第58話 止まらなくていい
本間直哉から答えを得られなかった翌日、俺たちは月山側へ入っていた。
考えていないと言えば嘘になる。昨日、兄貴の名前を出した瞬間に止まった本間の手。わずかに揺れて、すぐに伏せられた視線。最後に絞り出すように発された「その話はしたくありません」という拒絶。
あの反応を見て、何も知らないとは思えなかった。だが、本間が何を知っているのか、三年前の兄貴と実際に何があったのかは、まだ分からない。そして、俺が知りたいからといって、相手の口をこじ開けていい理由にはならない。
今は山だ。意識を切り替える。
俺は背負子のチェストストラップと腰帯を引き締め直し、目の前に続く岩混じりの登り道へ視線を落とした。胸のカメラは止めてある。岩壁沿いの細い巻き道へ入る前に撮影を区切り、ドローンも回収していた。
喉の配分も、入る前に決めてある。《不動》は強い分だけ声を深く食う。月山側で喉を使い切れば、帰りの足場で何もできなくなる。使うなら、帰れなくなる時だけだ。
「沢渡さん」
数歩先を歩いていた宮坂さんが、ふいに足を止めた。二十歩ごとに鳴っていた錫杖の輪が、途中で黙る。俺も即座に立ち止まる。
「どうしました」
すぐには返答がなかった。
宮坂さんは登山道の先ではなく、山側――右手の急斜面を見つめている。
月山側へ移ってから、周囲の景観は目に見えて荒々しさを増していた。低所に茂っていた杉の林は途切れ、風に耐えるような背の低い灌木と、風化した灰色の岩盤が目立つ。今歩いているのは、急な山腹を細く削ってつけられた巻き道だった。上の沢筋には、五月の終わりでも灰色に汚れた雪渓が残っている。雪の縁は下が空洞になっていることがあるから、踏み抜かないよう道は雪から離して取ってあった。
山側は、せり立つような一枚の岩壁。谷側は、崩れ落ちた岩屑や石が厚く堆積した浅い沢筋になっている。
宮坂さんは錫杖を左手に預けたままその場で腰を落とし、地面の泥へ指先を近づけた。
「これです」
濡れた黒土の上に、四つの深い窪みが刻まれていた。蹄の跡だ。
しかし、里や通常の山で見かける鹿やカモシカのものとは、大きさがまるで違う。大人の掌ほどもある。
それ以上に異様なのは、その跡の向きだった。蹄痕は道を横切ると、山側の垂直に近い岩盤へ真っ直ぐ向かっていた。
俺は視線を上げる。灰色の岩肌に、点々と黒い泥の跡が上へ続いている。
「……登ってますね、これ」
「そのようですね」
四足の獣が普通に歩ける斜度ではない。
俺たちは無言のまま、周囲に意識を配った。
風はほとんどない。さっきまで微かに聞こえていた鳥の羽音や鳴き声が、途絶えていた。
足元を先行していたカゲが、いつの間にか俺の膝元まで戻っていた。白い毛を逆立て、耳を後ろへ伏せながら、頭上の岩盤を見上げている。
「一度戻ります」
宮坂さんの声は静かで、迷いがなかった。
「了解です」
俺たちは踵を返した。
正体が分からない相手なら、わざわざ確認しに行く義理はない。今日の目的は、この先にある山内無線の維持点へ、交換用の予備部品を届けることだ。
引き返そうと三歩踏み出した、その時だった。頭上で、からんと乾いた音が響いた。
小石が一つ。
続けて二つ。
次の瞬間、斜面の上部から拳大の岩片がまとめて跳ね落ちてきた。
「山側へ!」
宮坂さんの鋭い声が飛ぶ。
俺は咄嗟に右手の岩壁へ身体を寄せた。
礫が頭上を越えていく。石が道を叩き、鈍い衝撃音とともに土煙が舞った。
