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第69話 二四〇〇の先

 朝の光は、俺たちよりも先に、頭上の高い岩肌へ届いていた。


 幕の入口を潜って外へ出ると、泊まり場はまだ青みを帯びた薄い影の中に沈んでいた。大岩の向こうへ回れば、谷筋に残る雪の縁が朝陽を浴びて淡く光っている。昨日の夕暮れには一続きに見えていた斜面にも、細かな溝や段差が幾筋も走っているのが分かった。


 宮坂(みやさか)さんは、すでに小さなバーナーで湯を沸かしていた。


「おはようございます」


「おはようございます。もう少しで沸きますよ」


 俺は岩際に腰を下ろし、上の尾根へ目をやった。


 あの突き出た岩の脇を抜け、その先にある平らな肩へ出る。昨夜、地図の上で指先を走らせた道筋だった。二四〇〇の等高線は、その途中を横切っている。


 宮坂(みやさか)さんがコッヘルの蓋を持ち上げた。立ち上った白い湯気が、吹き抜ける風にさらわれて細く千切れていく。


「晴れていますね」


「ええ。上の方まで、よく見通せます」


 彼女も同じように、稜線の切れ目を見上げていた。


 湯を受け取り、両手で器を包んだ。口をつけると、熱さが舌の先に残った。急いで飲もうとしていたことに、そこで気づいた。


 朝食を終えると、二人でそれぞれの幕を畳んだ。昨夜は寝床を覆っていた布が、小さなスタッフバッグの中へ収まっていく。食料の分だけ嵩は減っていたが、昨日拾った甲二枚を入れた記録袋が、ザックの底で確かな重みを持っていた。


 荷を背負い、肩紐を引き締める。右腕をゆっくりと曲げ伸ばししてみた。昨日、甲の縁を受けて力を流した前腕には、まだ鈍い張りがわずかに残っていた。肩紐の位置を少しだけずらし、拳を握り直す。


 宮坂(みやさか)さんが足元から錫杖(しゃくじょう)を取り上げた。


「準備は?」


「できました」


 胸元の記録カメラを起動した。大岩の陰から姿を現したカゲが、俺の足元へ寄ってきて、風の匂いを嗅ぐように鼻先を上げた。


 立ち去る前にもう一度、泊まり場を振り返った。道具を広げていた場所は、ただの平らな地面へと戻っていた。


*


 陽が差し始めた道には、小さな石の影がくっきりと落ちていた。


 昨日まで頭上を覆っていた木々が途切れ、道の脇には肩ほどの高さの枝が続いている。葉の間を抜けるたび、視界の奥に広がる空の青さが一段と深くなっていった。


 俺が先頭に立って足を進めた。


 踏み固められた土の筋が細くなり、道は角張った岩の間へ入り込んでいく。

 背中の荷を岩角へ擦らないよう、身体を少し横へ向けて右足を段差に乗せた。支えに置いた手には、朝陽を受けていながらも冷たい岩肌の感触が伝わってくる。


 背後で、宮坂(みやさか)さんの錫杖(しゃくじょう)が小さく鳴った。

 足音は、急に近づきも離れもしなかった。


 岩場を一段登ったところで、道は左手へと回り込んでいた。

 真正面から風が吹いてくる。低い木々の葉裏が一斉に白くなり、また元の緑へと戻った。


 俺は立ち止まり、高度計に目を落とした。


 二四〇〇が、近い。


 数字だけで場所を決めず、ポケットから地図を抜き出した。道が左へ折れる角度、右手へ落ちる沢筋。そして、その間に突き出た平らな岩の肩。目の前に広がる地形を、紙の上の線と一つずつ照らし合わせていく。


