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第72話 二人の頂

 立ち上がる前に、俺はもう一度、右膝へ掌を当てた。


 主(ぬし)の巨躯は散り、岩場には静けさが戻っていた。

 だが、いざ腰を浮かせようとすると、身体が素直についてこない。さっきまで岩場を駆け回っていたのに、膝を伸ばしきる手前で、動きを止めていた。


「もう少し、座っていきます」


「ええ。私も」


 宮坂(みやさか)さんが、隣の平らな岩へ静かに腰を下ろした。

 右肩へ手を伸ばしかけ、その手を膝の上へ戻す。


「さっき、石が当たったところですか」


「少し。荷を背負い直す前に、見ておきたいです」


「俺も、脚を確かめてからにします」


 言いながら、上を見た。


 主(ぬし)が立ち塞がっていた岩場の奥に、頂へ続く岩の段が見えている。

 さっきまで何度も見上げた場所だ。今はもう、行く手を遮る白い壁も、振り下ろされる拳もない。


 それでも、焦って立ち上がる必要はないと思えた。

 宮坂(みやさか)さんも錫杖(しゃくじょう)を岩肌に立て掛け、しばらく何も言わず、吹き抜ける風へ顔を向けていた。


 呼吸が落ち着いてから、俺たちは荷を置いた岩陰へ戻った。


 下りは、小さな段を一つずつ選んで進む。

 右足へ重みを移すたび、近くの岩へ手を添えた。膝の奥は鈍く痛んだが、さっきのように力が抜けることはなかった。


 宮坂(みやさか)さんは半歩先を歩き、岩屑の少ない足場を選んでいた。

 急かすこともなく、こちらばかり振り返るでもない。俺が一段下りると、彼女も次の段へ足を置いた。


 岩陰に、残していった二つのザックがあった。


 水筒を取り出す。最初の一口を喉へ流し込むと、思っていた以上に渇いていたことが分かった。


 宮坂(みやさか)さんが手袋を外した。錫杖(しゃくじょう)を握っていた指の付け根に、赤い跡が残っている。


「そちらも、痛そうですね」


「少し、強く握りすぎました」


 彼女は指をゆっくり広げ、もう一度握り直した。


 錫杖(しゃくじょう)の石突には、白い板を打ったときの細い傷があった。石鎚のあとに直した頭金具は緩んでいない。肘の下へ届いた一突きがなければ、主(ぬし)の腕も崩せなかった。だが、板の正面からは何度も弾かれ、そのたびに宮坂(みやさか)さんが巨体の懐へ入る必要があった。

 俺も山刀(やまがたな)を抜いた。刃先には、主(ぬし)の肘から削れた灰黒い粉が残っている。宮坂(みやさか)さんが割った縁を少し剥がせたが、そこへ届かせるには腕の下まで身体を寄せるしかなかった。粉を拭い、鞘へ戻す。


「あれだけ近づかないと、届きませんでしたね」


「ええ。錫杖(しゃくじょう)でできることは、使い切りました」


 宮坂(みやさか)さんは傷のついた石突を拭い、柄を握り直した。今すぐ別の武器があれば勝てた、と言えるほど簡単な立ち合いではない。それでも、次の高い山でも同じ間合いへ入るつもりかと問われれば、頷けなかった。


「最後のところ、離したくなかったので」


「俺も、あのあとまだ次が来ると思ってました」


「来ませんでしたね」


 顔を見合わせると、どちらからともなく口元が緩んだ。


 俺は手当ての袋を出し、頬の傷についた汚れを水で落としてから、小さなガーゼを当てた。鏡の代わりに宮坂(みやさか)さんへ顔を向けると、彼女が自分の頬を指で示してくれた。


「もう少し、上です」


「この辺りですか」


「はい。そこです」


 テープの端を指の腹で押さえる。笑いかけると、今度は貼り付けたものに皮膚を引かれる感触がした。


 宮坂(みやさか)さんは右肩の服を少しずらし、当たったところを確かめていた。赤い跡はあったが、布に血はついていない。腕を上げると、わずかに眉が動いた。


「荷の持ち方を変えます。上まで、全部は要りませんから」


 俺は頷き、ザックから必要なものを出した。


 水と、残りの行動食。雨具と、手当ての袋。地図と野帳も、小さな荷へ移す。前日の甲二枚とドローンは大きなザックに残し、頂から戻った時に担ぎ直す。稜線を叩くこの風では、ドローンを上げても流されるだけだ。


