第63話 一緒に下りる
白い巨体の輪郭が、少しずつほどけていく。朝霧へ溶けるように。岩棚を埋めていた長い胴が薄れ、傷ついた頭も、形を保てなくなっていた。俺はしばらく、《鎖》を解けなかった。また動くのではないか。
数秒待てば、何事もなかったように頭を持ち上げるのではないか。そう思うと、張っている鎖を緩められなかった。
だが、主は動かなかった。
「……沢渡さん」
宮坂さんの声が届いた。ひどく掠れていた。
「……はい」
返した俺の声も、似たようなものだった。ようやく《鎖》を解く。
張り詰めていたものがなくなった瞬間、両脚から力が抜けた。その場へ座り込みそうになり、膝に手をついて踏みとどまる。
脚が重い。
尾を受けた左肩が痛む。腕を上げようとしても、胸の高さで止まった。岩に手を添えて身体を支えることも、今はできそうにない。脇腹も、身体を起こそうとすると鈍く響いた。
何より、喉がひどかった。唾を飲むだけで、奥がひりつく。
それでも、主から目は離さなかった。
白い身体の輪郭が、最後まで崩れる。隠されていた岩肌が見えた。
砕けた岩。泥を削った擦れ跡。主の身体が通った、幅の広い窪み。
風の音が戻ってきた。その時だった。身体の内側に、今までになかった感触があった。
石鎚で《鎖》を継いだ時に似ている。だが、同じではない。
あの主と立ち合った俺たちに、新しい験が残っていた。《甦り》。その名が、感触と一緒に浮かんだ。
何ができるのか。どこまで使えるのか。
まだ分からない。脳裏に浮かぶのは、傷を残したまま動きを取り戻していた、白い主の姿だった。
「……宮坂さん」
「同じものが、来ています」
聞く前に答えられた。宮坂さんも、自分の手を見ていた。
「《甦り》」
「ええ」
宮坂さんは、霧の向こうの湯殿側の斜面へ目をやった。
「湯殿は、生まれかわりの山だと言いますね」
名前に反して、あの主の傷は戻らなかった。割れた鱗も、裂けたところも、最後までそのままだった。ならば。
俺は足元を確かめた。すぐに何かが落ちてくる場所ではない。主以外の気配もなかった。
まず、自分で確かめる。呼吸を整え、新しく残った験へ意識を寄せた。短く声を出す。最初は、何が変わったのか分からなかった。立ち上がろうとして、気づいた。脚が、さっきより動く。
鉛を詰めたようだった重さが薄れ、地面を押す力が戻っていた。荒れていた呼吸も、少し深く入る。俺はゆっくり膝を伸ばした。
「……ああ」
声が漏れた。宮坂さんがこちらを見る。
「どうですか」
「楽になりました」
足を動かす。膝を曲げ、もう一度伸ばす。
さっきまでより、はっきり踏めた。
脇腹の痣へ指を当てた。昨日まで残っていた鈍い痛みが、薄れている。もう一度上体を捻っても、同じところは疼かなかった。
左肩は、腕を引き上げようとすると痛みで止まる。喉を確かめるつもりで、声を出した。
「宮坂さん」
掠れた。変わっていない。
「傷はどうですか」
「脇腹の打撲は治っています。でも肩は、腕を上げられません。喉も、そのままです」
「疲労の方は」
「軽くなってます。全部戻ったとは言えませんけど、さっきより動けます」
宮坂さんも、少し間を置いてから新しい験を使った。目を閉じ、身体の感触を確かめる。やがて、ゆっくり息を吐いた。
「私も、疲れが軽くなりました」
「怪我は?」
「手のひらの擦り傷が塞がっています。膝も、表面の痛みは消えました」
彼女は手袋の端を少し上げ、擦ったところを見た。
「ただ、深く曲げると膝の奥はまだ痛みます。喉も変わりません」
「主の傷は、最後まで残っていましたよね」
俺は主がいた岩肌へ目を向けた。
疲れて鈍った身体が、動きを取り戻す。浅い傷や打撲も治る。だが、肩の奥の痛みは残った。
宮坂さんは、すぐには話を広げなかった。
