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第68話 次の足場

 木の間越しに見えていた稜線の白さは、登るにつれて、頭上を覆う葉の緑へと呑まれていった。


 道が山の腹を巻き始めると、視界を埋めるのは張り出した木の根と、湿った黒土ばかりになる。右手の谷は浅かったが、底に転がっている岩は大きい。角の立った黒い岩と、表面が白く乾いた岩が、垂れ下がった枝の下で折り重なっていた。


 宮坂(みやさか)さんが、太い根を跨ぎ越えた。俺も同じ足場へ靴を置こうとして、わずかに外へずらす。背負ったザックの上部が低い枝をかすめ、擦れ合った葉がカサリと乾いた音を立てた。


「そちら、上は狭いですか」


「少し枝が下がってます。足元はしっかりしてるんですが」


「次は、もう少し外側を通りますね」


 足元にいたカゲが、俺たちの間をすり抜け、根の段差を滑り下りていった。白い背が下草の陰に一瞬隠れ、すぐ先でまた鼻先を覗かせる。


 入山してから、まだそれほど時間は経っていない。

 だが、今朝、宿の通りから見上げていた遠い山肌は、すでに足裏に伝わる傾斜となって俺たちを押し返していた。背中には荷の温もりがじっとりと移り、首筋に汗が浮いている。足を一段上げるたび、肩紐の同じ縫い目が上着を擦った。


 久しぶりに担いだ重荷の違和感ではない。

 この数日、何度も確かめ、身体に馴染ませてきた重さだった。


 道が左へ折れ曲がった先で、木々の間隔がふっと開けた。


 登山道は浅く抉れた涸れ沢を横断し、対岸の斜面へ這い上がっている。沢床には、俺の腰ほどの高さがある平たい岩が一つあった。その脇の砂利地を抜ければ、次の登りへ出られそうだった。


 前を行く宮坂(みやさか)さんの足が、ぴたりと止まった。


 俺の耳にも届いた。

 石の角を、別の石で力任せに引っ掻いたような軋み音。


 対岸の斜面で、土がざらざらと崩れた。


 黒い背が、藪を割って現れた。


*


 最初は、斜面の岩がそのまま滑り落ちてきたのかと思った。


 だが、その岩塊の下には脚があった。

 短く頑強な四本の脚で地面を掴み、腹を低くしたまま、沢床へ下りてくる。


 背中には、黒光りする分厚い板を重ねたような甲が並んでいた。腹を地面すれすれまで沈めているのに、その背の高さは俺の腰に届く。頭は平たく幅広い。鼻先から肩口までが、ひと続きの楔の形をしていた。前脚の太い爪が岩へ掛かるたび、カツン、カツンと硬い音が響く。


