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第45話 平地の膳

 関(せき)での手続きと応急処置を終えて山を下り、表の温泉宿に着いたのは、陽がすっかり落ちてからのことだった。


 泥のついた雨具や登山靴、ザックなどの装備は、宿の乾燥室にすべて預けた。記録媒体と身体カメラも、片桐(かたぎり)さんが宿の施錠できる保管棚へ収めている。


 預ける前に、宮坂(みやさか)さんは錫杖(しゃくじょう)の頭金具を指で押した。石鎚の主(ぬし)の鉤を受けたところだ。柄は真っすぐだったが、留めにわずかな遊びが出て、輪が一拍遅れて鳴った。


「次の山までに、留めを直してもらいます」


「今日、折れなくてよかったですね」


「ええ。でも、次も同じ力を受けていいとは思いません」


 俺も靴を裏返した。外縁の溝は、真ん中より浅い。今回の岩場では足を置く場所を選べたが、濡れた石の上で同じように踏めるとは限らなかった。


 風呂場では、腰の打撲痕を湯に浸けないよう注意しながら、ぬるめのシャワーで汗と砂埃だけを洗い流した。脱衣所で新しい冷湿布を腰骨の上へ貼り直し、薄手の木綿の部屋着に着替える。右肩にはまだ薄い張りが残っていたが、大きく動かさなければ気にならなかった。


 宿の奥にある食事処は、太い梁の渡された板張りの広間に、低めの長机が並んでいた。


「沢渡(さわたり)さん、こちらへ」


 先に上がっていた宮坂(みやさか)さんが、座布団を二枚重ねにして壁際の席を示した。


「……すみません」


 壁に手をつき、腰をかばいながらゆっくりと膝を折る。腰骨に走る痛みを逃がすように息を吐いたが、二枚重ねの座布団のおかげで骨盤が沈まず、背骨を真っ直ぐに立てることができた。


「無理に正座を続けなくていいですから、足を崩してください」


 宮坂(みやさか)さんも藍色の浴衣の上に羽織を重ね、湯上がりの濡れた黒髪を小さな手ぬぐいでまとめていた。山装束の鋭い気配は抜け、どこか普段の高尾山麓の茶屋にいるときの顔に戻っている。


「宮坂(みやさか)さんは、肩や足に痛みはありませんか」


「ありません。沢渡(さわたり)さんのほうこそ、座るときに腰をかばっていましたよ」


「気のせいです。普通に歩けます」


「嘘を言わないでください。平地では誰も荷を急かしませんから、立つときもゆっくりでいいんです」


「……善処します」


 宮坂(みやさか)さんは小さく息を漏らし、手元の湯呑みに急須から茶を注いだ。


 長机の向かい側へ、片桐(かたぎり)さんと随行職員の二人が入ってきた。全員が宿の浴衣姿だ。片桐(かたぎり)さんは眉間を指の腹で揉みほぐしながら畳へ腰を下ろした。手帳も端末も持たず、両手には何も握られていない。


「お待たせしました」


 仲居が大きな木製の盆を抱え、小鉢と椀を机の上へ並べ始めた。


 一度にすべてを並べきれず、まずは熱い緑茶と、小鉢に盛られた青菜のお浸し、刺身こんにゃく、それに甘辛く炊き上げた豚肉と大根の煮物が置かれる。出汁と醤油の濃い匂いが、湯気とともに卓の中央へ広がった。


「山の上じゃ、冷えたゼリーとパサパサの乾パンを無理やり水で流し込んでましたからね」


 職員の一人が、湯気の立ち上る煮物の小鉢を覗き込みながら呟いた。


「あの岩棚で固定点を取ってるとき、ずっと温かい汁物のことばかり考えてましたよ」


「お前、作業中にそんなこと考えてたのか」


 もう一人の職員が苦笑いしながら湯呑みを配る。


「だって、風が冷たかったじゃないですか。片桐(かたぎり)監督官だって、さっき手帳をしまうとき、お腹が小さく鳴ってましたよ」


「……聞こえていたのか」


 片桐(かたぎり)さんが湯呑みを取り、かすれ気味の低い声で零した。《石組み》を二度重ねたせいで喉の奥がはっきりと濁っており、いつもの通る声に比べると随分と低く擦れている。


「え、監督官、何て言いました?」


 職員が首を傾げて耳を寄せた。


 片桐(かたぎり)さんは眉根を寄せ、短く咳払いをしてから息を吸い直した。


「……聞こえていたのか、と聞いたんだ。余計な音を拾うな。観測機器のログだけに集中しろ」


「あ、はい! 失礼しました!」


 職員が直立不動に近い姿勢で頭を下げ、卓の上に小さな笑いが零れた。山中では常に緊張感を崩さず片桐(かたぎり)さんの後ろを歩いていた二人が、湯上がりの畳の上では年相応に肩の力を抜いている。


 そこへ、仲居が両手でお櫃を抱えて戻ってきた。続いて、大きな塗り椀に注がれた豆腐と油揚げの味噌汁、そして香ばしい焦げ目のついた焼き魚の皿が一人ひとりの前に配られる。


「白飯はお代わりがありますからね。足りなければいつでも言ってください」


 仲居が蓋を開けると、つややかに炊き上がった白米の甘い匂いが立ち上った。


「沢渡(さわたり)さん、宮坂(みやさか)先達(せんだつ)」


 片桐(かたぎり)さんが椀を前にして背筋を伸ばした。


「今日は全員、よく動いてくれた。……いただくとするか」


「いただきます」


 全員が手を合わせ、箸を取った。


 俺はまず、両手で味噌汁の椀を持ち上げた。器の塗りを伝って、指先にじんわりとした温もりが広がる。ひと口すすると、煮干しの出汁と味噌の塩気が、空っぽだった胃の底へ染み渡っていくようだった。


