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第71話 崩した先へ

 白い壁が、足元の岩屑を押し潰しながら迫ってきた。


 先ほど砕いた角の欠損は、確かにそこにある。

 だが、宮坂(みやさか)さんの足元を覗かせていた隙間は、主(ぬし)が角度を変えたことで、手前の低い岩の陰に重なって塞がれていた。板の向きがわずかに傾くだけで、抜け道だった空間が消え失せる。


 俺は横へと鋭く足を送った。

 だが、その逃げ先を先回りするように、分厚い白い縁が旋回してくる。


「沢渡(さわたり)さん、後ろ!」


 宮坂(みやさか)さんの警告と同時に、引いた足の踵が岩肌へ当たった。


 これ以上下がれば、足を取られる。

 俺は左足をその岩の根元へ当て、眼前に迫る板の縁へ両腕を添えた。第二へ意識を寄せる。押される力を腕から肩と背へ通し、腰を捻って、岩を踏んだ足へ流した。


 ヤッケの袖が、白い面に擦れて耳障りな音を立てた。

 板の突進は止まらない。押し寄せる力に身体が横へ引きずられ、登山靴のゴムが岩肌を削っていく。


 胸を押し潰されない向きへ逃がしているだけだ。

 このまま押し切られれば、背後の岩壁と板の間に挟まれる。


 その時、欠けた角の向こうで錫杖(しゃくじょう)が鳴った。


 宮坂(みやさか)さんの石突が、主(ぬし)の傷ついた左膝へ走った。

 届く寸前、巨体が脚を引く。白い面が、彼女の側へわずかに向きを変えた。


 両腕にかかっていた圧力が、ふっと抜けた。


 板の欠損部と岩の段差の間に、身体を滑り込ませられるだけの細い隙間が、一瞬だけ開いた。


「下、抜けます!」


 第二を終え、第三へ換えた。

 足裏はそのままに、肩と背中の摩擦を落とす。


 左膝を深く折り、上体を真横へ倒すようにしてその隙間へ滑り込んだ。

 右肩が板の破断面を擦る。布地は引っ掛からず、押しつけられた肩がそのまま横へ滑った。続いて背中を通し、最後に右脚を引き抜く。その瞬間、痛めていた膝の奥に鈍い軋みが走った。


