第66話 登りたい山
宮坂さんが卓の向かいに腰を下ろす前に、俺は広げかけていた地図を片手で押さえた。
「先に、これを」
差し出されたのは、一冊の文庫本だった。この前、町の書店で棚から抜き、途中まで読んだものだ。茶色い書店の紙カバーが掛けられ、幾度も開かれた背のあたりが、わずかに丸みを帯びて柔らかくなっている。
「ありがとうございます」
「どこまで読んだか、覚えていますか」
「鍵のかかった部屋の中から、椅子を引く音が聞こえるところまで」
「では、そこからですね」
宮坂さんはそれ以上中身に触れず、提げていた鞄を椅子の脇へ下ろした。俺は文庫本を野帳の横へ寄せ、折り目のついた白山の地図を卓いっぱいに広げ直した。
みさか屋の格子窓から差し込む午後の光が、地図の深い折り目に細い影を落としている。表の通りで軽トラックが停まり、荷台のあおりを閉める乾いた音が響いた。遠くの話し声は、引き戸が閉まると同時にふつりと切れた。
「次の山の相談、と伺っていましたけれど」
宮坂さんの視線が、紙面の中央へ静かに落ちる。
「白山ですね」
「はい」
ここへ歩いてくる間、どこから切り出すべきかを何度も考えていた。
日程の候補。装備と荷の配分。現地の登山口で集めるべき情報。
いつもの山行なら、段取りの話から始めるのが筋だった。
だが今日は、順番が違っていた。
「白山へ登りたいんです。頂まで」
宮坂さんが、地図からすっと顔を上げた。
「どこかから、依頼が入ったんですか」
「いえ。俺自身が行きたいんです」
口にしてから、わずかな沈黙が卓の上に落ちた。
膝の上で無意識に握りしめていた拳を開き、掌を卓の木目へ乗せる。
「上まで登って、主と戦いたい。今回は、最初からそのつもりで行きたいんです」
宮坂さんは、すぐには言葉を返さなかった。
地図の端を指先で手前へ引き寄せ、等高線が幾重にも重なる頂の名前を確かめる。胸ポケットから繰り出し式の鉛筆を抜いたが、芯先を紙へ落とそうとはしなかった。
俺は、紙の上に重なる線を見つめていた。
二四〇〇。
今の俺の丈だ。
三年前から変わっていないその高さを越えて、なお登る先が、この紙にはある。
還ったあと、丈が更新されることも考えた。だが、一歩でも上へ出ればそれで満足できるとは思えなかった。
手元の地図を開くたび、視線が吸い寄せられるのはいつも一番高い頂だった。
麓から見上げてきた嶺が、あそこに立ったときどんな形で見下ろせるのか。自分が歩いてきた尾根は、どこまで後ろへ続いているのか。
写真で見た広大な眺望そのものよりも、そこへ至る道筋を自分の足で一歩ずつ繋いできたという確かな手応えを、この手で掴みたかった。
「どうして、白山なんですか」
宮坂さんが静かに尋ねた。
「二四〇〇を越えた瞬間に、用が済んだような顔をして引き返したくなかったんです」
俺は地図の上へ指を伸ばした。頂の名前の下で、指先を止める。
「ここまで登りきってみたい。そこから、自分が歩いてきた方を振り返ってみたいんです」
「登ってきた道を」
「はい。これまでは荷を届ける先だったり、無事に下りるための退路だったり、実用的な見方ばかりしていましたから。今度は、一番高いところまで行って、そこから見てみたい」
話しながら、自分の言葉がもどかしくなった。指を引き、もう一度まっすぐに宮坂さんを見た。
「それと、ちゃんと勝ちたいんです」
「主にですか」
「はい。どこへ踏み込むかも、どう挑むかも、自分たちで考えて決めて」
兄貴の行方を追いたい気持ちが消えたわけではない。
けれど今日は、兄貴の足取りを示す記録を、一枚も持ってきていなかった。
宮坂さんは指先で鉛筆をゆっくりと半回転させ、地図の脇へ置いた。
「私も、主を討つつもりで登りたいです」
そのひと言を聞いて、背中の強張りが少し緩んだ。
「ただ、私も山で試してみたいことがあります」
