第49話 三時の便
片桐征司が事務室へ戻ると、自分の椅子に鍋が載っていた。
両手で抱えるほどの大鍋だった。側面には煤がこびりつき、取っ手に巻かれた布は、煮汁を吸って使い古した雑巾の色になっている。
片桐は持っていた書類の角を揃え、椅子と鍋を見比べた。
「吉岡さん」
「すみません。床だと、誰か蹴りそうだったので」
隣の机から吉岡が顔を上げた。受話器を肩と耳の間に挟み、端末の画面と手元のメモを見比べている。
「私の椅子なら蹴られませんか」
「今のところは」
受話器の向こうから返事があったらしい。吉岡は片桐から目を離した。
「はい。蓋も一緒で。……そちらも来週ですか。分かりました、ありがとうございます」
受話器が戻され、乾いた音を立てた。
片桐は鍋を持ち上げ、窓際の空いた台へ移した。底の縁に細い裂け目があり、光へ向けると、ごくわずかに向こうが見えた。
「低所の番屋で使っている鍋です。修理はできるそうですが、今日には間に合わないと」
「代わりを探している?」
「三時に、関の外の集積所から便が出ます」
壁の時計は、一時を少し回っていた。
「明日は泊まりの点検が入るんです。炊事の人も、この便で戻るので」
「何人分ですか」
「いつもの人と合わせて二十人ほど」
「大きいですね」
「それを探しているんです」
吉岡はメモへ横線を引き、次の番号を指で追った。
事務室の奥では、別の電話が鳴っていた。窓口に来ていた道具屋の男が、伝票の角を揃えながら、応対する職員へ何かを説明している。足元には修繕から戻った背負子が二つ。新しい帯だけが、古い木の色から浮いていた。
その隣では、採取物の箱を足元に置いた男が、番号を呼ばれるのを待って膝を揺らしている。片桐は自分の椅子へ腰を下ろした。
沢渡迅へ渡した通知の控えを、机の右へ置く。青い表紙の端に、指の跡が残っていた。
返却の期限は決まっていない。本人へそう答えた声が、まだ喉に残っていた。
「片桐さん」
今度は廊下から呼ばれた。検査担当の野口が、薄い資料の束を持って立っている。袖口に赤いインクがついていた。
「先ほどの打ち合わせ、今からでもいいですか」
「ええ」
片桐は立ち上がりかけ、湯呑みに手を伸ばした。空だった。朝から何を飲んだのか、思い出す前に野口が歩き出した。
*
小さな会議室で、野口は資料を三枚並べた。
黒い環状の石の写真。鑑定の記録。それから、身体カメラの映像から切り出した一場面。
「実物があれば、もう少しやりようがあるんですが」
片桐は椅子を引いた。
「あの緊環石は、もうカゲに渡っています」
「分かっています。ですから、次の素材の話です」
野口は環状の石の写真へ指を置いた。
「これなら、張力を掛けて、内径がどれだけ締まるかを調べられる。荷重と変形の関係が取れます。力を抜いて、元に戻るまでの時間も」
「沢渡さんの記録と、比較はできますか」
「そのままでは、できません」
返答は早かった。
「こちらは環です。あちらは人です。沢渡さんに、測れる環の内径はありません」
片桐は写真へ目を落とした。
岩棚で見た時には、掌に収まる黒い塊だった。そのあとで、沢渡の動きが変わった。
石の写真と、動作の記録。机の上では、同じ大きさの紙に収まっている。
「素材を詳しく調べることと、カゲへ渡したあとに何が起こるかを知ることは、別です」
「通知には、予測可能な作用の事前検査とあります」
「読んでいます」
野口は資料を一枚めくった。
「調べた結果、ここまでは分かった、ここからは分からない、という報告になることはあります。それを、何も調べていないのと同じにはしないでほしい」
野口は会議室の棚へ目をやった。開山直後の調査報告が背を並べ、その一冊に『富士山頂付近における隕石落下説の検討』と、褪せた題が読めた。
「ああいうものも、記録には残っています。でも、説が記録にあることと、落下が確かめられたことは別です。次に読む人が取り違えないよう、分からないところは残しておきたい」
片桐は頷いた。
「そこを分けた報告は、必要です」
「しかし、分からない部分が残る限り検査中だと言われたら、終わりません」
「完了の基準は、まだ示されていません」
「ええ。こちらからも照会を出しています」
机に置かれた別の紙には、いくつかの項目と、その横に空欄があった。野口はペンの尻で空欄を叩いた。
「私が欲しいのは、試料を置いておく棚ではないんです。何を測って、どう違ったかという結果です」
廊下を台車が通った。小さな車輪が床の継ぎ目を越えるたび、かたかたと音を立てた。
片桐は、本人から尋ねられたことを手帳へ書き足した。いつ返すのか。何をもって、検査を終えたとするのか。
