第67話 登るための荷
今回の荷には、届け先を記した荷札が一枚も下がっていなかった。
板間へ広げたのは、寝具とフリーズドライの食料、雨具に登攀具。それから胸元へ固定する記録カメラと、折り畳み式の小型ドローンだ。
誰かから預かり、山の上の小屋や現場へ届けるべき木箱は、どこにもない。
遼が、いつもなら背負子いっぱいに荷を組み上げる場所を覗き込んできた。
「これで、本当に全部ですか」
「宮坂さんの分と合わせてな」
「いつもと、ずいぶん違って見えますね」
「登って、寝て、食って、下りてくる。その分だけだ」
言いながら、食料を小分けにしたスタッフバッグを持ち上げる。ずしりとした手応えがあった。仕事の荷がないからといって、山で過ごす日数そのものの重さが消えるわけではない。
白山へ行くと決めてから、何日か間を置いた。二人で実際に荷を背負って歩き、行程と移動の予定を詰め直した。歩いたあとも肩に痛みや強張りが出ないかを確かめ、少しずつ重みを足してもう一度歩いた。
今日背負っていくのは、そうして組んだ装備だった。
「これ、隙間に入れますね」
遼が差し出してきたのは、緩衝材で包んだ予備のバッテリーだった。包みには、それぞれ対応する機材名のテープが貼られている。受け取り、水濡れを避けるための密閉袋へ滑り込ませた。
「帰ってきたら、頂からの映像があるかもしれないんですよね」
「そうなればいいな」
「二人で、あそこまで」
遼はドローンのハードケースを指先で撫でた。
何か言い足そうとして息を吸いかけたが、そのまま口を閉じ、バックルの締まり具合を指で弾いて確かめただけだった。
引き戸がからりと開き、宮坂さんが入ってきたのはその時だった。
「お待たせしました」
「ちょうどパッキングが終わるところです」
宮坂さんは背中のザックを下ろすと、俺の足元に残っていた防水袋へ目を留めた。
「そちら、私が持ちます」
「そっちのザック、もう隙間がないんじゃないですか」
「雨蓋の下を空けてありますから」
袋が宮坂さんのザックの上部へ収められ、ストラップが手際よく引き絞られる。俺の荷物だけを見ていたときには収まりが悪かったものが、二人分を並べてみると、あるべき場所へぴたりと落ち着いた。
遼が立ち上がり、俺たち二人を交互に見つめた。
「じゃあ、いよいよ白山ですね」
「ああ」
「向こうの話、たくさん聞かせてください。帰ってきたら」
「長くなるかもしれないぞ」
「そこは、慣れてますから」
宮坂さんが微かに笑った。
俺は肩紐に腕を通し、腰のベルトを締めて位置を合わせる。重みが背中へ馴染むと、床の上に散らばっていた道具が、身体の後ろでひとつの確かな塊になった。
土間の隅で丸まっていたカゲも立ち上がった。白い耳が、開け放たれた戸口の外へぴんと向く。
俺はザックのサイドポケットを軽く叩いた。地図と野帳。それに、宮坂さんから借りた文庫本も、防水の袋に包んで入れてある。
「行ってきます」
遼が引き戸を押さえ、俺たちを見送った。
*
列車の窓ガラスには、後方へ流れていく町の屋根と、向かい合って座る俺たちの姿が二重に透けていた。
宮坂さんは膝の上で、地図ではなく文庫本を開いている。俺も借りていた一冊を取り出した。表紙の内側に挟んでおいた紙の栞を抜き、続きの行へ視線を落とす。
鍵のかかった部屋の扉は、すでに開け放たれていた。
だが、中身が明かされたことで謎が解けるどころか、それまで確からしく見えていた周囲の証言のほうが、かえって辻褄が合わなくなっていく。
数頁ほど指で戻し、手前に書かれていた別の人物の台詞を読み返した。
「何か、引っ掛かるところがありましたか」
顔を上げると、宮坂さんが本の上からこちらを見ていた。