「何ですか」
宮坂さんの指先が、地形図ではなく、俺の野帳の表紙を指した。
「白紙の頁、ありますか」
*
俺は野帳をめくり、まだ書き込みのない見開きを差し出した。
宮坂さんは鉛筆を取ると、緑色の紙面の中央に小さな丸を一つ描き、そこから間を空けて短い直線を二本引いた。白山の道でも、主の姿でもない。標的と、俺たち二人の立ち位置だった。
「出羽の岩場で、最後に沢渡さんが向こう側へ抜けましたね」
「ええ」
「そのあと、主の違うところへ二人で《鎖》を掛けて。岩を挟んで、あそこは動きが噛み合っていたと思います」
「俺もそう思いました」
今でも、中央の岩へ足裏を押し当てた感触は覚えている。
鎖に身体を引かれる重み。鱗が軋んで割れる音。宮坂さんの声がどちらから届いたかまで、鮮明に思い出せる。
振り返れば、肝を冷やした場面はいくつもあった。
それでも、二人の呼吸と動きが一つに噛み合ったあの瞬間までを、ただの恐怖や危うさだけで塗りつぶしたくはなかった。
「次も、ああいう連携を作りたいです」
俺が言うと、宮坂さんはわずかに顎を引いた。
「ええ。ですが、沢渡さんが力を溜める時間を稼ぐために、私が間を繋いで相手を引き受ける――それだけの形にはしたくありません」
宮坂さんの鉛筆が、二本の直線のうち片方から、中央の丸の斜め前へと鋭く滑った。
「私が先に踏み込んで崩し、その隙間へ沢渡さんが入ってくる形も試したいんです」
「宮坂さんから、仕掛ける?」
「はい。私も、自分の目で見極めた隙へ真っ先に踏み込みたい」
淡々とした声の調子は、いつもの宮坂さんのものだった。
だが、仕事の請負を確認する時よりも、わずかに言葉の切れ味が鋭い。
「主が大きく動く瞬間、下がるのではなく、あえてここへ出たいと感じる間合いがあります。受けるより前へ出た方が、次の展開を奪えるような刹那です」
「ありますね、確かに」
「そこを、自分の判断で踏み込んでみたい。相手の動きを受けるだけではなく、自分の一手で局面を動かしたいんです」
紙の上に引かれた一本の線を見つめる。
俺が力を溜める間、宮坂さんが相手を引き受ける。出羽で掴んだあの戦い方は、今の俺にとって頼りになるものだった。
だが、二人で山へ入るなら、型を一つに縛る必要はない。
「だったら、俺が最初から溜めて待つ形だけじゃ、合いませんね」
「ええ。先に動いてもらいたい時もあります」
「宮坂さんが前へ出て仕掛けるなら、俺は相手の死角へ回り込む。そこで溜める余裕ができるなら使うし、すぐに追撃が必要なら別の手で飛び込む」
「そうです」
俺は宮坂さんから鉛筆を受け取った。
宮坂さんの引いた線が標的へ肉薄する、その先を予測し、自分が滑り込むべき位置へ×印を打ち、矢印を伸ばす。彼女が踏み込んだ後、相手がどちらへ頭を振るかによって立ち回りは変わる。外へ逃げればこうだし、正面から押し返してくるなら別の角度がいる。
一本引き、迷った末にもう一本、角度を変えて引き直した。
「ここまで回り込むと、少し遠くありませんか」
宮坂さんの指先が、俺の引いた線の先端を押さえた。
「宮坂さんが次に抜けるのは、このラインかと思ったんですが」
「私は、もう少し浅い角度で踏みとどまるつもりでした。そこまで引かれると、互いの間合いが空きすぎてしまいます」
「なるほど」
俺は線の長さを詰め、標的の正面を横切らないよう、円周に沿うような弧へと書き直した。
「この位置ならどうです」
「それなら届きます。あとは、私が最初の踏み込みでどれだけ深く入れるかですね」
宮坂さんが鉛筆を取り、さらに小さな補助線を書き足す。
方眼の紙の上で動かしているだけの、ただの記号だ。
実際の山で主を前にすれば、図面どおりに事が運ぶはずもない。それでも、彼女が「前へ出たい」と言ったとき、どこに俺がいてほしいのかが、言葉を交わす前よりもずっと明確に伝わってきた。