 さっきの異音の正体は、あれだった。


 異形は沢床の岩を回り、平たい鼻先をまっすぐこちらへ向けた。

 俺たちが止まると、向こうも止まる。半歩下がると、その分だけ爪が石を掻いた。


「荷、下ろします」


 宮坂(みやさか)さんが、沢へ向けて錫杖(しゃくじょう)を構えた。

 俺は曲がり角まで下がり、留め具を外して、太い木の根元へザックを寄せた。道の中央は空けておく。


「代わります」


 俺が前へ戻ると、宮坂(みやさか)さんも荷を下ろした。

 異形は鼻先を動かし、前脚を一本、踏み直していた。黒く硬い頭の脇で、小さな二つの目がこちらを追っている。


 俺はカゲを纏い、第二を選んだ。

 荷を置いた宮坂(みやさか)さんが錫杖(しゃくじょう)を持ち直し、俺の左へ出る。


「私から、先に入ります」


「俺は右へ回ります」


 宮坂(みやさか)さんが頷いた。


 昨日、麓の宿で聞いた白山(はくさん)の主(ぬし)ではない。

 白い板も、大きな腕もない。だが、目の前で爪を立てているその塊は、話の中の主よりずっと近かった。


 宮坂(みやさか)さんが、沢床の砂礫地へ一歩下りた。


 異形の平たい頭が沈む。


 次の瞬間、四本の脚が地面を蹴り、背後へ土と小石を噴き上げた。


「来ます!」


 宮坂(みやさか)さんは突進の正面に留まらなかった。

 上体を左へ開きながら、錫杖(しゃくじょう)を低く走らせる。石突が前脚の内側へ入り、乾いた打撃音が響いた。


 異形の肩が、わずかに傾ぐ。

 だが、勢いは消えない。頭を横へ振り、太い脚を踏み替えながら、宮坂(みやさか)さんを追ってくる。


 俺は右から踏み込んだ。


 背中の甲を叩くつもりはなかった。

 向きを変えた瞬間、後脚の付け根が見えた。そこへ届く位置を取ろうとした。


 異形の前脚が、岩を噛んだ。


 それを支えに、巨体が回る。


 思っていたより、速い。


 反転した黒い肩が、目の前いっぱいに迫っていた。

 蹴ろうとしていた足を下ろし、左足を岩の根元へ当てる。腰を落としたところへ、甲の縁が右の前腕に触れた。


 第二へ力を通す。


 前腕から肩へ。

 背へ伝わる重みを、腰の回転とともに、岩へ当てた左足へ流す。


 ズザッと足元の砂利が弾けた。

 前腕に重みが残り、身体も半歩押された。それでも、胸へ来るはずだった黒い塊は、脇を擦って抜けていった。


 止めたのではない。

 向きを、少し変えた。


 その先に、宮坂(みやさか)さんはいなかった。


 彼女は一段高い平たい岩へ足を置き、異形の横顔を見ていた。

 俺の前を通り過ぎた頭へ、錫杖(しゃくじょう)が斜めに入る。


 顎の脇で、薄い甲が砕けた。


 異形が短い声を上げた。

 宮坂(みやさか)さんは、打った位置に留まらない。杖を引いて半歩進み、異形が向き直るより先に、その肩の横へ出ていた。


 俺にも、次に入る場所が見えた。


 第二を終え、第三へ換える。


 沢床の向こうには、土へ深く埋まった岩があった。視界は遮られていない。

 短く声を出すと、《鎖》の鉤がその張り出しへ掛かった。


 足裏の摩擦を落とす。


 鎖が縮み、俺の身体が右へ引かれた。靴の下で砂が後ろへ走る。

 異形が振り向いた時には、さっきまで俺が立っていた場所は空いていた。


 このまま引かれ続ければ、固定先へぶつかる。


 第三の作用を弱め、膝を曲げた。靴底が小石を押し分け、速度が落ちる。鎖を解いたあとも身体は進んだが、もう一歩踏んで、岩の脇へ収められた。


 肩越しに、宮坂(みやさか)さんの姿があった。


「そこ、使います!」


 澄んだ声が飛んできた。


 俺が通った、異形の右側だ。

 岩へ寄せた足は動かさず、上体を引いて道を空ける。


 宮坂(みやさか)さんがその幅へ足を運び、錫杖(しゃくじょう)を繰り出した。

 異形は平たい頭を盾のように下げて受ける。甲の上を石突が滑り、細かな欠片が散った。


 彼女は杖を押し込まず、すっと引いた。


 異形の頭が前へ出る。

 太い前脚が、一歩踏み込んだ。


 俺は第三を終え、第四へ換えた。

 岩の脇で足を据え、次の一蹴りへ力を寄せる。


 宮坂(みやさか)さんの錫杖(しゃくじょう)が、もう一度前脚を打った。


 異形が身体を振る。

 その外へ抜けた宮坂(みやさか)さんが、こちらを見た。


「下、行きます!」


 俺が声を掛けると、彼女の錫杖(しゃくじょう)がわずかに上がった。

