第44話 環の石
主の器が黒い煤となって散った上側の岩棚に、冷たい風が吹き抜けていた。足元の岩肌に、黒い塊が一つだけ転がっていた。
掌にすっぽり収まる、継ぎ目のない環状の石だ。金属の鎖環ではなく、磨かれていない表面に細かな層と、光を吸う鈍い黒艶があった。
俺は手を伸ばしかけ、指先を止めた。
「沢渡さん、触らないで」
隣に立つ宮坂さんが、鋭く短く制した。錫杖の石突を足場に当てたまま、宮坂さんは環状の石の周囲へ視線を巡らせる。
「熱は感じません。煙も匂いもなし。周囲の岩に新しい動きはありません。足場も変わっていません」
下側の岩棚から、片桐さんの低く濁った声が斜面を伝って上がってきた。胸の身体カメラのレンズを、こちらへ向けたままだ。
「確認しました。沢渡さん、皮手袋を着けて、携行している記録袋へ収めてください。採取時刻を読み上げ、補助ロープは外さないように」
「了解」
俺は補助ロープの張りを腰に確かめ、道具袋から皮手袋を抜いて両手に嵌めた。
厚手の記録袋を開いて腰を落とす。岩棚の縁へ身を乗り出さず、重心を岩側に預けたまま、黒い環状の石を指先で拾い上げた。
ずしりとした密度があった。金属のような冷たさはなく、乾いた重みが掌へ載った。
「主素材、回収。時刻、午前十一時零八分」
袋へ滑り込ませ、口を二重に閉じてザックの雨蓋へ収めた。
下側の窪みで、職員二人が俺たちを見上げていた。二人は主への攻撃・妨害をせず、確保と記録に徹した。《鎖》も継いでいなかった。
片桐さんの濁った声が下から届く。
「新しく継いだ《鎖》はここでは試しません。詠唱と作用の照合も、関へ戻ってからです。五人が分かれたままです。沢渡さん、宮坂先達、直ちに下側へ戻ってください」
「了解です」
宮坂さんが即座に応じ、足元の傾斜を検分した。
斜面沿いに約十二メートル、傾斜三十五度の露出した岩肌。水を浴びた部分にはまだ湿り気があるが、靴底を置ける段差は残っている。
「私が先に下ります。沢渡さんは上で足場を見ていてください」
「分かりました。先にどうぞ」
下側の窪みにいる職員が、宮坂さんの安全帯に繋がった補助ロープを制動器へ通した。
宮坂さんは身体を岩側へ向け、爪先で段差を一つずつ拾って下りた。職員は余分なたるみだけを取りながら、補助ロープを繰り出していく。
一分もかからず、宮坂さんの両足が下側岩棚のテラスへ着いた。
「宮坂先達、安全索への再接続を確認! 補助ロープを外します!」
職員が接続を確かめてから、補助ロープを外した。
「次、沢渡さん。来てください」
宮坂さんが下から見上げて呼ぶ。
俺は深呼吸を一つ置き、腰の打撲へ意識を向けた。安全帯が食い込んだ箇所は鈍く疼くが、足を踏ん張る動作に乱れはない。右肩も、腕を身体の近くに保てば新しい痛みは出なかった。
「下ります」
補助ロープへ体重を預けず、自分の足で斜面を捉えた。職員には滑ったときの予備として制動してもらい、一歩ずつ高度を下げる。
カゲは俺の右脇を、白い足先で岩の突起を踏み分けながら下りてきた。荷を持たず、人を引くこともない。ただの獣の足取りだった。
下側岩棚へ降り立つと、宮坂さんが俺のザックの左肩側を掴み、足元を安定させた。
「着地よし。肩の庇い動作なし。……沢渡さん、安全索へ繋ぎ直します」
職員が俺の短いランヤードを下側の安全索へ掛け、ロックを確認してから補助ロープを回収した。五人が、下側岩棚の狭いテラスに揃った。
「点呼。五名、全員揃っていますね」
片桐さんの確認に、全員が短く応じた。
「欠員なし。沢渡さんは腰に打撲がありますが、歩行可能。測定端末と記録カメラは作動中。主素材、臨時手形ともに携行を確認しました」
宮坂さんが手早く読み上げた。俺も胸ポケットの外から、防水ケースに入った山の紙の手形を指先で押さえた。
だが、一息ついた俺たちの前には、損なわれた帰路が横たわっていた。
後方の斜面を見下ろす。
既設鎖へ噛みついていた記録外の黒い鎖は、張力を失って岩肌へ垂れていた。消えてはいない。煤けた黒い鎖環が、岩の裂け目から投げ出されている。
