第61話 預かる
「お願いがあります」
俺がそう言うと、庄司さんはすぐには答えず、板敷きに下ろした背負子へ目を向けた。
雨除けのシート。荷締め。届け先と受取人を記した札。
それから、俺の顔を見る。急げ。頭の片隅では、その言葉が鳴っていた。下の支線では、二人が帰るのに手間取っている。天気も落ちる。一刻も早く出たい。
だが、今ここで荷を放り出していいわけではない。
「この荷を、庄司さんに預かってほしいです」
荷札を表へ向けた。
「上の維持点へ届ける予定だった予備部品です。中身と数は伝票の通り。外装の封にも破損はありません」
「行き先は分かってる」
「俺と宮坂さんは、下の支線へ入ります。最後に連絡があった沢筋の合流点を起点に探します」
宮坂さんが隣で地図を広げた。
捜索に入る道。主道へ戻る分岐。関側の救助班と合流する場所。
指を置き、三人で確かめる。
「日没までに主道へ戻れなくなるところまでは追いません。雨や増水で帰路を失いそうなら、それより前に切ります。どちらかが無理だと判断した場合も同じです」
庄司さんは黙って聞いていた。
「連絡が切れたら」
「関から上がる班へ、俺たちの行き先を伝えてください。最後に連絡した場所と時刻も。見つからなかった場合、俺たちはここへ戻ります」
地図の主道上へ指を置いた。
宮坂さんが時計を見て、折り返す時刻を口にした。作業員が、その数字を連絡用紙へ書く。
「その時刻を過ぎても連絡がなければ、関へ未帰還として伝えてください。庄司さんが一人で俺たちを探しに下りることはしないでください」
「荷は?」
「今日の便で無理に運ばなくて構いません。届け先へ遅れることを伝えて、予定を組み直してください。俺たちを待つために、道の途中へ置かないでほしいです」
一度、息を吸った。
「俺たちが戻らなかった場合も、所在と引受人が分かる形で関へ引き継いでください。荷を手放すと決めた経緯は、俺から報告します」
そこまで言って、口を閉じた。庄司さんは荷へ手を伸ばした。
結び目を引き、札を確かめる。俺が持っていた伝票を受け取り、署名した。
「分かった。預かる」
それだけだった。
褒めもしない。前の失敗を持ち出しもしない。
今、この荷を引き受けた。それで十分だった。
「お願いします」
俺は頭を下げた。
宮坂さんも運搬する資材を分け、作業員に受領を確認してもらっていた。
背負子から外した二人の小型のザックへ残すのは、雨具と防寒着、行動食、無線、照明、救急用品。それに搬送に使う帯とロープ。
撮影機材は、資材と分けた袋へ収めた。胸のカメラもドローンも止まっている。
「沢渡さん」
宮坂さんがザックを背負った。
「行きましょう」
「はい」
軒下を出たところで、最初の雨粒が額へ落ちてきた。
*
登ってきた道を、同じ勢いで駆け下りられるわけではない。
濡れた岩。粘る泥。苔のついた根。
荷は軽くなった。その分だけ身体が前へ出やすい。
俺たちは走らなかった。
歩幅を抑え、足を置けるところを選んで速く歩く。曲がり角では先を確かめる。見えない下へ、勢いだけで踏み込まない。
振動のたび、脇腹が鈍く疼いた。ここで転べば、救助を必要とする人間を増やすだけだ。
「次の分岐、右です」
「了解です」
雨脚が少しずつ強くなる。まだ本降りではないが、土の色が変わり、道の端へ細い水の筋が走り始めていた。
主道を外れると、足元が急に細くなった。
保守のために使われている道だ。山側には土壁、谷側には灌木の斜面がある。ところどころ表土が流れ、灰色の岩盤が出ていた。
俺は足を止めた。少し先で、道が斜め下へ落ちている。
一枚岩の上を薄く水が流れていた。下りきった先は緩い平場。その脇から、岩盤と続く大岩が突き出している。
「ここ、先に下で受けられます」
俺が言うと、宮坂さんも斜面を見た。
「《鎖》ですか」
「はい。速さは要りません。あの岩へ掛けて、平場へ抜ける線を取ります」
最初の試験なら、固定点の手前で止まることばかり考えていた。今は、その先を見る。
滑りきったあと、足を継げる場所がある。崖へ続く線でもない。
宮坂さんが進路を目で追った。
「掛かりを確かめてからにしてください。私は後ろから下ります」
「分かりました」
声を出した。鉤付きの《鎖》が雨の中を走り、岩の窪みへ掛かる。弱く張る。