 この岩場で、道は二四〇〇の等高線を跨ぐ。

 先に見えている肩の上へ出れば、その上だった。


 宮坂(みやさか)さんが追いつき、俺の隣で静かに足を止めた。


「ここから、ですね」


「はい」


 俺は地図を折り畳み、ポケットへ収めた。


 岩の上に、境界を示す白線が引いてあるわけではない。

 岩肌の色が急に変わることもなければ、道の途中に何かが立っているわけでもない。大小の石があり、その先に足を置ける場所が続いていた。


 三年前から、俺は幾度となくこの数字を書き、口にしてきた。

 手形(てがた)を受け取るときも、歩荷(ぼっか)の仕事を引き受けるときも。


 二四〇〇。


 どこまで登って還ったのか。それを答えるたびに、口にした数字だった。


 目の前の道を見つめる。


 この先で、誰かが怪我をして救助を待っているわけではない。

 兄貴の手掛かりがあると聞いて、来たのでもない。


 俺が地図を開いた。

 宮坂(みやさか)さんに声をかけ、二人で荷を組み、ここまで運んできた。


「少し、待ってもらってもいいですか」


「はい」


 宮坂(みやさか)さんは隣の平らなところへ足を移した。

 先を急かす言葉はなく、錫杖(しゃくじょう)を持ったまま、上の岩を見ている。


 靴の脇へ来たカゲの頭に、掌を乗せた。

 白い毛が風に揺れ、耳が少し動く。


 胸の奥に溜まっていた空気を、長く吐き出した。

――下りろ。三年前、この高さで聞いた兄貴の声が、一瞬だけ耳の奥で鳴った。

 膝へ手をつき、靴紐の結び目を確かめる。ほどけてはいなかった。


「行きます」


 俺は手を離し、顔を上げた。


 岩の縁へ左手を掛け、右足を一段上に置く。

 靴底が岩を噛んだ。背中の荷を身体へ寄せるようにして、腰を押し上げる。


 左足を、右足の隣へ運んだ。

 その上にも、段があった。


 もう一歩、上がった。


 今まで視界を遮っていた岩の縁が、腰の下へ落ちていく。

 遮るもののない風が、胸へ当たった。


 俺は岩の肩の上まで歩き、そこで足を止めた。


 背中には、さっきまでと何ひとつ変わらない荷の重みがある。

 息も、登ってきた分だけ速い。右手を開くと、手袋の指先に白い岩粉が薄くこびりついていた。


 高度計を見た。

 地図で確かめた岩の肩に立っている。数字も、その高さを示していた。


 二四〇〇を、越えている。


 背後で衣擦れの音がして、宮坂(みやさか)さんが俺のすぐ隣へ上がってきた。


「越えました」


 俺の方から、短く言った。


「はい」


 宮坂(みやさか)さんは俺を見て、静かに頷いた。

 それから、二人で正面の景色へ視線を向けた。


*


 空が、信じられないほど広かった。


 下からは一本の連なりに見えていた稜線が、ここではいくつもの峰に分かれていた。

 すぐ手前には黒々とした岩の斜面が広がり、その奥の浅い窪地には、青みを帯びた残雪が厚く横たわっている。さらにその向こうで、灰色の岩峰が空へ突き上がっていた。


 雪は、斜面を一様に覆い尽くしているわけではなかった。

 窪んだところへ厚く残り、風に晒される背では黒い岩が出ている。その白い帯のうねりを目で追うと、斜面がどちらへ傾いているのかが分かった。


