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第70話 壁の向こうへ

 宮坂(みやさか)さんが、岩肌に預けていた錫杖(しゃくじょう)を右手に取り直した。


 俺も野帳を閉じ、表紙を留める平ゴムをパチンと弾かせた。紙の上に書き殴った四角い板は、もう動かない。顔を上げれば、本物の白い障壁が、巨体の胸元で日光を弾きながらわずかに角度を変えていた。


「左から、先に私が仕掛けます」


「俺は右へ。腕が板の裏に隠れたら、合図をお願いします」


「はい」


 言葉は、それだけで十分だった。


 俺たちは踏み跡をわずかに引き返し、登ってきた側の窪んだ岩陰へザックを下ろした。俺が荷紐を解いて岩肌へ寄せる間、宮坂(みやさか)さんは上の岩場から目を離さない。終われば交代し、今度は俺が見張った。野帳を防水袋へ戻す。その下には、昨日採取した甲二枚の記録袋が収まっている。ドローンも荷の奥に残し、胸元のカメラは録画を続けたままにした。腰の短い山刀(やまがたな)の鞘を、荷紐から離して留め直す。抜く時に柄が引っ掛からない位置を確かめた。


 ザックの肩紐から腕を抜くと、肩の軽さに一瞬だけ身体が浮くような錯覚を覚えた。

 だが、荷を担いで登ってきた足腰の芯には、鉛のような鈍い疲労が沈んでいる。


 俺は冷たい岩肌に片手を添え、呼吸を整えて《甦り(よみがえり)》へ意識を寄せた。


 短く、声を出す。


 膝を軽く屈伸させた瞬間、違いが分かった。

 腿の奥に貼りついていた重い凝りが薄れ、片足へ体重を預けたときの反発力が戻ってくる。深く吸い込んだ稜線の冷気が、胸の奥まで入ってきた。


 左右へ細かく足を運ぶ。ただ荷を下ろしただけの脱力感とは違う。腰を低く落としても、次の踏み出しへ力が伝わる。


「どうですか」


 宮坂(みやさか)さんが聞いた。


「脚が軽くなりました。さっきより、踏めます」


 今度は俺が上を見ている間に、宮坂(みやさか)さんが錫杖(しゃくじょう)を岩へ預けた。彼女も短く声を出し、自分に《甦り(よみがえり)》を使う。息を吐き、片膝を曲げて重心の移動を確かめると、杖を取り戻して石突を爪先の近くへ寄せた。


「私も、動けます」


 宮坂(みやさか)さんが錫杖(しゃくじょう)の頭を見上げた。


「《手力(たぢから)》は、板が割れかけるまで取っておきます。この高さで外したら、声がすぐには戻りませんから」


「俺も、脚と鎖で行きます」


 右腕を回してみると、昨日、甲の縁から力を流したところには、まだわずかな張りがあった。指を握り、開く。もう一度、上を見た。


 岩場の向こうで、主(ぬし)が黒い片腕を下ろした。


 俺は足元のカゲを纏い、第二を選んだ。

 白い纏いが、肩から腕へ沿っていく。腰を沈めると、足元の小石が視界に近づいた。


 宮坂(みやさか)さんがこちらを見た。

 俺は頷き、二人で岩陰から出た。


*


 登山道は一度、砂礫の溜まった浅い窪地へ下り、その先で広い岩場へ這い上がっていた。


 左手には低い岩の背が連なり、右手には雨水に削られた浅い溝が走っている。その向こうに、地面へ深く食い込んだ大岩の角が突き出していた。足元の平たい岩には、斜めに亀裂が一本ある。俺はその外側へ右足を置いた。


