第53話 引かれる側
みさか屋の土間に、出羽遠征へ持ち出す装備が並べられていた。
作業台から叩きにかけて、二つの背負子を中心に、防水袋へ小分けにした荷を置いてある。雨具、防寒着、ツエルト、救急箱、携行用のコンロと燃料、それに行動食。どれも削るわけにはいかないものだ。
俺は背負子の脇に膝を突き、荷締めを確かめながら右肩をゆっくりと引いてみた。肩甲骨にかけて筋肉の張りはある。だが、嫌な痛みは走らない。上体を左右へ回しても、腰の奥に鋭い感触はなかった。
裏高尾での軽い荷運びを終えて数日。下山直後に残った疲れも抜けていた。だからといって、以前と同じように六十キロの荷を組めるわけではない。
「沢渡さん、そちらの燃料の予備、私の背負子へ回しますよ」
上がり框で登山靴を手入れしていた宮坂さんが、手を止めた。
「これは俺の枠で持てます」
「移動も含めた遠征です。初日から肩を詰まらせることはありません」
「意地じゃありません。全部載せて、もう一度量ります」
俺は背負子を台秤に載せ、指針が落ち着くのを待った。
二十二キロ。裏高尾の初荷より四キロ増えたが、かつての通常歩荷よりはずっと控えめな重さだった。だが、軽ければ何でもいいわけではない。荷が外へ張り出していないか、重心が偏っていないか。背負う前に、そちらも確かめる。
以前なら、この軽さに物足りなさを覚えていたかもしれない。今は、無理なく運べる範囲を一度ずつ広げていく方が大事だった。
数日前、宮坂さんと山道具店へ行った。古い靴の裏を店員に見せると、外側から減った溝を指でなぞられた。候補の二足を履き、店内の傾いた試着台を上り下りする。一足目は下りで爪先が当たった。二足目は踵が浮かず、腰を落としても足先に余裕がある。背負子を持ち込んでもう一度歩き、そちらを選んだ。買ってからも平地と裏高尾の低所で歩き、擦れるところがないのを確かめてある。
刃物の棚では、俺の中古小刀と、低山の通常素材を刃に使った山刀を二本並べてもらった。長い方を手に取ると、宮坂さんが持ち込んだ背負子を顎で示した。
「それを担いで、腰を落としてみてください」
言われた通りにすると、長い方の鞘尻が腰帯にごつりと当たった。
「前へは届きますけど、荷の方が邪魔をしますね」
「下りでそこに当たったら、そのたびに足が止まりますよ」
短い方に替えて、同じように腰を落とす。鞘は腰帯の下へ収まった。握って刃先を向けると、小刀より重く、手首だけが先へ出ない。片桐班の短槍ほどの間合いはない。それでも、小刀を握って腕ごと敵へ近づくよりは距離を取れる。
「主を相手にする道具だと思わないでくださいね」と宮坂さんが言った。
「分かっています。今の俺が持って歩ける一本です」
前腕には、低山の通常素材の薄板を革に縫い込んだ当てを選んだ。擦れと欠けた石には備えられるが、重い一撃の力まで消せはしない。靴と刃と前腕当てで、今回の買い足しは終わりにした。札、雨具、予備食に取ってある分には手をつけていない。
登録の控えを書く段になって、店員が山素材の出所を示しながら念を押した。
「関の外では、普通の刃物と同じ扱いです。抜く場所と理由は、買った方の責任になりますから」
「街では袋から出しません」
腰にはその山刀を差してある。背負子の腰帯に鞘が当たらない位置を探し、一度だけ抜き差しして確かめた。
宮坂さんが上がり框で錫杖を持ち上げた。買い物の折、店の奥の道具師に石鎚で鉤を受けた頭金具を見せていた。道具師は輪を鳴らして留めの遊びを確かめ、「柄はこのまま使えます。金具の方を直しましょう」と引き受けた。戻ってきた錫杖の輪は、いつもの澄んだ音を返す。宮坂さんは金具を揺すり、遊びがないことを自分の手で確かめてから、石突きで土間を一度だけ突いた。しゃらん、と輪が鳴る。
宮坂さんは秤と荷姿を見て頷いた。
「分かりました。道中で違和感が出たら、すぐに再配分しましょう」
「はい」
そこへ、奥の茶の間から遼が箱を抱えて下りてきた。
「沢渡さん、撮影機材、まとまりました」
作業台に置かれたのは、小型のアクションカメラと胸部用の固定具。予備バッテリーと記録媒体。その隣には、折り畳んだ撮影ドローンのケースもあった。
「両方とも時計を合わせてあります。ドローンの方は発信器も確認済みです」
「予備は?」
「必要な分だけ。重さの配分は、そっちで決めてください」
「分かってる」
俺はケースの持ち手を掴んだ。胸のカメラと、少し離れて俺たちを追うドローン。撮れるものは違うが、どちらも荷であることに変わりはない。機材と電池を加えた重さを、二人で確認する。
