第40話 滑りの検証
岩棚を渡る風が、金属製の試験架台を低く鳴らしていた。定点カメラ二基の赤いランプが点灯し、随行員が胸元に着けた記録機も俺の足元を捉えている。
架台の中央には、幅一メートルほどの低い試験床が据えられていた。表面は乾いた粗粒のゴム板で、左右の足元に独立した荷重計が埋め込まれている。試験床の両脇には厚いマット。頭上の梁からは二本の安全索が下り、俺の全身ハーネスへ十分な遊びを持たせて繋がっていた。
腰の正面環には、横方向へ弱く引くための低速ウインチのワイヤーが付いている。
「これより、戸隠の主素材に由来する第三性質の試行に入る」
片桐さんが手帳を構え、身体カメラの位置を正した。
「まず通常状態の基準を取る。沢渡さん、合図があるまで性質は使わないこと。転倒しそうなら自分で粘らず、こちらで止めます」
「了解です」
俺は右脇に座るカゲを見下ろした。白い毛並みの中で、右前脚の黒い輪だけが、曇り空の下で沈んで見えた。
随行員が俺の登山靴と床面を確認し、泥や水分がないことを指差した。
「床面乾燥。靴底異物なし。安全索、左右とも正常」
「基準牽引。最低速」
ウインチが低く唸った。腰を真横へ引かれる。俺は膝をわずかに曲げ、両足の裏を床へ置いたまま受けた。靴底は動かない。ワイヤーの張力が一段上がる前に、片桐さんが手を上げた。
「停止」
引きが抜ける。
「今の値を基準にする。次、第三性質を選択。ただし、まとっただけでは作用させない」
「はい」
俺は足元のカゲへ意識を向けた。
(来い)
白狼の輪郭がすっと影へ沈んだ。第一性質のときの風が抜ける軽さとも、第二性質のときの水路を思わせる重い冷感とも違う。足裏と床の間にあるはずの噛みつきが、意識を向ければ薄くできる。
そんな感覚だけが、まだ使っていない道具のように身体へ重なった。俺は試しに体重を左右へ移した。靴底は普通に床を捉えている。
「まとっていますが、今は変化ありません」
「確認した」
片桐さんが記録する。
「選択中でも常時作動ではない、と。では右足だけ。いきなり最大にしないでください」
「右だけ、弱くやります」
右足裏へ意識を絞る。滑れ、と命じる必要はなかった。床と靴底の間にあった抵抗を、少しだけ抜く。
その瞬間、右の靴底だけが妙に軽くなった。
体重は掛かっている。床の硬さも分かる。それなのに、前後へ数ミリ動かすために必要な力だけが減っている。
「右足だけ、摩擦が落ちました。左は普通です」
宮坂さんが俺の腰と膝を見ながら言った。
「左足を軸にしてください。右を試すために、腰まで流さないで」
「分かりました」
「基準と同じ弱い横引きを入れる」
ウインチが動いた。腰が横へ引かれる。左足は床を噛んだ。右足だけが、ズッ、と十センチほど横へ滑った。すぐに俺は右足への作用を止めた。靴底が床へ噛み直す。身体の流れも止まった。
「停止」
ワイヤーが緩む。随行員が画面を確認した。
「右側のみ移動あり。左荷重板の位置変化なし。右足への作用停止後、同じ牽引条件で再滑走なし」
片桐さんが俺を見る。
「いまの停止は、第三性質そのものを解除したのか」
「いいえ。まとったまま、右足への作用だけ止めました」
「もう一度。同じ右足で、今度は先ほどより少し強く落としてみてください」
呼吸を一つ置く。右足裏の抵抗を、さらに薄くする。足を浮かせたわけではない。
だが、靴底が床を掴む感覚が、さっきより明らかに弱い。
俺は自分の意思で右足を前へ送った。スッ、と靴が滑った。同じ力で左足を出そうとすると、普通に床を蹴る必要がある。
「強弱は付けられます」
「断定はまだ早いです」
宮坂さんがすぐに挟んだ。
「少なくとも、いまの二段階を再現できるか確認してからです」
「そうですね」
三度繰り返した。弱く落とせば短く滑る。強く落とせば、同じ押し出しでも距離が伸びる。右から左へ作用部位を替えても、結果は同じだった。最後に、両足を対象にする。