 通り抜けた先は、主(ぬし)のすぐ足元だった。


 頭上から、鉱物めいた太い指が鷲掴みにしようと落ちてくる。


 俺は踏んだ足で岩を蹴り、頭を低くしたまま前へ駆け抜けた。

 背後で、指が岩盤を引っ掻く音が響く。白い板が、その手を追うように旋回した。


 板の外側へ回り込んでいた宮坂(みやさか)さんが、瓦礫の向こうから姿を現した。

 突き出した錫杖(しゃくじょう)は、すでに胸元へ引き戻されている。


「動けますか」


「はい。そっちは」


「行けます」


 宮坂(みやさか)さんは俺の姿を一目で確かめると、すぐに主(ぬし)の巨躯へと視線を戻した。


 角を砕いてあったからこそ、抜けられた。

 だが、そこだけを出口にしていれば、今のように塞がれる。


 主(ぬし)の右腕は、低く曲げられたままだった。

 肘の下の窪みからは、砕けた外皮の粉末が砂のようにこぼれ落ちている。巨体は傷口を庇うように左脚を引きつけ、損傷の少ない右脚で力任せに岩を蹴った。


 休む間もなく、次が来る。


*


 主(ぬし)は長い左腕を水平に薙ぎ払い、同時に白い板を斜めに下げた。


 腕を掻い潜る先を、障壁の広い面が塞ぐ。

 宮坂(みやさか)さんが素早く杖を引き、踏み込もうとしていた足を置き直した。その靴底のすぐ前を、板の鋭い角が削っていく。岩と岩が擦れる音に、破砕音が重なった。


 跳ねた破片が、彼女の右肩を叩いた。


「っ……!」


 短く息を呑み、顔を背けながらも、宮坂(みやさか)さんは錫杖(しゃくじょう)の柄を手放さなかった。

 石突を近くの段差へ当て、ぐらついた身体を支える。その足で地面を蹴り、一段高い岩棚へと身を躍らせた。


 俺もすぐに追った。


 背後で、白い壁が低い岩の角を擦り抜けていく。

 バリバリと音を立てて細かな礫が吹き飛び、拳ほどの岩塊が一つ、俺の足元へ転がってきた。


 第三を終え、第一へ換える。


 前腕の周りを流れる風で、小さな破片の軌道を外へ逸らした。

 大きな塊は、右へ動いて躱す。黒い石が足の外側をかすめ、後ろへ跳ねていった。


 吹き抜ける風が頬の傷を撫で、熱さが戻ってきた。


 宮坂(みやさか)さんは、さらに高いところを見ていた。


 最初に主(ぬし)が立っていた側へ、岩の段が続いている。

 上段の平坦へ出れば、巨体の肩口に近い高さを取れる。その奥には深い岩の割れ目が口を開けていたが、右手には斜めの段が続き、下の岩場へ戻る足場は見えていた。


「上から入ります」


 宮坂(みやさか)さんが、風の唸りに負けない明瞭な声で告げた。


「右腕を上げさせます。沢渡(さわたり)さんは、下から」


「分かりました」


 彼女が短く声を出すと、《鎖》の鉤が上段の岩の張り出しへ掛かった。


 張った鎖に引かれる勢いを使い、彼女は段差を駆け上がっていく。

 上段へ足を落ち着けると鎖を解き、錫杖(しゃくじょう)を両手で構え直した。俺は下に留まり、主(ぬし)の右半身へ回り込む。


 低い頭が、宮坂(みやさか)さんを追って持ち上がった。

 白い板も浮き上がる。先ほどまで足元を遮っていた面が、今度は岩の段に沿って斜めの壁になった。


 その瞬間、宮坂(みやさか)さんの錫杖(しゃくじょう)が、板の上端を越えて鋭く突き出された。


 狙いは、主(ぬし)の顔面だった。


 主(ぬし)は頭を引き、傷ついた右腕を跳ね上げた。

 石突が太い前腕の表面を打つ。灰黒いものが削れて散った。宮坂(みやさか)さんは押し込み続けず、すぐに杖を引き戻す。


 腕が上がった分だけ、下が開いた。


 俺は地を蹴って踏み込んだ。


 白い板が、こちらへ傾く。


 足を緩めず、残った縁の外側へ回った。

 主(ぬし)の右手が追いかけてくる。顔の横を拳が過ぎた瞬間、俺はその肘の下へ入った。


 手の届くところに、宮坂(みやさか)さんが二度削った傷がある。


 右手で山刀(やまがたな)を抜き、短い刃を傷の縁へ滑り込ませた。


 硬い。

 刃先は奥へ入らない。宮坂(みやさか)さんが割った縁へ角度を変え、身体を寄せて引く。外皮が一片めくれ、その下に細い割れ目が走った。それでも、腕は落ちてこなかった。


 主(ぬし)の分厚い胸が、俺を押し潰すように回ってくる。

 刃を引き戻し、横合いから伸びる左手の下を抜けた。頭上を指が掠め、腕の起こす風が襟を揺らす。足を止めず、山刀(やまがたな)を鞘へ戻した。


「浅いです!」


 声が出た。


「こちらは、届きます!」


