第46話 残る張力
石鎚の宿を出て、西条の駅裏の素泊まり宿へ移ってから四日が経っていた。
湿布を貼り替えて大人しく過ごした甲斐があり、腰の腫れは引き、擦過傷も乾いていた。右肩の奥にあった強張りも、日常の動きでは気にならない。ただ、力を込めれば、傷めたところがまだ張る。
朝九時前、俺と宮坂さんは、再び裏石鎚の関の内側にある低所の管理試験区画へ入っていた。
通常手形は依然として停止されたままだ。今回の入域は、主戦で得たカゲの第四性質について、事前に申告していた管理確認を行うためだけに、資源庁の審査部門から例外的に下りた限定許可だった。通常手形が復活したわけでも、勝手に裏の奥へ足を踏み入れていいわけでもない。
関では、その限定許可の内容を記した今回限りの紙の手形を受け取った。試験区画から戻れば返す。
試験場には厚手のマットが敷かれ、その中央に平らな測定板が据えられていた。両脇には二基の固定カメラ、床には荷重と移動距離を測る機器が配線されている。
奥の機材卓には、前回の山行にも同行した二名の職員が座り、端末の波形モニターを調整していた。その横で、作業服を着た片桐さんが手帳を開いている。片桐さんの声は宿の夜ほど酷く掠れてはいなかったが、本来の澄んだ張りに比べると、まだ低く濁った余韻を残していた。
「沢渡さん、まず身体の確認をします」
宮坂さんが俺の正面に立ち、足元を指さした。
「ゆっくりと腰を落とし、その場で深い屈伸を二回。痛みの出る角度があれば途中で止めてください」
俺は両手を膝に添え、踵を浮かさずに重心を真下へ沈めた。腰の奥で筋肉が引っ張られる感覚はあるが、鋭い痛みはない。立ち上がり、もう一度繰り返す。
「右肩を真上へ伸ばしてください」
指示通りに右腕を耳の横へ引き上げた。肩の奥がわずかに張るが、動きは止まらない。
「……足運びの左右差もありませんね。ですが、少しでも患部が熱を持つようなら直ちに中止します。早く手形を戻したいからと、痛みを隠すような真似はさせませんから」
「分かっています。誤魔化しても現場で自分が困るだけです」
宮坂さんは頷き、片桐さんへ視線を向けた。
「身体動作の確認、終了しました。本日の軽い試験範囲なら続行できます」
「了解した」
片桐さんが機材卓から歩み出て、中央の測定板の前へ立った。
「本日の検証について確認する。対象は、石鎚の主素材を与えたことでカゲに現れた、新たな第四性質の作用切り分けだ。なお、我々三人が継承した《鎖》の初発動は本日は行わない。二つの未知の力を同時に試せば、どちらの作用か判別できなくなる。よろしいですね」
「異論ありません」
「よし。職員、測定器のゼロ点を確認」
「完了しています。定点カメラ、身体カメラ、ともに録画開始」
俺に訓練用の全身ハーネスが装着された。肩、胸、腰、太ももへと幅広のナイロンベルトが均等に通され、特定の部位だけに圧力が集中しないよう調整されている。
背後では、上のレールから下ろされた二本の独立した安全索が、十分な弛みを持たせて俺の背部環へ連結された。転倒を止めるための命綱で、引くための索ではない。
その一方で、ハーネスの正面の荷重環には、床置きされた小型の低速電動ウインチから伸びる牽引ワイヤーが接続されていた。
「まず、カゲの性質をまとわない状態で、比較用の基準動作を計測する。沢渡さん、合図とともに右足を前へ一歩踏み込んでください。全力は不要だ。同じ姿勢で繰り返せる動きにすること」
「了解」
俺は測定板の上に両足を揃えて立った。
カゲは俺の右脇の床に座っている。前脚の付け根から胸郭をぐるりと一周する、あの細い黒い環は、白い毛並みの中で静かに輪を描いたままだ。俺が意図して呼びかけない限り、カゲが勝手に動くことはない。
「基準踏み込み、計測。……始め」
片桐さんの声に合わせ、俺は右足を真っ直ぐ前へ踏み出した。
カツン、と測定板を蹴り、前方の印へ右足を着いた。
職員がモニターを読み上げた。
「荷重、移動距離ともに記録しました。これを本日の基準値とします」
俺は元の位置へ戻り、息を整えた。
「これより第四性質の初試行に入る」
片桐さんが身体カメラを正面へ向けた。
