第62話 三秒
雨が抜けたあとの山は、妙に白かった。
雲がすべて吹き払われたわけではない。濡れた岩も土も暗い色を残し、谷の底や木々の間には、まだ薄い霧が溜まっていた。
湯殿側の登りを進むたび、岩陰から白い靄が足元へ流れてくる。昨日救助した二人は、無事に関へ戻った。朝、詰所でそう聞いた。
負傷した男は、麓で改めて診てもらっている。付き添っていた方も、休めているという。
それを確かめてから、俺たちは山へ入った。
昨日途中になった便は、庄司さんと現地の担当者が組み直していた。預けた荷の所在も確認できている。
今日はその続きだ。
脇腹の痣は残っていた。動かし方によっては痛む。
喉も完全には戻っていない。
朝の確認で、今日担ぐ分と引き返す条件を宮坂さんと揃えた。昨日できたから今日もできる、とは考えない。重い荷は持たない。必要のない験も使わない。
そうして登っていた時、少し下から声が飛んだ。
「沢渡」
振り返る。庄司さんと二人の作業員が、一段下の広い岩棚で背負子を下ろしていた。
届け先は、この先の頂の縁にある維持点だった。昨日はその手前の中継所へ荷を預け、引き返している。
今日の便は、ここまで一緒だ。
この先は雨の影響をまだ確認できていない。まず俺と宮坂さんが荷を軽くして入り、道と足場、それから主の位置を見て戻ることになっていた。主が通り道を塞いでいれば、荷は上げない。
「ここで待つ。上を見たら、一度戻れ」
「了解です」
「時間までに戻らねえ時は、下へ連絡する。勝手に後ろから追いはしねえ」
「お願いします」
登る先と、折り返す時刻。戻れなかった時に、誰が何をするか。短く確かめた。荷を岩陰へ寄せる。
撮影機材も収納したままだ。
俺と宮坂さんは上の岩場へ入った。踏み跡は次第に細くなった。
灌木が減り、灰色の岩肌がむき出しになる。濡れたところと、乾き始めたところが混じっていた。
一段登ると、視界が開けた。大きな岩塊が点在する、棚状の頂だった。
下り口は背後の細い道だけ。中央には、周囲の岩よりひときわ大きな角岩がある。その左右に、身体を隠せる隙間と、露出した平場が入り交じっていた。
「……止まってください」
宮坂さんが言った。俺も足を止めた。最初は岩の連なりだと思った。
だが、色が違う。
黒く濡れた岩の間に、白いものが横たわっていた。長い。
一つの岩陰から、別の岩陰まで、太い胴が緩く曲がりながら、棚を横切っている。
乳白色の鱗が、薄い霧の中で鈍く光っていた。頭は奥の岩陰に半分隠れている。俺たちの足音が止まると、それがゆっくり持ち上がった。蛇に似ていた。
だが、人間の身体より太い胴と、低く平たい頭は、知っている生き物の大きさではなかった。
首の後ろには分厚い鱗が幾重にも重なっている。
舌は出さない。声も上げない。
ただ、こちらを見た。
カゲが俺の足元で身を屈めた。
白い毛が逆立つ。
「主ですね」
宮坂さんの声が低くなった。
「……そう見えます」
俺は息を抑えた。距離を取る。
戦うために来たのではない。
道に何がいるか分かったのなら、それを持ち帰ればいい。
一歩、下がった。白い頭が動いた。こちらではない。俺たちが上がってきた、下り口の方へ向く。胴が岩を擦り、長い身体がゆっくりそちらへ流れ始めた。
「宮坂さん」
「はい」
彼女が無線を取った。
「上に大型の異形。登ってこないでください。岩陰へ退避を」
短く伝える。その間にも、白い頭が下り口へ近づいた。
下には荷を下ろした三人がいる。
あの細い道で鉢合わせれば、逃げられる方向がない。
俺は主と下り口の間へ、位置を変えた。ここにいるだけなら、立ち去れるかもしれなかった。
だが、俺たちは今から進路へ手を出す。
「こっちへ向けます」
「合わせます」