 上段から、宮坂(みやさか)さんの突きが再び頭へ向かった。

 主(ぬし)が右腕を戻す。そのために肘が曲がり、俺の目の前で、傷の縁がわずかに開いた。


 刃で削るだけでは足りない。

 だが、あの腕で自分の重さを支える時なら――。


 俺は上段の岩棚を見た。

 宮坂(みやさか)さんは一歩奥へ動き、板の上から、なおも主(ぬし)の顔を狙っている。


 巨体が身体を伸ばした。

 彼女が引いた分だけ、腕は届かなかった。


*


 主(ぬし)が、太い右脚を上段へ掛けた。


 痛めた左膝は、下に残っている。

 身体を持ち上げる途中で、右手も岩棚の縁へ伸びた。


 宮坂(みやさか)さんは一歩奥へと身を引いた。

 逃げ切るほどには離れない。石突が届く間合いを維持したまま、岩を掴んだ主(ぬし)の手の甲へ、錫杖(しゃくじょう)を振り下ろす。


 硬い音が鳴り、黒い指が開いた。


 その手の代わりに、白い板が上段を塞ぐ。


 板の側面が、宮坂(みやさか)さんの錫杖(しゃくじょう)を強く押し出した。

 彼女は柄を引き、斜め後ろへ身をかわす。靴が岩の端を踏んだ。その背後にある深い割れ目まで、もうあまり余地はなかった。


「右へ抜けられますか」


「抜けます。でも、まだここで」


 短い返事だった。


 彼女は石突を下げず、主(ぬし)の顔を見ていた。

 右へ下りる段に足を寄せながら、もう一度構える。


 俺は第一を終え、第四へ換えた。


 痛む右膝を深く沈めず、左足へ重みを寄せる。

 左拳を打ち出す、その一回へ力を集めた。


 主(ぬし)の手が、再び岩の縁を鷲掴みにした。

 太い右脚が地面を押し込み、巨大な胸が一段高く持ち上がる。


 宮坂(みやさか)さんが動いた。


 上段を横へ走りながら、主(ぬし)の頭の脇へ石突を向ける。

 白い板が追った。彼女は衝突する前に身体を外へ開き、板の縁を回る。


 主(ぬし)も、身体を捻った。


 下に残った手負いの左脚が、身体を支えようと横へ踏み直された。

 傷のある膝へ重みが掛かる。巨体が傾き、関節が一度、深く折れた。


 右腕が張った。


 落ちかけた巨体を、上段の岩を掴んだ手で支えようとする。

 肘の下の傷が引き伸ばされ、山刀(やまがたな)で起こした割れ目が奥へ伸びた。


「右腕、落とします!」


 俺は左足を岩へ据え、腰を回した。


 溜めた力を乗せ、左拳を傷の奥へ打ち込む。


 ドゴッ、と腹へ響く鈍い音がした。

 硬い表面を叩いた抵抗のあと、左腕が少し前へ伸びる。さっき山刀(やまがたな)で剥がした傷の奥が、拳を押し戻さなかった。


 肘の下が、崩れた。


 腕そのものが千切れたわけではない。

 だが、崩れた肘は巨体を支える角度を失い、主(ぬし)の右肩が地響きとともに岩棚の縁へ落ちた。


 俺は左拳を引き抜き、身体を横へ運んだ。

 第四の力は、今の一撃ですべて使い切った。足を止めず、沈んでくる胸から離れる。


 主(ぬし)の胸が、すぐ脇を沈んでいく。

 その上から、宮坂(みやさか)さんの靴が見えた。


 彼女はすでに、下の足場へ踏み出していた。


*


 白い板が、宮坂(みやさか)さんの眼前へ跳ね上がった。


 上から入る錫杖(しゃくじょう)を阻むように、分厚い面が斜めに傾く。

 下端の欠損部分も同時に回り、主(ぬし)の頭の脇へ来た。


 宮坂(みやさか)さんは杖を引かなかった。


 踏み出す足を、ひとつ横の段へ置く。

 身体の向きが変わり、石突の通る角度もずれた。


 大きく欠けたところを、杖先が抜ける。


 主(ぬし)の顎の下へ、最初の一突きが入った。


 ドスッ、と鈍い音が響き、頭が跳ねる。

 灰黒い破片が四方へ散り、首の付け根に裂け目が走った。


 宮坂(みやさか)さんはもう片方の足も岩へ乗せ、杖を引き戻す。


 主(ぬし)の左手が、彼女の脇から上がってきた。


「続けて!」


 俺は第四を終え、第二へ換えた。


 迫り来る巨大な手の側面へ、両腕を斜めに添えた。

 同時に背を、さっきまで主(ぬし)が掴んでいた岩へ寄せる。足を左右に開き、左の靴底もその根元へ当てた。


 手の重みが来た。


 痛めた右前腕の奥に、焼けるような熱が走った。

 腕から肩、背へ。意識を切らさず、背後の岩へ力を通し続ける。身体が押され、靴底の下で砂利が激しく擦れた。


 主(ぬし)の左手を、外へずらす。


 ほんの少しだった。

 その分だけ、宮坂(みやさか)さんの脇に空きが残った。