 時計を見て、ここへ戻る時刻を二人で決めた。昨日の泊まり場へ下りる時間は残す。膝や肩の具合が変われば、途中でも引き返す。


 俺は荷を持たずに立ち、近くの低い段を上がった。そのまま、ゆっくり下りる。


 大きく跨がずに足を置くと、右脚でも重みを受けられた。

 痛みは残っている。けれど、今の一段では膝は崩れなかった。


「俺は、上へ行きたいです」


 宮坂(みやさか)さんを見た。


「この脚で戻る分も、残して」


「私もです。急がず、ゆっくり行きましょう」


 彼女は地図をもう一度確かめ、畳んでしまった。

 俺も、岩陰に残す荷の口を閉じた。


*


 主(ぬし)が散った岩場へ、もう一度戻った。


 戦いのあとで見直すと、一帯の荒れ方がよく分かった。

 足をついたところが崩れ、巨腕が落ちた場所には新しい割れ目がある。俺が背を寄せて力を流した岩の角も、途中からなくなっていた。


 宮坂(みやさか)さんが、その破断面へ目をやった。


「よく、あちらへ抜けましたね」


「宮坂(みやさか)さんが、続けてくれたので」


「止まったら、もう入れないと思いました」


 彼女は石突に挟まっていた細かな欠片を指で取り、足元へ払った。


 俺たちは、残っていた主(ぬし)素材を回収した。布で包む前に、採れた位置と外見を野帳へ記す。胸のカメラにも手元を向け、記録袋へ収めた。


 昨日の甲二枚とは、別の袋だ。

 札の余白には、『白山(はくさん)・主(ぬし)』と書いた。


「こちらも、戻ったら資源庁へですね」


「はい。受領の控えも、もらっておきます」


 宮坂(みやさか)さんが袋の口を確かめた。俺はそれを小さな荷へ収め、身体の前へ引き寄せる。


 素材の使い道は、今ここでは分からない。

 ただ、あの主(ぬし)がいた場所から持ち帰るものが、自分たちの手の中にあった。


 そしてもう一つ、主(ぬし)が散ったあと、身体の内側に残ったものがある。


 新しい験(げん)の感触へ意識を向けると、宮坂(みやさか)さんもこちらを見た。


「少しだけ、確かめておきますか」


「はい。ここなら足元も広いです」


 岩屑の少ない平らなところへ移った。

 宮坂(みやさか)さんは少し離れ、錫杖(しゃくじょう)を下ろして見守る。


 俺は自分の前へ手を出した。


 あの主(ぬし)が、俺たちの間へ何度も立てていたもの。

 腕を隠し、道を塞ぎ、滑らかに向きを変えていた白い面。


 新しく継いだ験(げん)へ意識を寄せる。《隔て(へだて)》。継いだ時から、その名と短い言葉は喉に馴染んでいた。短く声を出した。


 目の前に、真っ白な板が立った。


 思わず、指を止める。

 掌は何にも触れていない。だが、その少し先に、まっすぐな縁があった。


 向こう側にいた宮坂(みやさか)さんの姿が、途中まで隠れた。


「出ましたね」


 白い端から、彼女が顔を出す。


「俺たちの方に」


「ええ」


 俺は掌を押し当てた。

 押し返される確かな感触がある。目に見えるだけの白さではなかった。


 宮坂(みやさか)さんも横から手を伸ばし、面へ触れた。

 指を揃えて押し、それから錫杖(しゃくじょう)の柄で軽く叩く。


 コン、と澄んだ音がした。


 あの主(ぬし)の防壁を砕くため、何度も打ち込んだ時とは違う、小さな音だった。

 板の向こうに、振り下ろされる拳が待っているわけでもない。


「さっきまで、あれほど邪魔だったのに」


 宮坂(みやさか)さんが、平らな白い面へもう一度掌を当てた。


「今は、頼もしく見えます」


「俺もです。宮坂(みやさか)さんの前にも、出してみたいです」


「私からも。沢渡(さわたり)さんが前へ出る時に」


 彼女が面から手を離した。

 俺も、白い端の向こうにある彼女の足を見た。


 板を解く。

 隠れていた宮坂(みやさか)さんの身体が、全部見えた。