「沢渡さん、第四性質を選択してください。他の性質は混ぜないこと」
「はい」
俺は右脇のカゲへ視線を向けた。第一の風でも、第二の水路でも、第三の関節でもない。胸元に刻まれた新たな環へと意識を絞り込む。
(来い)
白狼の姿が影へと溶け込み、足元から身体の内側へと吸い込まれていった。
外見に派手な変化はない。光も立ち上らなければ、鎧のようなものが現れるわけでもない。
だが、身体の内側の感覚は、これまでの三つとは明らかに異なっていた。
胸を巡る輪が内側へ締まり、身体の芯へ一本の線が通ったような感覚があった。痛みではない。何かに引かれれば、その向きが残る。そんな形だけが、まだ空のまま身体に用意されていた。
「発動を確認。ウインチを最低速で起動。規定の弱い張力で、前方へ短く牽引する」
片桐さんの指示で、ウインチが低い唸りを上げた。
ワイヤーが巻き取られ、正面の荷重環を通して、俺の胸と腰、太ももを巻くハーネス全体が前へ引かれた。
俺は測定板の上で足を踏ん張り、その引っ張りを全身で受け止める。ハーネスの帯が衣服越しに肉へ食い込み、確かな圧迫感が伝わってくる。第二性質のように足元へ逃げていく感覚はなく、外力はそのまま身体全体を引っ張っている。
「牽引停止」
ウインチが止まり、ワイヤーの張力がふっと抜けた。
俺は直立の姿勢へ戻ったが、奇妙な違和感に眉をひそめた。
ワイヤーは弛んでいる。物理的な引きは消えているはずだった。
だが、胸を巡る輪の内側には、直前まで正面から引かれていた向きと重みが、ぎちりと縮んだまま居座っていた。
「……報告します」
俺は手元の感覚を言葉にした。
「ワイヤーが緩んだ後も、身体の内側に、引かれていた方向への張りが残っています。抜けていません。前へ引かれた力が、身体の芯に残っている感じです」
片桐さんが手帳に素早くペンを走らせる。
「保持の自覚症状あり、と。沢渡さん、その状態で、先ほどと同じ一歩を踏み込んでください。無理に飛び出さず、あくまで基準と同じ足運びで」
「了解」
俺は息を吸い、右足を前へ踏み出した。
その瞬間、身体の奥に蓄えられていた張りが、解かれたバネのように一気に弾けた。
トン、と測定板を蹴った足裏から、腰、背骨、胸へと一続きの推進力が駆け抜ける。
自分の意志で蹴り出した動きへ、直前にウインチから受けていた引っ張りの勢いが、一続きの動作として重なった。
タアンッ、と右足がマットの上へ着地する。
身体が宙を飛んだわけでも、瞬間移動したわけでもない。だが、ただ一歩を踏み出しただけの動作が、明らかに基準より深く、鋭く前へ運ばれていた。
「計測値、出ました!」
職員が驚きを交えて声を上げた。
「荷重、移動距離ともに基準を上回りました。入力として計測した範囲は超えていません」
「少なくとも、入力を超えて増えてはいないな」
片桐さんが確認する。
「はい。倍増しているわけではありません。受けて残っていた勢いが、次の一歩にそのまま乗った感覚です」
俺は着地した姿勢から、左足を続けて前へ出してみた。二歩目だ。
……何も起きない。
左足は、普段通りの重みでぺたりとマットを踏んだだけだった。推進力の上乗せは一切ない。
「二歩目には何も残りませんでした」俺は報告した。「最初の一歩を踏み出した瞬間に、体内にあった張りはすべて抜けました。一続きの動作で、完全に空になっています」
宮坂さんが歩み寄り、俺の腰と右肩の動きを横から見据えた。
「着地時の衝撃はどうですか。腰の打撲痕に響きましたか」
「少し響きましたが、歩行を乱すほどじゃありません。……ただ、この性質は衝撃を消してくれませんね。強く引かれればハーネスの圧迫はそのまま痛むし、勢いよく着地すれば足腰への負担は普通に残る」
「当然ですね。第二性質の受け流しとは別物です。……片桐さん、次は加算の検証ですか」
「ああ」
片桐さんが指示を出した。
「元の位置へ戻ってください。次は、同じ弱い牽引を、いったん止めてからもう一度掛ける。分かれた二回の入力が、そのまま積み上がるのかを切り分ける。ウインチ、同一設定で二回」
俺は測定板の上へ戻り、再び第四性質の張りを身体に巡らせた。
