第57話 話せること
交換用の通信基板を収めた木箱を、俺は番屋の土間へ運び入れた。昼過ぎに麓へ届き、検品を済ませた代品だった。昨日壊したものと同じ型番の、新しい部品だ。背負子から下ろして台へ載せると、右肩の奥が少し張った。
だが、朝から強くなってはいない。
今日の荷は軽くしてある。だからといって以前の歩荷に戻れたわけではないことを、下ろす時の動きでも確かめた。
「沢渡さん、受領書の控えはこちらです」
宮坂さんが書類を木箱の脇へ置いた。
「ありがとうございます」
土間の奥、山内無線の設備を収めたラックの前で、一人の男が配線を見ていた。三十歳前後。作業着の袖をまくり、テスターを手にしている。昼に関の窓口で、今日は番屋の保守に上がっていると聞いた男だった。運んできた基板も、この男の受け持ちの設備に入る。
「本間さん、交換用が届きました」
管理員が声を掛けると、男が振り返る。本間直哉。
「ありがとうございます。型番を確認してもいいですか」
「どうぞ」
本間は台へ来て、木箱の蓋を開けた。細身だが、肩はしっかりしている。日焼けした横顔は落ち着いていて、部品と伝票を一つずつ照合していった。
「合っています。これで交換できます」
淀みのない受け答えだった。俺はその手元を見ながら、昼に関で見た記録を思い出していた。三年前、兄貴の四分前に帰ってきた名前。窓口の職員が無線で確かめたのは、名前を伝えていいかどうかだけだ。それ以上を話すかどうかは、本人が決める。
「沢渡さん、外した蓋をそちらへ置いてもいいですか」
「ああ、はい」
俺は雑念を振り払い、台を空けた。今は仕事だ。記録の本人だからといって、工具を持っている相手の手を止めるわけにはいかない。本間は手際よく作業を進めた。
外した部品と新しい部品を混ぜず、配線を確認し、一つずつ元へ収める。必要な時だけ、俺に蓋や箱の移動を頼んだ。
「この山域は、長いんですか」
手が空いたところで尋ねると、本間は顔を上げずに答えた。
「ええ、長いです。設備は少しずつ変わっていますけど」
いつから、とは言わなかった。こちらも、まだ聞かなかった。
「道も?」
「崩れるところは変わりませんね。直すと、今度はその先が悪くなる」
少しだけ苦笑した。俺も笑った。名前を伝えていいと答えた人だ。誰が自分のことを尋ねたのか、とうに察しているのだろう。それでも、仕事の話をする声は変わらなかった。最後に管理員と動作を確かめ、ラックの扉を閉める。
「これで使えます。古い方は持ち帰りますね」
本間が工具をまとめ始めた。仕事をしている時の男は、ただ自分の持ち場を守る技術者だった。三年前の記録に名前がある。それより先に、今日の設備を直した人間がここにいる。納品と作業を終え、俺たちは他の作業員と一緒に下山した。
関で手形を返したあとも、本間は集積所に残っていた。取り外した部品を預け、軒下で工具を拭いている。他の人間は、少し離れた小屋で帰着の確認をしていた。仕事の区切りはついている。俺は宮坂さんへ視線を向けた。彼女は小さく頷いた。
それから、本間のいる軒下へ歩いた。
「本間さん。少し、いいですか」
本間が顔を上げる。
「はい。何でしょう」
「仕事とは別のことで、聞きたいことがあります」
ウエスを握る手が止まった。
「沢渡峻という男を、ご存じですか」
風が軒先を抜けた。本間の指が、工具を握ったまま動かなくなった。俺を見ていた目が、一度だけ外れる。
「……沢渡、峻」
「兄です」
喉が乾いた。俺は続けた。
「三年前の八月、兄貴はこの山へ入っています。途中で庄司さんへ荷を渡して、下へ戻った。その日の帰還について照会したら、本間さんも遅れて戻った記録があると分かりました」
本間は何も言わなかった。工具箱へ視線を落としている。
「その日、兄貴と会いませんでしたか」
間が空いた。向こうの小屋で、誰かが戸を閉める音がした。本間は工具を置いた。
「……すみません」
顔は上がらなかった。
「その話は、したくありません」
胸の奥が、強く鳴った。
「本間さん」
「その日のことは、今は何も話せません」
本間は工具箱を閉じた。留め具が、思っていたより大きな音を立てた。