鉤は抜けない。岩の周囲にも、動く気配はない。
俺は第三の《関節石》をまとった。
足裏だけ、摩擦を下げる。膝を曲げ、身体が流れる向きを確かめる。
「下ります」
巻き取りは弱くした。身体が斜面を滑り始める。
昨日のような加速は要らない。足裏に残す抵抗を調整しながら、斜面の外側へ流されない線を取る。小さな段差を膝で越え、次の窪みは片足を先に送る。
平場が近づく。岩へ引かれきる前に、《鎖》を解いた。第三の作用を弱め、足裏へ接地の感触を戻していく。ここで足を突っ張らない。残った速さの分だけ、先へ足を送る。
三歩で泥水を跳ね上げ、平場の奥で止まった。
「下、空いてます!」
上へ声を返す。宮坂さんは同じようには滑らなかった。
岩の窪みを選び、足を置く。必要なところだけ《鎖》を横の岩へ掛け、身体が谷側へ流れるのを抑えて下りてくる。
俺は下から足場を伝えた。同じ二人隊だからといって、同じ動きをする必要はない。俺が先に下へ着けば、宮坂さんの見えにくいところを見られる。それでいい。
「昨日より落ち着いていますね」
下りてきた宮坂さんが言った。
「昨日の速さは要りませんから」
「その区別を忘れないでください」
「はい」
俺たちは再び歩き出した。
*
最後に連絡があった沢筋の合流点に、人影はなかった。
雨が葉を叩いている。沢を流れる水の音が、岩の間で反響していた。
俺は息を整えながら地面へ目を落とした。
踏まれた草。崩れた泥。岩の端についた、新しい擦れ跡。
「宮坂さん」
「はい」
二人でしゃがむ。
泥に、登山靴の跡が二種類残っていた。片方は深く、もう片方は爪先を引きずったように輪郭が崩れている。
その脇にも、不規則な踏み込みがあった。
支えた人間の足が横へ出たのか。杖になるものを突いたのか。
一つの跡だけでは決められない。少し先まで目で追う。同じ組み合わせが、下へ続いていた。
「二人かどうかは分かりませんけど、新しい跡は下へ向かってます」
「追いましょう。分岐と横へ退避できる場所も見てください」
足跡だけに目を奪われないよう、顔を上げる。
岩陰。沢から離れる踏み跡。雨を避けられる木の下。
声を掛けながら進んだ。しばらく下ったところで、雨音の間に何かが混じった。俺は手を上げた。二人とも止まる。もう一度。
「――おーい!」
人の声だった。
「聞こえてます!」
喉の痛みを押し、声を返す。
「そのまま待ってください! 今行きます!」
谷の曲がりを抜ける。いた。
一人は大きな岩へ背を預け、右脚を伸ばして座っていた。雨具は泥だらけで、顔色が悪い。
もう一人は、その横に屈んでいた。俺たちを見つけると立ち上がりかけ、途中で力が抜けたように膝へ手をついた。
「……助かった」
宮坂さんが先に近づいた。
「連絡を受けて来ました。怪我をしているのは、こちらの方ですね」
「はい。もう、歩けなくて」
「分かりました。確認します」
俺はもう一人へ手を貸した。
「あなたは、どこか痛めていますか」
「俺は……大丈夫です。こいつを支えていて、少し」
「分かりました。まず、息を整えてください」
男の肩が、雨具の下で震えていた。ここまで一人で支えてきたのだ。まだ関へは下りていない。
それでも、もう一人きりで抱えなくていい。
俺たちを見た時に浮かんだ顔が、そう言っているように見えた。
*
宮坂さんが、座っている男の状態を確かめた。
右足首が強く痛み、体重を掛けられなくなっている。はっきり話はできる。目立った出血はない。
その場で怪我の名を決めつけず、痛むところを動かさないよう支えた。俺は雨を避けるものを広げ、同行者から経緯を聞いた。
「どこで痛めたんですか」
「上の岩場です。滑って、足を捻って。最初は支えれば歩けたんですけど、だんだん痛がるようになって」
「無線は?」
「一回、関へつながりました。でも、この谷に入ってからは返事がなくて」
「それで二人で下りていたんですね」
「はい」
男は同僚へ目をやった。
「一人で先に行こうかとも思いました。でも……置いていけませんでした」
声が小さくなった。
無線が通じる場所まで、一人で戻る。下りて人を呼ぶ。ここに残る。
男の頭にも、いくつかの道はあったのだろう。どれを選んでも、確かなことばかりではなかったはずだ。俺は頷いた。