「答えられなかった質問も、通知を渡した記録に残します」
「それとは別に、次の測定の案を見てもらえますか」
野口は一番下の紙を引き抜いた。それだけ、文字が小さかった。
「沢渡さんとカゲの動きを、条件を揃えて比較したい。今回の記録だけでも、取り直したいところがいくつもあります」
「本人へ何を頼む案ですか」
「まず、同じ動作を――」
野口は途中で紙を見直した。片桐も、書き込まれた項目を追った。
同じ動作。同じ姿勢。同じ負荷。間隔を変えて、繰り返す。
「これを全部、一度にですか」
「できれば」
「時間は?」
「……見積もります」
野口は小さな字の脇へ、さらに何かを書き足そうとして手を止めた。
「分けます。一回で全部は無理ですね」
もう一度、石と記録を見比べる。
「正直に言うと、羨ましいんですよ」
「何がですか」
「片桐さんが。あれを先に、目の前で見た」
片桐は写真へ視線を落とした。
「見たものを、もう少しうまく記録できればよかったんですが」
「だから、次に向けて用意したいんです。何が起こるか分かってから測定器を探しても、遅いので」
野口のペンが、紙の上を少しだけ速く動いた。
「私は見たいんです。石として調べていたものが、人の動きを変えるところを。あとから数字をもらうだけではなく」
「それは、本人へ言ってもいいのでは」
「理由になりますか」
「何を頼まれているかは、分かりやすくなります」
野口はしばらく考え、細かな項目のうち二つに、大きく丸を付けた。
「まず、ここから」
「所要時間も」
「書きます」
扉が二度叩かれた。
「打ち合わせ中、すみません」
吉岡が顔を出した。
「鍋はありました。ただ、一つでは足りません」
「何の検査ですか」
野口が真顔で聞いた。
「カレーです」
「……ああ」
片桐は手帳を閉じた。
*
事務室へ戻りながら、吉岡から事情を聞いた。
見つかったのは、元の鍋より小さなものが二つ。同じ大きさの鍋を一つ取り寄せるなら来週。二つでよければ、今日渡せるという。
「入るかどうかは、運ぶ人に寸法を伝えてあります。荷の組み方を変えればいけるそうです。ただ、炊事の人が」
「二つでは困ると?」
「電話を代わってもらったんですが、集積所が騒がしくて。『二つなら』までは聞こえたんです」
吉岡は集積所へ電話を掛け直した。待っている間に、片桐は机の書類を鞄へ入れた。集積所へ届けるものは、もともとあった。
「私も行きます。先に店へ寄ればいいですか」
「お願いします。二つは、私一人だとちょっと」
受話器の向こうで声が変わったらしい。
「さっきの鍋の件ですが。……ええ。はい。そうです、二つに分けて」
吉岡は黙って聞いた。やがて、メモの余白へ何かを書いた。
「大丈夫だそうです」
「よかったですね」
「片方は辛口にするそうです」
野口が会議室から出てきたところだった。
「そちらの検討は、結論が早いですね」
「食べる人が決まっていますから」
吉岡は立ち上がり、鍋の寸法を書いた紙を折った。片桐は窓際の古い鍋へ目を向けた。
「それは?」
「直します。捨てませんよ。人が多い時は、やっぱり大きい方がいいそうなので」
古い取っ手に巻かれた布が、窓から入る風に少しだけ揺れた。
*
店の入口には、たわしと長靴と、手袋の束が吊り下げられていた。
奥では、作業着の男が背負子の帯を肩へ当てている。店主は正面からではなく、その背中を見て、帯の通し方を変えていた。
「こっちはまだ使える。先に替えるなら、傷の入ってる留め具の方だ」
男が振り返り、何かを言い返す。店主は笑って、奥の棚を指した。
吉岡が声を掛けると、店主は店の裏へ引っ込んだ。出てきた時には、新しい鍋を一つずつ、両手に提げていた。
「大きい方は急に出ないんだよ。置いとく場所ばっかり食うからな」
「これでも助かります」
「蓋、合うか見てくれ。一緒に送って、違ってましたじゃ話にならん」
吉岡が一つ、片桐がもう一つを確かめた。蓋を戻すと、金属同士が触れ合う澄んだ音がした。新品の縁が、指に冷たかった。
棚には山の仕事で使う道具と、町の台所で使う道具が、仕切りもなく並んでいた。荷を縛る縄の隣に洗濯ばさみがあり、替えの金具を収めた引き出しの上には、やかんが積んである。
「こっちを持ちます」
片桐が鍋を抱えると、店主が包装紙を持ってきた。
「鍋を抱えるのにも、ずいぶん真面目な顔をするな」
「仕事です」
「知ってるよ」
店主は片桐の腕の中で紙を広げ、底を包んだ。
「穴の開いた方も、そのうち持ってこい。修理へ回す便がある」
「もう手配しています」
吉岡が答える。
「じゃあいい。二重に頼むなよ」
「しません」