宮坂さんが反対側へ開いた。俺は喉へ意識を寄せる。首元の、鱗が重なるところ。声を出した。《鎖》が走る。
だが、鉤は表面を叩き、硬い音を立てて滑った。
「弾かれた!」
「重なりの奥です!」
宮坂さんの《鎖》が別の角度から飛ぶ。鉤が、首の後ろの鱗の隙間へ入った。彼女が短く張る。白い頭が跳ね、こちらへ向き直った。下り口から、視線が外れる。
「来ます!」
頭が消えた。そう感じるほど、速かった。
全身が一度縮む。次の瞬間、前半身が弾かれたように伸びる。
「右へ!」
俺は地面を蹴った。二人の間を、白い頭が突き抜ける。
大岩へぶつかり、端が砕けた。
破片が雨のように飛ぶ。
第一の《風切羽》をまとった。
顔へ向かう砂と小石が、薄い風の中でわずかに逸れる。
大きな破片は防げない。頭を下げ、岩陰へ身を寄せた。
目を開けた時、横から白い壁が来た。尾だ。頭が通り過ぎたあとを、長い身体の後ろ半分が薙いでいる。
「っ……!」
跳ぶだけでは間に合わない。俺は主の胴、起き上がった鱗の隙間へ《鎖》を放った。掛かる。巻いた瞬間、身体が引かれた。主は重い。
こっちが行くことは分かっていた。
だが、相手自身も動いている。思っていたより、強く横へ持っていかれた。
「沢渡さん!」
「分かってます!」
このまま足を突っ張れば、倒される。《不動》で足を縫えば倒れはしない。だが、止まった身体に尾の二撃目が来る。あいつの方へ掛けようにも、引かれている最中に三句は唱え切れない。喉も、もう惜しい。引かれるなら、引かれる線を使う。第三の《関節石》へ換えた。足裏の摩擦を大きく下げる。靴が岩を滑り始めた。
主の胴が向きを変え、その横を俺の身体が引かれていく。
尾が通る線から、前へ抜ける。
速い。
だが、見るのは足元だけではない。
抜けた先。身体を戻せる平場。そこが近づいたところで、《鎖》を解いた。第三の作用を弱め、足を送る。尾が背後の岩を叩いた。破砕音。砂と礫が背中へ追ってくる。第一へ換えた。
風で上体のぶれを抑え、細かな飛来物だけを外へ逃がす。大きな石は、身体を沈めて避けた。足を三歩継いで、止まる。岩に手をつき、顔を上げた。
「無事です!」
宮坂さんは、もう次の動きを見ていた。
「頭を力で引こうとしないでください。掛けて動くなら、胴の位置を見て!」
「はい!」
主が彼女へ向いた。
宮坂さんは近くの岩へ《鎖》を掛け、自分を横へ引く。
白い頭が空を切った。
巨体が身を返す。速い。
だが、続けて見れば、動く前の形が分かる。
止まる。身体を寄せる。縮めた分を、一気に伸ばす。
次を出すには、もう一度長い胴を引き戻さなければならない。
一昨日の獣とは違った。
あいつは壁を使って走り続けた。
こちらは、一撃ごとに身体全部を使う。
「宮坂さん!」
「見えています!」
俺たちは、すぐには攻撃へ飛び込まなかった。
頭を出させる。避ける。次に尾が来る。その先まで抜ける。
大岩を挟めば、主は身体を曲げなければならない。低い窪地を横切らせれば、胴を引き戻すのに時間がかかる。《鎖》が滑ることもあった。
鱗に掛かったと思ったら、縁が欠けて抜ける。
そのたびに、次の一本を撃つ前に立ち位置を変えた。
掛かった時も、引き合わない。
主が動くなら、こちらが引かれる。
第三で抵抗を下げ、通れる間だけ使う。
抜けたら解く。足を戻す。無駄に長くつながったままでは、次の尾に巻かれる。宮坂さんは反対側で、主が向きを変える先を狭めていた。
岩と岩の間、足場の低いところ。長い胴を、そのまま伸ばせない場所。
俺が空けた場所へ彼女が入り、彼女が引いたあとを俺が使う。少しずつ、白い身体の動きに重さが出てきた。頭を持ち上げる前に、間が空く。胴を引き戻す音が、鈍くなる。喉の奥から漏れる音も、短く、荒くなった。
「……疲れてる?」
主の鱗には、いくつも傷が入っていた。