「分かりました。ここからは、一緒に考えます」
宮坂さんが顔を上げる。
「自分で歩かせるのは、やめます」
「どう運びますか」
「このまま沢沿いに下るより、主道へ戻した方がよさそうです。下の道は、雨が強くなれば厳しくなります」
俺も地形を見た。
来た道の途中から、主道へ戻れる。関から上がる救助班も、そちらを使うはずだ。
「まず、一段上げましょう」
目の前に、人の腰ほどの岩の段があった。
普段なら手をついて越えられる。だが、片足へ体重を掛けられない人間には、高い。
その上に出れば、身体を横へ寄せるだけの幅があった。
「《手力》で一度に引き上げるより、ゆっくり上げられる方がいいですね。この足場で勢いをつけたら、脚を岩の角へ当てます」
宮坂さんが段の縁を見て言った。
「上から《鎖》で補助します」
「下をお願いします」
「はい」
俺は負傷者の前へしゃがんだ。
「これから、あの段の上へ移します。帯で身体を支えますから、無理に立とうとしないでください」
「……分かりました」
「痛みが強くなったら言ってください。途中でも止めます」
男が頷く。
身体を支える帯を整え、荷重を受けられる接続部を二人で確認した。宮坂さんが上へ回る。
岩を使って自分の確保を取り、負傷者の帯へ《鎖》の鉤を掛ける。
俺は下から身体を支えた。同行者には、痛めた脚が岩へ当たらないよう見てもらう。
「上、取れました」
「こちらもいいです」
少しずつ張る。帯に体重が乗り、俺の腕へ掛かっていた重さの一部が抜けた。男が顔をしかめる。
「痛みますか」
「足が……でも、さっきよりは」
「動かす速さを落とします」
宮坂さんの声は落ち着いていた。一気には上げない。俺は男の身体を支えたまま、足の位置を変えた。
すぐ横に、小さな踏み場がある。そこへ一歩上がれれば、腰を段の縁まで届かせられる。
だが、腕だけで持ち上げれば、肩へ負担が集まる。
「宮坂さん、一度そのままで」
「はい」
張った鎖が、男の荷重を受けている。俺は第四の《緊環石》へ換えた。敵はいない。今は、待てる。
長く溜める必要もない。人の身体を放り上げたいわけではない。次の一歩、体重を支えたまま小さな踏み場へ上がる、その動作へ力を寄せる。
息を整えた。昨日は、この時間が作れなかった。
今は宮坂さんが上で支えている。男の身体が急に落ちないよう、俺とともに、その重さの一部を受け持っている。
「沢渡さん」
上から声が落ちた。
「焦らなくていいです。支えています」
二人ですから。昨夜の声が、重なった。俺は足元を見た。
泥の下に、踏める岩がある。次に置く足も決まっている。
「一歩、上がります」
「合わせます」
踏み込んだ。短く溜めた力を、その一動作へ乗せる。足裏が、普段より強く地面を押した。
俺の腰が上がり、支えていた男の身体も一緒に持ち上がる。
重さが消えたのではない。重いまま、上へ運べた。宮坂さんが動きに合わせて鎖を巻く。男の腰が岩の縁を越えた。
「上がった!」
同行者が声を上げる。
「こちらへ寄せます。脚を見てください」
宮坂さんが指示する。俺は足を踏み替え、身体を上の平場へ寄せた。次の動作には、もう第四の力は残っていない。
だが、必要な一歩は終わっていた。
男を落ち着かせ、帯の位置と痛みをもう一度確かめる。俺はようやく息を吐いた。使えた。第四が。敵へぶつけるためではない。帰れなくなりかけている人間を、岩の一段上へ運ぶために。
相棒が支えている間に、俺が準備する。俺が動くところへ、向こうが合わせる。
昨夜聞いた言葉が、身体の動きになっていた。
*
雨は本降りになった。主道へ戻るために使える時間も、減っていく。
俺と同行者で男の身体を支え、宮坂さんが少し先の足場を見る。狭いところは一度止まってロープを使い、幅が出たところでは歩調を合わせて移す。速く動く。だが、足を飛ばさない。
遅れているからといって、急に身体が軽くなるわけでも、濡れた石が乾くわけでもない。その違いを忘れない。主道へ戻る少し手前に、谷側へ傾いた岩の斜面があった。
宮坂さんが先に通り、男の帯から伸びるロープを扱っていた。俺は山側から身体を支え、同行者が反対側を見ている。
そこで、同行者の靴が滑った。
「あっ――」