 俺は、ゆっくり振り返った。


 森が、下にあった。


 昨日、木々の下を歩いていたときは、目の前の幹や頭上を遮る葉の裏ばかり見ていた。

 今は無数の梢が折り重なり、大きな面を描いている。谷へ落ち込むところは色が濃く、尾根を回るところは朝の光を受けて明るく輝いていた。


 歩いてきた道そのものは、木立の深みに隠れている。

 けれど、昨日こちらから見上げた森の縁が、今は低いところで緩やかな弧を描いていた。


「あの下を、歩いてきたんですね」


 俺が言うと、宮坂(みやさか)さんも同じ方へ振り返った。


「ええ。昨日の泊まり場は、あの岩の裏です」


「ここからだと、小さいですね」


「近くでは、風を遮ってくれるくらい大きかったのに」


 目でたどって、ようやく分かった。

 昨夜はあの岩一つで、見える山と見えない山が分かれていた。


 もう少し遠くを見る。


 谷の奥に、昨日の道からは見えなかった尾根があった。その向こうにも、色の薄い山が重なっている。

 紙の上では隣り合っていた線の間に、こんなに奥行きがあった。


 一つの尾根を越えれば、その裏側に別の斜面がある。

 ここから輪郭が見えていても、そこへ行く道までは分からない。


 俺は、思わず小さく笑った。


「どうかしましたか」


 宮坂(みやさか)さんがこちらを見る。


「いえ。ここへ出れば、もっと一度に分かると思ってたんです」


「山の形ですか」


「はい。地図と見比べて、あそこへ行けばあちらが見える、って。もっとすっきりするかと」


「気になるところが、増えましたね」


 宮坂(みやさか)さんも、さっきから別の尾根へ目をやっていた。

 その言葉に、今度は声を出して笑えた。


 胸の奥が、すっと軽くなっていた。

 立ちたかった高さに来たのに、目で追いたい場所は減るどころか増えている。すぐに地図を閉じてしまう気にはなれなかった。


 宮坂(みやさか)さんが、横へ長く伸びる細い岩の尾根を指した。


「私は、あの先が気になります」


「今日の道とは、別ですね」


「ええ。向こう側がどうなっているのか、もう少し高いところから見てみたいです」


 彼女の目は、その尾根の先を追っていた。


 俺が二四〇〇を越えるところを見るためだけに、ここまで登ってきたのではない。

 宮坂(みやさか)さんにも、まだ見たいものがある。


「頂からなら、見えますかね」


「確かめたいですね」


 俺は前へ向き直った。


 まだ、上がある。


 丈(たけ)が更新されるのは、還ったあとだ。

 今はこの岩の上に立ち、隣には宮坂(みやさか)さんがいる。


 水を一口飲んだ。

 蓋を閉め直してからも、もう少しだけ眺めた。


*


 岩の肩を離れると、道は低い木々の間を抜け、照り返しの明るい砂礫の斜面へと続いていた。


 風を受ける向きが変わるたび、上着が背中や腕へ張りつく。俺は荷の位置を直し、岩の段を一つずつ上がっていった。


 さっきまで見上げていた岩峰へ、近づいている。


 遠目には滑らかに見えていた斜面にも、小さな溝や裂け目があった。残雪の縁はところどころ薄く、その下から黒い石が覗いている。道は雪の手前で向きを変え、露出した岩の方へ続いていた。


