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第59話 二人ですから

 関(せき)へ戻った頃には、傾いた日が稜線の向こうへ半分ほど沈んでいた。俺たちはまず、持ち帰った荷を集積所へ運んだ。届ける予定だった山内無線の予備部品は無事だ。背負子(しょいこ)から下ろし、担当者の前で外装と封を一つずつ確かめる。


 予定していた維持点までは届かなかったこと。途中の巻き道で大型の異形と接触したこと。退路の条件と二人の消耗を見て、宮坂(みやさか)さんが撤退を決め、二人で下りたこと。山で起きたことを、順に伝えた。少し前の俺なら、届け切れなかったことに、もっと引っかかっていたかもしれない。


 だが、荷は戻った。人も、無傷とはいかないまでも戻った。


 続きは、状況を確認してから組み直せる。無理に一便を成立させるために、二人分の身体を山へ置いてくる必要はない。荷を預ける相手が決まり、受領の確認を見届けてから、俺は背負子(しょいこ)の枠から手を離した。


 繁忙期の山麓の宿で取れたのは、襖一枚で二間に仕切れる部屋が一つだけだった。宿へ戻ると、宮坂(みやさか)さんは窓際の物干し紐を一本増やした。


「濡れているもの、泥のついたもの、全部出してください」


「全部ですか」


「全部です」


 俺は苦笑しながら荷袋を開いた。


 雨具。手袋。汗を吸ったインナー。湿ったタオル。砂を被ったロープ。予備の靴下。


 床へ敷いたシートの上に、荷が次々と並んでいく。窓を少し開けると、暮れゆく山から冷たい風が入ってきた。ロープを解き、金具についた砂を布で落とす。


 宮坂(みやさか)さんの背負子(しょいこ)には、獣の肩がかすめたところに白い削れ傷があった。枠と結束を確かめる。大きな割れは見当たらないが、荷を載せ直す前に、もう一度見ることにした。


 俺の方も、目立った歪みはなかった。


 前腕当ての板には、白い擦り傷が残っていた。革を外して腕を見れば、表面は切れていない。新しく買ったものが役に立ったのは確かだが、手の痺れと脇腹の痣は残った。


 山刀(やまがたな)は鞘に収まったままだった。角を向けて岩壁を駆ける獣へ、短い刃を届かせる場面はなかった。道具を替えても、届く相手と距離まで変わるわけではない。


 身体は、道具より少し面倒だった。


 左腕の痺れはほとんど引き、指も動く。右肩も、いつもの範囲までは上がる。


 ただ、上体を捻ると脇腹に痛みが返った。服をまくると、獣に擦られたあたりに青黒い痣が広がり始めていた。


「……派手ですね」


 後ろから、宮坂(みやさか)さんが覗き込んだ。


「見た目ほどじゃないと思います」


「その言い方が、一番困るんです」


「俺の身体なんですけど」


「痛い場所と、できない動きを教えてください。大丈夫かどうかは、そこから考えます」


 俺は反論を諦めた。


 息を吸った時。身体を捻った時。腕を引いた時。


 一つずつ答える。宮坂(みやさか)さん自身も、膝の外側と手のひらを擦っていた。俺が救急箱へ手を伸ばすと、彼女は先に自分のポーチを開いた。


「宮坂(みやさか)さんだって、結構やってるじゃないですか」


「表面を擦っただけです」


「それ、俺が言ったら怒るやつですよね」


 宮坂(みやさか)さんの手が止まった。数秒。


「……そうですね」


「ですよね」


 互いに、怪我についての言い訳をするのはやめた。泥と汗を落とし、夕食を腹へ収める頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 白米。根菜の味噌汁。煮物と、焼き魚。


 山で身体を使った胃には、その塩気と温かさがありがたかった。俺は普段よりゆっくり噛んだ。喉が痛い。


 《鎖》を何度も使ったあとで、声を張ろうとすると奥がざらつく。向かいの宮坂(みやさか)さんも、いつもより口数が少なかった。


 ふと、汁椀を持ったまま目が合った。


「宮坂(みやさか)さん、喉は」


「沢渡(さわたり)さんほどではありません」


「俺ほどって何ですか」


「今日はよく叫んでいましたから」


「声を出さないと、タイミングが合わなかったでしょう」


「そうですね」


 宮坂(みやさか)さんが椀を置いた。


「特に、あの『来い』はよく聞こえました」


「……聞こえてたんですか」


「かなりはっきり」


 俺は黙って飯を口へ入れた。宮坂(みやさか)さんの口元が、少しだけ上がった気がした。突っ込むのはやめておいた。部屋へ戻ると、窓際に干した薄手のものは、少しずつ乾いていた。


