第41話 巻き取られる道
試験を終えた岩棚から、砕石の敷かれた点検路へ戻った。
裏石鎚の道は、尾根の斜面を巻いて延びている。幅は人の肩二つ分ほどしかなく、山側の岩壁から湿った鉄の匂いが漂っていた。
足元の砕石には人が踏み固めた跡がある。その上へ、岩壁から剥がれた新しい石がいくつか転がっていた。
「ここから最初の点検区間に入ります」
先頭を歩く片桐さんが足を止めた。
目の前の岩壁に、太さ二センチを超える無骨な鉄の鎖が垂れ下がっていた。表の鎖禅定の形を映したように、裏へ入った者が手足を掛けて登るための既設鎖だ。
その脇、一メートルほど離れた岩肌には、資源庁が定期点検用に打ち込んだ固定具と、そこに張られた細い安全索が垂直に伸びている。
既設鎖は登るための足場であり、安全索は隊員の安全帯を繋いで墜落を止めるための命綱だ。二つは完全に別の固定点へ支持されていた。
「記録準備。基部の確認から入る」
片桐さんの短い指示を受け、随行職員二名が素早く分担に入った。
一人が安全帯のランヤードを安全索へ掛け、小型の打診鎚を抜いて既設鎖の最下部にある固定環を軽く叩く。澄んだ金属音が岩壁に反響した。もう一人が携帯端末を開き、前回点検時の数値とカメラのリアルタイム映像を突き合わせる。
「第一固定環、打音異常なし。座金周辺の岩に亀裂の伸長は見られません。……第三環から第五環にかけて、接触面に軽い偏摩耗あり。直ちに交換する状態ではありませんが、次回の交換候補へ登録します」
「了解。識別タグを付与して記録しろ」
片桐さんは手帳に目を落とすことなく、職員の指差し確認を目視で追っていた。
打音、摩耗、周囲の岩、記録の順に確認が進む。既知の資材を維持し、劣化を拾って補修へ回す手順には淀みがなかった。
俺は荷を背負ったまま、鎖の垂れ下がる角度と岩の傾斜を見上げた。
斜度は四十度前後。距離は十メートルほどで、鎖を使わずとも足の置き場を選べば登れる斜面だ。右肩の奥にはまだ重い張りが残っているが、十キロ強のザックを背負った状態でも、足裏の摩擦を意識して重心を低く保てば問題なく上がれる。
殿に立つ宮坂さんが、俺の背後で周囲の斜面を見回していた。
「沢渡さん、間隔を空けましょう。前の点検が終わるまで動かないでください」
「分かっています。鎖の揺れが収まるのを待ちます」
五分ほどで下部の点検が終わり、片桐さんが既設鎖に手を掛けた。
「上部の中間足場へ上がる。一人ずつ間隔を開けて登れ。安全索のフックは常に胸の高さより上を維持すること」
片桐さんが軽快な足取りで鎖場を登り、続いて機材を背負った随行員二人が上がっていく。俺は二人の後から鎖に手を添え、足元の岩の段差を確実に拾いながら身体を引き上げた。最後に宮坂さんが登ってくる。
登り切った先は、岩壁の途中に張り出した幅八十センチ、長さ三メートルほどの狭いテラスだった。
いわゆる中間足場だ。足元は硬い一枚岩だが、五人が縦一列に並ぶとそれだけで空間が埋まる。全員がザックを下ろして休憩を取ったり、救助用の担架を広げたりできる広さはない。
岩壁の腰の高さに、互いに独立した二つの中間確保点が打ち込まれていた。職員が両方を確認してから、全員が各自のランヤードを安全索へ掛け替える。
先に着いた随行員の一人が前方の安全索へ接続を替え、五メートル先の岩棚まで移った。固定点と安全索、既設鎖の上部を確認し、同じ経路で中間足場へ戻る。
「前方の固定点、打音異常なし。安全索と既設鎖、使用できます」
片桐さんが職員の接続と記録を確認した。
現在位置の前後は、明確に分かれていた。
進行方向へ目を向けると、わずか五メートルほど先に、五人が荷を下ろせる広く平坦な岩棚が見えていた。
そこへ至る既設鎖、安全索、固定点は、いま職員が確かめたばかりだ。あそこまで出れば、全員の確保を取り直せる。
一方、いま登ってきた帰路側は、十メートルの傾斜した鎖場の下に、先ほど点検を終えた平場が広がっている。戻るには、同じ鎖場を一人ずつ慎重に下降しなければならない。
「中間足場の確保完了。これより前方の――」
随行員が端末へ時刻を入力しかけた、その瞬間だった。
足元の岩盤の奥から、低く重い振動が爪先へ伝わってきた。
(……何だ?)
