第43話 中心の環
岩棚を吹き抜ける風が、尾根の冷気を含んで強く唸っていた。俺は足元の岩肌へ視線を落とし、上方の主までの斜面を素早く測った。
傾斜は約三十五度。斜面沿いに約十二メートル。垂直の高低差は七メートルほど。露出した岩肌には浮石が少なく、靴底のフリクションは利く。だが、尾根から吹き下ろす向かい風が強く、不用意に身体を起こせば突風で煽られる。
「片桐さん、右手の岩溝沿いに上がります」
俺は即座に状況を口頭で伝えた。
「吹き下ろしが強いですが、第一性質で風を割って最短で詰められる。主の近くまで行って、二本の鎖がどこへ集まっているかを見ます」
「許可する。ただし無確保での前進は認めん。……職員、沢渡さんへ補助ロープを接続しろ!」
片桐さんの低い号令に、浅い窪みにいた随行職員が即座に応じた。
「補助ロープ、接続します!」
職員の一人が背負い枠から引き出した予備ロープのスクリューカラビナを、俺の安全帯のメイン環へ素早く掛け、安全環を確実に締め込んだ。
「接続よし! 制動に入ります!」
職員が岩壁の固定点に取り付けた確保器へロープを通し、両手で構えて繰り出しの態勢を取る。もう一人の職員は、手元の端末で下側岩棚の二つの固定点にかかるテンションと身体カメラの記録を注視している。
補助ロープの接続と繰り出しを確認してから、俺は下側の安全索に繋いでいた短いランヤードのフックを外した。無確保の隙間は作らない。これで下側の安全索に残る負荷は、片桐さん、宮坂さん、職員二名の計四人分となった。
「カゲ、行くぞ」
右脇の白い狼を見下ろし、第一の性質を選んだ。
(来い)
白狼の姿が影へと溶け込み、足首から両肩へかけて黒い羽のような筋が走る。吹き荒れていた向かい風が、俺の身体のわずか数センチ手前で綺麗に左右へ割れた。正面からの風圧が消える。
俺は前傾姿勢を取り、歩荷の重心移動で斜面を駆け上がった。
身体が浮くような魔法の加速ではない。風の抵抗を裂き、足裏の親指の付け根で岩肌のわずかな段差を捉え、確実に歩幅を刻む。
上側の岩棚に立つ主が、その動きに反応した。黒ずんだ鉄の腕が大きく引き絞られる。ジャララッ!
片桐さんの石組みに食い込んでいた一本目の鉤が、強烈な張力で引っこ抜かれ、主の手元へと回収された。控え壁の石が数個砕けて転がり落ちたが、片桐さんは脇から残りの石を岩肌へ押し込み、固定点の前の支えを保つ。
「沢渡さん、来るぞ!」
片桐さんの怒号と同時に、回収された一本目の鉤鎖が、空気を切り裂いて俺めがけて投げ落とされた。黒い鉄の爪が、一直線に視界へ迫る。俺は身を低くし、左へ肩を入れて躱そうとした。だが、斜面の途中で体勢を完全に開くことはできない。
ガツンッ! 鋭い衝撃が腰に走った。
肉体への刺突ではない。鉤の鋭い爪が、俺の骨盤を巻く安全帯の、主たる確保環から離れた荷重対応の側部D環へ斜めから噛み合わさっていた。補助ロープにも触れていない。
直後、主が腕を胸元へ引き戻した。ギチギチと音を立てて、鎖が上へと巻き取られ始める。第一性質のままでは、この物理的な牽引を受け流せない。
「解除!」
俺は即座に第一性質の意識を手放した。
黒い羽筋が肌から引き、割れていた風がどっと身体を叩く。右脇の影から、白い狼が一拍だけ姿を現した。その空白は一秒にも満たない。
間髪入れず、第二の性質を強く意識した。
(来い!)
白狼が再び影へ収まり、身体の芯へ重い冷感が満ちた。グォン、と強烈な張力が腰の安全帯を上方へ引き絞る。
俺は両足を前後に開き、斜面の凹凸へ靴の底全体を密着させた。骨盤をわずかに斜めへ逃がし、腰から入った牽引の衝撃を、背骨を通さずに両足の踏み込みへと流す。
カツンッ!