「仕事の話なら、お答えできます。でも、それ以外は……すみません」
会ったとも、会っていないとも言わなかった。ただ、話を終わらせようとしていた。何か知っているんじゃないか。俺の中で、その思いが膨らんだ。少なくとも、兄貴の名前がこの人にとって何の意味もないわけではなさそうだった。
だが、何を知っているのかは分からない。
それでも、一つだけ聞ければ。
会ったかどうか、その答えだけでももらえれば。
「本間さん、待ってください」
立ち上がりかけた相手へ、言葉が先に出た。
「責めたいわけじゃないんです。兄貴があの日、何をしていたのか分からなくて。一つだけでいいんです。会ったのかどうか、それだけでも」
声は荒らげなかった。掴みかかったわけでもない。
だが、断られた話を、もう一度差し出していた。
「沢渡さん」
横から声がした。
「ここまでです」
宮坂さんだった。俺は口を閉じた。彼女は俺を見て、それから本間へ向き直った。
「失礼しました」
短く頭を下げる。代わりに質問することも、説得することもしなかった。俺も頭を下げた。
「……すみません」
本間は工具箱を持ったまま、立っていた。少し背を丸めて、足元を見ている。
「こちらこそ」
声が落ちた。
「すみません」
それだけだった。俺たちは本間を追わず、集積所を離れた。宿へ向かう道を、宮坂さんが先に歩く。俺は数歩後ろについた。カゲが道端の草を避け、静かに並んでいる。悔しかった。
あと一言で、三年間分からなかったことへ触れられたかもしれない。そんな気持ちは、簡単には引かなかった。
「宮坂さん」
「はい」
「何か、知っているように見えましたよね」
「そう見えました」
否定されなかった。だからこそ、胸がざらついた。
「だったら、会ったかどうかだけでも……」
口にして、自分で止まる。さっきと同じことを言おうとしていた。宮坂さんが道の端で足を止めた。
「反応したからといって、何を知っているのかまでは分かりません」
俺は頷かなかった。黙って続きを聞いた。
「沢渡さんが知りたいことと、その人が話せることは別です」
静かな声だった。
「聞きたい理由があることと、相手が答えなければならないことも、別です」
「それは、分かります」
「少なくとも、今の本間さんは話したくないと伝えました。それは、こちらの推測ではありません」
少し間を置いて、宮坂さんは自分の錫杖の輪へ目を落とした。
「私にも、お客さんに聞かれても話さない山の日があります。聞かれたら、たぶん今の本間さんと同じ顔をします」
俺は地面へ目を落とした。その通りだった。あの人が何を知っているかは分からない。
だが、話したくないと言ったことは、分かっている。
俺は知りたい方だけを見て、そちらを一瞬、見えないことにした。
「……止めてくれて、ありがとうございます」
すぐに納得し切れたわけではなかった。本間の手が止まったところを、まだ何度も思い出している。
それでも、あの場でさらに問いを重ねるのは違った。
「お兄さんのことを知りたい気持ちまで、引っ込めなくていいんです」
宮坂さんが言った。
「はい」
「今日は、あそこで止める。それでいいと思います」
俺は息を吐いた。何かを知っているのかもしれない。三年前に兄貴と会っていたのかもしれない。そう思うことまで、消せるわけではなかった。
だが、答えを持っているかもしれない人間が目の前にいることと、その答えを今もらえることは同じではない。
本間は、工具を拭いていた。俺たちと普通に仕事の話をして、設備を直し、帰ってきた。兄貴の過去を説明するためだけに、あそこへ立っていたわけじゃない。
「今日は、もう聞きません」
「ええ」
宮坂さんが歩き出す。俺も続いた。背負子の軽い重さと、右肩に残る張りが、身体を今いる道へ戻してくれる。答えは手に入らなかった。兄貴が荷を渡したあと何をしていたのか、その空白はまだある。
それでも、今すぐ取ろうとしていいものではなかった。
俺は胸のストラップを直した。明日も仕事がある。本間の閉じた工具箱を思い出しかけて、目の前の道へ視線を戻した。
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