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第55話 下へ戻った

 番屋の裏手に、湿った風が吹き抜けた。庄司修一の口から落ちた「ある」という二音が、耳に残っていた。三年前のあの日、兄貴から直接荷を受け取り、その背中を見送った人間が目の前にいる。


「庄司さん、あの日兄貴は――」


 一歩踏み出しかけた俺を、庄司さんが片手で制した。


「ここはまだ山の中だ」


 低い声だった。


「荷は届けたが、手形(てがた)を返すまでは終わりじゃねえ。続きを聞きたけりゃ、下りてからだ」


 それ以上は言わず、番屋の表へ歩いていった。俺は問いを飲み込んだ。署名を確かめるだけのつもりが、もう次の質問へ手を伸ばしていた。


 俺は荷のところへ戻った。壊れたケースは、麓で破損状況を確認してもらうため持ち帰る。蓋を仮留めし、背負子(しょいこ)へ括り直した。午後、俺たちは番屋を出発した。


 作業員は荷を持たず、隊列の中央に入る。庄司さんが先頭で歩調を作り、俺と宮坂(みやさか)さんもそれに続いた。雨上がりの下りは、登り以上に靴の置き所へ気を使った。


 黒土は滑り、石の角も濡れている。荷が軽くなったからといって、足を速めていい場所ではない。一段下りるたびに、右肩の奥が重く張った。さっき人を引き戻した時の負荷だ。


「沢渡(さわたり)さん、肩は」


 後ろから宮坂(みやさか)さんが尋ねた。


「下りで少し響きます」


「上体が左へ傾いていますよ」


 言われて気づいた。右肩をかばい、無意識に左へ寄っていた。俺は足を止めた。宮坂(みやさか)さんに見てもらいながらベルトを調整し、身体を起こす。


「これで歩いてみます」


「無理なら、もう一度荷を分けましょう」


「はい」


 カゲが道の端で止まり、こちらを振り返っていた。慎重に足を運ぶ。傾斜が緩んだところで、もう一度肩を確かめた。張りはあるが、強くなってはいない。俺たちは歩調を崩さず、そのまま関(せき)まで下りた。帰着は午後三時を過ぎていた。


 窓口で紙の手形(てがた)を返し、台帳との照合を受ける。丈(たけ)は二四〇〇のままだった。続いて、管理事務所で資材の破損報告を行った。ケースを台へ置き、山中で起きたことを書く。人を引き戻したこと。荷を受け取れるか確かめず、手を離したこと。


