第39話 既知の二筋
始発の石鎚登山ロープウェイで山頂成就駅へ上がると、張り詰めた山の空気が肺を満たした。
標高千三百メートルの風には、まだ冬の気配がわずかに残っている。駅舎を出て、ブナとツガの原生林に挟まれた緩やかな参道を進んだ。
表の石鎚山では、白装束の登拝者や、色とりどりの雨具を着た登山客が列を作って歩いていた。すれ違う人と挨拶を交わしながら、俺は宮坂さんの斜め後ろを歩く。
「沢渡さん、足の接地はどうですか」
「問題ありません。踵から土踏まずへ、均等に体重が乗っています」
「ザックの揺れもありませんね。そのままの歩幅を保ってください」
宮坂さんは振り返らずに言った。昨日の茶屋での気配は消え、山に入った先達の引き締まった足取りに戻っている。
二十五分ほど歩くと、中宮成就社へ出た。朝の参拝者を横に見ながら社殿の前を離れ、樹林へ続く管理道へ入る。
表の道の音が遠のいた先に、低い管理棟と黒い門柱が立っていた。
裏石鎚の関である。
建物の前には、作業服の上に資源庁の腕章を巻いた片桐さんと、二名の随行職員が待機していた。足元には機材ケースと、背負い枠に取り付けられた測定器が整然と積まれている。
「おはようございます、沢渡さん、宮坂先達」
片桐さんが短く頭を下げた。随行の職員二人も黙礼し、機材の固定ベルトへ視線を戻す。
受付の窓口で身分証を提示すると、職員が台帳と照合して白く細長い山の紙を取り出した。
表面に『臨時手形』、裏面に『裏石鎚定期点検帯同・検証限定/有効期限:本日帰着まで』と墨書され、資源庁の朱印が捺されている。通常の手形と同じ紙だが、用途が限定された一枚限りの許可証だ。
「本日の検証および点検帯同にのみ有効です。単独行動、自主登破、素材採取は不可。通常手形の審査は継続中であり、帰着時に必ず返却してください」
「確認しました」
受け取った紙を、胸ポケットの防水ケースへ収めた。
門柱の前で、片桐さんが全員を集めた。
「最終確認を行う。第一目的は、関から徒歩十分の安全域における、沢渡さんの未登録作用に関する管理試験。第二目的は、成就社ルートの鎖場および登路の定期点検だ。記録は定点カメラ二台、および随行員の身体カメラ二台で行う」
片桐さんの視線が俺と宮坂さんを順に捉えた。
「山内無線は使えるが、外の携帯回線と衛星測位は関を越えた時点で届かなくなる。時間管理は内蔵時計で行うこと。現場責任者としての私の停止指示には、即座に従ってもらう。宮坂先達、安全管理の確認を」
「了解です」
宮坂さんが一歩前に出た。
「沢渡さんの呼吸、換装の空白、肩の負荷を私が横から確認します。異常があれば私からも中止を具申し、必要なら下ろします」
「結構。現場試験に合格しても、通常手形の最終審査は帰還後となる。よろしいですね」
「はい」
黒い門柱のあいだを通り抜けた。
足を踏み出した瞬間、参道を歩く人の声が途切れ、空気に混じる匂いが変わった。裏石鎚の領域へ入った合図だった。
砕石の道を少し進むと視界が開け、霧の底から黒ずんだ巨大な岩壁がそびえ立っていた。風に乗って、微かに鉄の錆びた匂いが流れてくる。
関から八分ほど歩いた場所に、平坦な岩棚があった。端には転落防止の索が張られ、中央には試験器具を置けるだけの広さがある。
随行員が岩棚の両端に三脚を立てて固定カメラを据えた。中央では、交換可能な試験具を取り付けた金属製の架台が組み上げられる。
二人が互いの固定を引き、三脚と架台が動かないことを確かめた。補助索の端は、試験位置から外れた岩の支点へ二重に取られている。
「定点カメラ一号、二号、録画開始。時刻、午前十時十二分」
随行員が告げると同時に、俺の足元の影が揺らぎ、白い毛並みが立ち上がった。カゲが、いつものように俺の右脇へ音もなく座り込む。
片桐さんが身体カメラの角度を正し、手帳を構えた。
「これより、沢渡迅の未登録作用に関する管理試験を開始する。まず、非作動状態の維持確認。沢渡さん、架台の周りを一周してください。指示は出さないこと」
「了解」
俺は中央の架台に向かって歩き出した。架台には荷重器と測定板、分割式の低い試験床が固定され、横引き用のワイヤーが脇に畳まれている。
カゲは立ち上がり、俺の後ろを半歩引いてついてきた。架台の横を通り過ぎても、ただ俺の歩調に合わせている。勝手に飛び出したり、機材へ触れたりはしなかった。