「今の使い方でも、疲労だけでなく軽い傷は治せました。深いところまでどれだけ届くかは、まだ分かりません」
「はい」
「今日は、そこまでにしましょう」
俺も頷いた。
他人へ使えるのか。繰り返し使えるのか。どれくらい戻せるのか。
分からないことは、いくらでもある。今ここで、傷だらけの身体を使って全部確かめる必要はなかった。少し動けるようになったからといって、戦う前に戻れたわけではない。
俺は、主がいた岩の窪みへ目を戻した。そこに残った素材を、手袋越しに拾い上げる。
宮坂さんが記録袋を開いた。
「主素材は、俺が持ちます」
「お願いします」
袋へ収め、採取した場所と時刻を書き留める。口を閉じて腰の道具袋へ入れた。
「下りましょう」
「はい」
俺たちは荒れた岩棚へ背を向けた。
*
一段下の岩棚へ戻ると、庄司さんたちはまだ待っていた。俺たちの姿を見つけ、作業員の一人が立ち上がる。
「無事か!」
「はい」
返事は掠れた。庄司さんの目が、俺と宮坂さんを順に追った。
泥と擦れた雨具、破れた袖、それから腕の動かし方。
「上に何がいた」
低い声だった。
「主です」
庄司さんの眉が動く。
「散ったのか」
「はい」
短い間があった。
「そうか」
それだけ言って、庄司さんは立ち上がった。
「下りるぞ。話は、戻ってからだ」
俺たちは預けていた荷を確かめた。
《甦り》のおかげで脚は動く。だが、背負子の左肩紐へ腕を通せなかった。右肩に掛けかけた重みだけで、左肩の奥に痛みが返ってくる。
思わず動きが止まる。
「沢渡」
庄司さんが見ていた。
「今日は、俺たちで分ける。お前は空身で下りろ」
「庄司さんたちの荷は」
「今日の便は上げねえ。お前の軽い分なら、三人で分けて下ろせる」
荷へ手を掛け、こちらを見る。
「それだけだ」
俺は右肩に掛けかけた紐を外した。
以前なら、持てると言い張ったかもしれない。自分の荷を最後まで運ばないことに、意地を張ったかもしれない。
だが、脚が軽くなっても、肩は痛かった。
今の身体で無理をすれば、下りで足まで崩れる。
「お願いします」
俺は荷札を確かめ、渡す先を読み上げた。主素材の袋は、腰に残す。中身を伝え、受け取ってもらい、どの荷がどちらへ移ったかを揃える。
庄司さんと作業員二人が、俺の背負子から荷を分け取った。庄司さんは何も言わず、縄を締め直した。俺は腰の道具袋だけを締め直した。
宮坂さんも荷を調整し、五人で下り始めた。帰りの道は、濡れていた。
高い段では、先に下りた作業員がロープを張った。右手でそれを握り、左腕を身体の脇に寄せたまま足を下ろす。脚は動く。それでも、左手を岩へ添えられないだけで、濡れた足場の選び方が変わった。
今までとは違う感覚だった。
楽になった分だけ、無理が利くと思わないようにする。痛む場所を、痛むまま覚えておく。
低所の休憩場所まで戻ると、雲の切れ間から光が入った。
人の手が入った広い平場で、庄司さんたちが残りの荷をもう一度組み直す。風も弱く、通常の記録を再開できる場所だった。
休憩の間に宮坂さんに胸のカメラをつけてもらい、彼女が撮影ドローンを上げた。庄司さんにも、手元が映ることを伝えた。顔や名前を出さないことも確認する。
そのあと、まとめ直した荷のうち、一箱だけを右手で支えて渡した。
「こっちの箱もお願いします」
「分かった」
庄司さんが両手を入れる。俺はまだ離さない。向こうが持ち直し、腰を入れた。
「持った」
そこで手を離した。小型機の音が、風の中へ混じっていた。撮れたのは、それだけのやり取りだった。
*
関で手形を返し、帰還の確認を受けた。丈は二四〇〇のままだった。
報告の前に、救護員が左肩を確かめた。指は動く。だが、腕を上げようとすると痛みで止まり、肩へ力を掛けられない。左腕を身体の前へ吊られ、町へ戻ったら診察を受けるよう言われた。