 後ろの歩荷(ぼっか)が支えようとして、ケースが岩へ落ちたこと。


「大きな事故にならなかったのは幸いだった。報告はこれで預かる」


 控えを受け取り、外へ出る。作業小屋の軒下に、庄司さんがいた。濡れたタオルで首を拭き、木のベンチへ腰を下ろしている。近づくと、顎で空いた場所を示された。


「手形(てがた)は返したな」


「はい。破損報告も済ませました」


「なら座れ」


 俺は背負子(しょいこ)を下ろし、斜め向かいの丸太椅子へ座った。宮坂(みやさか)さんも会釈して隣へ腰を下ろす。胸のポケットから伝票の写しを出し、木箱の上へ広げた。


「続きを聞かせてください」


 庄司さんは茶を一口飲み、署名を見た。


「三年前の八月か。妙な受け渡しだったから、覚えてる」


 紙コップを膝へ置く。


「あの日、俺は別の維持点へ荷を上げる途中だった。二合目の平場の手前で、上から来た峻(しゅん)に会った。八時半を回った頃だ」


「上から?」


 俺は身を乗り出した。


「兄貴は、番屋へ登っていたはずです」


「そうだな。だが、会った時には、荷を背負ったまま下を向いて歩いてた」


 荷を担いだまま、引き返していた。それは、伝票からは分からなかったことだ。


「声を掛けてきたのは、峻(しゅん)の方だ。『この荷を引き継いでもらえないか』ってな」


「兄貴自身が」


「ああ。動けなくなったようには見えなかった。足取りもしっかりしてた。ただ、戻らなきゃいけないと言った」


「理由は聞きましたか」


「聞いた。身体を壊したのか、ともな」


 庄司さんは首を振った。


「違うとだけ言った。何があったのかまでは話さなかった」


「それで、引き受けたんですか」


「仕事の荷を途中で人へ渡す男じゃなかったからな。よほどのことだろうとは思った。それに、俺の方には引き受ける余裕があった。回る順番を組み替えれば届けられた」


 伝票へ指を伸ばす。


「荷については、ちゃんと話した。届け先、受取人、中身。必要なことを一つずつ確認した。ここに引き渡しを書いたのも峻(しゅん)だ」


「その場で?」


「ああ。俺が荷を受け取って、縛り直したのを見届けてから、署名を求めてきた」


 荷の引き継ぎには、抜けがなかったらしい。ただ、なぜ自分が戻るのかは説明していない。


「引き継ぎが終わったあと、俺は気をつけて行けと言った。あいつは礼を言って、下へ歩き出した」


「下へ」


「上じゃない。来た道を、関(せき)のある方へ戻っていった」


 その言葉が、頭の中へ沈んだ。記録を見た時は、身軽になって別の道へ、さらに上へ入った可能性も考えた。


 だが、庄司さんが見送った背中は下へ向かっていた。


 俺は伝票の帰着印を指した。


「なら、これが分からないんです。八時半に二合目なら、空身で下りて九時過ぎには関(せき)にいる。帰着は十七時五十分です」


「そうなんだよな」


 庄司さんも数字を見る。


「俺は今日これを見るまで、あいつが何時に出たか知らなかった。昼前には関(せき)へ戻ってるもんだと思ってた」


「途中で、誰かと会うような話は」


「知らん」


「誰かを迎えに行くとか、そういうことも」


「名前は一つも出なかった。俺に分かるのは、荷を渡して下へ向かったところまでだ」


 言い方は冷たくなかった。知らないことまで埋めるつもりはない、というだけだった。


「普通に関(せき)へ下りるだけなら、大した時間はかからねえ。だが、あいつがそのあと、どこで何をしたかは見てない」


 九時過ぎから、十七時五十分まで。空白は、半日近くあった。


 俺は伝票を見つめた。下へ戻った。その先で、時間を使った。何をしていたのか。


 庄司さんは茶を飲み切り、立ち上がった。


「話せるのはこれだけだ。沢渡(さわたり)、今日はもう肩を休めろよ」


「ありがとうございます」


 頭を下げると、庄司さんは片手を上げ、道具箱を持って宿舎の方へ去っていった。軒下に静けさが戻る。杉林を揺らす風が、冷たい空気を運んできた。俺は木箱の上の伝票から目を離せなかった。兄貴は、自分の意思で荷を渡した。


 そして、下へ戻った。帰着は夕方。確かめられた事実は増えた。だが、空白が埋まったわけではない。誰かを助けに戻ったのか。何かの作業で足止めされたのか。考えは浮かぶ。どれも、確かめたことではなかった。


「沢渡(さわたり)さん」


 宮坂(みやさか)さんが呼んだ。


「いま分かったのは、お兄さんが荷を引き継いで下へ向かったことまでです」


「はい」


 俺は息を吸い、固くなっていた肩の力を抜いた。


「まず、下の記録から確かめたいです。その日に何か遅れや、現場の変更がなかったか」


「帰還した時の記録ですね」


 視線が、関(せき)の詰め所へ向いた。あそこを通って手形(てがた)を受け取り、戻って返す。兄貴だけではない。同じ日に山へ入った人間が、何人もいる。


「兄貴と同じ頃に戻った人がいれば、何か知ってるかもしれない」


「可能性はあります。ただ、他の方の記録をどこまで見せてもらえるかは、確認が必要です」


「明日、窓口で聞いてみます」


「ええ。事情を説明して、照会できる範囲を教えてもらいましょう」


 俺は伝票を折り、ポケットへ戻した。立ち上がると、肩の張りが今日の仕事を思い出させた。兄貴は、荷を渡して下へ戻った。その背中を見送った人間の声を、ようやく聞けた。


 だが、まだ関(せき)へは帰っていない。


 記録の中の兄貴は、二合目から夕方の帰着印までのどこかにいる。俺は傾き始めた出羽の空を見上げ、宿へ向かって歩き出した。


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