 まだ、打たない。


 俺は左足を踏み込み、溜めた力を右の一蹴りへ乗せた。


 外へ開いた後脚の、甲に覆われていない内側。

 そこへ踵が入る。


 ドッ、と鈍い音が腹に響いた。

 脚が横へ折れ、異形の腹が大きく傾く。


 第四の力は、今の一蹴りで使い切った。


 右足を引き戻し、倒れ込む甲の外へ置く。

 着いた足へ重みを移し、左足を異形の肩の方へ向け直した。宮坂(みやさか)さんが踏み込む正面は空いている。頭を起こされても、ここからなら、もう一度入れた。


 重い背に引かれ、異形の首が捻れる。

 先ほど砕かれた顎の脇で、甲がずれた。


 そこへ、宮坂(みやさか)さんの足が届いた。


 錫杖(しゃくじょう)の石突が、開いたところへまっすぐ入る。

 黒い頭が跳ね上がり、岩を引っ掻いていた前脚が宙を掻いた。


 宮坂(みやさか)さんは杖を引き戻し、流れる足取りで横へ抜けた。


 異形の腹が、沢床へ落ちる。


 俺は身構えたまま、その頭を追った。

 だが、立ち上がろうとした前脚は、途中で形を失った。


 黒い甲の間から、灰色のものがほどけていく。

 あれほど重かった身体が、砂利の上へ薄く散っていった。


*


 チリン、と錫杖(しゃくじょう)の輪が鳴り、石突が岩へ触れた。


 宮坂(みやさか)さんは深く息を吐き、異形のいた場所を見ていた。

 俺も第四を解く。纏いがほどけ、足元へ戻ったカゲが、鼻先を地面へ向けた。


 沢床に残ったのは、跳ね飛ばされた小石と、黒い甲の欠片だった。


「最後、速かったですね」


 俺が声をかけると、宮坂(みやさか)さんは錫杖(しゃくじょう)を少し持ち上げた。


「顎の脇が、開いて見えたので」


「こっちは、次に回るところでした」


「空けてくれたところを、使わせてもらいました」


 彼女は甲の欠片を見たあと、俺を見た。


「あのあと、もう一手来るかと思っていました」


「俺もです。踏み込む前に、終わりました」


 右足は、蹴る前とは違う場所にあった。

 構えを解いて両足を揃えると、ようやく息が抜けた。


 宮坂(みやさか)さんの唇の端が、微かに緩んだ。


「通りましたね」


「はい」


 俺は右の前腕をゆっくり曲げてみた。受け流したところに熱が残っているが、動かしても鋭い痛みは出ない。宮坂(みやさか)さんも、錫杖(しゃくじょう)を握っていた指を一度開き、握り直した。


 ザックは、二つとも木の根元にあった。


 戻って胸元のカメラを止めた。呼吸が落ち着くにつれ、森のざわめきが近くなる。さっきまで、息と石の音ばかりを聞いていた。


 記録袋を取り、沢床へ下りる。残っていた甲は二枚だった。片方は縁が欠け、もう片方には浅い筋が入っている。拾うと、見た目よりずっと重かった。


 場所と時刻を書き、袋へ収めた。


「帰りの荷物が、さっそく増えましたね」


「まだ、登り始めたばかりなのに」


 俺が苦笑すると、宮坂(みやさか)さんも小さく笑った。


「そちらのザックに入りますか」


「はい。今度は、空けてあります」


 袋を道具の脇へ収め、ザックを背負い直す。腰のベルトを締めると、重みが馴染んだ位置へ落ち着いた。


 さっきまで行く手を塞いでいた沢床には、もう何も動いていなかった。


 宮坂(みやさか)さんが対岸の斜面へ上がり、振り返る。俺も岩の脇を抜け、次の登りへ足を掛けた。


*


 そこからの道は、谷の斜面を大きく巻きながら、長く続いた。


 太い幹に遮られていた谷が、尾根を回り込むたび、違う深さと角度を見せる。向かいの山肌には暗い森が広がっていた。その中腹を、細い崩れ跡が裂いている。剥き出しの土と白い岩屑が、下まで一本につながっていた。


 足元を見て、少し先を見る。また足元へ戻す。


 宮坂(みやさか)さんの歩く速さは、急には変わらなかった。俺も、戦いで身体が温まったからといって、無闇に歩幅を広げることはしなかった。


 ただ、次の段へ足を掛ける感触はよかった。背中に荷があっても膝が上がる。踏んだ足から、身体が上へ運ばれる。


 何度目かの曲がり角で、宮坂(みやさか)さんが道を譲った。


「ここから、沢渡(さわたり)さんに前をお願いできますか」


「分かりました」


 先頭へ出ると、見えるものが増えた。彼女の靴が置かれたところを見ていた時には、気にしなかった枝がある。荷を避けて、足を置く。後ろから来る宮坂(みやさか)さんの分も、少しだけ頭に残った。