 彼女はそこへ、もう一歩踏み込んだ。


「――手力(たぢから)!」


 取っておいた一回だった。錫杖(しゃくじょう)の石突が、首の裂け目を捉える。


 岩に似た表面が割れ砕け、石突がその奥へ沈んでいく。

 宮坂(みやさか)さんは後ろの足まで踏み込んだ。頭を支えているところへ、体重を乗せた一突きを身体ごと押し通す。


 主(ぬし)の肩が、大きく揺れた。


 左手の向きが変わる。

 横へ流していた重みが、今度は頭の上から覆いかぶさってきた。


 支えきれない。


 俺は接触を離し、岩に沿って横へ出た。

 直後、巨大な掌が地面へ落ちる。今まで背をつけていた岩の角が、指の間で砕けた。


 宮坂(みやさか)さんが錫杖(しゃくじょう)を引き抜く。


「離れます!」


 彼女は下りてきた斜めの段へ足を掛けた。

 俺も同じ側へ動いたが、右足を出した瞬間、膝が一度抜けかけた。


 左足で止める。

 岩へ手をつき、身体を起こした。


 宮坂(みやさか)さんが一拍待った。

 俺が段へ足を乗せるのを見て、彼女も次の足場へ移る。


 背後で、白い板が傾いた。


 巨体の胸が岩へ触れる。

 崩れた右腕では起こせず、左脚も伸び切らなかった。


 主(ぬし)が、頭を持ち上げようとする。

 首の裂け目から、細かなものがほどけた。


 俺は痛む脚を開き、主(ぬし)へ向き直った。

 宮坂(みやさか)さんもまた、錫杖(しゃくじょう)を低く持ち直している。


 まだ動くなら、ここで迎え撃つ。


 主(ぬし)の左手が、岩肌を最後にもう一度掻きむしった。

 だが、その太い指は途中で輪郭を失い、灰黒い塵のように崩れていく。


 ふと、白い壁の向こう側に、青い空と稜線が透けて見えた。


 板が動いたのではなかった。

 面そのものが薄れ、亀裂も欠けも、向こうの岩へ重なって消えていく。


 灰黒い肩が崩れた。

 立ち上がろうとしていた胸も、低い頭も、輪郭を保てなくなってほどけていく。


 最後に残っていた膝が散った時、俺はようやく息を吐いた。


*


 吹き抜ける風の音だけが残り、しばらく誰も喋らなかった。


 宮坂(みやさか)さんが、ゆっくりと錫杖(しゃくじょう)の石突を地面へ下ろした。

 その仕草を見て、俺も第二を解いた。


 纏いがほどけ、カゲが足元へ戻る。

 白い背が岩粉の上を歩き、俺の靴のすぐ脇で止まった。


 頬の傷から流れた血が、顎の先へ垂れ落ちる。手袋の甲で拭うと、黒い繊維の上に赤い筋が滲んだ。


 右膝を伸ばし切らず、俺は近くの岩へ腰を下ろした。息を吸うたび、肋骨の下が動く。宮坂(みやさか)さんも隣の岩に片手をつき、肩を上下させていた。


「沢渡(さわたり)さん」


「はい」


「最後の一突き、届きました」


 その声が、少し掠れていた。この高さで《手力(たぢから)》を通した分だ。俺は顔を上げた。


 彼女の手袋にも、びっしりと岩の粉が擦り込まれていた。

 錫杖(しゃくじょう)の石突は細かな破片を噛み、濁った色に汚れている。それでも、柄を握る指にはまだ確かな力があった。


「見てました」


「ええ」


 宮坂(みやさか)さんが深く息を吐いた。

 そのまま目元をわずかに緩め、小さく笑う。


 俺も笑い返そうとして、頬が引きつれた。


「勝ちましたね」


「はい。勝ちました」


 町の机の上で、二本の線を引いて話していた時は、まだ目標だった。

 今は、目の前から主(ぬし)がいなくなっている。


 静まり返った岩場に、風に吹き飛ばされずに残っているものがあった。

 主(ぬし)が散った、その場所だ。回収するための記録袋は、登ってきた側の岩陰に置いたザックの中にある。


 そして身体の内側にも、出羽の戦いのあとに感じたものとは違う、新しい験(げん)の感触が静かに残っていた。


 宮坂(みやさか)さんも自分の掌を見つめている。

 指先を一度開き、それからこちらを見た。


 俺は頷いた。

 何ができるのかを確かめるのは、息が戻ってからでいい。


 主(ぬし)がいた岩場の奥に、高い頂がある。


 まだ、あそこには立っていない。

 けれど、今は白い壁に遮られずに見えた。


 俺は膝へ手を置き、ゆっくり顔を上げた。


 壁が立っていた空間を、冷たく澄んだ稜線の風が、まっすぐに吹き抜けていった。


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