第54話 預けたもの
山麓の集積所には、朝の湿った土と古い木材の匂いが立ち込めていた。作業小屋の庇の下に、本日の便で運ぶ資材が並んでいる。
裏出羽の低所に点在する維持設備。山内無線の中継機や観測盤の点検に使う交換部品、予備の蓄電池、防水処理された配線材の束だ。
俺と宮坂さんは、割り当てられた荷を伝票と照合していた。入山の手続きは、その前に済ませてある。昨日の牽引のあとで感じた違いは、その時に窓口へ一言だけ届けておいた。確かめるのは日を改めて、職員の立ち会いのもとでだ。
俺の背負子に載るのは、保護ケースに収められた通信用の予備基板と端子類、それに補修具。以前の通常歩荷に比べれば、重量は抑えてある。
それでも、角張ったケースは固定の仕方を間違えると扱いにくい。重さだけでは決まらない。
「沢渡さん、下段、まだ締められます」
「はい」
宮坂さんに指摘され、俺は縄の端を引き、結び目を固めた。
「手慣れてるな」
横から低い声が飛んできた。振り返ると、土間にがっしりした男が立っていた。四十代の半ばほど。日に焼けた肌と、深く刻まれた皺。山着の袖をまくり、太いシュリンゲを手元でまとめている。
「あんたが沢渡か。高尾から来たと聞いてる」
「沢渡迅です。こちらは宮坂さんです」
「宮坂鈴です。お世話になります」
「庄司だ。庄司修一」
胸の奥が、わずかに跳ねた。三年前、兄貴から五十五キロの荷を引き継いだ相手。伝票の署名だった名前が、目の前の人間になった。訊きたいことはあった。
あの日、何を聞いて荷を受け取ったのか。荷を渡したあと、兄貴はどこへ向かったのか。
だが、今は便の準備中だ。
俺は息を吸い、問いを喉の奥へ戻した。
庄司さんは俺の苗字を聞いた時、わずかに眉を動かしたように見えた。だが、それ以上は何も言わず、荷締めを指の背で弾いた。
「音は悪くない。だが、その角は木に引っ掛ける。もう少し内側へ寄せろ」
「分かりました」
新参者を値踏みするようでも、怪我人を扱うようでもない。目の前の荷と、それを締めた手元だけを見ている。俺は縄を解き、ケースを少し寄せて締め直した。
「今日の便は六人だ。番屋までの道は長くねえが、昨夜の雨で石が滑る。無理に飛ばすなよ」
庄司さんは蓄電池の入った木箱を背負い、腰帯を締めた。羽黒側の関を抜けると、雨を吸った土が靴底へまとわりついた。石段には薄い泥の膜が張っている。
先頭は庄司さん。その後ろに保守作業員が二人、俺、地元の歩荷、最後に宮坂さんという順だった。カゲは俺の斜め後ろ、道の端を歩いている。背中のケースを揺らさないよう、俺は歩幅と呼吸を一定に保った。
前を行く庄司さんの歩き方は静かだった。重い荷を担いでいるのに、石を叩く音がほとんどしない。濡れた苔を避け、靴を置けるところを一つずつ拾っている。威勢のいいことは言わない。
それでも、荷をどう山へ運ぶか、その積み重ねは背中に出ていた。
一合目を過ぎ、尾根を巻く道へ差し掛かった時だった。山側は土手。谷側は急な斜面が杉林へ落ちている。俺の少し前を歩いていた作業員が、濡れた根に右足を取られた。
「わっ……!」
上体が斜め後ろへ傾いた。踏み止まろうとした左足まで、泥を被った石の上で滑る。背中にはケーブルの束がある。その重さに引かれ、身体が谷側へ流れ始めた。
「宮坂さん、前!」
俺は背負子の肩紐を外し、荷を下ろしながら後ろへ声を投げた。
「これ頼みます!」
返事を待てなかった。男の襟を左手で掴み、右腕を脇へ差し入れる。人間と荷の重さが、一気にのしかかった。
「ぐっ……!」
腰を落とす。靴を山側の土へ押し込む。新しい靴の縁が、泥の下の硬い土を捉えた。足場が止まっても、二人分の重さを一人で引き戻せるわけではない。それでも男の背中が谷へ引かれる。《不動》の三句も《手力》の二句も、頭から唱えている間に男は荷ごと持っていかれる。息は、襟を掴んだ腕に全部回っていた。
「宮坂さん、固定!」
背後で硬い音が鳴った。宮坂さんの《鎖》が、山側の太い木の根元へ掛かる。彼女が横から俺の腰の安全帯を取り、鎖を張った。俺の身体が山側へ引かれ、足が踏み直せた。
「合わせます!」
「はい!」
二人で男を路面へ戻した。ケーブルが地面を叩き、鈍い音を立てる。男は荒い息を吐きながら、自分の足首へ手を伸ばした。
「痛むのは足ですか」
「はい……さっき、捻って」
「そのままで。確認します」
宮坂さんが膝をついた。俺は男の荷を外し、道の山側へ寄せた。谷へ落ちることだけは防げた。そこでようやく息を吐いた時、少し後ろから硬い破壊音が響いた。振り返る。俺の背負子が、路肩へ斜めに引っかかっていた。
保護ケースの角が岩へぶつかり、蓋が歪んでいる。外れた留め具の隙間から緩衝材が出て、その先に基板の端が覗いていた。
後ろの歩荷が青い顔をしている。
「すみません。掴もうとしたんですけど、足元が……」
「いや」
俺は言葉を止めた。頼みますとは言った。
だが、相手が受け取ったとは聞いていない。
荷を見たか、手が空いていたか、足を置ける状態だったか。それを確かめる前に、俺は手を離していた。男は自分の荷を背負ったまま、俺の背負子まで支えようとした。その途中で足を滑らせ、ケースを岩へ落としたのだ。