 宮坂(みやさか)さんが左へ開いていく。

 互いの姿と視線が遮られない間合いを保ちながら、扇状に距離を詰めていく。


 白い板が、空中で角度を変えた。


 間近で見ると、その異様さが際立った。

 残雪の塊でも、光が結んだ頼りない陽炎でもない。まっすぐな縁には厚みがあり、濁りのない白い面が巨体の前を塞いでいた。


 その端から、主(ぬし)の太い膝が覗く。


 宮坂(みやさか)さんが地を蹴った。


 低く構えた錫杖(しゃくじょう)が、板の脇から覗いた主(ぬし)の脚めがけて閃く。

 白い板が、生き物のように横へ滑り込んだ。宮坂(みやさか)さんは石突を引き切らず、そのまま板の下の角へ斜めに叩きつけた。


 ギン、と硬い音が鳴る。


 爪の先ほどの白い破片が弾け飛んだ。

 宮坂(みやさか)さんは跳ね返る杖を脇へ引き戻しながら、さらに左の外側へ回り込む。


 主(ぬし)の低い頭が、彼女を追った。


 俺は右から踏み込んだ。

 白い面が向きを変え始める。その端に隠れかけた膝へ、蹴りを入れようとした。


「右腕、引いてます!」


 宮坂(みやさか)さんの鋭い叫びが、岩場を切った。


 蹴り足を下ろす。

 拳が見える前に、俺は腰を引いた。


 次の瞬間、白い板の端から、黒い岩塊のような拳が風を押して落ちてきた。


 正面には受けなかった。

 平たい岩の縁へ左足を当て、身体を半身に開く。拳の側面が右の前腕当てを擦った瞬間、第二へ力を通した。薄い当て板は皮膚を守っても、腕に掛かる重みまでは消さない。


 腕から肩へ。

 背へ伝わる重みを、腰の回転とともに、岩へ当てた左足へ流す。


 胃の奥を太い杭で突かれたような圧迫感が走った。

 足元の砂利が四方へ弾け、登山靴のゴムがぎりぎりと岩肌を擦る。それでも、真下へ身体を潰すはずだった拳は、軌道をわずかに外れ、俺の左脇へ落ちていった。


 拳が落ちた先で、岩の角が砕けた。


 まだ、終わりではない。


 地面に拳をついたまま、主(ぬし)は肘を起こそうとしていた。

 俺が前腕を離して間合いを外す。その入れ替わりに、宮坂(みやさか)さんが腕の内側へ滑り込んだ。


 鋭く突き出された錫杖(しゃくじょう)の石突が、肘の下の隙間を穿つ。


 灰黒い表面が欠けた。

 太い腕が一度沈み、巨体の肩が傾ぐ。


 宮坂(みやさか)さんは杖を引き、その下を駆け抜けた。

 俺も拳から離れ、彼女の足が出てくる側へ身体を向ける。


「通りました!」


「見えました!」


 叫び返した胸の奥が、熱くなった。


 まだ姿の見えない拳を、声が先に知らせてくれた。

 主(ぬし)が右腕を引き戻す。肘の下には、石突で削った窪みが残っている。


 俺は、右奥に突き出た岩へ目を向けた。


*


 第二を終え、第三へ換える。


 短い声とともに、《鎖》の鉤が岩の張り出しへ噛み合った。

 足裏の摩擦を落とすと、張り詰めた鎖に引かれ、身体が低い姿勢のまま滑り出す。


 靴底の下を、細かな砂が流れていった。


 主(ぬし)の側面へ出る。

 そこで止まり、宮坂(みやさか)さんが抜けたあとを攻めるつもりだった。


 白い板が、下がった。


 主(ぬし)の胸元から、膝へ。

 さらに低くなりながら、俺が止まろうとしていた場所へ滑り込む。


 鎖が白い縁へ触れる前に、解いた。

 同時に、足裏の摩擦を戻す。


 身体は止まらない。


 靴底が砂利を掻き、上体だけが先へ行く。

 俺は腰を落として左へ身体を捻り、行く手へ突き出た岩の側面に右足の裏を当てた。


 ドスン、と制動の衝撃が右膝へ来た。膝の奥で、何かが小さくずれた感触があった。