地震のような横揺れではない。硬い岩の奥で、巨大な鉄が軋み合うような、ギリギリとした圧縮音が靴底を震わせていた。
「鎖の音が違います」
俺が声を上げたのと、片桐さんが顔を跳ね上げたのは完全な同時だった。
「全員、既設鎖から手を離せ! 身体を岩壁へ寄せ、安全索に荷重を預けろ!」
片桐さんの鋭い号令が狭いテラスに響いた。
随行員二人は機材を抱えたまま即座に既設鎖を手放し、壁のボルトに繋がれた安全索のテンションを確かめながら身を縮めた。宮坂さんも素早く姿勢を落とし、岩肌の窪みへ爪先を突っ込んで踏ん張る。
異音の出所は、俺たちが登ってきたばかりの帰路側――中間足場のすぐ下だった。
傾斜した岩肌に元からあった、幅数センチの古い亀裂から何かが這い出してきた。
黒い鎖だった。
光をほとんど返さない、煤を焼き付けたような黒い鎖環が、岩の割れ目から音もなく滑り出てくる。通常の鉄鎖のような錆びや傷は見当たらず、職員が開いた点検記録にも載っていない。
カゲは俺の右脇で身を低くし、唸り声も上げずにその黒い鎖を凝視している。俺はカゲをまとっていない。少なくとも、こちらが第三性質を使った結果ではなかった。
黒い鎖は、人間へ直接飛びかかってはこなかった。
その先端の環が、生き物のような正確さで、帰路側の太い既設鎖の中間部へ巻き付いた。
ガチリ、と硬質な噛み合わせの音が鳴る。
直後、岩の裂け目の奥で、凄まじい巻き取りが始まった。
ギュルルルル――ッ!
信じがたい力で黒い鎖が引き込まれていく。噛み合わされた既設鎖が跳ね上がり、強烈な張力で岩肌へ擦れ、火花を散らした。
バキッ、と乾いた破砕音が響く。
既設鎖の下部固定点を囲む岩が、牽引力に耐えきれず、大きな塊となって砕け散った。固定具ごと引き抜かれた太い鉄鎖が、蛇のように暴れながら、黒い鎖とともに岩の割れ目の奥へ巻き取られていく。
崩れた岩の破片が、十メートル下の平場へ雪崩のように落ちていった。
やがて巻き取りの音がやんだ。
沈黙が戻った斜面を見下ろし、俺は息を呑んだ。
帰路側の既設鎖は、中央から下が岩の奥へ引きずり込まれていた。
固定点の抜けた岩肌は抉れ、無数の浮石が不安定に引っかかっている。黒い鎖は残された既設鎖の上部へ噛み合ったまま、張り詰めて岩の裂け目へ続いていた。
俺たちを支える中間足場の二つの固定点と安全索は、別系統のため無事だった。だが、帰路側の別の固定点と着地点には崩落が及び、いま五人を安全に下ろせる状態か判断できない。
「……後方の既設鎖、中央から下が脱落。帰路側の固定点周辺が崩れています」
随行員が震える声で告げた。身体カメラのレンズは、抉れた斜面と、そこに噛み付いたまま動かない黒い鎖を記録し続けている。
「全員、怪我はないか」
片桐さんの声は、平時と変わらない低さを保っていた。
「ありません」
「無事です」
それぞれが短く応じる。俺も自分の肩と足元を確かめた。中間足場の二つの固定点は動かず、全員のランヤードは張られたままだ。
宮坂さんがテラスの端から下を覗き込み、冷静な声で片桐さんへ告げた。
「片桐さん、退路が断たれました。この足場に五人で留まり続けるのは限界があります。安全索だけで一人ずつ懸垂下降して戻りますか」
「無理です」
俺は下方の斜面を指し、測った事実をそのまま言葉にした。