「今回は撮影係としては同行しませんから、現場で撮るかどうかは二人に任せます」
遼はバッテリーの端子カバーを確かめながら言った。
「撮れたら撮る。余裕がなければ電源も入れない。それでいいです」
「帰ってからは頼むぞ」
「元データの複製と時刻合わせは僕がやります。前回の反省もあるんで、テロップはもう少し見やすくします」
遼の手元から、二組の記録媒体が袋へ収まった。
翌朝、夜明け前にみさか屋を出発した。
山刀は鞘ごと布袋へ入れ、背負子の内側へ収めた。山へ入るまで、街中で抜き差しする必要はない。遠征用の装備を詰めた背負子は、日帰りの荷とは違う厚みを背中へ伝えてくる。列車を乗り継ぎ、北へ向かった。
窓の外が、関東の街並みから緑の濃い山林や田園へ移っていく。長い移動で身体を固めないよう、俺は座席で時折腰を浮かせ、肩を動かした。
胸の奥には、兄貴の伝票があった。三年前の八月。
羽黒側二合目で、庄司修一へ五十五キロの荷を丸ごと渡した兄貴。身軽になったはずなのに、上まで往復するより遅く帰ってきた、その空白。
――焦るな。
窓ガラスに映る自分の顔を見ながら、言い聞かせる。まずは仕事だ。新しい山域で、今の身体がどこまで動くかを確かめる。
山麓の町からバスに乗り、杉木立の切れ目に出羽の関が見えてきた。
落ち着いた木造の建物は、古い宿場を思わせる。だが、窓口に立つ職員の目は、高尾で見るものと変わらなかった。俺たちは予定している行程と目的を伝え、手続きを済ませた。窓口から、山行用の紙の手形が渡される。
自分のものを確かめ、胸のポケットへ納めた。荷の内側から山刀を出し、鞘ごと腰へ固定する。歩いても腰帯とぶつからない位置を、もう一度確かめた。木戸をくぐる。湿った冷気が鼻を抜けた。
頭上には見上げるような巨木の梢。足元には、古い石段と黒い腐葉土の混じる道が、緑の奥へ続いていた。
「ここからですね」
宮坂さんが振り返る。
「足場を見ながら行きましょう」
カゲが俺の左脇をすり抜け、道の端へ進み出た。登りが始まった。
歩幅を狭く保ち、肩へ掛かるベルトの圧力を確かめながら石段を上がる。段差は不揃いで、一段ごとに靴の置き方が変わる。
荷を抑えている分、重心を動かしやすかった。宮坂さんと間隔を保ち、息を乱さず登っていく。一合目を越え、尾根の脇を巻いた先に、道から少し外れた平場があった。
砂利と土が混じり、周囲には太い木と苔むした岩がある。崖へつながる斜面は遠く、見通しも利いていた。宮坂さんが荷を下ろす。
「ここで休憩を兼ねて、予定していた確認をしましょう。長引かせないように」
「はい」
俺も平らな場所へ背負子を下ろした。肩から荷が抜けると、ひんやりした風が背中へ入ってきた。水を飲み、周囲を見回す。
裏石鎚で、俺と宮坂さんは《鎖》を継いだ。だが、療養や手続きを挟み、その後も身体を慣らす行程が続いていた。実戦で当てにする前に、一度きちんと感触を見ておきたかった。
「まずは小さく使います」
宮坂さんが手袋を締め直した。
「掛ける、引く、止める。順番に確かめましょう」
俺たちは荷から離れ、平場の中央へ移った。最初の対象は、根から外れて転がっている短い木だった。表面を確かめると、鉤を掛けられそうな硬い部分が残っている。俺は息を整え、喉へ意識を向けた。声を出す。
鉤付きの《鎖》が走り、木へ掛かった。硬い音が短く響く。
「掛かりました」
「引けそうですか」
「やってみます」
少しずつ巻き取る。鎖が張り、木が砂利を擦って動いた。俺の足元へ、ゆっくり近づいてくる。手の届くところで巻き取りを止め、験を解いた。喉に、声を張ったあとのような渇きが残る。
「対象の方が来ましたね」
宮坂さんが木と地面の跡を見た。
「次は、動かないものへ掛けてみましょう」
広場の端に、地中へ大きく埋まった岩があった。俺はその角へ狙いを定め、もう一度声を出した。鉤が窪みへ掛かる。軽く張って、手応えを確かめる。
「巻きます」
岩は動かなかった。代わりに、俺の上体が前へ引かれた。
「おっと」
靴が砂利を擦る。出力を抑えていても、身構え方が悪いと身体が先へ出る。俺はすぐに鎖を解き、足を踏み出して姿勢を戻した。
「こっちから掛けても、やっぱりこうなるか」
地面に残った靴跡を見る。石鎚では、張られた鎖に引かれる側だった。自分から固定点へ掛けて巻き、自分の身体を運ぶのは、これが初めてになる。
「石鎚の時と、引く向きが逆ですね」