 今度は彼女が、俺から少し横へ離れたところを指した。


「あちらに出します。短いのを一度だけ。喉は、まだ戻りきっていませんけど」


 宮坂(みやさか)さんが掠れた声を低く通すと、指した場所に、新しい白い面が立った。

 俺は一歩近づき、掌を当てる。彼女の手元を離れた、俺のすぐそばでも、そこを遮るものがある。


 あの腕を、もう一度ここで受けなくてよくなるかもしれない。

 宮坂(みやさか)さんも、俺を助けるために、自分の攻めを止めなくて済むかもしれない。


 どれほどの一撃を防げるかは、まだ分からなかった。

 それでも、白い板を見ていると、次の戦いで使ってみたい場所がいくつも浮かんだ。


 宮坂(みやさか)さんが板を解いた。


「帰ってから、二人で試したいです」


「今度は俺が、そっちへ出してみます」


「お願いします」


 錫杖(しゃくじょう)を持ち直した彼女の口元に、笑みが残っていた。


 俺は主(ぬし)素材の入った小さな荷を確かめた。

 それから二人で顔を上げ、頂へ続く道を見た。


*


 主(ぬし)がいた岩場の奥には、広い岩の段が続いていた。


 俺たちは競うようには登らなかった。

 足を置くところを選び、一段上がる。身体が上がってから、次の岩へ手を伸ばす。


 宮坂(みやさか)さんの右肩も、まだ本調子ではないらしい。

 大きく腕を上げず、無理なく届くところへ手を掛けていた。


 道が広がるところでは並び、細くなると前後に戻った。

 互いが足を置く分だけ、間を空ける。


 足を止めて振り返ると、さっきまでの岩場が見えた。


 あそこに主(ぬし)がいて、俺たちはその下から近づいた。

 白い板の角を砕いたところ。宮坂(みやさか)さんが駆け上がった段。右肘へ拳を通した場所。


 戦っている時には、どれも身体を置くための場所だった。

 離れて見れば、山の途中にある岩の重なりだった。


「そこ、少し高いです」


 宮坂(みやさか)さんが声を掛けた。


 俺は目の前へ視線を戻した。

 右膝を高く上げずに済むところを探すと、隣に低い段がある。


「こっちから行きます」


「はい」


 横へ回り、両足を一度揃えた。


 もう少し上だ。


 最後の岩の背へ出る手前で、前を歩く宮坂(みやさか)さんが立ち止まった。

 道を塞がない側へ寄り、俺を見る。


「沢渡(さわたり)さん、先にどうぞ」


 俺は彼女の横へ足を置いた。


「並んで、一緒に行きませんか」


 先には、二人が並べる幅があった。

 宮坂(みやさか)さんはそこを見てから、こちらへ顔を戻す。


「行きましょう」


 俺が左へ寄り、彼女が右へ出る。

 同じ岩の段へ、二人で上がった。


 目の前にあった岩の向こうへ、空が続いた。


 足を進めても、その先は高くならなかった。

 向こう側へ下りる斜面が現れ、横にも、後ろにも、尾根が落ちている。


 地図を開き、風に煽られないよう押さえた。

 登ってきた側と、その裏へ続く斜面。周りの峰の位置を確かめる。


 高度計を見て、表示を野帳へ写した。時計も確かめ、時刻を書き添える。


 ここが、白山(はくさん)の最高所だった。


 隣で、宮坂(みやさか)さんが長く息を吐いた。


「着きましたね」


「はい」


 俺は地図を畳み、ゆっくりと顔を上げた。


*


 朝、二四〇〇を越えた岩の肩からは見えなかった、山の向こう側があった。


 雪を抱えた窪地が、低いところへいくつも続いている。

 その縁を黒い岩が囲み、さらに遠くでは、別の尾根が幾重にも青く霞んでいた。


 風が正面から来る。

 上着の布が音を立てて身体に張りつき、足元のカゲの白い毛が、一度に伏せた。


 俺は、登ってきた方を振り返った。


 下にある森も、昨日歩いた斜面も、二四〇〇を越えた肩も、全部を一度には見つけられなかった。