一度目の牽引が入る。ハーネスが前へ引かれ、停止する。身体の奥に張りが残った。
間を置かず、ウインチが二度目の牽引を掛けた。同じ強さで引かれ、再び止まる。
「二度の牽引、完了。……沢渡さん、体感は」
「増えていません」俺は即座に答えた。「いったん切れた一度目の張りに、二度目が足された感じはないです。二度目を受けた時点で、身体の中の張り方が入れ替わったように感じます」
「踏み込んでください」
片桐さんの合図で、俺は再び右足を前へ踏み出した。
タアン、とマットを叩いて着地する。
職員が画面を見つめ、数字を読み上げた。
「荷重と移動距離、どちらも一度だけ牽引した比較値の範囲です。少なくとも、分けて与えた二回分がそのまま足された数値ではありません」
「分離した入力の単純な合算は確認できず、か」
片桐さんは手帳にチェックを入れた。
「最後に、安全な破棄手段を確認する。沢渡さん、もう一度同じ設定で牽引を受けてください。張りを保持した状態で、動作を行わずに性質を解除します」
「了解」
三度目の牽引を受け、体内に張りが残ったのを確認した。身体は前へ飛び出したがっているような緊迫感を保っている。
俺はその場から一歩も動かず、意識の結び目を解いた。
「解除」
ふっと、胸の輪の内側に残っていた張りが抜けた。
右脇の床に、白い狼が何事もなかったかのように形を取り戻す。
俺はそのまま、もう一度カゲへ意識を向け、第四性質をまとってみた。
白狼が影へ沈み、胸の輪が内側へ締まる。
だが――。
「……消えています」
俺は両手を広げて報告した。
「解除した瞬間に、残っていた張りは消えました。再び性質をまとっても、直前の分は残っていません。踏み込んでも基準と同じになるはずです」
「確認のため、一歩踏み込んでください」
片桐さんの指示で右足を出す。
カツン、と右足が印の近くへ着いた。荷重も移動距離も、最初の基準値の範囲に収まった。
「保持の完全消滅を確認。沢渡さん、解除してください」
「解除」
性質を解き、足元にカゲを戻した。
職員がウインチのスイッチを切り、安全索のフックを外してくれた。ハーネスのバックルを緩めると、締め付けられていた胸と腰に涼しい空気が通った。
片桐さんは手帳を胸ポケットから出し、ペンを走らせながら口を開いた。
「本日の検証結果を整理する。カゲの第四性質は、少なくとも今日の条件では、ハーネスごと全身へ掛かった短い牽引の力を保持し、次の一続きの全身動作へ重ねて放つ作用を示した。放出は次の一動作で終わり、二歩目には残らない。いったん切れた同条件の牽引を二回与えても、二回分の単純な加算は確認されなかった。また、性質の解除によって保持していた力が失われることも確認した」
片桐さんは顔を上げ、俺と宮坂さんを見た。
「ただし、今日分かったのはそこまでだ。一つの入力を長く受け続けた場合にどこまで蓄えられるのか、自分の動作で能動的に力を溜められるのか、身体の一部へ絞れるのか、験の出力まで対象になるのか。いずれも未確認だ。局所的な打撃や斬撃、熱、高所からの落下加速、大きな加速度についても試していない。人を伴う実戦や救助で、未確認の使い方を前提にする段階ではない」
「十分です」
俺は答えた。
「分からないことを、分からないままにしておくつもりはありません。今日確認できた事実だけを、そのまま記録へ載せてください」
宮坂さんも隣で静かに頷いた。
「沢渡さんの申告と、外部の計測値に食い違いはありませんでした。腰の患部の悪化も見られません。……片桐さん、これで本日の報告データは揃いましたね」
「ああ。関の外へ戻ってから、本庁の審査部門へ、主戦の記録に加えて、この第四性質の暫定管理ログを追加電送する。通常手形の利用停止を解除するかどうかは、向こうの最終判定待ちだ」
片桐さんは手帳を閉じ、記録端末を開き、ログが保存されていることを確かめた。
手形が戻るかどうかは、まだ決まっていなかった。
機材を片づける音の中で、足元のカゲが俺を見上げた。胸を巡る新たな環は、白い毛の中で動かない。
分かったことだけは、本庁へ送る記録にまとめられている。
俺は通常手形の停止が解かれる知らせを待ちながら、カゲと並んで試験場を出た。