「さっきまで、筋道通りに読めてたつもりだったんですけど」
「ええ」
「話している人が違うだけで、前の頁の意味まで変わるんですね」
「そのくだり、私も同じところで指が止まりました」
それだけ言うと、宮坂さんは自分の本へと静かに視線を落とした。
結末の種明かしはしてくれない。だが、俺がどの仕掛けに足をとられたのかは、伝わったらしかった。
俺はもう一度、頁を開き直した。
規則正しい車輪の音が、床下から響き続ける。
足元へ引き寄せた二つのザックは、途中の駅で誰かに手渡すための荷ではない。届け先を気にして、停車のたびに腰を浮かす必要はなかった。
ここまでの運賃も、山で過ごすためのものも、今回は自分たちで用意した。
旅程を組んだ際、空いた日に別の荷運びの仕事を挟もうかという考えが、頭を掠めなかったわけではない。けれど、二人で山を見るために確保した日まで、先に仕事で埋めることはしなかった。
宮坂さんがふと窓の外へ視線を向けた。つられて俺も目をやる。
建物の切れ目の向こうに連なる山並みが、平野を離れるにつれて、ぐっと空へせり上がってきていた。
「近づいてきましたね」
「はい」
栞を挟んで本を閉じた。物語の先も気になったが、列車の窓の外にも、見ておきたいものが増えていた。
*
白山の麓の町に着いた頃には、西に傾いた陽が通りの片側に長い影を落としていた。
軽トラックの荷台から手際よく木箱を下ろしている男がいる。その脇を、靴底に乾いた赤土をこびりつかせた二人連れが、ゆっくりと歩いていった。片方の男はザックを肩に引っかけたまま金物屋の店先へ寄り、軒先に吊るされた手袋の値札を裏返している。
家並みの隙間から、山が見えた。
山体のすべてが見通せるわけではない。手前に重なる黒々とした尾根の向こう側に、灰白色の高みが、ほんのわずかに覗いている。雪なのか、陽光を反射する岩肌なのか、この距離からでは判然としなかった。
立ち止まって見上げると、背中の荷が少し下へ引いた。
みさか屋の卓で、地図の等高線を指でなぞっていたときとは違う。
あの高みへ至るには、自分の靴底で一歩ずつ石を踏みしめ、この荷物ごと身体を押し上げていくしかないのだ。
「見える角度が、変わりましたね」
宮坂さんが並んで足を止めた。
「まだ、一番下ですけどね」
「ええ。まず、下からです」
宮坂さんも少しの間、瓦屋根の向こうを見上げていた。やがて視線を戻すと、予約してある宿のほうへと歩き出した。
玄関の土間には、靴の泥を落とすためのブラシと水桶が並んでいた。俺たちの靴よりもずっと泥の多い登山靴が二足、壁際に置かれている。軒先には、広げた雨具が風に揺れていた。
引き戸を開けると、使い込まれた畳の匂いに混じって、醤油と出汁の煮える濃い匂いが漂ってきた。
「いらっしゃい。沢渡さんと、宮坂さんね」
帳場の奥から割烹着姿の女将が顔を出した。名乗って鍵を受け取る。その途中で、奥から木片がぶつかり合う硬い音が響いた。
「ちょっと、それを畳へ直に置かないでちょうだい」
女将が俺たち越しに声を飛ばした。
「置いてねえよ」
「今、置こうとしたでしょう」
長椅子に浅く腰掛けていた大柄な男が、手元にあったものを持ち上げた。
木の金剛杖だった。
だが、長さが本来の半分ほどしかない。
残りの半分は、彼の足元に敷かれた古手拭いの上にあった。硬い木肌が縦に大きく裂け、割れた繊維の断面だけが、新しく白い地肌を晒している。
男は俺の視線に気づき、片眉を上げた。
「……見るか」
「いいんですか」
「見たところで、元通りに繋がるわけじゃねえがな」
男が手元の折れ口をこちらへ向けた。横から強い力を受けたらしかった。表面の削れ傷よりも、繊維そのものが途中で押し潰され、大きく裂けているところへ目が留まる。