 宮坂(みやさか)さんが先へ出た。

 足を置くところを確かめながら、時折、視線を上へ走らせている。


 俺も同じように、前方の稜線を見た。


 二四〇〇を越えたら、しばらくはそのことばかり考えると思っていた。

 だが、歩き始めると、次の段の高さや道が回り込む先へ気持ちが向いた。


 岩に手をつく。

 身体を一段押し上げる。

 顔を出した先で、また景色が変わる。


 途中、広い岩の上でザックを下ろした。森の音は遠い。代わりに、風が岩の端を擦る低い音が続いていた。


 宮坂(みやさか)さんが、すぐに行動食の包みを取り出した。


「今日は、上にありましたね」


「入れ直しましたから」


 彼女は袋を開き、少し考えてから付け足した。


「昨日のうちに」


「覚えておきます」


 俺も自分の分を出した。包みを開くと、風で端がばたついた。掌で押さえながら食べる。


 荷の隙間へ収めた記録袋を確かめ、口を閉じ直した。昨日の甲二枚は、まだここにある。初日に倒した相手の重みを、今日も運んでいた。


 休んだあと、道は低い岩の背を回った。


 その向こうへ出た時、前を歩いていた宮坂(みやさか)さんが足を止めた。


 錫杖(しゃくじょう)を持つ手が、少し下がる。


 俺は彼女の肩越しに、頂域へ続く岩場を見上げた。


 白いものが、立っていた。


*


 周囲に残る雪の縁ではなかった。


 まっすぐな端がある。

 自然の岩にしては平たく、こちらへ向いた広い面には、ほとんど陰影がなかった。


 その下に、隙間が見えた。


 黒い岩場から少し離れたところに、白い板が立っている。

 支えている柱も、木も見当たらない。


 麓の宿で、男が卓の上へ掌を立てた時のことを思い出した。


「あれが」


 声が小さくなった。


「ええ」


 宮坂(みやさか)さんも短く答え、それ以上は言わなかった。


 俺たちは道の脇の低い岩へ寄った。

 そこからは、上の広い岩場まで見通せる。手前には起伏があり、道は一度浅く下がってから、高い方へ続いていた。


 白い板の脇で、何かが動いた。


 最初に見えたのは、太い指だった。


 岩の縁へ、節くれだった指先が掛かる。

 続いて、長い腕が現れた。


 丸く盛り上がった肩。

 岩を積み重ねたような、灰黒い胸。

 その上で、低い頭がゆっくり持ち上がる。


 主(ぬし)が立ち上がった。


 人に似た形ではあった。

 だが、腕が長い。曲げていた脚を伸ばすと、手前に転がっていた岩が、その膝より低いところへ隠れた。


 白い板が、巨体の脇へ動く。


 足で蹴ったようには見えなかった。

 腕で持ってもいない。


 平たい面が滑らかに角度を変え、主(ぬし)の肩から胸を覆い隠す。

 その端から、黒い腕だけが出ていた。


 主(ぬし)が岩場を一歩、歩いた。


 足を置いた縁が崩れた。

 欠けた石が斜面へ落ち、その一つが白い板の端へ当たる。


 カン、と。

 乾いた硬い音が、少し遅れて届いた。


 跳ね返った石は、別の方へ転がっていった。

 白い面には、こちらから分かる変化がなかった。


 俺は息を止めかけ、ゆっくり吐いた。


 あの腕の一撃が、杖へ掛かったのだ。

 宿の男が見せた折れ口を思い出す。押し潰され、裂けていた木の繊維。その壊れ方と、目の前の拳の大きさがつながった。


 宮坂(みやさか)さんが、岩のこちら側を少し移動した。

 俺との距離は、何歩もない。


「沢渡(さわたり)さん、右腕は見えますか」


「肘から先が、板の向こうです」


「こちらからは見えています。今、胸の横へ上げました」


 俺の位置から見えるのは、白い面だけだった。


 その端から、拳が出る。


 動かし始めたところは見えなかった。

 外へ出てきた時には、もう横へ動いていた。


 主(ぬし)は、岩場の向こうへ向きを変えただけだった。

 それでも、喉の奥が少し乾いた。


「立ち位置が違うだけで、こんなに変わるんですね」


 俺が言うと、宮坂(みやさか)さんは主(ぬし)から目を離さず頷いた。


「近づけば、腕が出てからでは間に合わないかもしれません」


「声が聞こえていても、同じものを見ているとは限らない」


「宿で聞いた話ですね」


「はい」


 主(ぬし)は、まだ上の岩場にいる。

 こちらへ向き直ることはなかった。俺たちも、攻撃したり《鎖》を掛けたりはしていない。


 宮坂(みやさか)さんは錫杖(しゃくじょう)を岩の脇へ立てた。

 俺は野帳を取り出し、鉛筆を持つ。


「板が動くところを、もう少し見たいです」


 彼女が言った。


「俺は、腕と足元を見ます。そちらから隠れたら教えてください」


「お願いします」


 白い板が、再び角度を変えた。


 今度は、主(ぬし)の膝から下が見える。

 板の端から岩まで、どれくらい間があるのか。主(ぬし)が向きを変える時、どちらの足を置き直すのか。


 見たいところは、一度には追えなかった。


 俺は野帳へ、自分の立っている場所を描いた。

 その隣に宮坂(みやさか)さんの位置を置き、見えた腕と、板に隠れたところを書き込む。


 初めて、白い板が自分たちの図の中へ入った。


「俺からは、こう見えました」


 野帳を向けると、宮坂(みやさか)さんがこちらへ戻ってきた。

 彼女は自分の鉛筆を取り、俺の線の少し横へ印を足した。


「私のいたところからは、こちらまで腕が見えました」


「そこまで見えるんですか」


「ええ。でも、左側の足元は岩に隠れていました。そちらはどうでしたか」


「足を置き直すところは見えました。板の端より、こっちです」


 俺は図へ、もう一本線を引いた。

 宮坂(みやさか)さんが、それと上の岩場を見比べる。


 俺も、顔を上げた。


 主(ぬし)が立っている広い岩場は、その奥の高い頂へと続いている。

 あそこへ立ちたいと思って、町で地図を広げた。


 今は、その手前にいるものが見える。


 白い壁。

 その陰から出る拳。

 岩を踏み直す、大きな足。


 二四〇〇を越えた先にも、山は続いていた。


 宮坂(みやさか)さんが元の位置へ戻った。

 俺は鉛筆を持ち直し、今の場所から見える主(ぬし)の左側を、数歩離れた彼女へ伝えた。


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