第52話 荷を渡したあと
ノートパソコンの液晶画面を指先で軽く叩きながら、浅井遼が座卓の向こうから身を乗り出してきた。
「沢渡さん、ちょっとここ見てもらえますか」
画面には、数日前に動画投稿サイトへ公開したばかりの映像が一時停止されていた。裏高尾の急斜面を登る途中で画面が切り替わり、隅に通過時刻のテロップが表示される場面だった。
「この時刻の文字、もう少し大きくして、縁取りを濃くした方がいいかもしれません。スマホの小さい画面だと、背景の岩肌とか木漏れ日に紛れて、一瞬見落としやすいみたいなんですよね」
俺は座布団の上であぐらをかいたまま、温くなった番茶の湯呑みを手に取った。
「文字が目立ちすぎると、足元の段差や路面が見えづらくならないか」
「そこは配置で調整します。あと、コメントで何人か言ってたんですけど、背負ってる荷の重さを知りたがってるやつが結構いて」
「重さは出さなくていい」
俺は湯呑みを卓へ戻した。
「計量してるところが見えれば十分だ。数字だけ拾って、それなら自分も運べると思われても困る。毎回同じ荷を背負ってるわけじゃないからな」
「まあ、そうなんですよね。足場も体調も違いますし」
遼は頷き、タッチパッドを指先でなぞってシークバーを先へ進めた。
「それと、もう一個。維持施設の前で荷を下ろしたあと、カゲが横切るところ。あそこ、何回も見直したってコメントがあるんですよ。もっと全体を映してほしいとか、名前は何ていうんだとか」
「放っておけ」
俺は土間の方へ視線を投げた。
上がり框のすぐ下、冷たい叩きの上に、カゲが身体を丸めて伏せていた。白い日本狼に似た四肢を折り畳み、静かに寝息を立てている。動画が何回再生されようが、外の人間が何を言おうが、こいつには何の関係もない。
「俺たちは動画を撮るために山へ入るわけじゃない。仕事の記録のついでに回してるだけだ。機材の分だけ必要な装備や食料を削らない。撮影のために立ち止まったり、歩く速さを変えたりしない。そこは変えないぞ」
「了解です。映し方に合わせて歩いてもらうつもりはないんで。ただ、時刻のフォントと配置は次の動画で直させてください」
「ああ。見やすくなるなら、そのへんは任せる」
「はい。じゃあ、データ整理の続きやってきます」
遼はノートパソコンを小脇に抱え、茶の間を出て奥の部屋へ戻っていった。引き戸の閉まる乾いた音が響く。
動画を一本外へ出したからといって、みさか屋の空気が変わるわけではなかった。再生回数がどう動こうと、コメント欄にどんな言葉が並ぼうと、手元には裏高尾で受け取ってきた伝票の控えがあり、身体には山を歩いた疲れが残っている。
座布団から立ち上がり、土間へ下りた。
作業台の前で、ゆっくりと右腕を回してみる。肩甲骨の裏側に、わずかな強張りが残っていた。腰を軽く左右へ捻ると、背中の下の方が重く張る。
裏高尾で背負った荷は、かつて当たり前に担いでいた六十キロの通常歩荷に比べれば、明らかに軽いものだった。医師の診察を受け、平地を歩き、緩い斜面で少しずつ負荷を上げてきた。その段階を経て臨んだ山行だったが、下りた翌日には、やはり背中から腰にかけて鈍い重みが溜まっていた。
日常生活を送る分には、もう支障はない。右肩も上がるし、腰の鋭い痛みも消えている。
だが、重量物を背負子に括り付け、足場の悪い段差を何時間も登り続けるとなれば話は別だった。
回復はしている。それでも、以前と同じ重さを同じように運べるところまでは戻っていない。俺は作業台の脇に積まれた木箱へ目をやり、その中から裏山の仕事記録を綴じた厚いバインダーを引っ張り出した。兄貴の残した控えも、三年前に遺品の箱から移して、ここへ綴じ込んだきりになっている。手記は冬の間に何度も読んだが、伝票の控えは仕事の紙だと思って、日付順に並べたきり開かなかった。