元の位置に戻ると、片桐さんが手帳にペンを走らせた。
「指示なき対象への作用なし。本日の条件下における非作動の維持として記録する」
起きた事実だけを切り取る口調だった。
「次、第一性質の再現確認に移る」
随行員が小型の電動送風機を俺の正面に固定した。機体と電源線を確認してから全員が風路の外へ退き、最も弱い設定で回転を始める。
風速を一段ずつ上げ、秒速八メートルで止めた。雨具の裾が大きく波打つ。
「発動します」
俺は右脇のカゲへ意識を向け、第一の性質を選んだ。
(来い)
白狼の姿が影へと吸い込まれ、足首から両肩にかけて黒い羽筋が走った。
風が、俺の身体の手前で左右へ割れた。正面の風圧が消え、服のばたつきが止まる。
視界の端で、宮坂さんが静かに頷いた。宮坂さんの目にだけは、俺の背へ一拍重なる白狼の輪郭が見えている。
カメラと測定器には、俺の手前で分かれた風と、肌へ浮かんだ黒い筋が残る。
「正面方向の風割り性質を確認。……沢渡さん、解除」
「解除」
意識を解くと黒い羽筋が消え、割れていた向かい風が胸を叩いた。同時に、右脇に白い狼が戻る。
随行員が送風機を止めた。
「解除指示への即応を確認。次、第二性質」
架台から、入力値を測る荷重器と、厚い緩衝材を貼った押圧板が引き出された。押圧板は短いレールの上だけを動き、急に前へ出ないよう停止具と補助索が二重に掛かっている。
俺の右足元には、出力を測る板が固定された。
「荷重受け流しの再現確認を行う。左前腕で受け、右足元の測定板へ流してください。入力は五キロ相当まで、段階的に上げる。異常があれば中止します」
「了解です」
俺は右脇の白狼を見下ろした。第一性質が完全に解除されていることを確認し、第二の性質を意識する。二つの性質は同時に使えない。
白狼が影へ沈むと、身体の芯に冷たい重みが満ちた。
随行員が押圧板を左前腕へ当て、荷重器の取っ手をゆっくり送った。前腕を押す力が増していく。
「二キロ。三キロ。……五キロ」
黒い水路模様が左腕から鎖骨、背、右腰を通り、足首へ走った。
だが、右足下の測定値を見て、片桐さんが手を上げた。
「出力は三・八キロ相当。止めろ。沢渡さん、解除」
「解除」
押圧板が戻される。性質を手放すと、右の太腿と腰に薄い張りが残っていた。
「右肩をかばって、骨盤が正面を向いていましたね」
宮坂さんが足元へ視線を落とした。
「右の踵も少し浮いていました。接触が足裏全体へ届かず、力が途中で散っています」
無意識に右半身への負担を避け、力の通り道を自分で狭めていた。
俺は腰を回し、痛みが出ない範囲を確かめた。
「右足の置き方を直せば、もう一度できます」
片桐さんは俺ではなく、宮坂さんを見た。
「呼吸と肩は」
宮坂さんが俺の肩の高さと腕の動きを確認する。
「新しい痛みは出ていません。入力を増やさず、同じ条件で一度だけなら続けられます」
「許可します。停止具と補助索を再確認」
随行員が器具へ戻り、押圧板を引いて固定した。停止具、補助索、測定値の初期化を二人で指差し照合する。
宮坂さんが俺の足元を示した。
「右足を半歩引いて、爪先を少し外へ。踵を測定板から浮かせないでください。肩は捻らず、前腕から入った力を腰の向きへ通す」
「了解」
指示通りに立ち直し、第二の性質をまとった。
押圧板が左前腕へ当たり、同じ速さで進む。
「二キロ。三キロ。……五キロ」
左腕から入った力が身体を抜け、黒い水路模様が右の踵まで一筋に繋がった。測定板が小さく軋む。
「出力、五・一キロ相当。入力とほぼ同じです」
「沢渡さん、解除」
「解除」
性質を解く。水路模様が消え、右脇に白狼が戻った。
今度は腰にも肩にも引っかかりはない。右の足裏へ重さが集まり、測定板へ抜けた感触だけが残っていた。
片桐さんが測定ログを確認し、手帳にチェックを入れた。
「姿勢を調整した再試行で、出力が安定した。第一、第二ともに、本人の選択と解除が記録と一致している。宮坂先達、沢渡さんの状態は」
宮坂さんが俺の呼吸と右肩の傾きを確かめた。
「呼吸の乱れと、新しい痛みはありません。次へ進めます」
片桐さんは手帳を次の記録欄へめくり、架台に固定された低い試験床と低速ウインチへ目を向けた。
「既知の二性質について、現場での管理可能性を認める。……これより、第三性質の初試行へ移る」




