第65話 【幕間】寄り道は三人分
遼は、待ち合わせ場所へ来る前に、映画の券を三枚買っていた。
「取れました。二時からです」
得意そうに広げられた紙を見る。駅前の時計は、十一時を少し過ぎたところだった。
「早くないか」
「昼も食べるじゃないですか」
「食うけど、三時間はかからないだろ」
「歩いてたら、何かあるかもしれませんし」
遼は券を揃え、角が折れないように小さな布の鞄へしまった。俺が見慣れた機材の鞄ではなかった。
出羽から帰って、しばらく経っていた。町で左肩の診察を受けると、筋を傷めてはいるが切れてはいない、しばらく重い荷は避けろと言われた。山で《甦り》を何度か掛け直しても、奥の傷までは届かなかった。関の外では、あとは日にちに任せるしかない。荷を持たずに歩くところから身体を戻してきた。声は普段どおりに出るようになり、肩も普通に歩いている分には気にならない。今日は仕事の荷も、撮影機材も持ってきていなかった。
昨夜、遼に誘われたのだ。飯を食べて、映画を見ませんか。宮坂さんも一緒に、と。
駅前から一本奥へ入った通りに、小さな映画館があるらしい。昔の映画を、何本か入れ替わりで上映しているという。
「お前、それ見たことあるんだろ」
「三回」
「三回」
「画面の大きさが違うんです」
遼は両手を広げかけ、歩いてくる人を避けた。
「音も」
「分かった。楽しみにしてる」
隣で映画の案内を読んでいた宮坂さんが、顔を上げた。
「その前に、一軒寄ってもいいですか」
「どこです?」
彼女が指した先に、本屋の看板があった。
遼が俺を見る。
まだ通りを歩き始めてもいなかった。
*
本屋の入口には地図や山の写真集が並び、その奥に料理、園芸、文庫の棚が続いていた。
宮坂さんは入口の棚を通り過ぎ、迷わず奥へ入った。俺もそのあとを追う。
「探している本があるんですか」
「この作者の、まだ読んでいないものを」
彼女が一冊抜き出した。表紙には、雨粒の流れる窓と、誰も座っていない椅子が描かれていた。
宮坂さんは背表紙を見て、棚を見て、少し離れたところから別の一冊を取った。俺は先に選んだ方を預かった。遼が横から覗き込む。
「推理小説ですか」
「ええ」
「これ、最後がすごいって書いてありますよ」
宮坂さんが持っている本の帯を、読み上げかけたところだった。
彼女は本をくるりと裏返した。
「そこは、読まないでください」
「帯なんですけど」
「ときどき、知りたくないことまで親切に書いてあるので」
声は静かだったが、手は早かった。遼は口を閉じ、今度は俺の持っている方を見た。
「こっちは?」
「まだ俺も読んでない」
「その本も、裏は伏せておいてください」
俺は表紙を上へ向けて持ち直した。
宮坂さんは三冊目を取り、少し考えて棚へ戻した。
そのあと、戻した本をもう一度見た。
遼が小声で言う。
「一軒でよかったですね」
「何が」
「一冊って約束だったら、もう大変なことになってます」
聞こえていたらしい。
宮坂さんは三冊目を抜き直した。
「一軒でよかったです」
こちらを見ずに言った。
俺は笑いそうになり、本の背へ目を落とした。
宮坂さんが俺から本を受け取り、三冊を重ねて会計へ向かった。待つ間、棚にあった同じ作者の本を一冊開いてみる。
誰かが、鍵の掛かった部屋の前で呼びかけている。返事はない。けれど中から、椅子を引く音だけがする。もう一段落読んだところで、宮坂さんが戻ってきた。
「それ、面白いですよ」
「これも読んだんですか」
「はい。続きは言いません」
「お願いします」
俺は開いていたページを覚え、本を閉じた。
「帰ったら貸しますか」
「……いいんですか」
「もちろん。私もまだ持っていますから」
遼がこちらへ首を伸ばした。
「今の、どんな始まりでした?」
「部屋から返事がないんだ」
「返事がないなら、誰もいないんじゃ」
「椅子の音はする」
「ああ」
遼は少し考え、宮坂さんを見た。彼女は、買った本を袋へしまっていた。
「言いませんよ」
俺は手にしていた本を棚へ戻した。
*
本屋を出ると、通りはさっきより賑やかになっていた。
店先へ出された衣類の脇を、買い物袋を提げた人が通る。自転車を押す男が、道の向こうへ向かって片手を上げた。惣菜屋の前を通ると、コロッケを揚げる匂いがした。
遼が歩く速さを落とした。
「何食べます?」
「店は決めてなかったのか」
「映画は決めてました」
胸を張るほどのことではない。宮坂さんが少し先の角を見た。
「あそこ、まだ席がありそうですよ」