一塊の石が、ヘルメットのすぐ横をかすめて谷側へ転がり落ちる。その土煙の晴れ間。頭上の岩壁の途中に、何かが立っていた。灰白色の獣だった。
輪郭だけを見れば、大型のカモシカに似ている。
だが、骨格の比率がおかしい。肩の張り出しは俺の胸の高さ近くまであり、胴は引き絞られたように細い。対して前脚は丸太のように太く、頭からは後方へ向かって湾曲した二本の角が生えていた。
何より異様なのは、その蹄が、垂直に近い岩壁のわずかな凹凸を捉え、平地に立つかのように静止していることだった。二つの濁った瞳が、真下の俺たちを見下ろしている。
「……あいつ、壁を平地だと思ってますね」
「見れば分かります」
宮坂さんの返答は早かった。
獣が首を下げ、角の切っ先をこちらへ向ける。
前脚が一歩、岩を叩いた。
落ちてくるのではない。壁を蹴り、駆けた。
「散開!」
宮坂さんと俺が左右へ飛び退く。獣は岩壁を駆け下り、風圧とともに俺たちの間を割って登山道へ着地した。ズダン、と地面が重く鳴る。
立ち止まらない。
着地した勢いを殺すことなく、獣は道の反対側――谷側の岩の出っ張りへ前脚を掛けた。
斜面を二歩、三歩。身体を深く傾けたまま駆け上がり、高い位置で素早く身を翻した。
「……めちゃくちゃだな」
俺たちが横切るだけの岩壁も、足を置くのをためらう斜面も、あいつには走るための床だった。
「沢渡さん、下がれますか」
「後ろは狭いです!」
一瞬だけ振り返る。
戻る道の先には、幅の狭い切り通しがある。あそこへ入り込んだところに上から飛び込まれたら、横へ逃げられない。
前方も、少し先で道が絞られている。
この場所が、まだ一番幅を使える。
「今、あそこへ逃げ込む方が危ないです。ここで退く隙を作ります」
「同感です」
獣が再び頭を低くした。
濁った視線が、はっきりと俺を捉える。
「来ます!」
右斜め前方、道脇に大岩があった。根元は土へ深く埋まり、周囲の岩盤と続いている。
視線を合わせ、喉へ意識を絞る。声を出した。鉤付きの《鎖》が走り、岩の窪みへ噛み合う。その直後、獣の前脚が岩盤を弾いた。俺は《鎖》を巻き取った。
大岩は動かない。
引かれたのは、俺の身体だ。
靴底が砂利を削り、視界が横へ流れる。
固定点へ近づきすぎる前に、鎖を解く。残った勢いで二歩、三歩と足を継いだ。
背後で、重い風切り音が鳴る。獣の角が、ほんの一瞬前まで俺の胴があった空間を通過していった。
「沢渡さん!」
「大丈夫です!」
よろけかけた身体を立て直す。
獣はそのまま前方の岩盤へ駆け上がり、四つの蹄で岩肌を叩いた。
砕けた小石が弾け飛んでくる。
俺はカゲを身体へまとった。第一の《風切羽》。
肌の近くを風が巡る。
飛来した砂と小石の軌道がわずかに外れ、頬の両側へ抜けた。大きな岩塊を防げるわけではない。そちらは身を沈めて避ける。
目を開けたまま、敵を追える。
その視界の端で、宮坂さんの《鎖》が伸びた。
後方の岩へ鉤が掛かる。
壁を蹴って反転した獣が、今度は彼女へ向かっていた。宮坂さんが巻き取る。
身体が斜め後ろへ引かれ、角が鼻先を抜けていった。
彼女は早めに鎖を解き、着地した足を二歩送って止まる。
俺のように、引かれる力へ無駄に逆らっていない。
「……さすがだな」
「感心している暇はありませんよ!」
その通りだ。二度の突進で、動き方が見えてきた。
速い。
だが、それ以上に厄介なのは、向きを変える方法だった。
平地で減速して曲がるのではない。