 カゲは板敷きの隅で丸くなっている。白い背中が、障子から入る淡い明かりに縁取られていた。


 俺は壁へ背を預け、野帳を開いた。


 滑走した場所、足を戻した時の感触、第二を使った時にどちらへ身体が流れたか。忘れたくないところだけ短く書く。第四については、一行で済んだ。溜める前に来る。書いてから、ペンを置いた。


「沢渡(さわたり)さん」


 顔を上げると、宮坂(みやさか)さんが文庫本を開いていた。紺色のカバーが掛かっていて、題名は見えない。


「何ですか、その顔」


「いや」


 俺は本へ目をやった。


「読むんですね。あんな日のあとでも」


「あんな日だから読みます」


「疲れてません?」


「疲れています」


 一枚、ページをめくる。


「だから、山と関係のないものを読みます」


「なるほど」


 少し覗こうとしたが、文字までは見えなかった。


「何の本ですか」


「ミステリーです」


「誰が犯人なんですか」


 宮坂(みやさか)さんの目が上がった。


「沢渡(さわたり)さん」


「はい」


「読み終わっていない人間に、聞くことではありません」


「もう分かってるのかと思って」


「分かっていても教えません」


 真面目な顔で返され、笑いそうになった。その拍子に脇腹が痛む。


「っ……」


「笑わないでください」


「無茶言わないでくださいよ」


 宮坂(みやさか)さんは何事もなかったように、本へ目を戻した。しばらく、紙をめくる音だけが続いた。俺は柱へ後頭部を預け、目を閉じる。


 岩壁を駆ける灰白色の獣と、迫る角。足裏の抵抗が薄れ、景色が横へ流れた瞬間。《鎖》に引かれて、突進の線を抜けた身体。


 あれは使える。危険はある。


 だが、止まる場所を間違えなければ、実戦でも動けた。


 敵の目の前で踏ん張らなくていい。

 抜けた先まで足を使えばいい。


 もちろん、どこでもできるわけではない。

 固定点が外れたらどうなるか。進路に突起があればどう避けるか。

 見るべきものは、むしろ増えた。


 それでも、ただ転ぶだけの技ではなくなった。


 第二もそうだった。


 あの重さを止めることはできない。

 受けた分が消えるわけでもない。


 俺自身も押され、腕も脇腹も痛めた。


 だが、少しだけ方向を変えられた。

 その先の足場が崩れれば、それで十分だった。


 そして、第四。俺は手のひらを見た。


「……使えるんですけどね」


 紙をめくる音が止まる。


「何がですか」


「第四です」


 宮坂(みやさか)さんは紙片を栞にして、本を指で押さえた。


「二回、試そうとしていましたね」


「はい。時間を掛ければ、次の一動に力を乗せられる。それは分かってるんです」


「ええ」


「でも」


 腰を落とす。息を整える。力を寄せる。その途中で、敵が来る。


「使える。でも、溜めてる間に殴られますね」


 宮坂(みやさか)さんは少し考えた。


「それなら、溜める時間を作ればいいでしょう」


 俺は顔を上げた。


「簡単に言いますね」


「二人ですから」


 普通の口調だった。俺の返事が、一瞬遅れた。宮坂(みやさか)さんは、そのまま続けた。


「沢渡(さわたり)さん一人で、避けて、相手を止めて、溜めて、使うところまで済ませる必要はありません」


「宮坂(みやさか)さんが時間を作るってことですか」


「場合によります」


 本を膝へ置く。


「私が相手を動かしている間に、沢渡(さわたり)さんが準備することもあるでしょう。逆に、沢渡(さわたり)さんが引きつけている間に、私が別のことをする場合もあります」


「……そうですね」


「二人隊なのですから、二人分使ってください」


 妙に、すんなり入ってきた。協力することを知らなかったわけではない。


 今日だって、宮坂(みやさか)さんが倒木を動かしてくれたから立て直せた。

 沢筋へ誘う場所を選んだのも彼女だ。

 俺がそこへ走らせたから、頭上の枝を崩す手が使えた。


 なのに、第四の準備だけは、自分の動きの中で片づけようとしていた。


 一つしか選べない。

 換えれば、溜めた分は消える。


 だから、どう一人で溜める隙を挟むか。そこばかり見ていた。俺が第三で動いていなければ、誰も相手を動かせないわけではない。


「……そうか」


 声が少し掠れた。


「何です?」


「第四の使い方、少し見えました」


「今夜は試しませんよ」


「分かってます」


「今夜は、です」


「分かってますって」


 両手を上げる。宮坂(みやさか)さんは、ようやく本を開き直した。夜が深くなっていく。


 窓の外で、風が木々を揺らしていた。乾きかけたロープの金具が、ときおり小さく触れ合う。


 仕切りの襖はまだ開けたままで、俺は手前の間に敷いた布団へ横になり、天井を見た。昼の戦いが少し遠のくと、別の顔が浮かんだ。本間直哉。兄貴の名前を聞いて、手が止まった男。何か、知っているのかもしれない。今も聞きたかった。