窓の脇に、小さな料理の見本が並んでいた。海老フライ、ハンバーグ、オムライス。白い皿の端には、どれも同じ形のキャベツが添えられている。
遼は見本を端から眺めた。
「ここにしましょう」
席へ着き、品書きを開く。俺はハンバーグにした。宮坂さんは海老フライ。遼はオムライスのところを見たあと、まだ次のページへ戻っている。
「決まらないのか」
「こっちも、いいなと思って」
指の先は、ハンバーグだった。
「一口やるよ」
「じゃあ、オムライスにします」
すぐに品書きが閉じられた。注文を伝えると、遼は鞄から折り畳んだ映画の案内を出した。古いホテルの入口で、髭の男が革のトランクを抱えている写真だった。男の足元に、もう一つ、同じトランクがある。
「泥棒の話か」
「最初は」
「途中で変わるのか」
「そこが、面白いんです」
宮坂さんが写真を見る。
「この人が泥棒ですか」
「それは――」
遼は言いかけて止まった。
宮坂さんが顔を上げる。
遼は案内を畳んだ。
「見てからにしましょう」
ほどなく、料理が来た。ハンバーグのソースが、白い皿の上で湯気を立てていた。
俺は一切れ分け、遼の皿の端へ置いた。遼は礼を言い、オムライスをスプーンで切り分けようとする。
「そっちはいい」
「でも」
「食いたくて頼んだんだろ。食えよ」
遼は少し笑い、卵の上へかかったソースをすくった。
宮坂さんは、海老フライを一尾食べ終わっていた。もう一尾へ、果汁が跳ねないよう手を添えてレモンを絞っている。
「どうですか」
俺が聞くと、彼女は皿を見た。
「おいしいです。衣が軽くて」
「それならよかった」
遼が横から見る。
「何ですか」
「いえ」
宮坂さんはもう一尾を、皿の中央へ少し寄せた。遼は自分のオムライスへ戻った。
*
映画館は、広い通りから折れた先にあった。
入口のガラスには、上映する作品の紙が何枚も貼られている。その奥に小さなロビーがあり、売店の棚には袋入りの菓子やパンフレットが並んでいた。
遼はそこで足を止めた。
棚の端に、古いパンフレットがあった。角が白く擦れ、表紙の色が少し褪せている。
「これ、見せてもらえますか」
遼が店の人を呼んだ。奥から出てきた女性が、棚から取って差し出す。
「中、確かめてね。古いから」
「はい」
遼は両手で受け取った。一枚ずつ、指の腹でページを開いていく。
その顔を見ていると、さっき本を選んでいた宮坂さんを思い出した。
「それも、今日の映画か」
「違います。でも、これ探してたんです」
「買うのか」
「買います」
返事が早かった。女性が薄い袋を出した。
「今日は、これを見に来たの?」
「いえ、二時の回です。三人で」
「あれは、人と見ると楽しいね」
遼が頷く。受け取った袋を、映画の券とは別のところへ丁寧に入れた。
開場の案内があり、俺たちは中へ進んだ。
緩く傾いた床に、布張りの椅子が並んでいた。後ろの壁は、入口からでもすぐに見えた。前の席では、年配の二人連れが膝掛けを分け合っている。俺たちの後ろには、一人で来たらしい男が座った。
遼が真ん中に座り、俺と宮坂さんがその左右へ入った。
「見やすいですか」
遼が俺に聞き、反対側にも顔を向けた。
「大丈夫です」
宮坂さんが答える。俺も頷いた。
「お前が一番落ち着かないな」
「楽しみにしてたので」
照明が暗くなった。
近くで菓子の袋が小さく鳴り、それも静かになった。
遼は、ようやく前を向いた。
*
トランクは、よく取り違えられた。
最初はホテルの玄関で。
次は階段で。
それから、取り違えたことに気づいた男が元へ戻そうとして、また別のトランクを持っていった。
遼が隣で息を吸った。
これから何か起きるのだと、俺にも分かった。
画面の中で、髭の男がトランクを開けた。
少し前の場面で、別の男が隠したはずのドレスが入っている。
髭の男は慌てて蓋を閉じ、鍵を掛けた。何でもない顔で立ち上がろうとして、トランクに引き戻される。
自分の上着の裾まで挟んでいた。後ろの席から笑い声が上がった。
遼も笑った。
さっきから先の展開を知っている顔をしていたくせに、誰より身体を揺らしている。
俺はもう一度、画面を見た。
ホテルの支配人が、騒ぎのたびに壁の絵を直していた。
男たちが駆け抜ける。扉がぶつかる。絵が傾く。
支配人は客の話に頷きながら、何でもない顔で絵の端へ指を伸ばす。
ようやく真っ直ぐになったところへ、反対の扉が開いた。今度は、俺が笑った。遼がちらりとこちらを見た気がしたが、顔を向ける余裕はなかった。トランクの行方を追っている間に、遼の向こうから宮坂さんの笑う声も聞こえた。
鍵のないはずの男が、当たり前のように部屋へ入る。