安全帯の側部D環から、腰骨、両の大腿部を経て、左右の踵へ向けて皮膚の上に黒い水路のような幾何学模様が一瞬だけ鮮明に走った。
足元の岩がきしみ、微かな粉塵が舞う。
「ぐ……っ!」
力を消したわけではない。安全帯が腰肉に強く食い込み、鈍い打撲と擦れの痛みが走る。息が一瞬詰まったが、骨に響くような痛みはない。右肩も、両足の踏ん張りで逃がしたため直接の打撃は免れていた。
「沢渡さん、荷重保持! 固定点異常なし!」
後方の職員が張り詰めた声で叫ぶ。補助ロープの遊びが消え、俺が上方へ引かれた分だけを職員が制動している。主の牽引の大半は、まだ俺の両足が受けていた。
俺は腰を引かれながら、上側の岩棚を見た。止められる。
だが、このまま止め続けても近づけない。
主の右腕から俺へ伸びる一本目の鎖。下では、宮坂さんの錫杖に二本目が掛かったまま張っている。どちらも、主が自分で引いている。
「宮坂さん!」
俺は腰を低くしたまま叫んだ。
「一度だけ、そっちを強く引いてください。主の腕を横へ振らせて、こっちの張りを落とします」
宮坂さんは聞き返さなかった。
「切り替えるんですね」
「はい。今度は、引かせます」
宮坂さんが錫杖を両手で握り直した。
【触れたるものを、この手に従え】
【ひとたびの力、ここに成せ――】
『手力』
次の一動作へ宿った剛力で、宮坂さんは二本目の鉤鎖を山側の岩壁へ向けて一息に引き倒した。バチィンッ! 主の左腕が横へ持っていかれる。胸元の鎖が一斉に鳴り、俺を巻き上げていた一本目の張力が、ほんの一拍だけ緩んだ。
「今だ!」
片桐さんが叫ぶ。俺は第二性質を手放した。
(来い、カゲ!)
白狼が一度だけ右脇へ輪郭を戻し、すぐに俺の影へ沈む。第三の性質を選ぶ。試験場で確かめた、床と靴底の噛みつきを薄くする感覚。まず両足だけ。岩肌へ乗っている荷重はそのままに、靴底と岩の間から抵抗を抜く。
「職員、ロープを出してください!」
「了解! 追従します!」
後ろで補助ロープが滑り始める。主が体勢を戻した。一本目の鎖が再び張る。俺は、踏ん張らなかった。グンッ! 腰を引かれた瞬間、両足が岩肌の上を走るように滑った。いや、走ってはいない。足で地面を蹴っていない。
主の巻き取りが、俺を上へ運んでいる。粗い岩肌の上を、登山靴が異様なほど滑らかに抜けていく。速度が上がる。
「沢渡さん、左へ寄りすぎ!」
宮坂さんの声。右足の摩擦だけを少し戻す。右足が岩を噛み、身体の向きがわずかに変わる。すぐにまた抵抗を落とす。今度は左足を少しだけ効かせる。一本の鎖に引かれながら、左右の足裏の滑り方を変えて岩溝の中央へ軌道を戻した。
主まで、六メートル。四メートル。二メートル。上側岩棚の縁が迫る。俺は右足への作用を切った。ガッ、と右靴が岩を噛む。膝を沈め、身体を半回転させる。左足も戻す。一気に摩擦が戻り、俺は主の正面、岩棚の縁へ片膝をついた。
鉤鎖はまだ安全帯へ噛んでいる。主の右腕が、さらに俺を胸元へ引き寄せようと縮んだ。近い。ここまで来れば、見える。幾重にも巻かれた黒い鎖の中心。胸の真ん中に、一回り太い無骨な環がある。
その環の裏から、短い鎖が四方へ伸び、全身の鎖束を引き絞っていた。あれが支点だ。
「第三、解除」
滑りの性質を切る。続けて第二へ換装した。空白の一拍、俺は両足を岩棚へ押しつけて耐えた。腰の側部D環が軋む。第二性質が身体へ入る。主が鎖を巻き取る。安全帯から腰へ食い込んだ力を、そのまま受け止めない。
俺は左掌を、胸の中心環へ叩きつけた。力の通り道を変える。腰から骨盤。腹。肩。左腕。掌。ドンッ! 俺を引き寄せるはずだった主自身の牽引が、俺の左掌から中心環へ流れ込んだ。中心環が一寸だけ胸の奥へ沈んだ。