 細い道で、山側から張り出した枝を持ち上げた。自分の荷を先へ通し、振り返る。宮坂(みやさか)さんも身を屈めたが、枝の先がザックの雨蓋へ掛かりそうになっていた。


「その枝、もう少し左へ寄せられますか」


「こうですか」


 足場を一つ左へ変え、枝を幹の側へ引き寄せる。葉の下の隙間が広がり、宮坂(みやさか)さんのザックが通った。


「ありがとうございます」


「こっちからだと、荷の上が見えませんでした」


 彼女が抜けるのを待って、枝をゆっくり戻した。葉が揺れ、さっきまでの道へ垂れ下がる。


 もう一度前を向くと、次は岩の出っ張りがあった。荷の端を擦らない幅を残して進む。後ろでも、小石を踏む音が続いていた。


 昼に荷を下ろしたのは、倒木の脇にある小さな平場だった。


 冷たい水を喉へ流し込み、行動食の包みを取り出す。紙を開く指先には、細かな砂がついていた。払っても、手袋の縫い目からまた少し落ちる。


 宮坂(みやさか)さんはザックの上へ手を入れ、何かを探していた。


「どうかしましたか」


「一番上に入れておいたはずなんですけれど」


 出てきたのは、出発前に俺から引き受けた、あの防水袋だった。


 俺は黙って手を出した。宮坂(みやさか)さんも、少し口元を緩めて袋を渡してきた。その下から、ようやく自分の行動食を取り出す。


「次は、入れる順番を変えます」


「俺の方にも、少し隙間がありますけど。移しますか」


「さっき増えたでしょう」


「甲が二枚」


「では、こちらの袋は私が」


 防水袋は、再び俺の手から宮坂(みやさか)さんの荷へ戻った。その前に、行動食だけが上着のポケットへ移る。


 俺は水筒の蓋を閉め、谷の対岸へ目をやった。


 午前中には見えなかった、森の上の縁が見えていた。


*


 午後、道が尾根へ近づくにつれて、風の音が変わった。


 太い幹の間を抜けていた風が、今は背の低い木々の枝先を、まとめてざわめかせている。岩の陰から出るたび、汗ばんだ首筋へ冷たい空気が触れた。


 俺は上着の前を閉じた。


 宮坂(みやさか)さんの髪も、襟の上で小さく乱れていた。彼女は手袋の甲でそれを押さえ、先へ続く道を見る。


「もう少し先、あの岩の裏ですね」


「見えました」


 予定していた泊まり場は、登山道から少し入った岩の裏にあった。風上に立つ大きな岩が風を遮り、その下に、二人がそれぞれ幕を張れる平らな場所がある。


 腰のベルトを外し、肩紐から腕を抜いて荷を下ろす。重みが離れると、身体が一度、前へ出そうになった。


 宮坂(みやさか)さんも隣へ荷を置いた。


 場所を決め、石の少ないところへそれぞれの幕を広げる。張り綱を固定し、寝具を出し、水を用意する。朝はザックの中で一つにまとまっていた道具が、今度は夜を過ごす場所の形になっていった。


 地図を取り出し、今日歩いた道へ指を置いた。


 二四〇〇より、まだ下だ。

 その数字へ届く前に、越えてきた曲がり角や沢が、もういくつもある。


 岩の向こう側へ回ると、急に視界が開けた。


 低い木々の先に、灰白色の長い斜面が続いていた。窪んだところに雪が残り、その縁から黒い岩が突き出している。上の稜線は、夕暮れの淡い空を細く切っていた。


 あそこまで登れば、今日歩いてきた森を上から見られる。


 背後で衣擦れの音がして、宮坂(みやさか)さんが隣へ来た。


「あちらへ出たら、もっと遠くまで見えますね」


「はい」


 俺は、地図で確かめた道筋と、目の前の斜面を重ねてみた。途中は岩陰に隠れている。見えないところまで、線を決めつけることはできなかった。


 それでも、登る方向は分かった。


「明日は、あの先ですね」


 俺が言うと、宮坂(みやさか)さんは頂の方を見たまま頷いた。


「ええ」


 主(ぬし)の姿は、まだここからは見えない。

 宿で聞いた白い壁が、どの岩場に立つのかも分からなかった。


 沢床で、俺が足を戻したところへ、彼女は入ってきた。

 今は、同じ斜面を隣から見ている。


 その人と、明日はもっと上へ行く。


 岩の裏から、湯の沸く音が聞こえた。


 宮坂(みやさか)さんが先に振り返る。


「続きは、温かいものを食べてからにしましょう」


「そうですね」


 俺はもう一度、稜線を見上げた。


 朝はひとつの白いところだった山が、いくつもの斜面と岩に分かれて見えた。

 明日は、その間を、この足で歩く。


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