隠れていたはずの女が、廊下から出てくる。
そのたびに、少しずつ、こちらが知っていたつもりの話が違っていく。
誰かが先に笑い、少し遅れて別の席からも笑い声が上がる。
一度、遼が何かを言いかけたが、口を閉じてまた画面を見た。
最後に支配人が絵を取り外した時には、俺は声を抑えられなかった。
*
外へ出ても、遼は映画の話をしていた。
「あの、階段を逆に下りていくところ」
「トランクを見せないようにしてたやつか」
「そうです。あそこ、何度見ても」
自分で言いながら、また笑っている。宮坂さんが、本の袋を持ち直した。
「私は、最初の鍵が戻ってくるところが好きでした」
「あれ、いつ戻したんです?」
「花を渡した時です」
「えっ」
遼の足が止まった。
「鍵も、一緒に?」
「手元で何か渡していたので。たぶん」
「……四回見たんですけど」
宮坂さんが少し笑った。
「五回目を見る理由ができましたね」
遼は本当に、映画館の方を振り返った。
俺はその肩を軽く押した。
「今日は帰るぞ」
「分かってます。そっちは、どこがよかったですか」
「支配人」
「最後の?」
「最初から。ずっと絵を直してた」
「ああ、あれ」
遼が顔を上げた。
「客に怒られてる時も、手だけ伸ばすんですよね」
「そう。そんなに気になるなら、外せばいいのにって思ってた」
「最後まで粘りましたね」
「あいつが一番、絵を見てたな」
思い出すと、またおかしくなった。
髭の男が上着を引っ張っているところまで浮かんでくる。
歩きながら笑ったら、遼もつられて笑った。
横から見れば、何がおかしいのか分からなかっただろう。
通りへ戻ると、店の前に並べられていた衣類の一部が片づけられていた。窓辺に吊られた小さな札が、風に回っている。その手前の店で、俺は足を止めた。棚にコップが並んでいた。
白い皿や茶碗の間に、底の厚みだけに淡い青が閉じ込められたガラスのコップがいくつか置かれている。傾いた日が差し込み、棚板の上に青い光を落としていた。
「俺も、一軒いいですか」
宮坂さんが振り返る。
遼は店を見て、それから俺を見た。
「どうぞ。今日、初めてですね」
*
コップは、思ったより重かった。持ち上げると、底に集まっていた青が手のひらへ透ける。上の方はほとんど透明で、縁が少し丸い。
もう一つ、隣には同じ形の色違いがあった。薄い緑だった。
俺は二つを並べた。
「贈り物?」
店の奥から声がした。
「いえ。自分で使います」
「それなら、口に当たるところも見て選んでね」
言われて、指で縁をなぞった。欠けや傷を探したのではなく、厚さを確かめた。
宮坂さんが隣から棚を見る。
「この緑も、落ち着いていていい色ですね」
「そうなんです。最初は、青い方しか見てなかったんですけど」
遼が緑の方を指した。
「そっちも、よくないですか」
「いいな」
「青の方も」
「それは、俺が今一番分かってる」
「迷いますね」
遼は楽しそうだった。
決める気は、まるでなさそうだった。
俺はもう一度、青い方を持ち上げた。水を入れたところを見たかった。
「これにします」
店の人が寄ってきて、コップを受け取った。
薄い紙で包み、底にもう一枚重ねる。俺はその手を見ていた。
「袋は?」
「お願いします」
会計を済ませると、遼が横から袋を覗いた。
「見事に、山へ持っていけないやつですね」
「家で使うんだよ」
「知ってます」
外へ出た時には、三人とも袋を提げていた。
宮坂さんは本。
遼はパンフレット。
俺はコップ。
駅前まで戻る途中、遼が聞いた。
「また行きます?」
「映画か」
「はい」
俺は頷いた。
「次は、俺が選んでもいいか」
「もちろんです」
「何をやってるか、あとで送ってくれ」
「分かりました」
俺は手元の袋を持ち直した。中で、包みの紙がかさりと鳴った。
*
帰ってから、コップを洗った。
包んであった紙を畳み、水を切って、窓の近くの卓へ置く。底の青が、昼の店で見た時より濃かった。
水を注いだ。
ガラスの向こうで、窓枠が少し歪む。持ち上げると、縁は指で触った時より厚く感じた。
一口飲み、置いた。
卓の上で、携帯が短く鳴った。遼からのメッセージだった。
『次に見る映画、候補を送っておきます』
すぐに、画像が続いた。
一枚。
二枚。
三枚。
まだ来る。俺はコップを画面から離し、片手で返事を打った。
『俺が選ぶんだろ』
『選べるようにしてます』
また、一枚来た。
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