表紙をめくると、山行記録の紙片が年代順に並んでいる。
宮坂さんから、次の仕事の候補として出羽三山周辺の案件をいくつか打診されていた。山麓の関から低所の中継拠点へ資材を運ぶ仕事で、傾斜も比較的緩やかだという。今の身体を慣らしていくには、手頃な条件だった。
だが、俺自身はこれまで出羽三山の裏山へ入ったことがない。荷場の位置関係も、道中の足場も、頭に入っている情報が少なすぎた。
下調べの足掛かりにするため、俺は過去の伝票や記録の中から「出羽」の文字を探した。紙の擦れる乾いた音だけが土間に響く。数枚の報告書をやり過ごしたところで、見覚えのある筆跡が目に飛び込んできた。指先が止まった。
三年前の八月中旬。裏剱岳へ向かう前の夏に、兄貴――沢渡峻が残した出羽三山での歩荷伝票の控えだった。用紙の角は擦れ、わずかに黄ばんでいる。だが、並ぶ文字は兄貴独特の几帳面な、角ばった筆跡のままだった。
品目欄には、発電機用の燃料と、補修用のボルトや金具類。総重量は五十五キロ。当時の兄貴にとっては、無理のない単独歩荷の重さだった。
計画の欄には、羽黒側の関から入山し、中腹の維持拠点へ荷を届け、その日のうちに下山すると記されている。行程にも荷の配分にも、兄貴らしい無駄のない手順が組まれていた。
だが、その記録の下段に、追記があった。
『羽黒側二合目付近にて、庄司修一へ全量引き渡し』
横の受領サイン欄には、太いペンで『庄司』とだけ署名されていた。俺は眉根を寄せた。庄司修一。
出羽で長く荷揚げを続けている歩荷だということは、人づてに聞いたことがある。名前を見かけた覚えもあった。三年前のこの日、兄貴から荷を引き継いだのは、その男だったらしい。
歩荷が山道で他人に荷を預けること自体は、あり得ない話ではない。
登りの途中で体調を崩すこともあれば、足を痛めて運搬が難しくなることもある。現場の都合で届け先や便を組み替えることだってある。
それでも、兄貴が荷を丸ごと手放したという事実には引っかかった。
兄貴は、請け負った荷の扱いにはうるさい男だった。よほどの理由がなければ、途中で別の人間へ託すことはしない。何があったのか。俺は伝票のさらに下、関での手続きが記録された欄へ視線を走らせた。入山、五時四十分。
そして、手形を返納した際の帰着印。十七時五十分。二つの印を見比べ、予定の欄へ戻る。予定帰着は十三時だった。
「……なんだこれ」
帰着が遅かった。
五十五キロの荷を背負って番屋まで登り、荷を下ろして関へ戻る。その往復に見込んだ十三時よりも、実際の帰還は五時間近く遅い。
俺は伝票を指先でなぞり、頭の中で行程を組み立て直した。兄貴は二合目で荷を引き渡している。二合目から関までなら、空身の下りで四十分もかからない。上まで運び切るより早く戻っていていいはずだ。それが予定を過ぎ、さらに四時間以上がどこかに浮いている。
荷の重さから解放された人間が、なぜ、元の往復予定を過ぎるまで山の中にいた? 二合目で動けなくなるほどの怪我をしたのか。
伝票には事故の注記がない。だが、俺が見ているのは仕事の控えだ。関の記録を全部確かめたわけではない。この紙に書かれていない事情はいくらでもあり得る。
悪天候による停滞か。記録欄は「曇のち晴」だった。ただ、それも一日の概況にすぎない。途中の道で何が起きたかまでは分からない。では、休憩か。二合目で荷を渡したあと、何時間も腰を下ろしていたのだろうか。
俺の知る兄貴なら、用もなくそんな長居はしない。休むなら休む理由があり、足を止めるなら、その先へ進まない理由がある。
荷を手放したあと、兄貴は何をしていた?
