第47話 還った記録
正午を過ぎて三十分が経つと、土間の客足は途絶えた。
奥の洗い場で、俺は乾いた布巾を二つ折りにし、湯呑みの内側を拭った。右の肩口に意識を向けながら、腕を大きく振り上げず、手首の返しだけで底の茶渋を落とす。石鎚から戻って数日、腰の打ち身は黄色く退き、肩の張りも日常の雑用なら引っかからなくなった。
上がりかまちの端、板の間に落ちた昼の日向へ、カゲが音もなく身体を移した。白い背を丸め、前足を揃えて顎を乗せる。耳の先だけをかすかに動かしたが、目を開けることもない。
宮坂さんが厨房から出てきて、空いた膳を二つ重ねてシンクの脇へ置いた。
「沢渡さん、そちらの湯呑みで最後です。棚へ伏せてください」
「分かりました」
棚の簀の子へ、木地の乾いた音を立てて器を並べる。その横で、浅井遼が濡れ雑巾を両手で固く絞っていた。十九歳の見習いだが、まだ指先にも足元にも余分な力が残っている。
遼は流しの縁に手をつき、エプロンの胸ポケットから四つ折りにした紙を取り出した。折り目を丁寧に指でなぞって開き、拭き終えたばかりの帳場机の端へ置く。
「沢渡さん、宮坂さん。昼の片付けが終わったら、少し見てもらいたいものがあります」
鉛筆で書かれた線と文字が見えた。一番左に『撮影』とあり、右へ矢印が伸びて『帰還後の複製』、さらに『編集』『三人確認』『公開』と並んでいる。
「外向けの動画の話ですか」
俺が言うと、遼は姿勢を正して小さく頷いた。
「はい。沢渡さんの手形が止まっている間に、麓でやれる準備だけでも進めておきたくて」
遼は紙の余白を開いた。折り返してあったところにも、小さな字が続いていた。
「石鎚で資源庁が撮った映像を借りる話ではありません。これから二人が自分たちで山へ入って、帰ってきたときの記録です。僕は麓で受け取って、元のデータを複製して残します。編集したものを三人で見てから公開する。山からの生配信はしません」
「何を撮りたいんですか」
俺が聞くと、遼はすぐには答えず、洗い場の横に立ててある背負子を見た。
「荷を積むところからです。何をどこへ入れるのか、出る前に二人で何を確かめるのか。山の動画だと、登った先の景色や、主を倒すところばかり目に入るので」
鉛筆の先が『撮影』の下へ動いた。
「荷を届けるまでにも仕事があるって、見てもらいたいんです。僕も最初は、背負子に載れば運べるものだと思ってましたから」
「載せるだけなら、結構載りますよ」
「そこから立てないんですよね」
俺は畳みかけていた布巾を机へ置いた。荷を組むところは、普段なら出発までの時間に数えて終わりだった。持ち上げてから直さずに済むよう、地面に置いているうちに決めていることがある。
「重い荷を担ぐところだけでは、そこは見えませんね」
「はい。それに、途中で止まったところも、すぐ切らずに見たいです。休んでいるのか、先の道を見ているのか、僕には映像だけだと分からないかもしれませんけど」
宮坂さんが洗い桶から手を引き上げ、手拭いで指の股まで拭きながら机のそばへ歩み寄った。
「止まっている方にも、見せることがあるんですね」
「歩いているところばかり繋ぐと、ずっと歩けたように見えますから」
宮坂さんは紙に目を落とし、少し考えてから頷いた。
「それなら、歩き出すところだけ見てもらっても足りませんね。私たちからも、どこで何を確かめたか話します」
遼は余白へ『止まった理由』と書き足した。
「機材は僕の身体カメラと、電池やカードを交換できる小型のものです。新しく買い揃えずに、手持ちの範囲で。僕は同行せず、帰ってからの作業を引き受けます」
「電池と防水袋まで入れると、どれくらいになりますか」
宮坂さんが尋ねた。遼は紙の端を見て、鉛筆を止めた。
「本体の重さしか書いてません。まとめて量り直します」
「お願いします。二台とも持てるかは、それを見てからです」
俺も頷いた。今の肩と腰で背負える荷は、まだ決まっていない。カメラが小さくても、その分の重さが消えるわけではなかった。
「安全装備や行動食は減らしません。無理ならカメラを減らす。救助で手が要るときは、撮影よりそちらを優先します。撮るために行程や撤退の時刻を変えたり、足場の悪いところで向きを直したりもしません。それで撮れなかったところは、ないままでいいですか」
「はい。後から同じことをやってもらうつもりはありません。撮れなかったところを、撮れたようには作りません」
「では、山での扱いはそれで」
俺が言うと、遼は『撮影』の脇に『山行優先・再演なし』と書き入れた。帰ってからなら、映像を見るために足元から目を離しても、行程は狂わない。
宮坂さんは『三人確認』を指した。
「ここは、何を確認するつもりでしたか」
「時刻と、行動の順番が合っているかです。僕が先に見て、危ないところや人の顔は外しておきます。そのあとで二人に――」
「その『危ないところ』を、一人で選べますか」
遼の鉛筆が止まった。