その裏で、短い鎖の一本が甲高く鳴る。主の上体が大きくのけぞった。
「効いてる!」
宮坂さんの声が飛ぶ。
だが、支点は外れていない。
主は右腕を振り上げ、俺ごと鎖を横へ薙ごうとした。このまま側部D環へ鉤を残せば、次は岩へ叩きつけられる。主が腕を返す直前、張力が一瞬だけ抜けた。
「今度は、こっちだ」
俺は第二を解き、通常の身体へ戻す。噛み込んだ鉤の根元を左手で掴み、右肩は大きく動かさないよう体幹の内へ収めた。
【触れたるものを、この手に従え】
【ひとたびの力、ここに成せ――】
『手力』
左手だけでなく脚と腰、体幹へ、次の一動作の剛力が通る。俺は両足で岩を踏み、腰を返して、鉤を安全帯の側部D環へ押しつけるのではなく、噛み込んだ角度と逆へ一気に返した。ガギンッ! 金属が擦れ、鉤の爪が側部D環から抜ける。
同時に身を沈める。主の右腕が空を薙ぎ、外れた鉤鎖が俺の頭上を唸って通り過ぎた。一本目が主の手元へ戻る。俺はその場から二歩下がった。
「一本、外れました!」
「確認!」
下から職員の声。主はすぐに二本目へ力を集めた。宮坂さんの錫杖に掛かった鉤鎖が、激しく巻き取られる。
その牽引の反動を利用して、主は上側岩棚の足場を横へ滑るように移動した。俺の正面から外れ、中心環を守るように身体を捻る。
「逃がしません!」
下側の岩棚から、宮坂さんの詠唱が響いた。
【湧く水、集いて奔流と成せ――】
『雨降り』
濡れた岩肌から集まった水が、激しい水煙となって噴き上がった。水は主の巨体そのものではなく、主が踏み込もうとした上側の岩棚へ滝のように叩きつけられる。滑らかな岩肌が一瞬で濡れた。主の巨足が横へ逃げようとして、ずるりと滑る。
間髪入れず、片桐さんが濁った声で大地に命じた。
【散る石は寄れ、伏す土は起きよ】
【継ぎ、支え、道を組め――】
『石組み』
主の進行方向に転がっていた割れ石と小石が跳ね上がり、岩棚の縁へ低い控え壁を組み上げた。横へ逃げれば濡れた足が滑る。踏みとどまれば石組みが進路を塞ぐ。主の動きが止まった。
その瞬間、二本目の鉤鎖にも弛みが出る。
「宮坂さん、今なら外せます!」
「はい!」
宮坂さんは錫杖の頭を山側へ倒し、掛かっていた鉤の向きを変えた。鉤は閉じた環ではない。張力さえ抜ければ、噛んでいる角度を戻せる。宮坂さんは錫杖を半回転させ、通常の力で鉤の爪を滑らせた。ガチン、と鉄が鳴る。
二本目の鉤が錫杖から外れ、主の手元へ引き戻された。
「宮坂先達、ロープ接続!」
窪みの職員が、もう一本の予備補助ロープを宮坂さんの安全帯のメイン環へ素早く繋ぎ、固定を確認する。宮坂さんは下側の安全索からランヤードを外すと、俺の登った岩溝を迷いなく駆け上がってきた。
二人で、上側の張り出しへ踏み込む。両腕の鉤を取り戻した主が、全身の鎖をジャラジャラと波打たせて立ちふさがった。胸の中心環は、さっき俺が流した牽引を受けた位置からわずかにずれている。裏へ伸びる四本の短い鎖。
一本だけ、張りが揃っていない。
「宮坂さん。環そのものじゃない」
俺は息を整えながら言った。
「環を支えてる後ろが緩んでます。左右から引けば、支点ごと抜ける」
宮坂さんは一度だけ中心を見た。
「右を沢渡さん。左を私が持ちます」
「はい」
主が両腕を振り上げる。今度は鉤を投げるためではない。胸元へ鎖を巻き戻し、中心環へもう一度張力を集めようとしている。その前に入る。俺は右から。宮坂さんは左から。
中心環を通って全身へ回っている二本の太い主鎖のうち、俺は右側を両手で取り、宮坂さんは左側へ手を掛けた。ただ引き抜くのではない。中心環を胸へ固定している短い受け鎖へ、左右から逆向きの力を掛ける。
「合わせます」