直線で突っ切り、その先の壁を駆け上がって反転する。高い位置から、次の突進へ入る。
「あいつ、平地では大きく曲がってません! 壁で向きを変えてます!」
「ええ、見ています!」
獣が三度、身を返した。
間合いはある。
初動まで、少しだけ時間がある。だが、《不動》であいつの脚を縫う三句を唱え切るほどではない。
俺は第一を解き、第四の《緊環石》へ換えた。次の一歩へ、力を集める。一呼吸。身体の奥に張りが生まれた。だが――獣の前脚が、もう岩を蹴っていた。早い。もう一呼吸を待つ余裕がない。
「くっ……!」
第四を解除する。集まりかけた力が消えた。第二へ換装した。水が流れるように、受けた力を身体の中で通して、足へ逃がす性質だ。
目の前へ灰白色の肩が迫る。
大きく逃げる間合いはない。
正面から止めるな。俺は身を沈め、角を外し、左の前腕を獣の首の付け根へ滑り込ませた。衝撃。太い丸太で殴られたような力が、前腕から肩へ抜ける。重い。このまま足を突っ張れば、俺の方が壊れる。《手力》で押し返しても同じだ。受け止める足場の方が、先に負ける。
左の靴を地面へ当て、腰を捻った。
腕で受けた力を肩と背中へ通し、地面に触れた足へ流す。身体も一緒に回し、獣の肩に押される方向へ半歩逃がす。
「が、はっ……!」
全部は流せない。
脇腹を擦られ、肺の空気が押し出された。
身体が横へ弾かれる。
それでも、真っ向から潰されることだけは免れた。
獣の突進も、わずかに外へずれた。
前脚が路肩の浮き砂利を踏み、巨体がぐらつく。
「今です!」
宮坂さんの《鎖》が走った。
獣ではない。
進路の脇に転がる、太い倒木だ。
鉤が掛かり、木が地面を擦って動く。
獣の前脚の前へ滑り込んだ。
獣が跳ぶ。
倒木は越えた。
だが、着地し直すまでに速さが落ちた。
俺は地面に手をつき、身体を起こした。息は乱れている。
だが、頭は冷えていた。
「宮坂さん、それ使えます!」
「何がですか!」
「あいつを、無理に止める必要はありません!」
宮坂さんがこちらを見た。俺は周囲の地形へ視線を走らせる。出羽の平場で、《鎖》と第三を組み合わせて転んだ。
足裏の摩擦を下げて引かれれば、速く動ける。
だが、その場で止まろうとした途端、足だけが引っかかり、上体が放り出された。
ずっと、どう止まるかを考えていた。それは必要だ。ただ、敵の目の前で止まる必要はない。最初から、抜けた先まで足を使える線を選べばいい。獣が前方の壁へ足を掛けた。俺はその横方向、奥の岩へ狙いを定める。声。
《鎖》が走り、裂け目へ掛かった。
第二を解き、第三の《関節石》へ換える。
足裏の接触面に作用を絞り、摩擦を大きく下げた。
「沢渡さん!?」
「横へ抜けます!」
巻き取る。身体が滑り始めた。
走るのとは違う。
靴底が擦る抵抗が薄れ、景色が一気に後ろへ流れる。
壁を蹴った獣が、俺へ向かって駆け下りてきた。正面からぶつかる線ではない。あいつの突進と、俺の滑る線が、斜めに交わる。そこへ先に身体を通す。
「沢渡さん、近すぎます!」
角が迫った。獣臭が鼻へ入る。俺は《鎖》を解いた。
第三の作用を、少しずつ弱める。
足裏の抵抗は戻り始めるが、勢いは残る。
そのまま獣の横を抜けた。風圧が上着を叩く。ここで踏ん張らない。抜けた先へ足を送る。
第三を完全に解き、第一の《風切羽》へ換えた。
身にまとった風で上体のぶれを抑えながら、膝を曲げて足を継ぐ。
