第56話 待った分だけ
障子越しの朝の光で目が覚めた。山裾の宿は、早朝の湿気と線香の匂いに包まれていた。並びの宿坊から、朝の勤行の声が低く流れてくる。布団から起き上がり、まず右腕をゆっくり動かす。肩甲骨にかけて、鈍い強張りが残っていた。
昨日、滑落しかけた作業員を引き戻した時の負荷だ。だが、動かした時の感触は昨夜より軽い。
「おはようございます、沢渡さん」
開けた襖の向こうで、身支度を整えていた宮坂さんが声を掛けた。
「おはようございます」
「肩はどうですか」
「張りはあります。昨日よりは楽です」
「動かすと痛みますか」
「大きく引くと。普通に上げる分には、強い痛みはありません」
宮坂さんに見てもらいながら、無理のない範囲で腕を動かす。
「今日は重い荷を増やさないようにしましょう。変わったら、すぐに言ってください」
「はい」
交換用の基板は、午後の便で麓へ届くことになっていた。
午前は集積所の軽作業と、昨日の作業員の様子を確かめる予定だった。その合間に、兄貴の記録についても窓口へ相談する。
階下の土間へ下りると、カゲが白い耳を立てた。
「行くぞ」
声を掛けると、音もなく立ち上がり、足元へ寄ってくる。宿を出たところで、俺は宮坂さんへ切り出した。
「第四の確認も、少しだけできませんか」
「一昨日の、牽引のあとに違った感触があったという話ですか」
「はい。すぐ動いた時と、次の一歩へ力を寄せて待った時で、何かが違った気がするんです」
宮坂さんは歩きながら考えた。
「《鎖》を使わずに確かめたいですね。引かれる力と、自分でしていたことを分けましょう」
「自分の身体だけで?」
「ええ。負荷は小さく。今日は強い一歩を出すための試験にはしません」
俺は頷いた。まず関の窓口で、一昨日の牽引のあとの感触について、昨日届けておいた件を確かめたいと申し出た。資源庁の担当職員が以前の試験記録を確認し、低所での再試験に立ち会うことになった。今日は短く溜めたあとの一歩と、解除した場合を確かめる。験への応用や、長く溜めて出力を上げる試験はしない。
確認の行程を届け、紙の手形を受け取る。職員とともに内側の低所、資材置場に接した平場まで入り、荷を下ろした。砂利と土はよく踏み固められ、傾斜はほとんどない。職員が記録の用紙を開く間に、周囲の資材から距離を取り、足元を確かめる。
「一昨日は、牽引を受けたあとでした」
宮坂さんが言った。
「引かれたことで残ったものなのか、待っている間に集めたものなのか。そこがまだ分かりません」
「今日は、引かれずにやります」
「はい」
俺は第四の《緊環石》を選んだ。カゲをまとうと、身体の内側に、あの張りを受け入れる感触が生まれる。
石鎚のあとに確かめた時は、短い牽引を受け、それを次の一動へ乗せられた。一歩目で使い切り、二歩目には残らない。解除すれば消える。
だが、自分から溜める使い方は、まだ確かめていなかった。
「まず普通に歩きます」
構えず、一歩を踏み出す。砂利が鳴った。いつもの一歩だった。第四を選ぶだけで、勝手に動きが強くなるわけではない。元へ戻り、足の位置を整える。今度は次に踏み出す動作を思い浮かべた。ただ待つのではない。次の一歩へ、力を集める。
膝を軽く曲げ、息を整えた。一呼吸。身体の奥に、わずかな張りが生まれた。外から引かれてはいない。
それでも、感触は増えている。
俺は地面を蹴った。思っていたより、身体が前へ出た。
「おっ……」
足を継ぎ、止まる。砂利の擦れる音が、普段の一歩より長く続いた。宮坂さんが足跡を見る。
「今、感触はありましたか」
「ありました。引かれてないのに、踏み出す前に集まった」
自分の脚を見る。痛みはない。
だが、今の一歩は、普通に力を込めただけのものとは違った。
「もう一度。待つ時間を少しだけ変えます」
同じ場所へ立つ。構えを大きくしないよう、足の位置を確かめる。一呼吸。そこから、もう少し。張りが増した。身体が固まって動けなくなるのではない。次に出す一歩のために、何かが内側へ寄ってくる。俺は踏み出した。
今度はさらに前へ出た。足を置く位置を遅らせないよう、二歩目を継ぐ。その二歩目は、もう普通だった。
「……待った分だけ、強く出た」
息を吐き、最初の足跡へ戻る。宮坂さんは俺の肩と腰を見た。
「痛みは?」
「増えてません」
「では、次で終えましょう。解除した場合を」
「俺も、それを見たいです」
もう一度、第四を選び直す。次の一歩へ意識を寄せ、短く待つ。同じ張りが戻ってきた。
だが、踏み出す直前に解除する。
感触が消えた。そのまま足を出す。砂利を踏んだだけだった。身体が押し出されることはない。
「消えました」
「前の確認と同じですね」
「はい。でも、今回は外から何も受けてない」
俺はようやく、言葉にできた。
「受けた力を残すだけじゃなかったんですね。自分で、次の動きへ溜められる」
宮坂さんが頷く。
「時間を掛けて準備した分を、次の一回へ乗せる。今日の範囲では、そう見えます」
「一昨日は、引かれた力だけを見ていました。あれで全部だと思ってました」
以前の試験が間違っていたわけではない。見ていた使い方が一つだったのだ。短く引かれた力を次へ乗せられる。それと、自分で時間を掛けて溜められることは、両方あっていい。俺は足元を踏み直した。