「沢渡さんは、何を試したいですか」
今度は、宮坂さんから問いを返された。
「俺は……最初の一手から、その次へ繋げる動きです」
出羽では、その場で使える手を選び、必要な時間を宮坂さんと作った。
あのときの一歩を踏み出せたことは、今でも誇りに思っている。
次は、その一歩を出せた先まで、攻めを繋げたかった。
「一手を通したあと、相手が体勢を直すより早く、もう一度有利な足場を取り直したい。一歩だけで終わらない戦い方を身につけたいんです」
「単発の威力ではなく、連続した動きとしてですね」
「はい。宮坂さんが仕掛けるなら、俺がその隙を突いて連撃を入れる。俺が先に叩いたなら、宮坂さんが追撃して退路を塞ぐ。あらかじめ決めた一撃を待つより、二人で足を動かして崩していく形をやってみたいです」
宮坂さんは、しばらく野帳の線を黙って見つめていた。それから、自分が描いた丸のすぐ脇に、鉛筆の先で小さく文字を書き込んだ。
――決め打ちをしない。
「これは、私自身への戒めでもあります」
俺が顔を上げるより早く、宮坂さんが言った。
「前へ出ると決めたら、その隙間ばかりに目を奪われてしまいそうなので」
「俺も、力を溜められる安全な足場ばかり探しそうです」
「お互いに、癖が分かりやすいですね」
「実際の山で、相手に読まれたら手痛いですけど」
宮坂さんが微かに口元を緩めた。
俺も鉛筆を卓に置き、深く息を吐き出した。
野帳の見開きには、黒鉛の線が幾重にも交差し、矢印が入り乱れていた。もう一度最初から追おうとしても、途中でどれが誰の動きだったか判別がつかない。
「これ、どっちが俺の線でしたっけ」
「最初は右側が沢渡さんでした」
「最初は」
「途中で、沢渡さんが上から別の矢印を重ねたので、混ざってしまいましたね」
確かに、最後に書き殴った濃い二本は、俺の筆圧そのものだった。
宮坂さんが卓の隅から消しゴムをすっと滑らせてきた。
「次の頁、使いましょう」
*
新しい白紙の頁には、互いに試したい課題を箇条書きで整理した。
先ほどのぐちゃぐちゃになった図も、消さずにそのまま残した。あれだけで主に勝てるわけではないが、互いが何を求め、どこへ動こうとしているかを擦り合わせるには、歪な丸と線のほうが言葉よりも確かだった。
「現地の地形を調べるにしても、主の生態だけじゃ足りませんね」
俺は白山の地図を手元へ引き戻した。
「周囲にどんな足場があるか。遠目に見える岩棚と、実際に踏み込める段差がどれくらい違うかまで頭に入れておかないと」
「ええ。私が踏み込むスペースばかりを気にして、沢渡さん自身が抜ける先を塞いでしまっては本末転倒ですから」
「それをやるなら、先に言ってください」
「わざと塞ぐつもりはありませんけれど」
「なら、俺も気をつけます」
宮坂さんは呆れたように小さく笑い、地図を俺のほうへまっすぐ向け直した。
向かい合わせのままだと等高線の数字が逆さまになる。彼女は椅子を引いて卓の角へと回り込み、俺と同じ向きから紙面を覗き込んだ。
「そちらの端、少し押さえていただけますか」
「はい」
俺が下側の角を指で押さえ、宮坂さんが折り癖の山を掌で丁寧に撫で伸ばす。折り癖で浮いていた紙が、ぴたりと卓の木目へ落ち着いた。
指先で地図の道を追いかけたが、途中で止めた。
地図の線をそのまま歩けると思って、日程を埋めるわけにはいかない。だが、どこを目指すのかという最後の到達点だけは、もはや曖昧にしておく必要がなかった。
「白山へ入るなら、向こうの窓口で運搬の依頼も探しますか」
宮坂さんが横から尋ねてきた。
俺は少し考えた。
「今回は、上を目指すための日程を真っ先に確保したいです。便に合わせて、空いた時間で上を見るんじゃなくて」
「私も、賛成です」