身体が傾く。それにつられ、男の健側の足まで岩から外れた。重さが一気に俺へ来た。支えていた腕が引かれる。このまま抱え込めば、俺まで谷側へ持っていかれる。第二へ換装した。腕で受けた力を、そこで止めない。肩から背中、腰へ通し、身体を捻り、山側の岩へ押し当てた左足へ通す。靴の縁が、泥の下の硬いところを捉えた。
それでも、身体は動いた。
半歩、引きずられる。完全には止められない。
だが、腕だけへ掛かっていた重さを、足場にも渡せた。
「宮坂さん!」
「取っています!」
上側のロープが張った。同行者も膝をつき、男の腰へ手を戻す。俺は左足を踏み直した。三人の力が揃い、谷側へ傾いていた身体が、少しずつ山へ戻った。
「そのまま。いったん座ります」
宮坂さんの声に合わせ、男を落ち着ける。雨具の内側で、背中に汗が流れていた。俺は腕を開いた。重い。指先まで、引かれた感触が残っている。
「痛むところは増えましたか」
男へ聞いた。
「足が、少し。でも、ぶつけてはいません」
「分かりました。確認します」
宮坂さんが屈む。俺は泥から靴を抜き、岩の端に置き直した。第二も、こう使える。
敵の突進を逸らすだけではない。落ちようとする人間の重さを、腕一本へ集めずに済む。
ただし、足場がなければ流す先もない。宮坂さんのロープと、同行者の手が戻るまで。その間を作れただけだった。それが、今は大きかった。
*
木立の向こうに、主道の広い路面が見えた。同時に、下から声が上がった。
「――おーい!」
俺は顔を上げた。雨具を着た二人が、道を登ってくる。関からの救助班だった。
「ここです! 負傷者一人、同行者一人!」
返す声が掠れた。
それでも、向こうに届いた。
合流すると、救助班はすぐに男の状態を確かめた。宮坂さんが経緯を伝える。
見つけた場所と時刻、痛めているのは右足首であること。本人から聞いたことと、俺たちが確認したこと。ここまで、どう支えて運んだか。
見ていないことは、見ていないと伝えた。相手が一つずつ復唱し、野帳へ書く。
「ここからは引き継ぐ」
救助班の男が言った。
「二人も下りて、身体を休めてくれ」
「お願いします」
俺は、男の身体を支える手が替わったことを確かめた。帯と荷重と足元が、向こうの手へ移っている。相手が持ち直し、こちらへ頷く。それを見てから、手を離した。負傷者が俺を見上げた。
「ありがとうございました」
俺は頷いた。
「関まで、もう少しです」
同行者も、何度も頭を下げていた。
宮坂さんがその男へ行動食を渡す。自分で歩けるかを確かめ、救助班へ伝える。
二人とも、俺たちの手を離れた。
*
主道へ出ると、携行無線に中継所からの声が入った。
俺たちは合流と引き継ぎを報告する。上の中継所へ登り返さず、そのまま関へ下りることも伝えた。
作業員が応答した。
『庄司さんから伝言だ』
雨の音を避けるよう、俺は顔を少し伏せた。
『荷は預かった。便はこっちで組み直す。お前らはそっちを終わらせろ、だそうだ』
「……分かりました。ありがとうございます」
作業員から、預けた資材と機材は管理された場所へまとめてあること、上の便も今日は切り上げることを聞いた。
荷はどこにあるか。誰が見ているか。
それが分かっていれば、今は戻らなくていい。無線をしまい、時計を見る。午後の遅い時刻だった。古い保守小屋へ行く時間は、もうない。
雨と、身体の消耗と、これから下りる距離。
今から上へ向かうつもりはなかった。
三年前の連絡簿が本当に残っているのか、兄貴の名前が書かれているのか。
今日も、分からないままだ。見たかった。それは変わらない。ただ、そのために上へ行かなかったことを、間違いだったとは思わなかった。俺は地図を畳み、戻ると決めた。その先で二人を見つけ、主道まで連れ戻し、関から来た人間へ渡した。
今日、俺がしたことはそれだった。濡れた手袋を外す。手のひらに、ロープの跡と泥が残っていた。
「沢渡さん」
宮坂さんがフードを直した。
「下りましょう。身体が冷える前に」
「はい」
俺は手袋を戻し、ザックのベルトを引いた。雨に煙る道の先へ、救助班の背中がゆっくり動いていく。俺たちも、そのあとを追って関へ下り始めた。
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