「両足は、最初より出力を下げてください」
宮坂さんの声に頷く。
「転倒したら安全索に任せます。無理に踏ん張りません」
「それでお願いします」
両方の靴底から、床を噛む力を薄くした。
「牽引開始。最低速」
腰が引かれる。今度は両足が動いた。ザッ、と踏ん張る音がするはずの場面で、靴底は粗いゴム板の上を静かに滑った。身体が横へ運ばれる。速度は遅い。
それでも、自分の足で歩いているのとは違う。床から受ける抵抗だけが削られ、ウインチの弱い引きがそのまま移動へ変わっていく。
「沢渡さん、止められますか」
「止めます」
両足への作用を切った。ガッ、と靴底が床を噛む。膝を曲げ、腰を落とす。一歩にも満たない距離で身体が止まった。頭上の安全索は張っていない。
「牽引停止」
ウインチが止まる。俺は足元を見下ろした。靴底に削れや異常はない。床にも目立った傷は付いていない。
「報告します」
固定カメラへ両手を見せながら、観察できたことだけを並べた。
「第三性質をまとっても、自動では滑りません。作用させるかどうかは選べます。右足、左足、両足で分けられました。強弱も、少なくとも今日の範囲では変えられます」
片桐さんのペン先が動く。
「続けて」
「摩擦をなくして浮いているわけじゃないです。床の硬さも荷重も残っています。ただ、接触面が滑るために必要な力が大きく減る。作用を止めれば、まとったままでも通常の摩擦に戻りました」
「手や背中など、足以外は」
「今日は試していません」
「完全に摩擦を消せるか」
「そこまで落としていません。必要もありませんでした」
片桐さんが頷いた。
随行員が基準値と各試行の記録を読み上げる。左右の荷重、横移動量、牽引力。数字の差は、俺が言葉にした体感と食い違っていなかった。
片桐さんは身体カメラへ向き直った。
「記録を確定する。第三性質について、選択中の非作動維持、任意の作用開始と停止、左右足への作用部位の切り分け、少なくとも複数段階の出力調整を確認。完全な摩擦消失、足以外の部位、高速移動、斜面、濡れ面、実戦での使用は未確認とする」
手帳を閉じ、俺たちを見た。
「加えて、三性質の選択と解除、停止命令への即応、自己申告と外部記録の一致を確認した。管理試験は現場判定として合格とします」
宮坂さんが隣で、わずかに息を吐いた。
「宮坂先達、沢渡さんの状態は」
宮坂さんは俺の呼吸と右肩の傾きを見極め、迷いなく答えた。
「換装による意識の混濁はありません。呼吸の乱れもなし。右肩の負傷が完治したわけではありませんが、悪化や庇い動作は見られません。二人隊として、次の点検行動へ進めます」
「了解した。……ただし沢渡さん、念を押しますが、通常手形の最終審査は帰着後に審査部門が行います。この合格で手形が戻ったわけではない。忘れないように」
「はい。承知しています」
「職員、試験具を回収しろ。架台を解体し、定点カメラを撤収。本来の定期点検へ隊列を組み直す」
「了解!」
随行員たちが素早く動き、ワイヤーと荷重板を外し、試験床を分割して背負い枠へ固定していった。安全索が回収され、三脚が畳まれる。岩棚の上から人工的な試験場が片付けられていく。
俺はサブザックのチェストストラップを締め直し、足元のカゲを見下ろした。白い獣は静かに前脚を揃え、風の吹く谷の方角を見つめている。
滑れる。だから、止まれる場所まで見なければならない。
管理試験は終わった。
ここからは、山そのものの点検だ。
「隊列を組みます」
片桐さんが背負い枠を担ぎ、先頭に立った。続いて機材を持つ随行員二人、その後に俺が入り、殿に宮坂さんが着く。
「予定された鎖場と登路の経年劣化点検へ移行する。足元に注意して出発」
「了解」
俺たちは岩棚を後にし、黒ずんだ鉄の匂いが漂う点検路へと足を踏み出した。