宮坂さんが続いて試した。最初から動くつもりで、膝を柔らかく曲げる。鎖が張ると、身体が前へ進んだ。岩へ近づきすぎる前に巻き取りをやめ、足を使って止まる。
「……止まるところまで、先に決めておかないといけませんね」
宮坂さんは息を吐いた。
「解除すれば引く力は消えます。でも、動いていた身体まで止まるわけではありません」
「固定点へ突っ込んでからじゃ遅いですからね」
俺は自分の足元と岩を見比べた。足裏の摩擦は抵抗になる。それを減らせば、同じ牽引でも動きは変わるはずだ。視線を落とすと、カゲが影の端からこちらを見上げていた。
「宮坂さん。もう一つ、組み合わせを試したいんです」
「第三ですか」
「はい。足裏の摩擦を下げて引かれたら、少ない力で動けるはずです」
宮坂さんは平場の広さを確かめた。
「止まり方は?」
「巻き取りを先にやめて、それから摩擦を戻します」
「まずは、ごく短く。固定点に近づく前に終えてください」
俺は頷いた。岩までの間に余裕を残し、足元の大きな石を避ける。宮坂さんは進路から外れ、こちらの足を見ていた。第三の《関節石》をまとった。
両足の裏に作用を絞ると、地面へ張り付いていた感触が薄れる。わずかに腰を動かしただけでも、足が滑りかけた。俺は岩へ《鎖》を掛け、弱く巻き取った。速い。先ほどよりずっと少ない抵抗で、身体が前へ流れる。慌てず鎖を解く。
ここまではよかった。次に摩擦を戻した瞬間、靴底だけが先に止まりかけた。
「っ」
上体が前へ出る。足を継ごうとしたが間に合わず、俺は膝を折って横へ転がった。砂利が袖を擦り、手袋の中へ細かな土が入る。固定点まではまだ距離があった。
だが、立ったまま止まることはできなかった。
「沢渡さん、動かないで」
宮坂さんが近づいてくる。俺は肩と腰を確かめてから、ゆっくり上体を起こした。
「肩と腰には入ってません。肘を少し擦りました」
「立つ前に、もう一度確認してください」
言われた通りに腕を動かす。先ほどまでと違う痛みはない。立ち上がり、靴が止まった跡と、その先の擦れ跡を見比べた。
「摩擦を戻せば止まると思ってました」
「足だけ急に止めれば、上は前へ行きます」
「そうですね。身をもって分かりました」
宮坂さんは、俺の袖についた砂を見た。
「加速より先に、減速の仕方を作りましょう」
「はい。今のまま山道でやるものじゃないです」
摩擦を減らし、《鎖》で引く。動ける。思っていた以上に速く。
ただし、行き先へ着く前にどう減速するか。滑っている姿勢から、どう足で歩く姿勢へ戻すか。そこまでが一続きでなければ、移動にはならない。
俺は手袋を叩いて砂を落とした。少し休み、転んだ箇所に変化がないことを確かめたあと、もう一つだけ試した。今度は第三を使わない。
第四の《緊環石》へ換え、宮坂さんに短い牽引をかけてもらう。以前確かめた、受けた力を次の一動へ乗せる感触の確認だった。
足を地面につけたまま、身体がわずかに引かれる。鎖が外れる。すぐに一歩を踏む。その一歩に、押し出されるような力が乗った。
「前に試した時と同じです」
俺は元の位置へ戻った。もう一度。同じように短く引かれ、鎖が外れる。今度は、すぐには動かなかった。次の一歩へ力を寄せるつもりで姿勢を保つ。ほんの一呼吸。
――あれ。
身体の内側に残る張りが、先ほどとは少し違った。俺は踏み出す前に第四を解いた。感触が消える。
「どうしましたか」
宮坂さんが尋ねた。
「今、すぐ動いた時と違った気がします」
「強く引きましたか?」
「そうじゃなくて。待ってる間に、こっちから力を寄せられそうな……」
言いながら、自分の手を見る。受け取った分が残っていたのか。姿勢を保ったことで、何かが変わったのか。まだ分からない。
「今日は、ここまでにしましょう」
宮坂さんが時計を確認した。
「引かれる条件も混じっています。別の日に、身体だけで確かめた方がよさそうです」
「そうですね」
俺は頷いた。一度に答えを出そうとして、また足元を見失うのは御免だった。荷を背負い直す。腰帯を締めると、いつもの重さが戻ってきた。《鎖》の引く方向も、第三と組み合わせた時の滑りも、ようやく身体で分かった。
便利だからこそ、どこへ向けて使うかを間違えられない。俺たちは山道へ戻り、低所の届け先へ向かった。まずは今日の荷を運び、無事に下りる。その先に、庄司修一へ話を聞く機会がある。杉木立の間を、冷たい風が静かに抜けていった。
面白かったら、ページ下の☆から評価をいただけると励みになります。