黒い鎖が緩んでも、中央から下を岩の奥へ引き込まれた既設鎖は戻らない。固定具を抜かれた岩肌は大きく抉れ、十メートル下の着地点には崩落した岩が積もったままだ。
以前の道を、そのまま歩いて下りることはできなかった。
「あの黒い鎖には触れないように。荷重も掛けず、回収もしません。位置と形状だけを記録してください」
片桐さんが命じた。職員が頷き、レンズを向けて時刻を記録する。
「片桐さん、どう抜けますか」
俺は岩棚に残る資材を見渡した。
「現在地の二つの固定点に、目視できる異常はありません。携行ロープが二本、可搬支点と確保器具もある。崩落の外に残った西側の岩溝へ線を振れば、下の正常な登路まで抜けられます」
「その手順で行きます」
片桐さんは迷わなかった。
「新しく得た《鎖》も、私の《石組み》も、カゲの性質も使いません。疲労した状態で、未知の験を退避手順へ組み込むべきではない。通常の確保器具とロープだけで退避線を作ります」
職員二人が動いた。現在地の独立した固定点へ、二本の携行ロープをそれぞれ結ぶ。岩角には保護材を当て、主索とバックアップを西側の岩溝へ下ろした。
「私が先行します」
職員の一人が主索へ下降器を通し、別のロープへバックアップを取った。崩落部を外した線を下りながら、打音と目視で足場と落石の有無を確かめていく。
三分ほどで、職員は下方の既知の登路へ着いた。
「着地点、足場良好! 受け入れ支点を作りました!」
下からの無線を受け、片桐さんが荷の配分を指示した。
「沢渡さん、腰と肩の負荷を減らします。主素材はそのまま保持してください。ザックの重量物は残る職員へ移し、記録媒体と主素材は別々に持たせます」
「了解です」
機材を分け、残る職員、宮坂さん、俺の順で一人ずつ下降した。
俺はロープへ強く座り込まず、足裏で岩を押しながら下りた。着地点では先に下りた職員二人と宮坂さんが、俺の足元を支えてくれた。
最後に片桐さんが、上側へ短いスリングを残し、主索とバックアップへ接続したまま下降した。道具を一つ残しても、無確保の瞬間は作らない。
全員の両足が、損なわれていない登路の砕石を踏んだ。
「全員、退避完了。これより点検任務を中断し、関へ戻ります」
片桐さんは手帳へ、『試しの鎖周辺、記録外鎖の介入により基部崩落。全面通行止め、再点検を要す』と書き込んだ。そこからの下山は、全員が一定の歩度を守った。
標高を下げて樹林帯へ入ると、無線機が細い雑音を拾い始めた。やがて、関の中継器を捉えたランプが点いた。片桐さんが通話ボタンを押す。
「こちら点検班、片桐。関、応答願います」
『こちら管制室。どうぞ』
「点検班五名、全員生存。予定外の主戦が発生し、主を散らしました。主素材を回収。班員一名に腰部打撲の軽傷。帰路側鎖場に大規模な損壊があります。帰着予定は十五分後。救護員と登録鑑定人の待機を要請します」
片桐さんは必要な報告を終えると、通話を切った。二十分後、俺たちは裏石鎚の関へ帰り着いた。扉をくぐって検査区画へ入ると、背後で重い扉が閉まり、山の風が遠のいた。
管制室横の処置室で上着を脱ぎ、待機していた救護員に腰を診てもらう。擦過傷を消毒され、内出血の広がった腰骨の上へ冷湿布を当てられた。
「強い痛みやしびれはありませんね。いま急いで搬送する所見もありません。今日は冷やして、腫れや痛みが増したら外で画像検査を受けてください」
入院を要する状態ではなかった。受診済みの右肩も、張りが少し強くなっただけで、腕の可動域は保たれている。処置室を出て、検査室へ向かった。
長机の上には、測定端末と身体カメラの記録媒体、俺が胸ポケットから出した白く細長い臨時手形が並べられた。
「沢渡迅さんの臨時手形、回収を確認。本日の検証限定枠は、これをもって終了となります」
窓口の職員が手形を引き取り、受領印を捺した。通常手形の停止は続いている。今日の山行だけで、自動的に戻るものではない。
続いて、登録鑑定人が俺の差し出した記録袋を受け取った。黒い環状の石が、金属の受け皿へ置かれる。鑑定人は息を整え、両手を石の上へかざした。指先が微かに震え、山の素材の性質を読む験――《見立て》が通る。