支払いを終えて外へ出ると、歩くたび、紙の向こうで鍋の蓋が小さく鳴った。
通りの向こうでは、荷を下ろしている車の脇を、自転車がゆっくり抜けていった。食堂の戸口では、昼の客が引いたらしく、店の人が椅子を寄せて床を掃いている。
片桐はその店先を見た。
「食べてないんですか」
吉岡が聞いた。
「まだです」
「私は電話の合間に、おにぎりを食べました」
「いつの間に」
「片桐さんが会議に行っていた間です」
言われてみれば、机の隅に丸めた包みがあった。
「仕事が早いですね」
「冷めても食べられるものにしてるんです」
吉岡はそう言い、鍋を抱え直した。
*
集積所は、事務室より人の声が大きかった。
荷台の上から空箱が下ろされ、洗った道具が軒先へ並べられている。出ていく荷と、戻ってきた荷。その間を、伝票を持った人間が何度も往復していた。
片桐たちを見つけ、入口の男が声を上げた。
「来たぞ、鍋!」
近くにいた数人が顔を上げた。片桐は、自分が鍋の付属品として運ばれてきたような気がした。
吉岡が先に進む。
「二つ、揃いました」
「おう。見せてくれ」
炊事をするという男は、腕まくりした袖から、日に焼けた太い腕を出していた。紙を外し、鍋の口を覗く。蓋を開け、底を手で撫でた。
「上等じゃねえか」
「大きさは、これで」
「分けりゃいい。前から辛いのが食いたいって、うるさいのがいたんだ」
男は隣の鍋も確かめると、すぐに紙を戻した。
「こっちで肉を煮て、そっちで――いや、逆か」
もう、片桐たちを見ていなかった。鍋を置いた台へ片手をつき、明日の手順を考えている。
その横を、若い作業員が細長い箱を抱えて通った。
「辛い方、俺も」
「お前は前、残しただろ」
「あれは辛いんじゃなくて痛かったんですよ」
「今度は食えるやつにする」
男は言い切ってから、少し間を置いた。
「たぶん」
作業員が顔をしかめ、周りが笑った。
吉岡は便の担当者を呼び、鍋と伝票を渡した。担当者は荷の並びを見て、すでに用意してあった空きを指す。包み直された鍋が、それぞれの背負子へ一つずつ収まっていった。
片桐は持ってきた書類を窓口へ届けた。
受け取った職員の背後には、修理待ちの器具が札を付けて並んでいる。脚の曲がった椅子。縁の欠けた箱。泥の乾いた測定器のケース。
「これ、直るんですか」
片桐は椅子を見た。
「座った人の言い分では、最初から曲がってたそうです」
「そうですか」
「持っていく前の写真は、真っ直ぐなんですが」
職員は笑いながら書類を開いた。奥から、出発の声が掛かった。炊事の男が自分の荷を肩へ掛け、吉岡へ手を上げる。
「助かった。明後日まで缶詰並べるとこだった」
「古い鍋も、修理が終わったら連絡します」
「頼む。大勢来る時には、あれが一番いい」
男は片桐へも頷いた。
「今度上へ来る時、飯に間に合わせな」
「仕事次第です」
「飯も仕事だよ、こっちは」
そう言って、男は出発する一行へ加わった。吉岡は時刻を確かめ、メモへ小さく丸を付けた。
片桐の腕には、鍋の取っ手の跡が残っていた。袖には、包装紙の繊維が少し付いている。
それを払っていると、吉岡の電話が鳴った。
「はい。……ええ、鍋は出ました。別の件? 何ですか」
彼女は空いた台へメモを置き、裏へ返した。
*
事務室へ戻ると、片桐の椅子は空いていた。代わりに、机へ紙が一枚載っている。
野口の測定案だった。項目は減っていた。上に目的、下に必要な動作と所要時間が書かれている。
余白に、小さく一行あった。
――この内容を本人へ相談する前に、一度見てください。
片桐は座り、最初から読んだ。確認したい箇所へ鉛筆で印を付け、その脇に、沢渡から受けた質問の控えを置く。
返却の期限と、検査を終える基準。測定案がまとまっても、こちらへの答えはまだない。
片桐はそれぞれを別の書類に挟んだ。机の電話へ手を伸ばしかけ、止める。時計を見る。
ようやく、空腹を思い出した。
「吉岡さん。少し出ます」
「何か忘れました?」
「昼食を」
「ああ」
吉岡も時計を見て、頷いた。
通りの食堂は、まだ暖簾を出していた。客の少ない店内では、拭いたばかりの卓に、窓の明かりが映っている。
壁の品書きを見て、片桐は言った。
「カレーをお願いします」
「ごめんなさい。今日は終わったんです」
片桐は一度、口を閉じた。
「生姜焼きなら、できますよ」
「では、それを」
椅子へ座ると、奥から油のはねる音がした。少し遅れて、醤油と生姜の匂いが届く。
「ご飯、大盛りにします?」
「お願いします」
今度は、返事に迷わなかった。
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