一歩、二歩。さらに二歩。靴が砂利を掻き、速さが落ちていく。止まった。転んでいない。振り返ると、獣は俺を通り越し、岩壁の基部へ蹄を引っかけていた。
「……できた」
息が上がる。喉は痛い。
それでも、手応えがあった。
「沢渡さん」
横から宮坂さんの声が飛ぶ。
「喜ぶのは、下りてからにしてください」
「……はい」
危なかった。
だが、使えた。
《鎖》に引かれ、第三で抵抗を下げる。
抜けた先で摩擦を戻し、第一で姿勢を整え、足で止まる。
一度に選べる性質は一つだけだ。
それでも、動きの途中で役目を引き継げばいい。
最初から最後まで、一つで済ませる必要はない。
獣が岩を蹴った。今度は俺を見ていない。少し離れて位置を変えようとしていた、宮坂さんへ向いていた。
「宮坂さん!」
「見えています!」
宮坂さんが下がる。周囲には、すぐに自分を引ける位置の固定点がない。俺は足を出しかけた。第四で距離を詰めるか。いや、溜めている間に来る。第三で割り込むにしても、彼女を巻き込まない線が取れない。
宮坂さんは身を低くし、谷側の浅い段へ跳んだ。鈍い音が響く。獣の肩が背負子の側面をかすめ、彼女が砂利の上へ転がった。
「宮坂さん!」
「動けます!」
すぐに身を起こし、片膝をつく。俺も獣から目を離さず、宮坂さんへ近づいた。
獣は再び岩壁へ上がっていた。
二本の角の間から、荒い息が漏れている。
宮坂さんは立ち上がり、谷側へ目を落とした。
「沢渡さん」
「はい」
「今度はこちらから動かします。あいつの足場を奪いましょう」
指した先は、浅い沢筋だった。大小の石が堆積し、踏めば崩れるガレ場。
「あそこへ誘うんですね」
「硬い岩を蹴れている間は速い。あの足元を崩せれば、今のようには動けません」
意図は分かった。問題は、どう入れるかだ。獣は高い場所で蹄を鳴らし、こちらを見ている。
「俺が誘います」
「どうやって?」
「沢筋の入口に立ちます」
「却下します」
「最後まで聞いてください」
「内容によります」
俺は対岸の平場を指した。
「引きつけて、《鎖》と第三で横へ抜けます。さっきと同じです。俺がいた場所を通り過ぎれば、そのままガレ場です」
「抜けたあと、どこで止まりますか」
「あの平場まで使います。入口では止まりません」
宮坂さんは獣と沢筋を見比べた。
「鉤が外れれば、正面から受けることになります」
「はい」
「抜ける線が変わっても中止です。私のいる方へは引かないでください」
「分かっています」
彼女が指先で、岩の位置を確かめるように示した。
「掛けるのは、あの岩ですね」
「はい」
短い沈黙のあと、宮坂さんは頷いた。
「一度だけです。掛かりが浅ければ、その時点で別の場所へ逃げてください。誘導より回避を優先します」
「了解です」
宮坂さんが沢筋の側面へ回る。俺は入口の前に立った。頭上の獣が、俺を見直す。まだ間合いはある。
――第四の一歩で、横へ抜ける手もあるか。
《鎖》と第三の代わりに、自分の踏み込みで離脱する。
それなら、固定点が外れる心配はない。
俺は第四へ換え、腰を落とした。一呼吸。次の一歩へ、張りが集まる。獣はまだ動かない。もう少し――。蹄が岩を弾いた。二呼吸目を待つ前に、灰白色の身体が壁を駆け下りる。
「やっぱり、間に合わない……!」
今の溜めだけで、必要なところまで届くかは分からない。第四を解除した。力が消える。第三へ換え、予定していた岩へ《鎖》を放った。鉤が掛かる。軽く張る。抜けない。獣が地面へ着地し、一直線に突っ込んでくる。
「来い……!」