宮坂さんが言った。俺は頷いた。二人の呼吸が揃う。俺と宮坂さんが、同じ詠唱を重ねた。
【触れたるものを、この手に従え】
【ひとたびの力、ここに成せ――】
『手力』
重なった詠唱が、裏石鎚の霧を震わせて響いた。次の一動作へ、剛力が満ちる。
「今!」
俺は右肩を体幹の内へ収め、両足で岩を踏んで、腰と全身で右へ。宮坂さんは左へ。二本の主鎖を、中心から引き剥がすように一気に引いた。ギャリィィィンッ! 耳をつんざく金属音が上がる。中心環は開かない。壊れもしない。
だが、さっき主自身の牽引を流し込んだことでずれていた背後の受け鎖が、左右からの力に耐えられず一斉に外側へ引かれた。
一本。二本。短い連結が胸の鎖束から抜ける。中心環そのものが、全身を束ねていた位置から前へ外れた。
その瞬間、主の身体を形にしていた張力の釣り合いが崩れた。
全身へ巻かれていた鎖が、一斉に緩む。黒い鎖の塊が、ガシャガシャと激しい音を立てて上側の岩棚へ落ちた。地面を叩いた端から輪郭を失い、黒い煤のような粒子となって、霧の混じる風の中へさらさらと散っていく。
喉の奥から両腕の筋へ、冷たい鉛を流し込まれたような重圧が走った。これまで知らなかった名と、筋肉の引き絞り方、視界の捉え方。その型が、骨の髄へ直接刻まれる。
視界の端で、宮坂さんが錫杖を握る右手をわずかに震わせた。下側では、片桐さんが自分の掌を見つめている。
「……来ましたね」
宮坂さんが静かに息を吐いた。
「ええ」
俺も頷いた。
身体に刻まれた験の名は《鎖》。分かるのはその名と詠唱だけで、何をどう動かすのかは、試してみるまで分からない。
だが、身体そのものが強くなった感覚はない。裏石鎚一九八二は、俺の丈二四〇〇、宮坂さんの丈三二〇〇、片桐さんの二九〇〇を下回る。三人とも丈は伸びない。
俺は主鎖から手を離した。荒い呼気を吐き出しながら、その場に立つ。
「全員、動くな! 現在の確保を維持しろ!」
下側の岩棚から、片桐さんの低く濁った声が飛んできた。
俺と宮坂さんは、下側から伸びるそれぞれの補助ロープに繋がれたまま、上側岩棚の縁で足場を固めた。下側の岩棚では、主へ《石組み》を届かせた片桐さんが前寄りに残り、職員二人は後方の一段低い窪みで、二つの固定点に安全索を接続したまま周囲を警戒している。
「欠員の確認!」
片桐さんが点呼を取る。
「上部二名、健在です。……沢渡さんの腰に擦過傷と打撲がありますが、自力歩行に支障はありません。私に負傷なし」
宮坂さんが即座に応じた。
俺は自分の身体を確かめた。安全帯が食い込んだ腰に鈍い痛みが脈打っているが、骨に響く痛みはない。右肩は張りがわずかに戻った程度で、腕の可動域も保たれていた。
「下部三名、負傷なし。固定点、機材とも目視と計器上に異常なし」
片桐さんの声ははっきりと濁っていたが、指示を出す口調に乱れはない。職員の一人が、身体カメラの記録を見ながら読み上げた。
「験の使用を確認。沢渡さん、《手力》二回。宮坂先達、《手力》二回と《雨降り》一回。片桐さん、《石組み》二回。札の使用はありません」
宮坂さんが振り返り、下方の切れ落ちた斜面を見下ろした。
「……片桐さん。後方の黒い鎖を見てください」
主が散ったのと同時に、帰路側の既設鎖を噛んでいた黒い鎖は、目に見えて張力を失っていた。岩肌に力なく垂れ下がり、緩んだ鉄の環が風に吹かれてカランと微かに鳴っている。
だが、引き抜かれた既設鎖の下半分も、崩落した固定点も、下の着地点も、壊れたまま元には戻っていない。黒い鎖が緩んだからといって、帰路が復旧したわけではなかった。
霧が少しずつ晴れていく。上側の岩棚、主の器が黒い煤となって消え去ったその足元に、何かが残されていた。