階段へ向かいかけていた宮坂さんも、足を止めて振り返った。
「山で折れたんですか」
「上だ。主にやられた」
「白山の、主ですか」
男が短く頷いた。
俺は手の中の鍵を握り直した。宿に着いたばかりだというのに、頂の話が、もう目の前にあった。
*
部屋へ荷物を置き、顔を洗ってから戻ると、男はまだ長椅子に腰を下ろしていた。
折れた杖は手拭いに巻き直され、今度はきちんと壁へ立て掛けられている。俺と宮坂さんは、向かいの空いているところへ腰を下ろした。
「さっきのお話、もう少し詳しく聞かせてもらえませんか」
「あんたらも、上へ入るのか」
「はい。明日から、二人で」
「なら……あの白い板のことは、頭に入れといた方がいい」
男は肩を一度回した。擦れた上着の脇に、細かな白っぽい岩粉がこびりついている。
「白い板、ですか」
「壁みたいなもんだ。主の身体の前に出てくる」
男は木目の荒い卓の上に、ごつごつした掌を縦に立てた。
「あいつの懐へ踏み込んで叩こうとすると、その間へ割り込んでくる。それだけなら、まだよかった」
「遮るだけじゃないんですか」
「俺と、相棒の間に入ってきやがったんだ」
立てた掌が、卓を擦りながら横へと動く。
続いていた木目が、その陰で途切れた。
「相棒が横へ回った。俺は正面に残って、そっちへ向かせないようにしてた。主が腕を振り上げたから、今度は俺が横へ抜けようとしたんだ」
男は掌の手前で、もう片方の指を曲げた。
「そこへ、板が入った」
俺は壁に立て掛けられた、折れた杖を見つめた。
「振り下ろされた腕を、杖で受け止めたんですか」
「受け止めるつもりじゃなかった。横へ跳んで躱すはずの道を塞がれたんだ。逃げ場を失ったところへ、上から拳が来た」
男は短く息を吐き、手を下ろした。
「壁の向こうから相棒の声は聞こえる。すぐ近くにいるのも分かる。だが、向こうがどうなってるのか、こっちからは見えねえ。俺の頭の上には、あいつの拳が落ちてくる」
杖を斜めに差し挟み、身体を後ろへ引いたという。
間に合ったのは、自分の身体のほうだけだった。
叩き落とされる巨大な拳。
抜けるはずだった道に立ち塞がる、白い壁。
俺は無意識のうちに、畳を踏む足の指先に力を込めていた。
「そこから、どうやって下りたんですか」
宮坂さんが尋ねた。
「相棒が、板を回る方を大声で教えてくれた。俺がそっちへ出たら、今度はあいつが主を引きつけた。そこから二人で離れたよ。杖を拾ったのは、こっちへ追ってこなくなってからだ」
男は親指で、廊下の奥を示した。
「そいつは先に風呂へ行った。俺は、この杖をどうしたもんか考えてたとこだ」
「買い替えですか」
「継ぎ足して使える折れ方じゃねえって、さっき向かいの店で言われた」
「そうでしょうね」
「言い方まで同じだな」
男は苦笑した。
宮坂さんは、折れた杖そのものよりも、男が卓の上に立てていた掌の位置を見ていた。
「その白い壁は、一度出たら同じ場所に残るんですか」
「俺が見てた短い間だけでも、位置は変わった。正面にあったのが、横へ入ったりな。どうやって動かしてるかまでは見てねえ」
「傷や亀裂は入りましたか」
「相棒がピッケルを当てたところは欠けた。だが、向こう側まで抜けたのかは、俺には見えなかった」
男がこちらへ目を向けた。
「とにかく硬い。真っ白で、何でできてるのかも分からん。雪の塊だと思って突っ込むなよ」
「実際に見て、確かめます」
俺が答えると、男は頷いた。
主は、自分の身を守るためだけに壁を出しているのではない。
少なくともこの人たちは、相棒のいる方へ抜けようとしたところで、その間を遮られた。
みさか屋で、野帳の上に引いた二本の線を思い出した。