数秒の沈黙のあと、鑑定人が顔を上げた。
「読めました。支配的な性質は一つ。外から張力を受けるほど環の内径が締まり、力を解けば元の径へ戻ります」
鑑定人は台帳にペンを走らせた。
「形状と性質の照合を完了。裏石鎚一九八二の主素材として新規登録します。登録名、緊環石」
背後の端末から、登録完了の電子音が鳴った。
画面に裏石鎚一九八二の登破記録が開く。登破者は俺、宮坂さん、片桐さんの三人。継承験は《鎖》。全員の既存丈を下回るため、丈改めは更新なしと表示されていた。
随行職員二人は、記録と退路確保を担った支援者として別枠になっていた。
「主素材の保管者を決めます。三人の共同登破です」
片桐さんが長机を挟んで、俺と宮坂さんを見た。
「沢渡さんが持つべきです」
宮坂さんが迷いなく言った。
「大山、戸隠と、カゲが主素材を取り込んだあとの変化を追ってきました。今回だけ素材を別にすれば、比較が途切れます。記録を続けるなら、沢渡さんを保管者にするのが妥当です」
片桐さんは手帳の記録へ目を落とした。
「異論はありません。現行の命令は、沢渡さんの手形を止め、実地検証を行うところまでです。今回の主素材を差し止める命令は出ていない。沢渡さん、あなたが保管してください」
鑑定人が主素材を、封をしていない新しい透明袋へ入れ、俺へ戻した。手のひらに乗った袋を見つめ、俺は息を吸った。片桐さんと宮坂さん、身体カメラを構えた職員二人が見ている。俺が渡すなら、その判断も結果も記録へ残す。
「片桐さん、記録員の方々」
全員へ向き直った。
「俺自身の意思で、この主素材をカゲへ与えます」
「審査の結果を待ってからでも、遅くはありませんよ」
宮坂さんが一度だけ言った。止める声ではなく、もう一つの道を机に並べる声だった。
「待つ間、この石は俺が持ち帰ることになります。帰ってから渡せば、その間のことは誰にも見えません」
俺は透明袋を持ち上げてみせた。
「俺の手形が止まっているのは、カゲの換装も、作用が増えたところも、映像で残っていなかったからです。だったら、渡す瞬間から全部をカメラの前でやる方が筋が通る。後で『いつの間にか取り込んでいた』と書かれるよりは、ずっといい」
宮坂さんは少しだけ考え、頷いた。
「分かりました。私も横で記録を付けます」
職員がカメラを合わせ、片桐さんが頷いた。
「止める根拠はありません。全工程を記録します」
足元では、カゲが俺の右脇に座ったまま、静かに前脚を揃えていた。透明袋の口を開け、黒い環状の石を取り出す。掌に乗せ、カゲの鼻先へ差し出した。カゲは一度匂いを嗅ぎ、石の表面へ鼻先で触れた。カチリ、と小さな音が鳴った。
黒い石の輪郭が崩れ、カゲの白い毛並みへ沈むように消えた。前脚の付け根から胸郭を一周して、細い黒い環が一本、毛並みの上へ浮かび上がる。
前脚から肩へ走る水路模様も、右前脚の細い黒輪も消えていない。その二つへ、胸を巡る環が新しく加わった。カゲは一度身震いをすると、再び静かに伏せた。
「報告します」
俺は片桐さんとカメラへ顔を向けた。
「素材の取り込みを確認しました。カゲの胸に新しい黒い環が現れています。第四の性質が増えた可能性があります」
一度息を置き、続けた。
「ただ、今は試しません。俺は腰を打っていて、片桐さんも声を削っている。全員、主戦と退避を終えた直後です。作用も反動も分からないものを、ここで動かすべきではありません」
片桐さんは手帳にペンを走らせた。
「同意します。記録。カゲの胸部に、新しい環状模様の増加を確認。作用は未確認です」
片桐さんは顔を上げた。
「映像と本日の記録は、本庁の審査部門へ送ります。第四の性質は、後日、正式な管理手順を組んで確認します」
手帳が閉じられ、身体カメラの録画が止まった。
「本日の裏石鎚実地検証は、これで終了します。全員、ご苦労でした」
カゲの胸には、細い黒い環が増えていた。増えたことと、まだ試していないこと。その二つが、別々の欄へ書き込まれた。