 身体が斜めに起きた瞬間、白い板の分厚い側面が顔の前を通り過ぎた。

 その向こう側にあったはずの主(ぬし)の脚も、巨体の輪郭も、白い壁に隠れて消える。


「岩の下、止まりました!」


 声を出す。


「そちらへ行きます!」


 すぐに宮坂(みやさか)さんの声が返り、続いてジャラリと鎖の擦れ合う音がした。

 彼女は下手の岩へ鉤を掛け、足で段を越えながら身体を引き寄せる。低い岩の背の切れ目から、その姿が見えた。


 俺も岩に当てた足を外し、そこへ一歩下がる。


 直後、さっきまで宮坂(みやさか)さんがいた地面へ、主(ぬし)の巨大な足が踏み下ろされた。

 地響きとともに砕けた砂礫が跳ね上がる。俺は片腕を顔の前へ掲げ、小石の直撃を避けた。


 白い板が、再び向きを変えた。


 俺たちの前から、登ってきた道の側へ。

 主(ぬし)がその後ろを回り込み、腕を振り上げる。


「前へ!」


 今度は俺が叫んだ。


 二人で、主(ぬし)の巨躯へ向かって地を蹴った。

 板に沿って下がれば、上から来る拳を避ける場所がない。白い縁の横を回ってくる巨体の、その足元へ潜り込む。


 拳が、背後の岩を打った。


 岩石の粉砕される音が、背中に重なった。

 宮坂(みやさか)さんが左へ抜け、俺は右へ出た。互いの姿が見えたところで、もう一度向き直る。


 息を吸う。


 主(ぬし)は拳を避けた先へ、壁を置いてくる。

 見えている攻撃を躱しても、次の一歩が塞がれる。


 振り返ると、白い板は俺たちと下りの道の間へ回り込んでいた。

 拳が砕いた石も、その手前を転がっている。


 宮坂(みやさか)さんが、板の下の角を見ていた。


 最初に彼女が当てたところだ。

 滑らかだった縁に、小さな欠けが残っている。


「同じ角を、もう一度」


 俺が言うと、宮坂(みやさか)さんは杖を持ち直した。


「合わせます」


 主(ぬし)が低く身構える。

 白い面が、二人の間へ入りかけた。


 俺は第三のまま右へ動き、足裏の摩擦を少し落とした。

 大回りはしない。板の端が動く方向を見ながら、身体ひとつ分、主(ぬし)の正面から外れる。


 黒い左腕が、俺へ伸びた。


 宮坂(みやさか)さんが一歩踏み込み、錫杖(しゃくじょう)を構え直す。

 白い板が、彼女の方へ回った。


 俺は足裏を戻し、伸びてきた腕の下へ潜った。

 指先が肩口を掠める。深く入りすぎず、足元の岩を一つ越えたところで止まった。


 宮坂(みやさか)さんの石突が、欠けた角を打った。


 高い破砕音が響き、今度は少し大きな白い塊が地面へ転がり落ちた。


 俺を追っていた主(ぬし)の手が離れ、彼女へ向く。

 その間に、俺は低い岩の脇へ足を据えた。


 第三を終える。

 第四へ換え、次の蹴りへ力を寄せた。


*


 宮坂(みやさか)さんは、白い板の正面に残らなかった。


 杖を引き、主(ぬし)の脚へ回る。

 板がそれを塞ごうと角度を変えれば、彼女はさらに外側へ足を運ぶ。


 巨体も、向きを変える。


 さっきは、俺たちが壁を追わされていた。

 今は宮坂(みやさか)さんの踏み込みへ、主(ぬし)が守る面を向け直している。


 錫杖(しゃくじょう)が、地を払うように低く走った。


 再び、白い縁がそれを受け止めた。

 欠け傷の周囲に細い筋が走り、弾かれた石突が宙を切る。


 反動で、宮坂(みやさか)さんの足が一瞬止まった。


 主(ぬし)の右腕が上がった。

 今度は、俺から見えていた。


「右腕、上です!」