あの間に白い壁が立てば、届くはずだった場所が遠くなる。声が届いていても、同じものを見ているとは限らない。
宮坂さんが静かに口を開いた。
「もう一度、上へ行くんですか」
「そのつもりだ。相棒とは、まだ話が済んでねえがな」
男は布に包まれた杖へ視線を落とした。
「あの板に道を決められたままってのも、癪だからな」
廊下で足音がした。濡れた頭を手拭いで拭きながら、もう一人の小柄な男が立っていた。
「まず杖だ。勝手に決めるな」
「まだ話が済んでねえって、今言ったところだ」
「ならいい」
小柄な男は俺たちへ軽く会釈すると、折れた杖の持ち主の隣へ腰を下ろした。俺と宮坂さんが礼を言うと、男は軽く手を上げた。
すぐに、次に買う杖の話が始まった。
さっきまで主の板を示していた掌が、今度は欲しい杖の太さを作っていた。
俺たちは席を立った。
*
客室へ戻る廊下で、宮坂さんがふと立ち止まり、俺を呼んだ。
「沢渡さん」
「はい」
「単に、横へ回り込めばいいという相手ではなさそうですね」
「ええ。二人で距離を空けすぎると、壁で視界を遮られた時に、向こう側で何が起きているか分からなくなる」
「でも、壁は欠けたと言っていました」
宮坂さんは、そこを聞き逃していなかった。
「壁が動くところも、壊せるところも。確かめたいことが増えましたね」
「俺もです」
聞いたのは、あの二人が戦って下りてきた一度の話だ。
男が見ていなかったところで主が何をしていたかは分からない。実際の地形の中で見れば、壁の位置や大きさの印象も変わるかもしれない。
けれど、白山の頂にいる相手は、地図に書き込んだ『主戦』という二文字ではなくなっていた。
振り下ろされる大きな拳。
行く先を遮る、白い壁。
その向こうにいる、もう一人。
俺は自分の部屋へ入り、机の上に野帳を広げた。
みさか屋で描いた丸と線を、すぐに新しい作戦図へ書き換えることはしなかった。空いている頁へ、男がどこにいて、何を見たのかを書き留めていく。
頁の隅に、斜めに折れた杖の絵を小さく描いた。
杖を折り、それでも相棒と二人で山を下りてきた人たちがいる。
俺たちは、その話を聞いてから登れる。
窓の外を見ると、屋根の向こうに残っていた白い高みが、夕闇の藍色の中へ静かに溶け込んでいくところだった。
*
翌朝、荷を背負って宿の玄関を出た。
見送りに立った女将が、軒先から手を振ってくれる。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「行ってきます」
通りへ踏み出すと、澄んだ冷気が頬を刺した。
宮坂さんは隣でザックのベルトを直し、そのまま歩き始める。
窓口で必要な確認を終え、二人分の手形を受け取った。自分の名前を確かめ、紙を防水ケースの中へ滑り込ませる。
俺の丈は、二四〇〇。
三年前から、まだ何も更新されていない。
これから歩く山だ。
宮坂さんも手形をしまい、こちらへ向いて軽く頷いた。
「行きましょう」
「はい」
胸元の記録カメラを起動し、レンズの曇りを拭った。ドローンはまだザックの中にある。
足元にいたカゲが俺の脇を抜け、すぐ近くで前を向いて止まった。
関を越える。
一歩踏み出した道には、大小の角ばった石が混じっていた。靴底が小石を噛み、乾いた音を立てる。木々の間から朝陽を受けた明るい斜面が覗いたが、その先までは見えなかった。
宮坂さんが岩の段差へ足を乗せる。俺もそのすぐ後ろから、同じ段へ上がった。
背中には、上で使うものが入っている。
食べるものも、身体を休めるためのものも、二人が自分で選んで背負ってきた。
この荷を届ける先は、まだ先を歩いている俺たちだった。
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