「崖とか、足場の狭いところだけではありません。普通に歩いている映像でも、現役の退路へ分かれる道や、固定点の位置が分かることがあります。そこを案内代わりに真似されたら困ります」
「……それは、見分けられないと思います」
遼は『編集』と『三人確認』の間へ目を落とした。俺はその二つを指で辿った。
「先に俺たちも元の記録を見ましょう。俺は行程、荷、時刻、それから何を見て判断したか。宮坂さんには、安全上、出せない場所を見てもらう。編集する前に、そこを分けておけばいい」
「他の人の情報もですね」
宮坂さんが言った。
「顔だけでなく声、手形や届出の記載も確認します。山には他の隊も、宿や茶屋の人もいますから。本人の了解なしに出していいとは考えないでください。救助や負傷の場面なら、無事に下山して状態が落ち着いた後、本人の明確な確認が取れなければ非公開です。顔が見えないようにしただけでも、出せません」
遼は頷いたが、すぐには書き始めなかった。
「そこを外したら、止まった理由までなくなることはありませんか。危ない場所を見て立ち止まったのに、ただ休んでいるように繋がってしまうとか」
俺は紙へ伸ばしていた指を止めた。見せられないところを切るだけなら、残した方は正しいと思っていた。だが、前に何があったかで、足を止めた意味も変わる。
「ありますね。俺が元の記録だけ見て済ませては駄目ですね」
「切ったあとの前後も、もう一度見ましょう」
宮坂さんが言った。
「理由を話せるところなら、言葉で補えます。でも、説明すると場所や人が分かってしまうなら、その場面ごと出さない。『真似をしないでください』と添えれば済むわけでもありませんから」
「映像にないことは、二人に確かめてから説明する。順番を変えて、別の理由に見せない」
遼は小声で確かめながら書いた。『帰還後の複製』の次へ、二人が元記録を見る段階を挟む。『三人確認』の文字は消さず、その下に『編集後も、前後を確認』と加えた。
日向で丸くなっていたカゲが、頭を持ち上げてあくびをした。音もなく立ち上がり、日の差す角度が変わった土間の中央へ、三歩だけ移動して再び伏せる。
「カゲも映ると思いますけど」
遼が白い背を見た。
「映ったことは映ったままでいいです。ただ、正体も性質の仕組みも、俺たちが全部分かっているわけではありません。不思議な力だと煽ったり、分からないことを断定したりはしないでください」
「はい。説明をつけたところも、確認してもらいます」
遼は紙を少しずらした。最初の矢印の下は、もう文字を入れる場所がなかった。
「それでも、二人に見てもらって、出していいか決まらないときは?」
「止めましょう」
俺は答えた。
「俺か宮坂さんだけではありません。浅井さんが出せないと思ったときもです。三人のうち誰か一人でも止めたら、理由が何であっても公開しない」
「僕もですか」
「今みたいに、繋いだら違って見えると気づくのは、浅井さんかもしれませんから」
遼は俺と宮坂さんを順に見た。宮坂さんが頷くと、紙の一番下に『一人でも反対なら非公開』と書き、線を引いた。
「元の記録は、出さない部分も捨てずに残します。直すたびに元へ戻れるように。……三人で見る時間も、ちゃんと取らないと駄目ですね」
「忙しいときは、公開を遅らせればいいです」
俺は帳場机の端に腰を預けた。紙には撮る道具の話だけでなく、持ち帰ったあと、誰の手をいつ借りるかが増えていた。
「動画の収入も、入るものとしては数えられませんよ」
「はい。余剰が出たら、記録媒体や電池、予備の札や交通費の足しにできればと思っています。生活費や、次の遠征に必要なお金は別です」
遼は紙をこちらへ向け直した。俺は最初の『撮影』から、最後の『公開』まで目で追った。まだ一本も撮っていない。その間にどれだけ残せるものがあるかは、帰ってこなければ分からなかった。
「手形が戻って、次に自分たちで山へ入れたらですね」
俺が言うと、遼が顔を上げた。
「俺と宮坂さんの二人隊で入り、無事に麓へ還れたら、そのときの記録から始めましょう。荷を組むところも、撮れる範囲で」
「はい。まず、機材をまとめて量っておきます」
遼は書き足した文字を擦らないよう、紙の端をつまんで折り直した。胸ポケットへ仕舞う前に、重なった矢印をもう一度見た。
表の街道を、トラックが砂利を跳ねて走り去る重い振動が、土間の引き戸をわずかに震わせた。本庁からの通知は、まだ届いていない。手形発給と入山資格の停止がいつ解除されるかも、現時点では分からないままだ。
宮坂さんが手拭いを畳み、土間の隅を指さした。
「話がまとまったなら片付けの続きです。表の掃き掃除をお願いします。沢渡さんは無理に重いものを持たずに、小上がりの座布団を整えておいてください」
「分かりました」
遼が竹箒を手に取って引き戸を開け、外の乾いた五月の風が土間へ吹き込んできた。
カゲが耳をぴくりと動かし、白い鼻先を風の通る隙間へ向けたが、それ以上は動かず、静かに春の光のなかに身を沈めていた。