「互いの予定を突き合わせて、どうしても外せない用事と、かかる費用を割り出しましょう。その上で、山の上にどれだけ日数を充てられるか決めたいです」
「ええ。現地で山肌を見極める時間は、決して削らないようにしましょう」
今すぐに出発の日にちが決まったわけではない。
町で普通に暮らす分には肩が気にならなくなったとはいえ、荷を背負って山でどこまで動けるかは別の話だ。まずは荷を担いで歩き、身体の戻り具合を確かめる必要がある。
それは、この話を持ち出す前から考えていたことだった。
宮坂さんも自分の手帳を開き、空けられる日をペン先で追っている。どちらか片方の都合に、もう片方が無理やり合わせるような旅程には、初めからするつもりがなかった。
「ここから先の手順をすり合わせる時間も、別に取っておきたいですね」
宮坂さんが、地図の脇に置かれた野帳を軽く指した。
「荷造りや足慣らしだけでなく、二人で間合いを合わせるための時間です」
「そうですね。紙の上ですら、一回お互いを見失いかけましたから」
「次は、線の根元に名前を書き込んでから引き始めましょう」
「それと、新しい矢印を足すときは、引く前に一声かけること」
「それは、お互い様です」
俺は野帳の新しい余白の隅に、自分の名前を小さく書いた。宮坂さんも鉛筆を取り、そのすぐ隣へ、自分の名前を並べて書き入れた。
*
詰めなければならない話は、まだいくらでも残っていた。
歩く道。泊まる場所。向こうで確かめたいこと。
俺は自分が書き殴ったメモを読み返し、その隣に並ぶ端正な筆跡にも目を通した。宮坂さんの文字は、話が進んで余白が狭くなるにつれて、針の先のように小さくなっている。欄外の隅にぎりぎり収められた一行を見て、最初からもっと広い紙を用意しておけばよかったと苦笑した。
「宮坂さん」
鉛筆の芯を戻しかけていた彼女が、手を止めてこちらを向いた。
「一緒に、白山へ行ってくれますか」
改めて声に出すと、改まりすぎていてどこか妙な響きがあった。
今まで小一時間、ずっとその打ち合わせをしていたというのに。
宮坂さんはまっすぐに俺の目を見て、それから卓の上の野帳へ、静かに視線を落とした。
「沢渡さんが、私の試したいことにも付き合ってくださるなら」
「俺がですか」
「はい。おかげさまで、私も山で確かめたいことが増えましたから」
開かれた頁には、俺一人きりでは決して引くことのなかった、鋭い踏み込みの線が残されていた。
「もちろん、付き合います」
「では、行きましょう」
宮坂さんは再び鉛筆を繰り出した。地図に印刷された頂の名前を、迷いのない筆致で、小さな丸で囲む。
出発の期日も、そこへ至る足取りも、まだ地図の上には書き込まれていない。
鉛筆の丸だけが、一足先に高い頂の上に置かれた。
「ここまで、ですね」
「はい」
俺はその丸のすぐ横に、二人で決めた目的を書き足した。
登頂。主戦。
白山の広大な地図に残されたのは、一つの丸と、並んだ二つの短い単語だけだった。
その隣の野帳には、重ねて引いた黒鉛の線が、紙にくっきりと残っている。
地図の折り目を順に畳み、野帳をその上に重ねる。卓の端に置いてあった文庫本を手に取ると、立ち上がりかけた宮坂さんが、引き戸に手をかけながら振り返った。
「そちらの続きも、聞かせてください」
「読んだら?」
「はい。どこが気になったか」
俺は手の中の文庫本の背を指でなぞった。まだ誰も返事をしない、閉ざされた扉の奥の物語が、この薄い紙の中に詰まっている。
「分かりました。読み終えたら話します」
鞄にしまう直前、手の中で畳まれた地図がわずかに膨らんだ。
折り目の隙間から、宮坂さんが引いた円の輪郭が見えた。
そのすぐ隣に、俺の書いた文字が並んで残っていた。
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