持ち帰った荷を引き渡し、上で何があったのかを報告する。
主が下り口へ向かったこと。
こちらから《鎖》を掛けて注意を向けたこと。
二人で立ち合い、主が散ったこと。
第四を一度、短く溜めた一歩として、記録した範囲の中で使ったこと。それを《鎖》と第三につないで動いたこと。
俺と宮坂さんが《甦り》を継いだこと。
疲労と浅い傷は回復したが、左肩の負傷と喉の消耗は残ったこと。
話しながら、何度か声が掠れた。宮坂さんが、俺の言葉の切れたところを補う。
主素材の袋も、資源庁の担当者へ渡した。石鎚のあとに受け取った通知に従い、登録と鑑定、事前検査のための一時保管となった。
戻ってきたのは、素材ではなく受領の控えだった。点数と保管先を確かめ、控えをしまう。返却の時期は、まだ決まっていなかった。第四の使用も、この報告ごと片桐さんの机まで上がるはずだ。
俺と宮坂さんが継いだ《甦り》も、帰着時の登破記録へ加えられた。報告を終え、山麓の作業小屋へ戻る頃には、西の空が暗くなり始めていた。長い一日だった。俺は小屋の前で、作業員が泥を落としたロープを広げるのを見ていた。
左腕は吊ったままだ。水を含んだ繊維が、木箱の上へ重い音を立てて落ちる。
「沢渡さん」
声を掛けられた。宮坂さんではなかった。振り返る。少し離れたところに、作業着姿の男が立っていた。腰には使い込まれた道具袋。本間直哉だった。前に会った時とは違う。今日は、俺の方から呼び止めていない。
俺は作業員の手元から目を離した。
「本間さん」
本間はすぐには近づいてこなかった。数歩分の距離を残したまま、こちらを見ている。
「……昨日」
声が硬かった。
「下の支線へ戻ったの、沢渡さんたちだったんですね」
俺は宮坂さんへ目をやった。少し離れたところで装備を整理していた彼女も、こちらを見ていた。
だが、入ってはこなかった。
「はい」
俺は答えた。本間が視線を落とす。
「古い保守小屋へ行くつもりだったと、作業員から聞きました」
胸の奥が少し動いた。
小屋の話は、関で記録のことを尋ねた時に窓口で出したものだ。
そこから作業員づてに、本間にも届いたらしい。
「行くつもりでした」
「……」
「でも、行きませんでした。下で二人が遅れていると聞いたので、戻りました」
本間は黙っていた。俺も、続きを促さなかった。三年前のことを教えてください。そう言いそうになる気持ちは、まだあった。
だが、今日は向こうから来た。
何を話すかまで、俺が決めることではない。本間の指が、道具袋の端を握った。
「この前は」
声が小さくなる。
「すみませんでした。あんな態度を取って」
「謝らなくていいです」
俺は首を振った。
「俺の方が、踏み込みました」
また、沈黙があった。
軒先の布が風に揺れた。遠くの小屋から、道具を片づける音がする。
本間はしばらく地面を見ていた。
「……三年前」
俺は顔を上げた。
「八月の、あの日です」
喉が動きかけた。
どこで。
何があって。
兄貴は、どうしたのか。
問いがいくつも浮かんだ。俺は、そのまま口を閉じた。本間が自分で話し始めている。今は、聞く。
「俺が、帰るのに遅れていました」
本間は足元を見たまま続けた。
「詳しいことまで、今日は勘弁してください」
「分かりました」
「ただ」
息を吸う。
「戻ってこない俺を迎えに、沢渡峻さんが下まで来たんです。上の中継所で、俺の定時連絡が入らないって無線を聞いたらしくて」
何も言えなかった。聞こえている。言葉の意味も分かる。それなのに、すぐには返せなかった。風の音が、少し遠くなった。本間が続ける。
「あとから知りました」
「……何をですか」
それだけ聞いた。
「峻さんが、その日背負っていた荷を、途中で別の歩荷へ渡していたことです」
庄司さんの顔が浮かんだ。あの署名。受け取ったと答えた声。
「本当なら、そのまま上へ行く仕事だったんでしょう」