俺は巻き取りを始めた。足裏の抵抗が大きく抜け、身体が横へ流れる。まだ、強くは引かない。
早く抜けすぎれば、突進の向きを変えられる。
あいつが前へ踏み切るところまで待つ。
角。濁った目。吐き出される息。一気に距離が詰まる。
「今っ!」
宮坂さんの声。俺は巻き取りを強めた。身体が横へ走る。獣の角が、上着の前をかすめた。すれ違ったところで鎖を解く。止まらない。沢筋の縁を横切り、対岸の平場へ抜ける。第三の作用を弱めながら、足を継いだ。
獣は俺のいた空間を通り過ぎ、そのままガレ場へ突っ込んだ。一歩。二歩。三歩目で、前脚の下が崩れた。
小石がまとめて滑り、深く足を取られる。
頭が沈み、巨体が横へ傾いた。
あの蹄が、初めて足場に負けた。
「宮坂さん!」
「はい!」
《鎖》が飛ぶ。沢筋の斜面に引っかかっていた、土砂混じりの枯れ枝へ掛かった。宮坂さんが引く。
枝が崩れ、石と一緒に落ちた。
立て直そうとしていた獣の側面へ、まとめてぶつかる。
倒すほどの一撃ではない。
それでも、脚を置こうとした場所が、さらに崩れた。
獣が叫んだ。硬いものを擦り合わせるような、甲高い声だった。
だが、倒れない。
前脚を引き抜き、石を蹴散らしながら身体をこちらへ向け直す。
「まだ来るのかよ……!」
俺は第三を解き、足を地面へ置き直した。突進は、さっきより遅い。
だが、重さは変わらない。
横へ逃げる余裕はあった。
それでも、そのまま通せば、あいつはまた硬い道へ戻る。
壁を使って走り始められたら、同じことの繰り返しだ。
戻さない。俺は半歩、前へ出た。第二へ換装する。
「沢渡さん!」
「横へ流します!」
角が下から迫る。身体を半身に開き、切っ先を外す。左手を角の根元へ、右手を首の側面へ当てた。衝撃が腕を抜けた。重い。山仕事で受け止めた人間の重さとは、比べものにならない。止めるな。
俺は後ろ足をずらし、身体を回した。
腕から肩、背中、腰へ力を通す。地面に残した足へ受け渡しながら、獣の頭を抱え込まず、横へ抜く。
「ぐ、おおっ……!」
靴底が砂利を削った。
俺自身も引きずられる。
腕の力だけでは、どうにもならない。
それでも、獣の頭が脇へ抜けた。
突進の線が、わずかに沢筋側へずれる。それだけでよかった。前脚が、崩れた路肩をもう一度踏んだ。足元が抜ける。横へ傾いた頭部が、突き出た岩の角へぶつかった。硬い音が谷へ響いた。湾曲した角の先が折れ、獣が短く呻く。
灰白色の巨体が、初めて俺たちから離れるように跳び退いた。俺も、その場に片膝をついた。
「が……っ、は……」
息を吸おうとして、脇腹が痛んだ。
左腕には強い痺れが残っている。
指は動く。だが、握り込もうとすると痛みが返った。
前腕当ての外側には、角と擦れた白い筋が一本走っていた。袖も皮膚も裂けていない。それでも、腕の奥へ通った重さまでは防げなかった。
「沢渡さん!」
宮坂さんが前へ入り、錫杖を斜めに構えて俺をかばうように立った。
「立てますか!」
「……立てます」
膝へ手をつき、身体を起こす。
沢筋の向こうで、片方の角を欠いた獣が低く身構えていた。
荒い息を吐きながら、こちらを睨んでいる。
まだ来るか。俺と宮坂さんは身構えた。
喉が乾き、声を出すたびにひりつく。
同じ手を何度も続けられる余裕はない。
獣の前脚が、土を掻いた。小石が転がる。張り詰めたまま、次の一歩を待った。
だが、獣は不意に首を振った。
背を向ける。沢筋を跳び越え、山側の岩壁へ飛びついた。一跳び。二跳び。一度も振り返らず、尾根の向こうへ消えた。風の音が戻ってきた。