「斜面の浮石が多すぎます。いまロープで下りれば、擦れで落石を起こすおそれがある。下で待つ人間に当たります。それに、帰路側の固定点も崩落で緩んだ可能性がある。五人を下ろすには距離が長い」
「沢渡さんの言う通りです」
片桐さんが前方の斜面へ鋭い視線を向けた。
「前を見ろ。上の岩棚まで五メートル。あそこの固定点と安全索、既設鎖は確認済みだ。あそこまで出れば、全員の確保を取り直せる。……沢渡さん、あの黒い鎖には手を出さなくていい」
「はい。相手の張力も内部構造も分かっていません。この狭い足場で、不用意に触れるのは危険すぎます」
「その通りだ。これは登破の続行ではない。安全な退避場所へ隊を移動させるための、限定的な前進だ」
片桐さんは迷いなく方針を定めた。
「私が先頭を切る。上の岩棚へ渡り、受け入れ側の固定支点を作る。続いて職員二名を送る。沢渡さんは足場の中央で職員の荷を支えろ。宮坂先達は殿で最後の安全索を監視しろ」
「了解」
「了解しました」
片桐さんは安全索へ二重に接続を掛け替え、岩肌を横へ進んだ。五メートルを詰めて前方の岩棚へ足を乗せる。
確認済みの固定点へロープを結び、受け入れ側の確保を作った。
「一人目、来い!」
片桐さんの合図で、機材を背負った一人目の職員が足を踏み出した。
横風が吹いて機材ケースが岩壁へ振られそうになる。俺は中間足場に左足を強く突っ張り、伸ばした左手で職員の背負い枠の底をぐっと支えた。右肩へ急な負荷を掛けないよう、腰と背骨の軸で重みを受け止める。
「足元だけ見ろ、そのまま前へ」
「ありがとうございます……!」
一人目が無事に岩棚へ渡り、片桐さんの確保に入る。続いて二人目の職員も、俺と宮坂さんのサポートを受けながら無事に渡り切った。
「次、沢渡さん。渡ってください」
宮坂さんが俺の背中に手を添えて促した。
「宮坂さんが先でも構いません」
「いいえ、殿は私です。あなたの安全索が岩棚に届くまで見届けます。早く」
俺は頷き、ランヤードを前方の安全索へ掛け替えた。
足元の岩へ靴底が掛かることを確かめながら、横歩きで五メートルを進む。右肩の負傷へ意識を向けても、無理な力みはない。
数歩で前方の岩棚へ身体を入れると、片桐さんの手が俺のザックのショルダーベルトを掴み、安全な位置へ引き寄せた。
最後に宮坂さんが、無駄のない身のこなしで中間足場を離れ、岩棚へ渡ってきた。
「全員収容。メイン確保を取り直せ!」
片桐さんの指示で、五人全員のランヤードが岩棚の堅牢な固定点へ繋ぎ直された。
安定した足場へ背中を預け、全員が一度呼吸を整えた。
「欠員の確認。……五名、全員揃っているな」
片桐さんが点呼を取る。
「全員います。負傷者なし」
宮坂さんが即座に応じた。
職員が機材ケースの留め金を確認し、「測定器、破損なし。記録ログ継続中」と報告する。俺も胸ポケットを押さえ、防水ケースに入った白く細長い臨時手形が無事にあることを指先で確かめた。
全員が無事だった。
だが、息を整えて見下ろした先には、過酷な現実が横たわっていた。
下方の鎖場は途中で寸断され、黒い鎖が既設鎖へ噛んだまま、岩の亀裂へ張り詰めている。いま通れる退路は失われた。
霧が一段と濃くなり、黒ずんだ岩肌を覆い隠していく。
何が黒い鎖を動かしたのか。
張り詰めた冷気の中、俺たちは各自の接続を確かめながら、次の行動を見極めようとしていた。




