第42話 二本の鉤鎖
岩棚の硬い岩肌に背を預け、荒い呼気をゆっくりと整えた。
いまいる岩棚は、五人が荷を下ろして足場を確保するには十分な広さがあった。
山側の内縁には、一段低い窪みがある。上部の岩壁が庇のように浅く突き出し、進行方向からの直線を遮る位置で、大人二人が身を低くして機材ごと収まるのにちょうどいい隙間だった。
「職員、固定点の状態を報告しろ」
片桐さんが手帳を開いたまま、低く命じた。
一人の職員が安全帯のランヤードを張ったまま、小型の打診鎚で岩棚の二つのアンカーボルト周辺を叩く。澄んだ金属音が返ってきた。
「二点とも打音異常なし。周囲の岩に新しい亀裂、固定具に目視できる変形はありません」
「了解。記録を継続しろ。もう一人は後方の黒い鎖を監視。近寄るな、目視と撮影だけに留めろ」
もう一人はカメラを帰路側へ向け、端末の時刻とログを照合している。
片桐さんは無線機の通話ボタンを押したが、スピーカーからはかすれた砂嵐の音しか戻らなかった。
「山内無線は不通。この尾根の岩陰は、低所中継器の死角に入っている。救援の要請は通らない。記録はすべて持ち帰る必要がある」
機器の故障でも連絡ミスでもない。入山前に確認していた、地形による中継範囲の限界だった。
俺はザックのチェストストラップを少し緩め、周囲の距離と傾斜を測った。
背後の、約五メートル戻った中間足場から下は、既設鎖の下半分と固定点周辺が崩れ、いま安全に通れる状態ではない。
記録にない黒い鎖が、残った既設鎖の上部を噛んだまま、岩の裂け目へとぴんと張り詰めていた。張力は一定で、緩む気配はない。
一方、進行方向には、三十五度ほどの露出した岩肌が斜め上へ続いていた。斜面沿いの距離は約十二メートル。現在地より七メートルほど高い位置に、平坦な岩の張り出しがある。
そこから先は濃い霧が垂れ込め、視界は遮られていた。事前の安全点検もなしに、五人で不用意に踏み込める斜面ではない。
「帰路側の下部固定点は、ここからでは崩れた岩に隠れて確認できません」
黒い鎖を監視していた職員が、端末から顔を上げずに報告した。
「安全索を延ばして下ろすにも、途中で荷重を受ける場所が読めません。現状の記録だけでは下降可能と判断できません」
「前方の張り出しも未点検です」
もう一人が続けた。
戻れないから進める、とはならない。俺は岩棚の固定点から背後の黒い鎖、上方の張り出しへ順に目を移した。
「ここは五人で留まれます。ただ、黒い鎖が次にどこへ荷重を掛けるか分からない。留まっているだけで帰路が戻るわけでもありません」
片桐さんはすぐには答えず、二つの固定点と山側の窪みを見比べた。
「前進も下降も、いまは決めない。まず現在地を分けて使えるようにする。記録を切らさず、動いたものだけを報告しろ」
宮坂さんが俺の隣へ寄り、右肩の動きを確かめるように視線を落とした。
「沢渡さん、腕の重みはどうですか」
「悪化はしていません。さっき職員を支えたときも、腰で受けたので肩に嫌な引っかかりは出ませんでした」
「結構です。……片桐さん、全員がこの岩棚の中央に固まり続けるのは危険です。退避できる位置をあらかじめ分けておきましょう」
「そうだな」
片桐さんが頷きかけた、その時だった。
キィン、と耳奥を突くような高周波の金属音が、背後の虚空から響いた。
帰路側へ張り詰めていた黒い鎖が、まるで巨大な弦を弾いたかのように、一度だけ激しく跳ね上がった。
既設鎖をさらに巻き取る動きではない。その鋭い振動は、岩の継ぎ目を通って俺たちの足元の岩盤を駆け抜け、前方――上方の霧の奥へと抜けていった。
チャラ、と重い鉄の擦れ合う音が、上の岩の張り出しから返ってくる。
尾根から吹き下ろす風が霧を一瞬だけ裂いた。
さきほど測った上の岩棚に、それは立っていた。
人の形をしていた。だが、通常の人間より頭二つ分ほど大きい。黒ずんだ鉄の鎖を、幾重にも全身へ巻き付けたような異様な輪郭だ。顔や肌の質感、それが金属なのか岩なのかまでは、陰と霧に阻まれて判別できない。
人型の左右には、太い黒色の鎖が二本、蛇のように地面へ垂れ下がっていた。その先端には、人の頭ほどもある無骨な鉄の鉤が結わえられている。
主が右の腕をわずかに引いた。
その動作と寸分の狂いもなく、背後の帰路側に張っていた黒い鎖が、グッと軋み音を立てて張力を強めた。
「……同期している」
俺が呟いた。背後の鎖と人型の左右にある二本は、目に見える範囲では繋がっていない。それでも、腕の動きと張力の変化は同時だった。少なくとも、帰路を塞いだ黒い鎖は、あの人型の動きに応じている。
「敵の正体を論じるな。持ち場を割る!」
片桐さんの鋭く低い号令が飛んだ。
「職員二名、山側の張り出しへ退避しろ! 機材を抱え、一人ずつフックを掛け替えろ。射線の外から記録と後方の黒い鎖を監視しろ!」
「了解!」