 俺の声で、宮坂(みやさか)さんが上体を沈めて横へ開いた。

 錫杖(しゃくじょう)の柄を引き寄せ、主(ぬし)の正面から身を外す。


 巨腕が、空気を押して振り下ろされた。


 白い板が俺へ向く。

 宮坂(みやさか)さんが続けて打った、あの欠けた角が、目の前へ回ってきた。


 足は、もう決まっていた。


 岩を踏んだ左脚を軸に、腰を回す。

 溜めた力を、右の一蹴りへ乗せた。


 踵が、白い角を捉える。


 響いた音は、さっきと違った。

 低く、厚いものが割れる音だった。


 欠けたところから亀裂が伸びた。

 白い面を斜めに走り、下の角が大きく崩れ落ちる。


 突き抜けた右脚が、何もない空間へ抜け落ちそうになる。

 俺は膝を畳んで引き戻し、砕け散る破片から足を離した。


 着いた右足へ体重を移し、左足を前へ送った。


 止まらない。


 第四は、今の一蹴りで使い切った。

 次の足は、俺が運ぶ。


 壊れた角の向こうに、宮坂(みやさか)さんがいた。


「そのまま!」


 声を掛けるより先に、彼女の身体は前へ出ていた。


 主(ぬし)は、地面へ振り下ろした右腕を戻そうとしている。

 白い板が動き、再びその腕を覆い隠そうとした。


 だが、下の角はない。


 宮坂(みやさか)さんの錫杖(しゃくじょう)が、ぽっかりと空いたその空間をまっすぐに通った。


 最初に傷をつけた、肘の下。

 石突が窪みを捉え、体重を乗せた一突きが灰黒い表面をさらに砕いた。


 主(ぬし)が低い声を上げ、右肩を沈めた。


 反対の手が、宮坂(みやさか)さんを追う。

 俺は第二へ換え、振り戻された左手の側面へ両腕を添えた。左足を低い岩へ当て、腰を落とす。


 重い。押し寄せる岩の塊へ、身体を挟まれたようだった。


 肩から背、腰へと通した圧力で、登山靴のゴムがぎちぎちと岩を擦る。

 それでも、手の向きをわずかに外へずらせた。


 宮坂(みやさか)さんの身体が、その腕の内側をすり抜けていった。


 逸れた指が、すぐ脇の岩を削る。

 跳ねた欠片が頬を掠め、熱い筋を引いた。


 俺は接触を離し、もう一歩進んだ。

 宮坂(みやさか)さんも錫杖(しゃくじょう)を引き戻し、主(ぬし)の左脚の横へ回る。


 俺たちの間へ、白い板が入った。


 また、全部が見えなくなるはずだった。


 欠けた下端の向こうに、彼女の靴が見えた。

 踏み直す足。

 前へ倒れる錫杖(しゃくじょう)。


「左膝、行きます!」


「見えてます!」


 宮坂(みやさか)さんの石突が、膝の横へ入った。


 灰黒い破片が転がる。

 主(ぬし)がその足を置き直し、俺へ向けていた肩が少し後ろへ引いた。


 その動きに合わせ、俺は板の欠けた側へ出た。


 主(ぬし)は、まだ立っている。


 痛めた右腕を低く引き、残された白い障壁の広い面を、再び俺たちへ向けてきた。

 拳が岩を擦り、太い脚が地を踏みしめる。足元に散らばった白い破片を跳ね上げながら、巨体が前進を始めた。


 守っているだけではない。


 主(ぬし)が、壁ごと前へ出てきた。

 残った面で、俺たちの立つ場所を押し狭めてくる。


 俺は横へ足を送り、宮坂(みやさか)さんの位置を確かめた。

 彼女も動いていた。錫杖(しゃくじょう)の先は、もう主(ぬし)の腕を追っている。


 欠けた板の縁には、新しいひびが残っていた。


 あの向こうへ、もう一手。


 俺は第二を保ったまま、主(ぬし)の踏み込みへ身体を寄せた。


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