岩へぶつけた脇腹、欠けた鱗、自分で砕いた岩の破片が擦った表面。
傷は、残っている。
「次、右の窪地へ!」
宮坂さんが声を飛ばした。俺は《鎖》を主の側面へ掛け、短く張った。鉤のある方へ、白い頭が向く。長く引き合わず、すぐに解く。その向こうで、宮坂さんが動いた。主の目が彼女を追った。宮坂さんが岩の陰へ抜ける。白い前半身が伸びた。
その下に、雨で根元の土を削られた浮き石があった。主が乗る。石が傾いた。太い身体が横へ崩れる。岩棚が揺れた。白い脇腹が大岩の角へ叩きつけられ、鱗が大きく割れた。主が止まった。
「……入った」
俺は息を吐いた。すぐには近づかない。
頭が地面へ落ちている。胴も動かない。
荒かった音が、ゆっくりになった。一秒。二秒。主の身体が膨らむ。縮む。もう一度、膨らむ。
「宮坂さん」
「見ています」
割れた鱗は、そのままだ。裂けたところも、塞がらない。肉が戻っているわけではない。なのに。頭が上がった。さっきまでの重さが、嘘のように軽い。
「退避!」
二人同時に飛び退く。直後、白い頭が俺たちのいた場所を叩いた。岩が割れる。最初と同じ、鋭い突進だった。
「嘘だろ……!」
身体を起こすと、もう次の形へ戻っている。疲れていた。間違いない。動きは落ち、息も乱れていた。それが、少し止まっただけで戻った。
だが、傷は。
「治ってない!」
俺は走りながら声を出した。
「鱗は割れたままです! 戻ったのは、動きの方だ!」
宮坂さんも、主の側面を見る。白い傷口が残っている。
「消耗を戻しているんですね」
「たぶん。あの数秒で!」
主の頭が上がる。また来る。
「休ませません!」
「はい!」
言うのは簡単だった。
腰の短い山刀へ一度だけ手が向いた。割れた鱗は見えている。だが刃を届かせるには、突進する頭の下へ身体を入れなければならない。届く前に腕ごと持っていかれる。
柄から手を離し、岩と《鎖》の掛かる位置を探した。岩の窪みには雨水が溜まっているが、《雨降り》で束ねたところで、あの鱗を割るほどの量にはならない。足元を濡らして滑らせようにも、あいつは腹の鱗で岩を掴んで這っている。主は止まれば、動きを取り戻す。こちらは戻らない。《不動》で縫い止めれば、こちらから休ませてやるだけだ。残った喉は、俺も宮坂さんも《鎖》へ回す。
喉も腕も脚も、動いた分だけ減っている。古い打撲も、身体を捻るたびに響いた。
「最悪ですね!」
「文句は後です!」
俺は次の岩陰へ走った。
*
主が身体を寄せる。そこへ《鎖》を掛ける。頭が上がる。避ける。また、身体を巻こうとする。今度は宮坂さんが反対から鉤を入れた。休ませない。
だが、妨げた分だけ、こちらも攻撃を受ける。
主を走らせるために、俺たちも動かなければならない。先に削れるのは、どちらだ。考えるまでもなかった。喉が痛い。《鎖》を出す声が、少しずつ短く掠れていく。宮坂さんも、足を置き直す回数が増えていた。
「沢渡さん、左!」
尾が来た。岩陰へ入る前に追いつかれる。第二へ換え、身を捻った。尾の側面が左腕を叩く。受けた力を肩から腰へ通し、地面へ残した足へ流す。
だが、足が滑った。
出口がずれる。身体が横へ弾かれ、泥の上へ落ちた。
「が、はっ……!」
息が抜ける。腕をつき、身体を起こした。痛い。
それでも、動く。
顔を上げると、主はまた頭を下げようとしていた。中央の大きな角岩。その周りへ胴を寄せ、内側へ頭を入れ始めている。あの形だ。身体をまとめ、動きを止める。
「させるか……!」
《鎖》を放った。割れた鱗の隙間へ掛かる。短く巻くと、俺の身体が引かれた。第三へ。足裏の抵抗を下げ、胴の外側へ流れる。主の頭が、鉤の掛かった方へ向いた。尾が振られる。また、岩が砕けた。俺は鎖を解き、摩擦を戻す。