「一回で使い切る。解除したら消える。そこは同じです」
「ええ。長く溜めた場合の出力も、扱える範囲も、今日だけでは決められません」
「決めるつもりもありません。今の肩で試すことじゃないです」
強く出せるから、強く出していいわけではない。一歩が普段より先へ出れば、その先へ足を置かなければならない。悪い姿勢のまま放てば、着地や衝突で身体を痛める。それは、滑る時と変わらなかった。
「もう一つ、課題がありますね」
宮坂さんが言った。
「溜めている時間ですか」
「はい。今日は平場で待てました。実際の山道や、相手が動いている場面では、同じようにはいかないでしょう」
「構えてる間に来られたら、使う前に終わりですね」
動きながらどこまで扱えるのかも、まだ分からない。ただ、少なくとも、今の俺には準備する時間が要る。その時間をどこで取るか。考えるべきことが、初めてはっきりした。身体の動きへ溜められるなら、俺自身が使う験はどうなのだろう。
《手力》。《雨降り》。《鎖》。思いつきはした。
だが、今日確かめたのは、あくまで自分の一歩だけだ。
「験への応用は、また別ですね」
「ええ。今日は、できたことを混ぜずに持ち帰りましょう」
俺たちは荷をまとめ、関へ戻った。紙の手形を返し、担当職員と試験の記録を照合する。自分から短く溜めた分を一歩へ乗せられたこと、二歩目には残らず、解除すれば消えること。以前の牽引試験とは項目を分けて記録に加えてもらい、長時間の蓄積や験への応用は未確認のまま残した。
集積所の仕事へ入ると、昨日足を痛めた作業員は、荷を担がず、仕分けの仕事に回っていた。俺を見ると、何度も礼を言った。
「助かりました。本当に」
「足は?」
「まだ痛みます。今日はここでやります」
無理をして山へ戻っていないことに、少し安心した。正午過ぎ、交換用の基板が届いた。型番と外装を確かめ、破損報告に必要な確認を済ませる。そのあと、俺と宮坂さんは管理事務所へ向かった。窓口で兄貴の伝票を示し、事情を話す。
三年前の同じ日に、兄貴は荷を途中で引き渡した。そのあと下へ向かったことを、受け取った歩荷から聞いた。帰還が遅れた理由を知りたい。
「他の人の記録を全部見たい、ということではありません。当日の遅れや、仕事に関係する記録で、確認できるものがあれば」
俺がそう言うと、職員は伝票の日付を見た。
「出せる範囲を確認する。少し待ってくれ」
先達だから何でも見られる、という話ではなかった。宮坂さんも横から口を挟まず、俺たちは窓口の前で待った。やがて職員が戻り、当日の業務に関係する記録を開いた。
「見せられるのは、この範囲だ。連絡先などは出せない」
「ありがとうございます」
台の上で、記録と兄貴の伝票を突き合わせる。沢渡峻。入山五時四十分。帰還十七時五十分。手元の控えと同じだった。
「ここからですね」
宮坂さんが小さく言った。同じ日の帰還を、見せてもらえる範囲で追う。仕事を終えて昼過ぎに戻った人。予定を少し過ぎた人。時刻の列へ目を走らせていた時、俺の指が止まった。名前の欄は伏せてある。帰還、十七時四十六分。兄貴の帰着印の、四分前だった。
その横に、短い注記がある。
『予定行程より遅延。日没前の帰着確認』
「この方は」
「名前は出せない」
職員は記録の向きを変えず、帰着欄だけを指で押さえた。
「ただ、今もこの山域の保守に入っている人だ。今日の午後は番屋に上がってる。無線で、話していいか本人に聞いてみる。それでいいか」
「お願いします」
職員が奥の無線機へ向かい、短いやり取りをして戻ってきた。
「名前を伝えるのは構わないそうだ。本間直哉。それ以上のことを話すかどうかは、本人が決める」
「……宮坂さん」
「はい」
三年前の同じ日。兄貴が荷を庄司さんへ渡し、下へ戻った日。この人物も予定より遅れ、四分違いで関へ帰っている。
――兄貴は、この人を迎えに行ったんじゃないか。
考えがつながりかけた。本間が動けなくなった。それを知った兄貴が荷を託し、下へ戻った。そうなら、帰還が遅れた理由になる。
「沢渡さん」
宮坂さんの声が、思考を止めた。
「今、記録で分かるのは、本間さんの帰還が遅れたことと、お兄さんの時刻に近いことまでです」
俺は紙へ目を戻した。
「一緒に下りたとは、書かれていません」
「……そうですね」
近い時刻に戻った二人。それだけだ。山中では一度も会っていない可能性もある。今朝の確認でも、条件を混ぜるなと言われたばかりだった。俺は息を吐いた。
「先走りました」
「関係を考えること自体は自然です。ただ、確かめるまでは分けておきましょう」
職員へ礼を言い、記録を返す。本間直哉。名前は分かった。
だが、その名前の向こうに、どんな人間がいるのかは知らない。
管理事務所を出ると、空気には昼の熱が混じっていた。出羽の山並みが、青く重なっている。三年前のあの日、兄貴が使った数時間。そのどこかに、本間直哉という人がいたのか。まだ何も証明されていない。
それでも、次に確かめるものはできた。
俺は伝票をポケットへ戻し、午後の仕事へ向かった。