「……行きましたか」
「そのようですね」
宮坂さんの声にも、疲れが混じっていた。俺はゆっくり腰を下ろした。
痺れた左手を開き、閉じる。
握る力は戻りきっていない。
「第二、なんとか使えました」
「見ていました」
「全部は流せませんでしたけど」
「あの重さを、全部どうにかしようとしないでください」
宮坂さんは獣が消えた方を見たまま言った。
「方向が少し変わったから、足場を崩せました。あれで十分です」
「……そうですね」
脇腹へ手を当てる。鈍い痛みが返った。
それでも、さっきの動きを思い返すと、口元に笑いが浮かびかけた。
「何がおかしいんですか」
「いや」
俺は地面を指した。靴底が擦れた二本の線が、沢筋の脇を抜けている。
「前に《鎖》と第三を試した時のことを思い出してました」
「転んだ時ですね」
「はい。あの時は、どう止まるかばかり考えてました」
「必要なことですよ」
「もちろんです。でも、さっき分かりました」
滑走痕の先には、足を継いで止まれた平場がある。
「止まらなくていい場面を選べばいいんだって」
宮坂さんはその線と、獣が突っ込んだ沢筋を見比べた。
「……入口で止まる必要はない、ということですね」
「はい。避けた先まで動ければ使える。敵の前で無理に踏ん張らなくていい」
「ただし、抜けた先が見えている時だけです」
「分かっています」
「固定点が抜けた場合も、考えておいてください」
「はい」
宮坂さんは小さく息を吐いた。
「止まり方の練習は、引き続き必要です」
「それは逃げません」
俺は笑いかけて、脇腹を押さえた。しばらく休み、背負子の状態を確かめる。
その時、使えなかった方の感触も戻ってきた。
第四の《緊環石》。二度、溜めようとした。
だが、どちらも敵が先に来た。
平場では待てた。
今は、その一呼吸が取れなかった。
「第四は、使い切れませんでしたね」
「能力そのものの問題ではありませんよ」
宮坂さんが言った。
「溜める時間が作れなかった。それが今日の課題です」
「ええ」
強い一歩を出せる。そのことと、その一歩を使える場面を作ることは違う。
避けるのか。
足を止めるのか。
何かの陰へ入るのか。
溜める前から、動きを組み立てなければならない。
「今日はここまでにしましょう」
宮坂さんが山道の先を見た。
「下ります」
「了解です。下りましょう」
維持点は、この先だ。行けなくはない距離だった。
だが、俺の腕と脇腹は痛む。宮坂さんにも打撲と擦り傷がある。二人とも、声を何度も使っている。
どちらかが下りると決めたら、二人とも下りる。そこへ異論はなかった。
俺は荷の結束とケースを確かめた。予備部品に、目立った破損はない。
その脇に、止めたままのアクションカメラと、折り畳んだドローンが収まっていた。今の戦いは、どちらにも残っていない。
背負子を担ぎ直す。
左腕にはまだ痺れがある。脇腹も、呼吸を深くすると鈍く痛んだ。
下りたら、身体の状態を確かめてもらう必要がある。
「宮坂さん」
「何ですか」
「次は、もう少し綺麗に立ち回ります」
「まずは怪我をしない立ち回りを覚えてください」
「善処します」
俺たちは来た道を下り始めた。
見上げた岩壁に、獣の姿はもうなかった。
崩れた沢筋と、角を打ちつけた岩の傷。地面に残った滑走痕だけが、そこにある。
下山の一歩を確かめながら、俺はさっきの数秒を何度も思い返していた。