第一へ換えて、顔へ来た砂礫を逸らす。大きな破片が肩をかすめた。足がもつれ、岩へ手をつく。
「沢渡さん!」
宮坂さんの声。顔を上げる。彼女も、肩で息をしていた。主は中央の岩へ身体を寄せ直している。また、数秒を欲しがっている。こちらが休めないまま、あいつだけ戻る。このままでは、続かない。俺は地形を見た。中央の角岩。
そこへ回り込む胴。割れた鱗。俺の側からは見えない、反対側の傷。宮坂さん。二本の《鎖》。大きなものを、俺たちの力だけで止めることはできない。
だが、あいつは自分から岩へ身体を巻いている。
その動きなら。
「宮坂さん」
「はい!」
「次に巻いた時、俺が反対側へ回ります」
彼女も岩を見た。
「正面を横切りますよ」
「はい。向こうの傷へ掛けたい。こっちからじゃ、岩の片側しか使えません」
俺は岩の左右を示した。別々の位置から掛ける。主が胴を巻く時、鎖が岩の両側へ回り込むように。そのまま伸びようとすれば、身体の向きが変わる。俺たちが引き倒すのではない。あいつ自身の動きが、岩へぶつかる線を作る。
宮坂さんが短く息を吸った。
「向こうまで、普通には抜けられません」
「第四を使います」
彼女の目が俺へ戻る。
「何秒ですか」
距離を見た。主の頭。岩陰。踏み切る場所。着地の先。
平場で出した一歩。昨日、人を上へ運んだ一歩。関で記録してもらったのは、短く溜めた一歩までだ。長く溜めた時に何が起きるかは、まだ誰も確かめていない。ここで確かめるものではない。溜めるのは、記録した範囲の一歩だけ。
殴るためではない。ここから向こうへ、通るために使う。俺は掠れた喉で言った。
「宮坂さん。三秒ください」
一瞬、目が合った。
「三秒ですね」
それだけだった。宮坂さんが、主の反対側へ位置を変える。俺は足元を確かめた。主の胴が岩へ寄った。頭が下がる。
「今です!」
宮坂さんが飛び出した。俺は第四の《緊環石》へ換えた。足を止める。腰を落とす。次の一歩へ、力を集める。
――一。
宮坂さんの《鎖》が走った。首元の傷へ、鉤が掛かる。彼女が横へ動く。鎖が張り、主が頭を持ち上げた。重さを引き回せるわけではない。
だが、鉤を嫌った頭が彼女を追った。
――二。
尾が来る。宮坂さんが鎖を解いた。別の岩へ一本。身体を斜め後ろへ引く。白い尾が地面を叩いた。飛んだ破片に身を沈め、宮坂さんが片手をつく。すぐに足を戻す。
――三。
主の頭が彼女へ向いた。宮坂さんは、まだ俺の前を空けていた。半身になり、突進の線を引きつける。
「沢渡さん!」
踏み込んだ。溜めたものを、次の一歩へまとめて放つ。足裏が岩を強く押した。身体が前へ出る。
殴らない。蹴りつけない。
ただ、通る。白い頭の前を、横へ抜ける。普段の踏み込みでは足りない間合いを、一歩で越えた。着地。膝を曲げる。二歩目には、もう力は残っていない。
だが、身体の速さは残る。
足を継ぎ、岩の陰へ入った。着いた。
「こっちです!」
声を出し、《鎖》を放つ。狙いは、首に近い胴の割れた鱗。鉤が入った。
「宮坂さん!」
「取っています!」
反対側の鎖も、別の傷へ掛かっていた。主が身を捻る。白い尾が俺へ来た。ここで大きく逃げれば、線が外れる。
だが、正面で受けるのでもない。
俺は中央の岩の張り出しへ身を寄せ、足と背を当てた。第四は使い切った。第二へ換える。尾の側面が、左肩を叩いた。
「ぐっ……!」
視界が揺れる。腕で止めない。
肩から背中へ、背中が触れている岩へ、足裏へ。
押される方向に上体を回し、尾の正面から身体をずらす。
それでも、左肩の奥に鋭い痛みが走った。腕を身体へ引き戻すだけで、動きが一拍遅れる。
靴が滑る。背中が岩へ強く押しつけられる。
だが、岩陰から引き出されずに済んだ。