――誰かを助けに戻ったんじゃないか。
ふと、そんな考えが浮かんだ。
誰かが動けなくなっていて、安全な場所まで付き添っていたのかもしれない。あるいは、何かを確かめるために、予定とは別の道へ入ったのかもしれない。
俺は首を振った。まだ何も分からない。手元の紙から分かるのは、二合目で庄司修一へ荷を渡したことと、帰着が予定より遅かったことだけだ。そこへ、知りたい答えを勝手に書き足すな。
「……何してたんだ、兄貴」
乾いた紙の余白を見つめたまま、俺は低く呟いた。荷を渡したあと、どこへ行き、何をして、なぜそれほど時間をかけて関へ戻ったのか。黄ばんだ伝票には、そこだけが書かれていなかった。
土間の引き戸が音を立てて開いた。
外の風と一緒に、宮坂さんが入ってくる。小ぶりのザックを背負い、手には書類の入った封筒を持っていた。
「ただいま戻りました」
「お疲れさまです、宮坂さん」
宮坂さんはザックを下ろし、俺の顔を見た。
「どうかしましたか。難しい顔をして」
「ちょっと、これを見てほしいんです」
俺はバインダーを作業台に置き、兄貴の伝票を開いたまま指先で示した。宮坂さんが隣へ来て、用紙へ視線を落とす。
「これは……お兄さんの記録ですか」
「三年前の八月、裏剱へ行く前の伝票です。羽黒側から番屋へ、五十五キロの資材を上げる計画でした」
指先を追記のあたりへ滑らせた。
「途中の二合目で、庄司修一って歩荷に全量引き渡してる。理由は書いてありません。問題は、この下の帰着印です」
宮坂さんの瞳が、打刻された数字を追った。
先達として五年、何度も山行計画を立て、現場の実績と照らし合わせてきた人だ。その視線が、予定と帰着の欄を一度ずつ往復した。
「二合目で引き渡して、十七時五十分ですか」
「そうです。そのまま関へ下りたなら、上まで往復するより遅くなるとは考えにくい」
「途中で何かあったのでしょうね」
「この控えだけじゃ、それが分からないんです」
宮坂さんは伝票を見つめたまま、黙っていた。俺はバインダーから顔を上げた。
「次の仕事、出羽の案件を受けたいです」
宮坂さんは何も言わず、続きを待った。
「身体の慣らしとして、低所の荷揚げがちょうどいいのは本当です。でも、それだけじゃない。現地で、この庄司修一って人に会って話を聞きたい。あの日、荷を引き継いだ時に何があったのか」
私情を持ち込んでいる自覚はあった。
だからこそ、隠して仕事だけを理由にするわけにはいかなかった。宮坂さんと二人で行く以上、向こうも同じことを知っている必要がある。
宮坂さんは伝票から視線を外した。怒りも、呆れも、過度な同情もない。山の中で互いの足元を確認する時と同じ、落ち着いた眼差しだった。
「沢渡さん」
「はい」
「お兄さんの足跡を追いたい気持ちを、否定するつもりはありません。手掛かりがあるかもしれない場所で、話を聞きたいと思うのは自然なことです」
一度、言葉を切る。土間の奥で、カゲが身じろぎした。
「ただ、確認させてください。天候が崩れたり、道が通れなくなったり、肩や腰に異変が起きた時。お兄さんの情報を知りたいからといって、撤退の線を曲げないと約束できますか」
俺は宮坂さんを見た。
「どちらか一人が下りると決めたら、二人とも下りる。そこは、今回も同じです」
「約束します」
迷わず答えた。
「兄貴のことで、二人隊の撤退線を曲げるような真似はしません。庄司さんに話を聞くのも、仕事を終えて、関の外へ下りてからにします」
宮坂さんは数秒、俺の目を見つめた。それから、小さく頷いた。
「分かりました。その前提で、出羽の準備を進めましょう」
封筒を作業台に置き、中から荷揚げ案件の連絡票を取り出す。
「現地の受け入れ先と相談して、重量と行程を詰めます。今の沢渡さんが続けて歩ける範囲で組みましょう」
「ありがとうございます、宮坂さん」
「私たち二人隊の、次の仕事ですから」
宮坂さんが行程表と地図を広げ始めた。俺はもう一度、兄貴の伝票へ目を落とした。三年前の八月。兄貴は出羽三山の二合目で、五十五キロの荷を庄司修一へ引き渡した。
荷から解放されたはずの兄貴が、なぜ予定を過ぎても下りてこなかったのか。答えは、この紙にはない。
だが、荷を受け取った人間がいる。
俺は伝票を挟んだバインダーを閉じた。出羽へ行く。仕事をして、無事に山を下り、そのあとで聞く。荷を渡したあと、兄貴は何をしていたのか。