一人目の職員が、安全索の予備フックを岩壁の固定点へ掛け替え、低姿勢で後方の一段低い窪みへ入った。岩の角が上方からの直線を遮る。接続を確認した声を受けてから、二人目も機材を抱えて同じ窪みへ移った。片桐さんは前寄りに残り、《石組み》を主戦へ届かせられる位置から俺たちを見た。
「一名、主と前方を記録。もう一名、固定点と後方を監視します」
二人は身体カメラのレンズを別方向へ振り分け、主戦の正面から外れた場所で記録と確保の役割を取り直した。主への攻撃や妨害はしない。
主の二本の腕が、同時に持ち上がった。
飛びかかってくるのではない。その手元で、二本の鉤鎖が円を描いて唸りを上げた。身体を直接砕きに来るのではなく、支点と道具を引いて人間の重心を崖下へ引きずり落とす動きだ。
「下がれ、沢渡さん、宮坂先達!」
片桐さんが前へ出た。
岩棚の外縁には、先ほどの崩落で跳ね上がってきた拳大の割れ石と砂利が散らばっていた。片桐さんはザックを下ろさず、深く息を吸い込み、低い声で唱えた。
【散る石は寄れ、伏す土は起きよ】
【継ぎ、支え、道を組め――】
『石組み』
声が山肌に吸い込まれた瞬間、足元に散っていた割れ石と砂利が、生き物のように擦れ合って中央へと引き寄せられた。
ガチガチと激しい音を立てて石同士が噛み合い、現在の二つの固定点の前、岩棚の山側に、低い石の控え壁が組み上がる。
新しい岩を生み出したのではない。そこにあった既存の割れ石を寄せ、最短で組んだ足場の支えだ。
片桐さんの呼気がかすかに濁った。験の行使による、声の確かな消耗だった。だが言葉を失うほどではない。
ヒュンッ、と空気を切り裂く重い風切り音が直撃した。
主の右手から放たれた一本目の鉤鎖が、矢のような速度で岩棚へ突き刺さる。
ガヅンッ!
鉤の爪が、片桐さんの組み上げたばかりの石の支えへ深く食い込んだ。
直後、主が太い腕を引き絞る。凄まじい張力が鉤鎖に掛かった。
石の支えが外れれば、主は鉤を引き戻し、その背後にある二つの固定点を狙える。全員の安全索が危ない。
「ぐ……っ!」
片桐さんは石の脇から岩壁の凹凸へ足を突っ張り、主の方へ引かれる石の側面を両手で岩肌へ押し込んだ。石がキシリと軋むが、噛み合った割れ石は一斉には抜けない。
支えの後ろにある二つの固定点は、まだ目に見えて動いていない。だが鉤鎖が一度強く引かれるたび、岩を通じた細かな震えが全員の安全索へ伝わった。石の支えが砕ければ、次の鉤を遮るものはない。
だが、敵の手は一本ではない。
主の左腕が振られ、二本目の鉤鎖が甲高い唸りを上げて宙を走った。
狙いは人の胴体ではなかった。
ガチィンッ!
火花が散り、宮坂さんが構えていた錫杖の頭――遊環の通った金具の隙間に、二本目の鉤が完璧に噛み合わさった。
グォン、と鎖が巻き取られ、宮坂さんの身体が前方の虚空へ持っていかれそうになる。
「宮坂さん!」
「引かせません……!」
宮坂さんは安全帯を岩壁の固定点に繋いだまま、錫杖を手放さなかった。即座に腰を沈め、錫杖の石突を足元にある浅い継ぎ目へ当てる。柄の中央を岩壁の角に押し当て、引かれる力の向きを岩肌と安全帯へ分けた。
錫杖は折れず、宮坂さんの足も岩棚から離れない。大きく場所を変えれば鉤の力を正面から受けるが、腰と足の位置を直し、引かれる角度を変える余地は残っていた。
位置関係が、瞬時に固定された。
上方の岩棚に主が構えている。
一本目の鉤鎖は、主から片桐さんの石の支えへ一直線に張られ、本人が脇から割れ石の噛み合わせを押さえている。
二本目の鉤鎖は、主から宮坂さんの錫杖の頭へ張り詰め、柄を岩へ当てた本人が角度を変えながら耐えている。
そして背後には、帰路を塞いだ黒い鎖が、岩の奥へと張られたままだ。
五人の安全索は切れていない。職員二人は後方の一段低い窪みからカメラを回し、固定点を監視している。
片桐さんは支えを離れられない。宮坂さんも錫杖を大きく動かせないが、鉤の張る角度を読み、足場を直す余地は残している。
三人のうち、大きく位置を変えられるのは俺だけだった。
右脇にいるカゲは、白い毛並みを逆立てることもなく、静かに主を見据えている。まだ何の性質もまとっていない。前脚に巻かれた細い黒い輪だけが、冷たい風の中でくっきりと浮かんでいた。
「沢渡さん!」
宮坂さんが歯を食いしばりながら、鋭く声を絞り出した。
「巻き取りの起点は主の手元です! 斜面は傾斜三十五度、浮石は少ない! 風は尾根から吹き下ろしています!」
一人で耐えながらも、宮坂さんは俺が進むべき斜面の情報を正確に切り分けて渡してきた。
続いて、組み上げた石の支えを脇から押さえる片桐さんから、低く濁った、だが揺るぎない命令が飛んだ。
「沢渡さん、私の支えと宮坂先達の錫杖に掛かった鎖を外せ! 主を倒そうとするな。まず我々の確保を奪っている、あの二本の接続を外すんだ!」
「――了解!」
俺はザックの位置を背中で正し、足元の傾斜を見据えた。
十二メートルの露出した岩肌。
七メートルの標高差。
吹き下ろす向かい風。
そして、仲間を縛る二本の硬い鎖。
俺は右脇の白い狼を見下ろし、次の一歩を踏み出すための息を吸い込んだ。