「怪我人は」
庄司さんが列の前から戻ってきた。自分の背負子は山側へ下ろしてある。まず作業員の顔と足を見て、宮坂さんへ視線を向けた。
「足首を痛めています。少し休んでから、動けるか確認します」
「分かった。荷は持たせねえ」
次に、後ろの歩荷へ顔を向ける。
「お前は」
「俺は、大丈夫です」
「足元を確かめろ。荷は俺が見る」
庄司さんはケースの前に膝をつき、泥を払った。蓋を開き、中を見て顔を上げる。
「基板が割れてる。端子も折れた。こいつは使えねえな」
怒鳴り声ではなかった。壊れたものを、壊れたと言っているだけだ。俺はその前へ進み出た。
「すみません。俺の荷です。あの人を引こうとして、手を離しました」
「見りゃ分かる」
庄司さんはケースを背負子へ戻した。
「人を取った判断は間違っちゃいねえ。そこを責めるつもりはない」
俺は黙って聞いた。
「だが、お前はその荷を、誰に渡した」
「後ろの人に……」
「渡せたのか」
喉が詰まった。庄司さんが、さっき荷を受けようとした歩荷へ目を向ける。
「あの瞬間、手放すしかなかったなら手放せ。人を助けるのを遅らせろとは言ってねえ。だが、『頼む』と言っただけで、相手が引き受けたつもりになるな」
俺はケースを見た。
「受けられねえ場所にいる人間に、落ちる荷を追わせるな。もう一人落ちたら、どうする」
何も言えなかった。
「荷は他人へ渡せる。だが、預かった責任まで渡したつもりになるな」
庄司さんは立ち上がった。
「こいつは自分が受け損ねたと思って謝ってる。だが、お前は返事を聞いてねえんだろ」
「……はい」
「なら、そこはお前が説明しろ。人を助けたことと、荷をどう手放したかは、分けて話せ」
俺は後ろの歩荷へ向き直った。
「すみません。受け取れるか確かめずに、俺が離しました。あなたのせいじゃありません」
男は少し困った顔で、俺とケースを見比べた。
「いや、俺も焦って……」
「俺が急に渡そうとしたんです。報告も、その通りにします」
庄司さんは、もうこちらを見ていなかった。負傷した作業員の荷を分け、帰りの運び方を宮坂さんと相談している。説教を終えるために話したのではない。次に動くために、誰が何を引き受けたかを揃えたのだ。
俺は壊れたケースを括り直した。岩に挟まれた留め紐の一本が毛羽立っている。予備の紐を通し、荷重を移してから、古い方へ山刀を当てた。硬く締まった繊維が一度で切れる。新しい結び目を引き、ケースが動かないところまで確かめて刃を収めた。
小刀でも時間を掛ければ切れただろう。だが、傷んだ紐を外すあいだ、荷を無理な姿勢で抱え続けずに済んだ。荷を渡すことと、荷から手を離すこと。同じだと思っていたわけではない。
だが、あの一瞬の俺は、同じように扱った。
作業員は休んだあと、荷を持たなければ歩ける状態だった。宮坂さんが歩調を見ながら付き、便は速度を落として進んだ。俺の右肩には張りが残った。
それを伝えると、宮坂さんは荷をいったん下ろさせ、動きと痛む場所を確認した。荷の一部を分け、歩幅を縮めて再開する。
黙って耐えれば済む話ではなかった。正午過ぎ、尾根の窪地に番屋が見えた。荷を下ろし、受け入れの責任者へ、作業員の負傷と資材破損を順に報告する。俺は歪んだケースを差し出した。
「転落しかけた人を引き戻す時に、受け取れるか確認せず荷を離しました。後ろの人が支えようとしてくれましたが、落として内部を破損させています」
誰かに押し付けられたとも、後ろの歩荷が失敗したとも言わなかった。責任者は中を見て、苦い顔をした。
「予備は麓から上げ直す。破損の経緯は、今話した通りに書いてくれ」
「はい」
「人が谷へ落ちなかったのはよかった。足の方も、帰りは無理をさせるなよ」
俺は頷いた。手続きを終え、外のベンチへ座る。宮坂さんが茶の入った水筒を差し出した。
「肩はどうですか」
「張りは残ってます。さっきより強くはなってません」
「下りでも変わったら言ってください」
「はい」
温かい茶を飲んだ。ふと、三年前の伝票が浮かんだ。兄貴は庄司さんへ荷を渡した。
その時、どうやって引き継いだのか。
俺のように声だけを投げて去ったのか。それとも、必要なことを全部渡していたのか。気になった。
だが、まずは今日の仕事を終えなければならない。
午後、下山の準備が整った。番屋の裏手に、庄司さんが一人で立っていた。俺は胸のポケットの紙を押さえた。話を聞くのは、関の外へ下りてから。そう決めていたはずだった。
それでも、目の前にいる男と、紙の署名が同じなのかだけは、確かめたくなった。
「庄司さん」
「なんだ。報告は済んだか」
「はい。個人的なことで、一つだけ」
庄司さんがこちらを見た。俺は三年前の伝票の写しを広げた。
「この署名、庄司さんのものですか」
紙へ落ちた視線が止まった。角ばった兄貴の文字と、その下の『庄司』。俺は喉を湿らせるように息を吸った。
「三年前、沢渡峻から荷を受け取ったことがありますか」
風が梢を揺らした。庄司さんは紙から顔を上げ、俺を見た。数秒の間。それから、短く答えた。
「……ある」
その一言を残し、庄司さんは背を向けた。




