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第60話 戻ります

 翌朝、空は昨日より低かった。灰色の雲が山の上へ重い蓋をし、遠くの稜線は靄の中へ半分沈んでいる。まだ雨は落ちていない。


 だが、肌を撫でる風には湿り気があった。


 宿を出る前、俺は軒先で腕を動かし、上体をゆっくり捻った。左の脇腹に鈍い痛みが返る。昨日、獣の突進を第二で逸らした時の打撲だ。


 息は深く吸える。左腕の痺れも引いた。


 だが、万全ではない。


「どうですか」


 宮坂(みやさか)さんが後ろから尋ねた。


「昨日より楽です」


「どこが、どう楽になりましたか」


「深く息を吸えます。左手も握れます。脇腹は、捻るとまだ痛みます」


 腕を前へ伸ばし、肩の感触も確かめる。宮坂(みやさか)さんは荷へ視線を落とした。


「今日はさらに軽くしました。歩いてみて、痛みが増すなら戻りましょう」


「はい」


 俺は背負子(しょいこ)へ腕を通した。肩と腰へ、昨日より軽い重さが掛かる。今日は湯殿側へ回る便だった。低所から続く保守用の道を使い、途中の維持点へ資材を運ぶ。庄司さんも、同じ方面へ入る。


 集積所へ着くと、庄司さんはすでに自分の荷を組み終え、縄を確かめていた。


「身体、動くか」


「脇腹の痛みは残ってます。荷は軽くしました。歩いて悪くなるようなら、戻ります」


「なら、隠すなよ」


「はい」


 それで話は終わった。庄司さんは結び目を押し、空を見た。


「今日は湯殿側へ回る。崩れるのが早そうだ。余計な寄り道はしねえぞ」


 その言葉に、胸の奥が少し動いた。今日、俺には仕事とは別に、気になる場所があった。


 昨日の夕方。持ち帰った荷を引き渡したあと、関(せき)で三年前の記録について尋ねた時のことだ。


 羽黒側で見た帰還記録とは別に、当時の無線保守や巡回の連絡簿が、湯殿側の古い保守小屋にも残っているかもしれないと聞いた。


 残っている保証はない。そこに兄貴の名前がある保証は、もっとない。


 それでも、現場で何かが起きたなら、仕事の連絡に一言くらい残っている可能性はある。


 三年前。兄貴は庄司さんへ荷を渡し、下へ向かった。同じ日、本間直哉も遅い時刻に帰っている。二人が一緒だったかどうかは、分からない。本間本人へ無理に聞くことはしない。なら、今手を伸ばせるのは、そういう記録だった。


 今日の仕事を終え、時間と天気が許せば、小屋を確認する。そのつもりがあることは、宮坂(みやさか)さんにも話した。


 寄れることを前提に、行程を伸ばすわけではない。無理なら行かない。そう決めていた。


 関(せき)で手続きを済ませ、紙の手形(てがた)を受け取る。先頭は庄司さん。間隔を空けて俺。最後に宮坂(みやさか)さん。カゲは道の端を、灌木や岩を避けて歩いていた。昨日のような異形の気配はない。山は静かだった。


 不気味だと感じかけて、やめる。戦った翌日だから、こっちの神経が尖っているのだ。


 濡れた石を避ける。木の根を跨ぐ。荷の揺れを、膝と腰で小さくする。


 脇腹を捻らないよう、歩幅はいつもより少し狭くした。しばらく登ったところで、庄司さんが振り返らずに言った。


「最初の便より歩幅が詰まってんな」


「脇腹をかばってます」


「分かってやってんならいい」


「分からずにかばってたら?」


「止める」


 即答だった。後ろから宮坂(みやさか)さんも言う。


「私も同じです」


「二対一ですね」


「多数決ではありませんよ」


「分かってます」


 声を出すと、喉に薄い違和感が残った。昨日の《鎖》の消耗も、まだ抜けきっていない。今日は練習をしない。必要のない験(げん)は使わない。目の前の荷を運ぶ。そのための歩き方に集中した。昼前、小さな維持中継所へ着いた。