 熱い白飯を口へ運び、噛み締める。関(せき)を抜け、重い荷を解いて、平地の時間へ戻ってきた実感が、噛むごとに身体の芯を満たしていった。


 俺の足元、座布団のすぐ右脇に、白い影が音もなく腰を下ろしていた。


 カゲだ。


 宿の主人の了解を取り、板の間の端に控えさせてある。前脚の付け根から胸郭をぐるりと一周する、午後に関(せき)で増えた細い黒い環が、白い毛並みの上へ一本浮かんでいた。光ることもなく、動くこともない。ただ静かに、卓の端へ鼻先を向けている。


 俺は仲居へあらかじめ頼んでおいた小皿を引き寄せた。味付けを一切していない茹で鶏の端切れと、自分の茶碗から箸で分けた冷めた白米が載っている。


「ほら」


 小皿を畳の上に置くと、カゲは音も立てずに鼻先を寄せ、舌先で器用に肉と米をすくい取っていった。普通の飯を食うだけで、傷が治るわけでも、胸の環が何かを始めるわけでもない。腹が満たされると、カゲは前脚の間に鼻先をうずめ、満足そうに目を細めて丸くなった。


「よく食べますね、その子も」


 宮坂(みやさか)さんが焼き魚の小骨を箸先で手際よく外しながら言った。


「平地じゃ腹が減るだけなんだろうな。……宮坂(みやさか)さん、大根も食べますか。こっちの鉢、まだ残っていますが」


「いただきます」


 大根の鉢を渡したついでに、自分の手元が目に入った。茶碗の飯は、すでに半分以上消えていた。


 無意識のうちに、小鉢の数、残りの汁の量、椀を空にするまでの時間を頭の中で割り振っていたことに気づく。六十キロの荷を背負って登る途中のように、次の行動の時間を稼ぐため、最短で熱量を胃袋へ詰め込もうとしていたのだ。


 だが、ここはもう山の上ではない。次に担ぐべき重荷も、崩れる足場も、時間を計る片桐(かたぎり)さんの手帳もない。


 俺は箸を一度置き、急須から注いだほうじ茶を両手で包み込んだ。湯気を眺めながら、ゆっくりと息を吐き出す。勘定を合わせる必要のない飯の時間は、強張っていた背中の筋肉をじんわりと緩ませていくようだった。


「……今、自分で止めましたね」


 宮坂(みやさか)さんが、大根を箸で割りながら言った。


「高尾で一度、言われましたから」


「覚えていたなら結構です」


 それきり、宮坂(みやさか)さんは焼き魚へ戻った。


 向かい側では、職員の一人が早くも茶碗を空にし、お櫃の蓋を開けていた。


「おい、片桐(かたぎり)監督官の分を残しておけよ」


 もう一人が突っ込むと、片桐(かたぎり)さんは焼き魚の身を丁寧に口へ運びながら静かに首を振り、濁った声で答えた。


「構わん、若い者が食え。……すみません、ご飯のお櫃をもう一つと、あと、そこの漬物の盛り合わせをもう一皿いただけますか」


 片桐(かたぎり)さんが通りかかった仲居へ声をかけた。


 現場では必要な指示ばかりを口にしていた監督官が、ごく自然に漬物の追加を頼んでいる。その様子に、職員二人が顔を見合わせた。


「監督官、漬物好きなんですか」


「戻った後は、こういう歯ごたえのあるものが食べたくなる」


 片桐(かたぎり)さんは運ばれてきた壺漬けの大根を一切れ口へ放り込み、ポリポリと小気味よい音を立てて咀嚼した。


「現場で甘くして、誰かが谷へ落ちたら取り返しがつかん。だが、下りてきた後まで現場の顔で飯を食うほど、私の喉も保たんよ」


「監督官、声、本当にガラガラですからね。明日の報告、大丈夫ですか」


「朝までに少しは戻る。……沢渡(さわたり)さん、宮坂(みやさか)先達(せんだつ)」


 片桐(かたぎり)さんが湯呑みを置き、卓の向こうの俺たちへ視線を向けた。


「今日の点検記録と主(ぬし)戦のデータ、それに映像の整理は、明日の朝から始める。本庁の審査部門への正式な報告と提出も明日だ。今夜はこれ以上の仕事の話はせん。飯を食ったら、しっかり身体を休めろ」


「はい」


「分かりました」


 宮坂(みやさか)さんと二人で頷いた。


 追加のお櫃が届き、職員二人が競うように二杯目の山盛りのご飯をよそっていく。それを見て、俺も空になった茶碗を差し出した。


「宮坂(みやさか)さん、俺にも少しもらえますか」


「ええ、どうぞ。今度はゆっくり味わってくださいね」


 よそってもらった炊きたての白飯に、豚肉と大根の煮汁を少し垂らし、口へ運ぶ。甘辛い出汁の風味が米の甘みと混ざり合い、噛むほどに旨みが広がった。時計を見ることも、次の工程を急ぐこともなく、ただ目の前の温かい飯を腹に収めていく。


 二杯目のご飯を食べ終える頃には、大きなお櫃の底も見え、皿や小鉢のほとんどが綺麗に空になっていた。


 卓の上に立ち上っていた白い湯気はいつしか薄れ、障子の向こうからは、夜の谷川のせせらぎが絶え間なく聞こえてくる。


 足元では、丸くなったカゲが規則正しい寝息を立てていた。


 空になった器を前に、俺たちは熱い茶をすすりながら、静かに更けていく平地の夜の長さに身を委ねていた。


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