第48話 返された手形
関に併設された事務棟の説明室は、北向きの窓から淡い日差しが入るだけの四角い部屋だった。
長机を挟んで、俺と宮坂さんがパイプ椅子に腰を下ろしていた。向かい側には、山域資源庁の現場責任者である片桐征司さんが座っている。引き締まった顔立ちに疲労の影は薄かったが、作業着ではなく紺の背広を着た肩の線は硬い。
机の真ん中には、茶封筒から出された三組の書類が、重ならないよう隙間を空けて並べられていた。
「本庁の審査が今朝、正式に下りました」
片桐さんは低く、抑えた声で切り出した。
「沢渡迅さんの手形発給および入山資格の利用停止について、本日付で解除の決定が出ました」
俺は机の上の書類に視線を落とした。一番左の用紙には、太い活字で『手形利用停止解除通知書』と印字され、その下に俺の氏名と登録番号が並んでいる。
「ただし、無条件ではありません」
片桐さんは人差し指で、通知書の下半分を示した。
「条件の確認に入る前に、今回の審査で本庁が何を事実と認定したかを説明します」
片桐さんは真ん中の書類――裏石鎚での主戦記録と、帰着後の低所試験のデータをまとめた報告書を引き寄せた。
「石鎚での記録映像、測定機器の数値、沢渡さんと宮坂先達の聴取内容を精査した結果、カゲと呼ばれる実体について、自律的な敵対行動や、本人の意思から独立した発現は見られなかったと判断されました。四つの性質の選択、換装、解除、対象への適用、出力の開始と停止は、すべて沢渡さん自身の動作と判断に基づいて行われている、という点が記録上一致しています」
「カゲの分類はどうなったんですか」
俺が尋ねると、片桐さんは報告書の一行を指でなぞった。
「独立した使役怪異、第三の戦闘員、あるいは沢渡さんの験のいずれにも確定していません。本庁の暫定記録は、『沢渡迅に付随し、本人の判断でのみ働く未分類作用』です」
「未分類のまま、ということですか」
宮坂さんが横から静かに問いかけた。
「ええ。正体の結論は先送りです。確認できた運用の事実だけを公的記録に残しました。新しい主素材を取り込むたびに未知の性質が増える可能性がある以上、行政として完全な安全宣言は出せません」
片桐さんは頁をめくり、第四性質の試験記録をこちらへ向けた。
「第四性質についても、確認済みなのは低速ウインチで行った限定試験の範囲です。実戦での安全性まで認めたものではありません。未確認の項目は、そのまま残しています」
俺は報告書を手元へ寄せた。試験場で伝えたことと、数値で確かめたことが分けて記されている。最後の頁まで確かめて頷くと、片桐さんは一番左の通知書へ指を戻した。
「これらを踏まえて、手形停止を解除するための三条件が提示されました」
片桐さんが読み上げた。
「一つ。カゲが新しい主素材を取り込んで性質を得た場合、あるいは既存の性質に何らかの変化が生じた場合、速やかに資源庁へ報告すること」
「二つ。登録記録との食い違いや異常が確認された場合、資源庁の再試験に応じること」
「三つ。作用の内容を説明できない状態のまま、他人を伴う主戦へ入らないこと」
部屋の中に紙をめくる微かな音だけが響いた。
宮坂さんが背筋を伸ばし、通知書を見つめたまま口を開いた。
「片桐さん、確認させてください。三つ目の条件ですが、これは『一人であれば、作用を説明できない状態でも主戦に入って試してよい』という意味にとれますが、そういう解釈で合っていますか」
片桐さんは胸ポケットからペンを抜き、机の端にある小型端末の画面をタップした。
「いいえ、そうではありません。未知の変化が生じた場合は、第一条件の報告と、第二条件の試験が先に来ます。一人であっても、未確認の作用を無届のまま主戦で試すことは認められません」
片桐さんは端末に文字を入力した。
「第三項は単独での無制限な試験を認めるものではなく、第一項および第二項の手順が優先される、という宮坂先達の確認と私の回答を質疑記録へ残しておきます」
宮坂さんは小さく頷き、俺を見た。俺は片桐さんに向き直った。
「その三つについては、納得できます。カゲの性質を選んで使うのが俺自身である以上、何が起きたかを報告して、安全を確かめる責任は俺にある」
片桐さんは通知書の誓約欄を示した。俺は胸ポケットから黒い油性ボールペンを取り出し、三つの条件をもう一度、上から読んだ。
手形の発給資格が戻れば、山へ入る申請ができる。歩荷の仕事も、兄貴の足跡を追うことも、そこからだった。ただ、そのために読まずに名前を書いて済む紙ではない。
報告すること。必要な再試験に応じること。説明できない作用を頼みに、他人を主戦へ連れていかないこと。
俺は誓約欄へ『沢渡迅』と書き、ペン先を上げた。
「この三条件は守ります」
片桐さんは署名を確かめ、書類を自分の側へ戻した。
「ありがとうございます。ですが、話はこれで終わりではありません」
一番右に残っていた、青い表紙の薄い書類が、机の中央へ押し出された。
「手形の停止解除とは別に、本庁の上層部から通達が出ました。『今後の主素材に関する取扱通知』です」
書類の表題を読んだ俺の視線に気づき、片桐さんは言葉を継いだ。