 木造の小屋の脇に、無線設備がある。普段は人がいない場所だが、この日は点検の作業員が二人、先に入っていた。


 俺たちは軒下へ荷を下ろした。水を飲み、行動食を口へ入れる。雲は朝より低くなっていた。谷の斜面が、白く霞んでは戻る。雨になるなら、遠くない。


「午後は早めに切り上げたいですね」


 宮坂(みやさか)さんが空を見た。


「そうですね」


 俺は地図を膝に広げた。現在地。荷を届ける維持点は、この先。さらにそこから少し回ったところに、古い保守小屋がある。三年前の連絡簿が残っているかもしれない場所だ。


 仕事を終え、帰りの時間を残せるなら寄れる。

 だが、長く調べる余裕まではないだろう。


 それでも、今日なら手が届くかもしれない。


 地図から顔を上げた時、小屋の中で無線が鳴った。最初は、定時の連絡だと思った。作業員の一人が応答する。二言、三言。その背中が、少しずつ固くなった。


「……待て。もう一度頼む」


 声の調子が変わった。俺と宮坂(みやさか)さんが顔を見合わせる。庄司さんも手を止め、小屋へ目を向けた。作業員が紙を引き寄せ、書き始める。


「二人だな。最後の連絡は?」


 間が空いた。


「脚か」


 宮坂(みやさか)さんが立った。俺も続く。無線を終えた作業員が、こちらを振り返った。


「下の支線に入っていた点検班が、予定を過ぎても戻ってこない」


「どこの支線ですか」


 宮坂(みやさか)さんが尋ねる。男は壁の図を指した。


 俺たちが登ってきた主道から、途中で谷側へ分かれる細道だった。今いる中継所より下だ。


「関(せき)から確認を入れたら、少し前に一度だけ通信があった。一人が脚をやったらしい」


「動けているんですか」


「その時は、もう一人が支えれば歩けると言ってた。ただ、かなり遅い」


「現在地は?」


「はっきりとは分からん。最後に伝えてきたのは、この沢筋の合流点だ」


 指が地図を叩いた。主経路から外れた、谷の中。


「その後は」


「通じてない。岩陰へ入ったのか、移動しているのか、それも分からん」


 宮坂(みやさか)さんが図へ近づいた。


「関側から人は出ていますか」


「一組、上げるそうだ。だが、下から登れば時間がかかる」


 作業員の目が、俺たちへ向いた。命令ではなかった。


 それでも、言いたいことは分かる。


 俺と宮坂(みやさか)さんは、最後に確認された場所より上側にいる。関(せき)から登る班より先に、支線の入口へ着ける可能性が高い。俺は地図を見た。現在地。分岐。最後の連絡地点。そして、この先の届け先。その向こうの古い小屋。


「怪我した人の、意識や出血は分かりますか」


「そこまでは聞き取れてない。話はできていたそうだ」


「付き添っている方は」


「怪我をしたとは言ってなかった」


「二人とも、そのまま下りるつもりですか」


「そう聞いてる。ただ、どこまで進めているかは分からん」


 俺は軒の外を見た。雲の白さが近い。風も変わり始めている。このまま二人が下り続け、関(せき)からの班と会える可能性はある。


 だが、脚の状態が悪くなって止まったら。


 雨で道が濡れたら。身体が冷え、動ける方まで疲れたら。待っていれば、必ず会えるとは言えなかった。


「沢渡(さわたり)さん」


 宮坂(みやさか)さんが呼んだ。振り向く。彼女は俺を見ていた。


「どうしますか」


 それだけだった。地図の上で、二つの方向が分かれた。先へ行く。荷を届ける。時間が残れば、古い小屋を訪ねる。兄貴が使った数時間について、何かが残っているかもしれない。戻る。今日の仕事は組み直す。小屋へ行く時間もなくなる。


 この天気なら、今日を逃したあと、遠征中にもう一度回れるかどうかは分からない。本間(ほんま)は話さなかった。庄司さんが知っていたのは、荷を受け取り、下へ向かう兄貴を見送ったところまで。今追える数少ない手掛かりが、その先にある。


 一瞬、昨夜の言葉が浮かんだ。兄貴なら。そこまで考えて、やめた。地図を見る。分岐までの道。最後の連絡地点。空。時刻。


「関(せき)から上がる班は、どこまで来ていますか」


 作業員へ聞いた。


「さっき出たところだ」


「ここから下れば、分岐には俺たちが先ですね」


「そのはずだ」


「二人が動いていたら、入れ違いになる可能性もあります」


「ああ。最後の地点にいるとは限らん」


「連絡が戻ったら、ここから回してください」


「分かった。そちらの無線が入るところで受けてくれ」


 俺は頷いた。確かなことと、分からないことは分かれた。こちらが先に行ける。二人は、まだ下にいる可能性が高い。俺は地図を畳んだ。


「戻ります」


 声は、思っていたより普通だった。宮坂(みやさか)さんが頷く。


「はい」


 庄司さんは何も言わなかった。俺の顔を見て、次に背負子(しょいこ)へ視線を落とす。まだ、荷がある。今日、上へ運ぶはずだった資材だ。作業員が尋ねた。


「いいのか。上の便は」


「引き継いで、予定を組み直します」


 俺は答えた。


「今は、下の二人の方が先です」


 正しいことを言ったという高揚はなかった。状況を見て、考えて、戻ると決めた。それだけだった。兄貴の記録は見たい。今でも見たい。その気持ちは消えていない。


 だが、下で誰かが帰るのに手間取っている。


 俺たちなら、先に届くかもしれない。その条件を知って、今日は上へ行かないと決めた。


「沢渡(さわたり)さん」


 宮坂(みやさか)さんが自分の荷へ手を伸ばした。


「ここで装備を組み替えましょう。救護に必要なものを持って、運搬の荷は預けます」


「はい」


 俺も背負子(しょいこ)へ向いた。そこで、庄司さんが口を開いた。


「沢渡(さわたり)」


「はい」


「その荷は、どうする」


 手が止まった。急いでいる。下へ行かなければならない。だから、誰かに頼む。それだけでは、渡したことにならない。


 前の仕事では、返事を確かめずに手を離した。受け取れない場所の人間に、荷を追わせた。


 今は、その場で放り出すしかない瞬間ではない。渡せる時間がある。誰に。何を。自分たちはどこへ行くのか。それを揃えてから出る。俺は庄司さんの正面へ背負子(しょいこ)を置いた。雨除けを直し、荷札を表へ向ける。


「庄司さん」


 彼が、俺を見た。


「お願いがあります」


 風に、雨の匂いが混じった。これから戻る谷側の斜面が、白い雲の中へゆっくり沈み始めていた。


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