 明日もう一度会って、別の聞き方をしたら、少しは話してくれるのではないか。そんな考えも消えてはいない。


 だが、今はこちらから追わない。


 話したくないと伝えた相手へ、同じ問いを形だけ変えて出す気にはなれなかった。湯殿側の古い保守小屋に連絡簿が残っているかもしれない、と関(せき)で聞いた話は、夕方のうちに宮坂(みやさか)さんへ伝えてある。だが紙に何が残っていても、それをどう受け取るかは別の話だ。それなら、どうする。兄貴は、どうしていたのだろう。庄司さんへ荷を渡した日。何かを知って。登るのをやめて。下へ戻った。俺だったら――。いや。


「……兄貴なら」


 声が漏れた。ページの音が止まった。


「兄貴なら、こういう時」


「分かりません」


 言葉を重ねる前に、宮坂(みやさか)さんが言った。俺は横を向いた。


「お兄さんならどうするか、私には分かりません」


「……俺にも、ですけど」


「なら、分からないままでいいと思います」


 俺は黙った。宮坂(みやさか)さんは、少し間を置いた。


「こういう時、お兄さんならどうするかを考えるんですね」


「参考にしてるだけです。俺より先を歩いてた人ですから」


「参考なら、いいんです」


 本を閉じる。


「お兄さんが何をしたのか、なぜ裏剱岳(うらつるぎだけ)に残ったのか。それを知りたい気持ちまで、否定するつもりはありません」


「はい」


「ですが」


 宮坂(みやさか)さんが俺を見た。


「判断の責任まで、お兄さんに預けないでください」


 山の外なのに、その言葉は重かった。


「預ける?」


「『兄ならこうする』だけで答えを出してしまったら、今の沢渡(さわたり)さんが何を見て決めたのか、分からなくなるでしょう」


 俺は天井へ目を戻した。


「お兄さんが三年前に何を選んだとしても、それは、その時のお兄さんの判断です」


 風が窓を鳴らす。


「明日、ここにいるのは沢渡(さわたり)さんです」


 すぐには返事が出なかった。カゲが板敷きの上で身体を丸め直した。その小さな音が、妙にはっきり聞こえた。


「……難しいことを言いますね」


「そうですか?」


「兄貴の手掛かりを探しに出羽まで来てる男に、それ言います?」


「探すことと、答えを借りることは違います」


 即答された。


「借りなきゃ歩けない道だって、ありますよ。荷の担ぎ方は、今も兄貴から借りたままです。けど、どこで荷を下ろすかは、俺が決めてるつもりです」


 宮坂(みやさか)さんは口を開きかけて、閉じた。


「……それは、私が言い過ぎました」


「いや、半分は当たってますけど」


「半分ですか」


「半分です。決めてるつもりで、兄貴の顔を見てる時がある。そこは当たってます」


「では、当たっている方の半分は、また見かけたら言います。一緒に登る相手なので」


 宮坂(みやさか)さんが、本を開き直した。俺は少しだけ笑った。今度は脇腹が痛む前にやめた。


 兄貴は、俺に山を教えた人間の一人だ。それを捨てる必要はない。ただ、兄貴が選んだ答えを知ることと、俺が次に何を選ぶかは、同じではない。兄貴が何をしたか。それは、知りたい。知らないままでも、俺は明日の足を置かなければならない。


「宮坂(みやさか)さん」


「はい」


「その本、面白いですか」


「面白いですよ」


「犯人の見当、つきました?」


「教えません」


「誰かとは聞いてませんよ」


「先に言っておきます」


「信用ないなあ」


 宮坂(みやさか)さんは答えず、ページをめくった。明日も、まずは身体と空を見る。


 山へ入れば、何かが起きるかもしれない。

 何も起きず、荷を運んで戻るだけかもしれない。


 その時に、兄貴ならどうするかだけを探さない。俺が何を見て、どうするのか。答えを今から決めておく必要はなかった。その場に立った俺が決める。風の音を聞いているうちに、紙をめくる音も少しずつ遠くなっていった。


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