
「当たっていたら、笑わないと思いますか」
「……どっちでも駄目じゃないですか」
「そうなんです。私の顔を見ても、あまり役に立ちません」
宮坂さんは自分の荷からも一冊出した。使い慣れた紙カバーが掛かっている。栞を抜く前に、もう一度こちらへ顔を向けた。
「でも、途中で考えたことは、聞きたいです」
「読み終わってからじゃなくて?」
「終わってしまうと、何を疑っていたのか、忘れることがあるので」
俺は開いた頁を見た。
いま疑っている相手の名前が、そこにも出ていた。最後まで読めば、この人を怪しんだことまでおかしく思えるのかもしれない。
「じゃあ、今のは覚えておいてください。誰もいない方で」
「はい」
「あとで変えるかもしれませんけど」
「その時は、新しい方も聞きます」
そんなふうに言われると、先を読むだけでなく、途中で何を考えたかも残しておきたくなった。
俺は少し読み進めた。気になる台詞の先を追っていたはずが、別の人物の言葉に引っかかり、また前へ戻る。何でもないと思って読み飛ばしたところに、確かめたくなるものがあった。
隣で、宮坂さんが頁をめくった。
聞けば、たぶん知っている。
けれど、今は自分で見つけたいと思った。
しばらく、二人とも話さなかった。
枝が風に揺れ、遠くで鳥が鳴いた。カゲが俺の靴の脇へ伏せると、その背に触れた草がかすかに動いた。
同じ行を三度読んだところで、俺は顔を上げた。
「……さっきから、ここを行ったり来たりしてます」
「眠くなりました?」
「少し。でも、列車のところよりは進みました」
宮坂さんが、俺の指を挟んだところを見た。
「進みましたね」
「宮坂さんは、まだ読みますか」
「区切りのいいところまで」
「それ、すぐ来ます?」
「来ないこともあります」
彼女は何でもないことのように言った。
俺は栞を取り、読み終えたところへ挟んだ。列車で止まっていた続きが、今日の分だけ先へ動いた。残りはまだ厚かったが、それを返す日までの話を、今から考える必要はなかった。
「あの、明日の飯ですけど」
「はい」
「その時、本の話もしていいですか」
宮坂さんは、自分の本へ指を挟んだまま俺を見た。
「もちろんです」
「読み終わってなくても」
「むしろ、その方が楽しみです。続きを言わないように気をつけます」
「お願いします。顔も」
「それは、沢渡さんが本を見てください」
俺は笑った。
頬のテープに皮膚を引かれ、少しだけ口元を戻す。
宮坂さんも笑ってから、本を開き直した。
うどんを食べるだけなら、そんなに長くはかからないはずだった。
でも、店を出る頃には何を話しているのか、もう少し楽しみになっていた。
*
岩の上から日が消えると、森の中は急に暗くなった。
俺たちは本をしまい、明日の朝に使うものを取り出しやすいところへ寄せた。帰る道と出る頃合いを話してから、それぞれの幕へ向かう。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
カゲが足元へ収まるのを待ち、入口を閉じて横になった。右膝は深く曲げず、楽なところへ置いた。荷を背負っていない肩も、地面へ当たると今日使った分だけ重く感じる。寝具の上で少し身体をずらすと、ようやく落ち着く場所があった。
布越しに、カゲの背の温かさが触れた。
目を閉じると、石の当たった白い面が浮かんだ。向こう側は見えなかったのに、足を下ろす場所を教える声は聞こえた。岩へ手を残し、低い段へ靴を置いた感触まで戻ってくる。
隣の幕で、紙の擦れる音がした。
まだ、区切りは来ていないらしい。
俺も本を出そうかと考えたが、荷へ伸ばしかけた手を戻した。さっき読んだところを眠気で忘れてしまうより、続きを楽しみにしていたかった。
明日は、もう少し先まで読もう。
誰もいないという予想を変えるなら、それも宮坂さんに言わなければならない。
隣で、また一枚、頁がめくられた。
どこまで読んだのかは、明日聞けばよかった。
その時には、俺の栞も、今より少し先へ進んでいるかもしれない。
俺は目を閉じたまま、もう一度身体の力を抜いた。
次の頁をめくる音は、聞こえなかった。
面白かったら、ページ下の☆から評価をいただけると励みになります。