俺は頷いた。
「なのに、下へ戻ってきた」
本間の口元が、少し歪んだ。
「俺のところへ」
胸の奥に、重いものが落ちた。出羽まで来て、知りたかったことだった。兄貴は、荷を渡した。下へ戻った。それなのに、帰還は遅かった。伝票の中に残っていた空白へ、本間の言葉が入っていく。
「本間さん」
俺は声を整えた。
「兄貴は、何か言っていましたか」
本間は一度、目を閉じた。思い出すのに、長い時間は必要なかったらしい。
「ほとんど、何も」
それから、苦いものを飲み込むように息を吐いた。
「俺が、どうしてここまで来たんですかって聞いたら」
間が空く。
「『一緒に下りるぞ』って」
それだけだった。兄貴の声を思い出した。
三年前より前。
山で、何度も聞いていた声。
想像しようとしなくても、その一言は兄貴の声で聞こえた。一緒に下りるぞ。理由を説明したのではない。何を諦めたかも、何のために戻ったかも言わなかった。ただ、一緒に下りると。本間が、ぽつりと続けた。
「俺は、あの話をされたくなかったんです」
俺は本間を見た。
「峻さんが俺を助けるために、登るのを諦めたとか」
「……はい」
「俺のために、何かを犠牲にしたとか。そういう話にされたくなかった」
道具袋を握る指が、白くなっていた。
「俺には、分からないんです。あの人が何を考えていたのか。あの日、何を失ったのか」
本間は首を振った。
「勝手に、立派な話にされても……俺は、そこにいたんです。遅れて、動けなくなっていた側で」
言葉が途切れた。俺は待った。
「ただ、俺が遅れて、峻さんが来た」
本間が言った。
「二人で下りた。俺が知っているのは、それだけです」
それ以上、求める必要はなかった。聞きたいことがなくなったわけではない。
兄貴は、どんな顔をしていたのか。
怒っていなかったか。
下りながら何を話したのか。
いくらでもある。
だが、今それを全部もらわなくていい。
「ありがとうございます」
俺が言うと、本間が顔を上げた。
「……それだけでいいんですか」
「はい」
返事は、素直に出た。
「話してくれた分で、十分です」
本間は、しばらく俺を見ていた。それから、肩が少し下がった。
「そうですか」
俺は頷いた。三年前。兄貴は上の中継所で無線を聞き、荷を庄司さんへ渡して、本間を迎えに戻った。昨日。俺も中継所で無線を聞き、地図を畳んだ。
その時、兄貴が同じように戻ったことを、俺はまだ知らなかった。兄貴には三年前の山があり、俺には昨日の山があった。
それでも、ずっと遠くにいた兄貴の背中が、少しだけ近くなった気がした。
裏剱岳のことは、何も解けていない。なぜあの時、自分の意思で残ったのか。そこには、まだ届いていない。ただ、出羽で荷を渡したあと何をしていたのか。それはもう、空白ではなかった。
「沢渡さん」
本間が呼んだ。
「はい」
「峻さんは……」
言いかけて、止まった。少し迷ったあと、首を振る。
「いえ。今日は、これで」
「はい」
追わなかった。
本間が頭を下げる。
俺も返した。
それで、話は終わった。足音が遠ざかっていく。本間の姿が小屋の向こうへ消えるまで、俺はその場に立っていた。宮坂さんが近づいてきた。
「聞けましたか」
「はい」
「そうですか」
何を聞いたのかとは、尋ねなかった。俺は小屋の向こうの山を見た。暗くなった稜線に、雲がゆっくり流れている。
「宮坂さん」
「はい」
「兄貴、昔ここで」
言葉を一度止めた。俺の時は、下りろだった。喉まで出かかったそれを、飲み込んだ。
「誰かと一緒に下りたそうです」
宮坂さんは、少しだけ目を細めた。
「そうですか」
また、それだけだった。俺は小さく笑った。喉が痛んだ。今試した《甦り》では、そこは戻らなかった。その痛みは残ったままなのに、胸の奥は、さっきより少し軽かった。