 近い尾根に隠れているところがある。岩の陰へ折れた道は、ここからも見えない。


 それでも、歩いてきた。


 見えない場所にも、足を置いた感触が残っていた。

 枝に擦れた荷の音も、沢床で蹴った足も、昨日の泊まり場の地面も。


 地図の上で鉛筆に囲まれていた丸が、今は俺たちの足の下にある。


 俺は、一度だけ両足を踏み直した。


「宮坂(みやさか)さん」


「はい」


「来られました」


 彼女がこちらを向いた。


「ええ。二人で、ここまで」


 その言葉が、胸の奥へ入ってきた。


 宮坂(みやさか)さんはもう、別の方角を見ていた。

 朝、岩の肩から気にしていた尾根だ。


「あちらの裏側、あんなふうになっていたんですね」


 彼女の指の先を追う。


 細い岩の背の向こうに、広い斜面が隠れていた。

 手前から見た時には、切り立った岩しかないと思っていた場所だった。


「今朝のところからだと、全然見えませんでしたね」


「ええ。あそこだけを見て帰らなくてよかったです」


 宮坂(みやさか)さんはそう言って、少し長く眺めた。

 俺も何も言わず、隣で同じ景色を見た。


 やがて彼女が腰を下ろし、俺も同じ岩の平らなところへ座った。

 膝を曲げすぎずに脚を置く。頂へ立てたことと、痛みがなくなることは別だった。


 でも、今は座って見られる。


 行動食の包みを開いた。風に端が煽られ、慌てて指で押さえる。


「落とさないでくださいね」


「食べるまでが、荷運びですか」


「食べたあとも、包みは持って帰ります」


 俺は笑い、頬のテープが引かれるのを感じた。


 食べ終えてから、胸のカメラを外した。登ってきた側へレンズを向け、ゆっくりと、その向こうの峰まで動かす。


 カメラだけを向けておくのが惜しくて、俺もその先を見た。

 風の冷たさも、腰掛けた岩の硬さも、今ここにはある。


「二人で映っておきませんか」


 声を掛けると、宮坂(みやさか)さんがこちらを向いた。


「ここで?」


「はい。帰ったら、遼(りょう)にも見せたいので」


 レンズをこちらへ向け、平たい石の上へカメラを置いた。倒れないところへ寄せ、二人が座っていた岩へ、足元を確かめながら戻る。


 宮坂(みやさか)さんが、ほんの少し横へ詰めた。

 俺が腰を下ろすと、カゲもついてきて、靴の間へ鼻先を入れる。


「カゲ、そっちじゃない」


 白い耳が一度動いた。

 こちらを見上げたが、カメラへは向かなかった。


「いいじゃないですか。そのままで」


 宮坂(みやさか)さんが笑った。


 カゲは俺の靴へ顎を乗せた。

 俺は諦め、宮坂(みやさか)さんと並んで前を見た。


 風が、二人の服を鳴らす。


 気の利いた言葉は、出てこなかった。


「着きました」


 俺が言うと、宮坂(みやさか)さんが小さく肩を揺らした。


「さっきも言いましたよ」


「何回でも、口に出したくなるんです」


 言いながら、俺も声を出して笑った。


 しばらく、そのまま座っていた。

 カメラは風と俺たちの声を記録している。映像をどう使うか、公開するかも、帰ってから三人で決めればいい。


 立ち上がってカメラを取り、録画を止めた。胸へ戻したあと、野帳を開く。


 書き写した高さと、着いた時刻をもう一度見た。


 丈(たけ)は、まだ二四〇〇のままだ。

 還ったあとに、この高さが自分の記録になる。


 宮坂(みやさか)さんが荷の紐を持ち直した。俺も小さな荷を確かめる。主(ぬし)素材の記録袋は、その中にある。大きな荷は、この下の岩陰で待っていた。


「戻りましょう」


「はい」


 今度は宮坂(みやさか)さんが、先に下りる場所を確かめた。

 俺はその隣へ立ち、同じ方を見る。


 帰り道の最初の一段が、足元にあった。


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