鎖は、まだ張っている。振り抜いた尾につられ、主の胴が中央の岩を回った。その動きで、俺の鎖が岩の側面へ回り込む。反対側でも、宮坂さんの鎖が張った。主の身体が、一瞬だけ引っかかった。止め切ったのではない。
岩を回ろうとした胴に、二つの違う方向から力が掛かったのだ。主が頭を引き、身体を内側へ寄せる。また巻く。
「今です!」
宮坂さんの声。俺は巻き取った。主を引くためではない。内側へ動いて生まれた弛みを消す。宮坂さんも、同じことをしていた。二本の《鎖》が岩の左右へ回り込み、主の胴を別々のところで押さえる。主が外へ伸びようとする。鎖が張った。
俺の身体が岩へ押しつけられる。
腕だけでは持たない。足だけでも持たない。
岩へ寄せた身体ごと、荷重を受ける。喉が熱い。宮坂さんも反対側で、岩へ足を当てていた。
二人が地面に立って引き合っているのではない。間にある岩へ、力の一部を渡している。
それでも、長くは続けられなかった。
鉤を支える鱗の縁が、少しずつ割れていく。主が首を上げた。こちらへ突っ込もうとする。
だが、後ろの胴が、いつも通りにはついてこない。
岩に沿って張った鎖が、その動きを一拍遅らせた。頭だけが先へ出かかり、主は身を捩った。岩から身体を離せば、ほどける。あいつもそうしようとした。長い胴が膨らみ、俺の身体を引き出そうとする。靴の縁が、岩を擦った。
「宮坂さん!」
「まだ、持ちます!」
声が掠れていた。
だが、線は残っている。
主はさらに身体を内側へ寄せた。頭を引き、胴を巻き直す。これまで、動きを取り戻す前にしていた形。今、それを完成させてはいけない。俺は足を横へずらした。宮坂さんも動く。二本の鎖の角度が変わった。
首に近い部分と、その後ろの胴。別々のところへ掛けた鉤が、岩の左右から引っかかる。
主が頭を外へ出そうとした。伸びる。
だが、胴が遅れた。
岩の角を避けて横へ出るはずの首が、内側へ引き戻される。白い頭の側面が、張り出した角へぶつかった。鈍い、巨大な音。岩が欠けた。鱗が飛ぶ。主が跳ねた。俺の身体も、岩から剥がされかける。足を置き直す。
息を吸うと、喉が裂けるように痛かった。まだだ。主は動く。頭を持ち上げ、鎖を引きずり、胴をほどこうとする。俺は巻き取りを止めず、弛んだ分だけ詰めた。力任せに引けば勝てるわけではない。動かれた分を見て、線を残す。
宮坂さんの鎖が、一度大きく揺れた。抜けたか。
違う。
彼女が足場を変えたのだ。主の胴が外へ膨らむ方へ、鎖の角度をずらしていた。
「頭が上がります!」
見えていた。白い首が持ち上がる。俺の方へ。この距離では、次は逃げきれない。
だが、主の胴はまだ岩を回ったままだった。
俺たちは、その輪を手で締めているのではない。主が巻いた身体を、伸ばしたい方向へすぐには伸ばせなくしている。一拍でいい。次の一撃、その一拍だけ。主が全身を伸ばした。岩へ掛かった二本の線が張る。
胴の片側が先に引っかかり、持ち上がった首の根元が回った。頭が俺へ来る。その途中で、進む線がずれた。露出した側頭部が、もう一度、岩の角へ叩きつけられた。音が消えた。そう感じた。白い巨体が大きく波打った。
張り詰めていた鎖が、一度緩む。
それでも、俺は解けなかった。
主の頭が落ちる。胴が岩を擦り、重い音を立てて棚へ崩れた。一度、大きく動いた。二度目は、小さい。三度目は来なかった。俺は肩で息をしていた。手を緩めるのが怖かった。また数秒たてば、頭が上がるのではないか。
傷を残したまま、さっきの速さへ戻るのではないか。
「……沢渡さん」
宮坂さんの声がした。ひどく掠れていた。
「見てください」
俺は白い身体を見る。
割れた鱗、裂けた表面、岩へ打ちつけられた頭。
傷は、何一つ戻っていない。そして、その縁。白い巨体の輪郭が、朝霧へ溶けるように、少しずつ崩れ始めていた。