「次回以降、沢渡さんが参加した主戦で主を倒し、主素材を得た場合、それをカゲに与える前に、資源庁がいったん一時保管します。登録、素材の鑑定、予測可能な作用の事前検査を行うためです」
「一時保管」
俺はその単語を口の中で繰り返した。
「石鎚で手に入れた緊環石も対象ですか」
「遡及適用はされません」
片桐さんは首を横に振った。
「通知を過去へ遡って適用することはなく、石鎚の緊環石はすでにカゲへ譲渡済みだからです。対象となるのは、次回以降、新たに獲得される主素材です」
「期間はどれくらいですか」
俺は問うた。
「検査が終わる基準は決まっていますか。いつ返却されるのか、期限の定めはありますか」
片桐さんはペンを置き、両手を机の上で組んだ。その視線は逃げず、俺の目をまっすぐに捉えていた。
「決まっていません」
淡々とした、しかし明確な否定だった。
「検査終了の基準も、保管期間の上限も、返却期限も、この通知には書かれていません。どのような条件が揃えば返却を拒むことができるのか、その基準も明文化されていません」
「それなら」
宮坂さんの声が、わずかに硬くなった。
「預かったまま返さないことも可能になる。事実上の没収と同じではありませんか」
「その通りです」
片桐さんは否定しなかった。
「所有権を国へ移すという決定ではありません。没収という言葉も使われていません。ですが、返還の要件と期日が定められていない以上、運用次第では長期の留置になり得る。私から本庁へ、明確な検査期日と返却基準を定めるよう上申を出しました」
「結果はどうなったんですか」
「今回の決裁には反映されませんでした。本庁は運用実績を見てから基準を検討する、という保留の回答です。基準が曖昧なままであっても、本庁の決定である以上、現場の私にはこの通知を渡し、周知する義務があります」
説明室の壁に掛けられた時計が、秒針の進む音を刻んでいた。俺はペンを持ったまま、青い表紙を開き直した。検査の目的は書かれている。受け取るのは誰かも書かれている。返す日の記載だけが、どこにもなかった。
三条件に署名した紙は、もう片桐さんの手元にある。こちらも同じように渡せばいい、とは思えなかった。
「この通知にも、同意の署名が必要なんですか」
「いいえ。求めるのは受領の確認です」
片桐さんは、通知に添えられた受領書の末尾を示した。
「『本庁からの通知を受け取った』という事実だけです。条件に同意する誓約ではなく、異議申し立ての権利を放棄する文言も入っていません」
そこには『上記通達の写しを受領した』とだけ印刷されていた。俺は末尾だけでなく、その上の文章も読み直した。宮坂さんが横から目を通し、俺へ小さく頷いた。
「では、通知は受け取ります。ただ、期限のない保管に納得したわけではありません。返却の期限と、検査を終える基準については、回答を求めます」
「そのご意見も、本庁へ伝えます。運用の実態や問題点の報告は続けますが、基準がいつ定まるか、返却がどうなるかを、私から約束することはできません」
片桐さんは俺の質問を控えに書き留めた。ペンが止まるまで待ってから、俺は受領欄に名前を書いた。先ほどと同じ字数だったが、書き終えるまでに、もう一度上の一行へ目を戻した。
同意ではなく、受け取ったという記録を渡す。
片桐さんは受領書を取り、先ほどの誓約書と並べて署名の掠れがないか確認すると、長机の脇にある業務用の端末を操作した。画面に青いバーが伸び、数秒後に処理完了の通知音が小さく鳴った。
「システム上の個人手形ステータスを更新しました。『利用停止』から『発給可』へ戻りました」
片桐さんは端末を閉じ、俺たちを見た。
「通常手形は山行ごとの発給です。次の入山申請を出し、許可が下りた際、関の窓口で紙の手形を受け取ってください。今日は手形の現物は出ません」
「分かっています」
手形は持ち歩く免許証ではない。山へ入り、生きて関へ戻るごとに返し、丈を刻むための山の紙だ。
「沢渡さん、肩と腰の具合はどうですか」
立ち上がり際、片桐さんが尋ねてきた。
「日常の動作には支障ありません。ただ、六十キロを背負って登れる身体には戻っていません。歩荷の復帰は、もう少し慣らしてからになります」
「無理はしないでください。手形の発給資格が戻ったからといって、身体が元に戻ったわけではありませんから」
「ありがとうございます」
俺と宮坂さんは頭を下げ、部屋の出口へ向かった。
手元には、控えとして手渡された手形停止解除の通知書、第四性質の試験記録、そして次回主素材の一時保管通知の写しが、角二の封筒に収められていた。
事務棟の玄関を出ると、五月の強い光がアスファルトを白く照らし、青葉の匂いを含んだ風が吹き抜けた。
「沢渡さん」
隣を歩く宮坂さんが、前を見据えたまま声をかけてきた。
「まずは、医師の診察を受けて身体の戻りを確認してからですね。軽い荷から少しずつ慣らしていきましょう」
「そうですね」
俺は封筒を脇に挟み、右肩を軽く回した。関節の奥にわずかな張りを感じたが、痛みは走らなかった。
山へ戻る道は、確かに手元へ返されていた。




